第6話 変身

「ヒャッハー!お出かけお出かけ、おっ出かけ~」


 四百年振りの外出なのだからテンション上がって当然なのかもしれないが、ハハーンの勢いは凄まじい。

 

「よっ」


 自由落下が始まると、ハハーンは隣の家のブロック塀に着地し、そのままふちの上を走り出した。あまりのパワーとスピードのせいで、おれの体は吹き流しのように大地と水平になってしまっている。はたから見れば、スーパーヒーローのように空を飛んでいるように見えただろう。


「待て。ちょっと止まってくれ」


 塀から飛び降りると、ハハーンは動きを止めた。おれはアパート前の路地にパンツ一枚履いたままの姿で座り込んだ。


「いきなり飛び出すなよ。マジで苦しい」


「おおっ、心臓バクバクいってんなにいちゃん。おいらの鼓動こどうもメッチャ早いぞ」


 元々はおれの体なのだから、おれの脈が速くなればハハーンの鼓動も速くなって当然だ。


「それに、この格好じゃどこにも行けないぞ。他人が見たら通報されるレベルだ」


 言ってるはしから路地を曲がって人が来た。高校の制服姿をきた女の子だ。


「きゃっ!」


 おれの姿を見て、女子高生が小さく叫びを上げた。パンツ一丁で、左手には妙にリアルな獣の手袋をめている男が夕暮れの路地に座り込んでいる。男のおれが見たって叫ぶかもしれない。


「あ、すいません。その、事故なんです。おれ、あそこから落ちちゃって」


 明け開いた二階の窓を指差して弁解したが、おれの部屋まで20メートルはある。落ちたといっても信じてはくれないだろう。


「服、服着なきゃ。とにかく戻るぞハハーン」

 

 おれはきびすを返して部屋に戻ろうとしたが、頑固がんこな左手はかたくなにその場を動かない。


「いやぁ~。お散歩行くの~。外行ってフタバでチョコレートハラペチーニョ、ゲレンデサイズのライトシュガー飲んでみたいの!」


「どこでそんなメニュー覚えたんだよ。フタバなんておれだって滅多めったに行かないのに」


「行くの~。つゆぬきネギマシ、トロダク牛丼食ぁ~べ~る~」


「ネギ増しでつゆ抜けるわけねぇだろ、それに犬はネギもチョコも食べられないんだぞ」


「そんなこと知るか!おいら神様だから平気だよ多分」


「いいから部屋戻るぞ」


 おれは視線をハハーンから女子高生へと移した。女子高生は案外と冷静で、スマホを取り出してどこかへ連絡している。


「もしもし警察ですか?変態です。変態がここにいます」


「違いますから。これほんとマジでアクシデントなんで。絶対わざとじゃないから」


「パンツ一枚で、手に持ったぬいぐるみと話してます。住所は」


 住所を告げて電話を切ると、女子高生はおれにスマホを向けてきた。


「やめて。動画は勘弁して」


 女子高生の意図いとに気づいたおれは、必死に身を隠そうとした。


「わかったハハーン。お前の欲しい物なんでも買ってやるから、だから戻って服着させてくれ。このままじゃおれ逮捕されちゃう」


「服着てればいいのか?服着ればにいちゃんはおいらとお散歩行くか?」


「行く。行くからとにかく服を着させろ」


「わかった。服着せればいいんだな?」


 ハハーンの金色の瞳が光を放った。薄暗い路地が一瞬だけ昼間のように明るくなるほどの強い光だった。


「ハッ、ハーン!」


 ハハーンが叫ぶと、おれの左腕とハハーンの体との隙間から、灰色の襤褸布ぼろぬのが飛び出してきておれの体に絡みついた。


「うわ、なんだこれ」


禁呪符帯布きんじゅふたいふだよ。これでにいちゃんは何にでもなれる」


 ざらざらとした質感の灰色のぼろ布は、生き物のよにうねり波打っておれの体を覆い尽くすと、形を変化させ始めた。ザラついた感触が消え、灰色一色だった表面に色が着き形を替え、おれの体は衣服に包まれた。



「ほ~れ完成だ。これでいいだろ、にいちゃん」


「これって」


 目の前に立っている女子高生の姿と自分の姿を見比べた。おれたちの恰好かっこう寸分すんぷん変わらず一緒だった。


「セーラー服じゃねぇか!」


 左手のハハーンは、満足そうに何度も頷いている。


「これでどこに出ても恥ずかしくないな、にいちゃん!」


「恥ずかしいわ。これならパンツ一丁の方がなんぼかましだわ!」


「うっせぇな。おいらこの時代の衣装知らないんだから仕方ないじゃないか!」


「もしもし警察ですか?早く来て下さい。変態がさらにバージョンアップしてて」


 路地の角に身を隠しながら、女子高生がまた警察に通報している。


「おい、ハハーン。お前、おれの頭の中読めるんだろう?だったら昨日と同じ恰好にさせてくれよ」


「だったら最初っからそう言ってくれよな、にいちゃん。昨日のあの、思いっきり貧乏臭い姿でいいんだな?」


「それでお願いします。貧乏臭くはないんだけどね。あれ、ちゃんとフジクロで買った服なんだけどね」


「わかったから落ち着けってヘンタイ!」


 ハハーンが呆れたように肩をすくめる。


「変態じゃないから。お前のせいで変態扱いされてるけど、おれ絶対、変態じゃないから」


 おれの体を覆っていたセーラー服の布地が灰色に変化し、昨日おれが着ていたTシャツとデニムに姿を変えた。


「オッケーだ。これなら大丈夫だ」


 全身を見直し、おれは何度も頷いた。これならどこにでも出かけられる。


「あの、すいません」


 路地の角からこっちの様子を伺っている女子高生に声をかけた。


「ご迷惑をおかけしましたが、もう大丈夫なんで。その、通報めてもらっていいですか?」


「でも、もうお巡りさんこっち向かってるって言ってます」


「そうなんだ。困ったな。その、ちょっとした誤解があって」


「いきなり裸で現れて、そのあとセーラー服に着替える男の人のどこに誤解があるんですか?」


「あ、きみ確か、大家さんちの」


 女子高生の顔に見覚えがあった。おれのアパートの大家である桜室さくらむろさんちのお孫さんだ。


桜室楓さくらむろかえでです。あなた、うちのアパートの201号室の人ですよね。たしか」


「犬養ふぶきといいます。あの桜室、楓さん。その、ほんとこれって誤解で。これ全部、こいつのせいで」


  おれは左手を突き出し、ハハーンを楓に見せた。


「手袋、ですか?」


「えっ?」


 いつの間にか、ハハーンはただの薄汚れた布製のパペットに戻っていた。楓は、指先で人形に軽く触れると、溜息を吐いて再びスマホを取り出した。


「わわ、勘弁して。通報はもうやめて。ほんと、誤解なんですから」


 おれの制止を無視して、楓はスマホを操作して喋り始めた。


「あ、すみません。さきほど通報した者なんですけど、ちょっと誤解があったみたいで」


 どうやら楓は、警察へ連絡して通報を取り消してくれるようだ。


「はい。なんか気の毒な人みたいで。名前と住所は判ったので、何かあったらまた通報します」


 誤解が解けたわけではなく、危険性がないと判断したから通報を取り消しただけなのだろう。楓の中でおれは、近所に住む気の毒な人と認識されてしまったということだ。


「あの、すみません。ありがとうござしました」


 通話を終えた楓に頭を下げると、楓はぎこちない笑顔を浮かべておれから距離を取った。


「いえ。前におばあちゃんが、頭も顔も悪いけどいい人そうだっていってたの思い出して」


 知らないところで凄いことを言われてるらしい。だが今は、警察への通報を取り消して貰っただけで良しとするしかない。


「じゃ、わたし急いでるんで。あの、もう人前で裸になったりセーラー服着たりしたらダメですよ」


「あ、はい。気をつけます」


 おれから目を離さないまま後退あとずさっていく楓を見送り、その姿が見えなくなると、おれは左手に被さったままのハハーンに右手を掛けた。


「やめて。取らないで」


 犬の姿をしたパペットは、息を吹き返していた。


「お前、何とぼけてんだよ」


「だっておいらのことが知れたらヤバイだろ?なにしろ、おいらはUMAだからな」


 UMAとは未確認動物のことだ。早い話がツチノコやネッシー、河童の類のことだ。

 ハハーンがおれの幻覚でないのなら、確かにこいつは未確認動物だ。


「とにかく、パペットのままでいられるんなら、人前ではそうしててくれよな」


 左手に犬のパペットを嵌めたまま歩いている男もかなり痛い存在だが、生気満ち溢れたオオカミの仔を左手に生やしているよりは全然マシだ。


「おいハハーン、聞いてるのか?」


 左手を見ると、犬神はまた布製のパペットに戻っていた。外を歩くにはその方が都合がいいが、あまりに変わり身が早いと、本当に自分の正気を疑いたくなってくる。


「まぁいいか。これから街を案内してやるけど、ずっとそのままでいてくれよな。約束だぞ」


 反応の無いパペットに話しかけ、おれは路地から出て駅へと続く大通りへ出た。このまま二度と人形が変化しなければ、すべてはおれの妄想ということになる。それはそれで厄介やっかいだったが、犬神に憑りつかれたなどという話に比べればいくらかマシな気がした。

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