第29話「新世界より」②
その日は客足があまり伸びず、夕方になっても暇だった。
毎日のようにやって来る通りすがりの勇者パーティーも新米魔法使いも現れない。
「このまま夜も暇だったら夕飯早めにしようかなぁ」
そんなことをつぶやきながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。夕暮れに染まる空の下、ガラス越しに目に映るのは陰っていく陽の中へと沈みゆく住宅街の街並みだ。わたしがいるこの店は日本国内のごく平凡な町の一角にある。
と同時に、たくさんの異世界とつながっている地点に在るのだという。
魔道具を扱うこの店自体が特殊なせいか、扉を開けて入ってくる客たちはさまざまな世界からここを訪れている。扉が開く度に、その向こう側に広がっている景色は違っていて、おどろおどろしい世界のときもあれば、黄金郷のように眩く美しい都市の場合もある。
今日、村人たちと戦士が戻っていった扉の向こうの景色は、ヨーロッパ山間部の田舎町といった風情だった。
わたしが足を踏み入れたことのない異世界――――
「ねぇクロ、もしわたしがお客さんと一緒にうっかり店から出ちゃったら、こことは別の世界に行っちゃうってことだよね?」
ふと思いついたことを口に出して尋ねてみた。
「うっかり?」
クロが怪訝な面持ちでこちらを振り返る。
今はもう黒猫の姿に戻っているが、表情は案外分かるのだ。
「ああ、もちろんそんな機会はないと思うし、行くつもりは全っ然ないよ。でももし、こことは違う世界に出ちゃったとしたら……戻って来られなくなる?」
「いいや、キミは店主だからどこの世界からでもここに戻ってくることはできるよ。ただし行った先で迷子になったら分からないけどね」
その言葉を聞いてほっと安堵すると同時に、不安と興味が半分ずつ混ざり合う。
「ってことは、やっぱ違う世界に行くことはできるんだ?」
「行きたいの?」
結構大変だと思うよ。キミは魔法が使えないんだし、と辛辣なセリフが返ってきてグサリと胸に突き刺さった。
「……だよね」
(ええ、ええ、分かってますよ。異世界でチート能力使って無双するのなんてマンガや小説だけの話だもの。わたしは魔力ゼロの女だし。魔道コンロすら使えないんだから、家電が使えるこの現代社会じゃないと生きていけませんよね)
そもそも店内ではなぜかどの世界の人とも言葉が通じるけど、使っている貨幣はバラバラだし、服装や髪型、町の風景、家の造りもそれぞれ違う。きっとその世界を形作っている社会構造も、日々を暮らしていくための社会通念もすべて異なるに違いない。
いくらか魔法が使えたところでハードルが高いなんてもんじゃない。
「うん、無理」
(分かってたけど、ちょーっと残念かな)
自嘲の笑みと共に漏らしたため息を店のドアベルの音が掻き消した。
入ってきたのは、あのシオンという名の戦士だった。
「……いらっしゃいませ」
ゆっくりとした足取りでカウンター前まで歩いてきた彼は、わたしと目を合わせると、改めて深々と頭を下げた。
「昼間はどうもすみませんでした」
これをお詫びにと差し出されたのは、繊細な細工が施された半月型の木の櫛だった。
きれいな品だ。ありがたいけど、さすがに受け取るわけにはいかない。
「いえ、そんな! そこまでしていただかなくても」
べつに殴られたわけじゃないし。
「多少びっくりしましたけど、どこも怪我してませんし」
本当は多少どころではなくかなり驚いたし、たぶんつかまれた両肩はうっすら痣になっているんじゃないかと思うんだけど。そんなことよりもっと気になることがあった。
「あの……それよりシオンさんってひょっとして……日本人、ですか?」
どう考えても、例の単語に異世界人が反応するなんて有り得ない。
それに彼は「どっちだ?」と尋ねたのだ。「おまえはどっちだ」と。
どっちとは――――召喚者か転生者ではないだろうか。
「ああ」
シオンは眉尻を下げ、情けなさそうに頭を掻いた。
「やっぱりバレたか」
「あの単語に反応されたようなので」
不意打ちすぎてつい過激に反応しちまったよ。彼は苦笑と共に吐露して、再度頭を下げた。
「俺の名は渡会志音。志に音と書いてシオンって読むんだ。俺の父親が中学校の音楽教師でさ」
「そうですか。あ、わたしは夢乃屋の店主を務めている雫川琴音といいます」
「琴音さん……楽器のお琴に、音楽の音?」
「はい」
「へぇ、二人とも名前に音の字が付いてるなんて奇遇だね」
「そういえば、そうですね」
「でもあなたは召喚者ってわけじゃないよな?」
「ええ。誰かに召喚されたわけでも転生したわけでもありません。そもそもわたしがいるこの店は、今現在も日本の関東地方に在りますから」
この一言はやはり彼にとって衝撃だったようだ。
「はっ!? てことは異世界で暮らしているわけじゃないのか? 俺がいる国で、今こうして会ってるのに?」
「はい。この店の扉が異世界とつながっているだけです」
「え……じゃあ……」
彼の視線が泳ぐ。
窓の外の景色を捉えて、固まった。
ありふれた、ごく普通の町の夕景に。
「嘘だろ」
小さく漏れた声は震えていた。
彼は飛びつくようにして窓に駆け寄り、開けようと試みたが、すべて嵌め殺しのためどこにも把手はない。慌てて出入り口まで戻りドアを開けてみたが、その先にある景色は彼が現在暮らしている国のものだった。
諦めてドアを閉め、ふらふらと再び窓に歩み寄っていく。
「ここを開けてくれ! 頼む、出してくれ!」
開かない窓を男の拳が叩いた。二度、三度と強く。
哀しみに歪んだ顔で、故郷の景色を見つめながら。
「ちょっとの間でいいんだ! 頼む!!!」
やがて腰の大剣に手が伸びたところで、止めておきなさいとクロが声をかけた。
「昼間も言ったでしょう。窓を壊したところでここから出ることはできないし、それどころかどこへも帰ることができなくなりますよ」
「しかし……」
「召喚者が元の世界へと戻るには召喚した術者が死ぬか、解放の術を発動するかの二択。複数名の術者によって条件付きで召喚された場合は、その条件をクリアすれば戻ることができます。それ以外に方法はありません」
厳然たる事実を突きつけられ、勇者の風貌を持つ屈強そうな男が膝からガクリと崩れ落ちた。
「……そうか……そうだよな」
つぶやく声に絶望が滲む。
「目の前に元の世界があるのに」
無理やり召喚されたのだとしたら戻りたくもなるだろう。懐かしい世界がガラス越しに見えているのに、戻れないとは残酷な話だ。
そのとき、窓の向こうから微かに鳴り響くチャイムの音が聞こえてきた。
『遠き山に日は落ちて』
郷愁をそそる懐かしいメロディーだ。
ここからだと死角になって見えないが、通りを少し南へ下ったところに小学校があるので、校庭で流しているのだろう。
(そういえばこの時間になると聞こえてくるな)
しばらくの間、しんみりと沁みる音色に耳を傾けていて、ふと気づくとシオンが滂沱の涙を流していた。声もなく、ただ、はらはらと。
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