第13話 しもびえウサギばすたいむ
「はふぅ……」
暖かな風呂は、聖神様が人間に与えたもうた恵みの中で最も偉大なものの一つではなかろうか。
じんわりした熱が全身の寒気を取り払い、緊張で疲弊した体を癒してくれた。
湯に体を委ねて全身から力を抜き、シュニーは緩み切った表情で曇天を仰いだ。
「仕方なくだよ、これは……領地の現状を知る大事な執務なのだよ……」
誰に向けているのかもよくわからない言い訳をしながら、シュニーは自分の現況に思いを馳せる。
結論から言えば、昼に行われた会談の主題、領主の地位云々に関しての結論はしばし先送りになった。
乱入した上人の話を聞かず暴れた
それからは進展があったとは言い難い。
『民のため』という善良な理由から領主の地位が欲しいと訴えるステラに対し、「領主はボクだ」の一点張りで譲らなかったシュニー。
『気になるあの子にかっこいいところを見せたいから』という不純に過ぎる動機を話すわけにはいかなかったため、この年にして領主の地位に固執する野心家のように思われてしまったかもしれないが、それは必要な犠牲だと受け入れるしかない。
ともかく話は膠着し、最終的には『ここまで来てシュニーを易々と返すわけにもいかないので客人待遇として滞在してもらう』という部分に落ち着いた。
いつ向こうに戻れるかはわからないし問題は棚上げされているが、ひとまずの落としどころだ。
「……ふう」
ひらりと落ちてきた雪が鼻に当たり、ひんやりと溶ける。
温まった体に染みる一片の冷たさが、これまた心地いい。
厳しい冬の寒さは常に人の身を苛み続けるが、こうして風呂に入っていれば暖かさを際立たせるアクセントにしかなっていない。
帝都の貴族の間では、暖めに暖めた部屋で氷菓子を食べるのが最高の贅沢とされていたが、これも似たようなものだろう。
悩みだらけの日々であるが、ひと時だけでもそれを忘れられそうだった。
シュニーは風呂が好きだ。逆に嫌いな人間などこの世に存在するのだろうか、体が泥か何かで構成されているのかとまで思っている。
それにしたって今日は別格だった。
今までの人生における最も心地よい入浴といっても過言ではないくらいだ。
今シュニーが入っているのは、子どもで二人がやっとという大きさの樽型の個人用浴槽である。
シュニーがこちらに日単位で滞在すると決まった時、最も気を揉んだのが風呂の問題だった。
風呂自体は当世において珍しくもなんともない。
どこの町でもいくつか集団浴場を見かけるのが当たり前であるし、多少裕福だったり稼業が鍛冶屋やパン屋、料理店といった日常的に火を使うものならば個人の家にも備え付けられている。
シュニーが住んでいたルプスガナ家の邸宅にも、住み込みで働く使用人達のための大浴場とシュニー達貴族のための個人用浴槽がきちんとあった。
それも精緻な熱術の術式が組み込まれ細やかな温度調整が可能な最新式だ。
しかし、僻地のスノールト領のさらなる僻地であるこちらの町となればそのような贅沢は言えない。
領地の首都といえる町ですら薪が不足している現状は先日町の夜景を見た通り。
最悪、刺すような寒気の中で水浴びをせねばならないのかと恐怖に震えていた。
「まさか、旧都市の遺物が残っていたとはね」
“お風呂だったら一人用のものがありますよ! 使っていただいて大丈夫です!”
恐る恐る尋ねた時のステラの回答に、いかに驚き歓喜したことか。
フィンブルの町はかつて複数の都市が存在していたスノールト領、その廃墟の一つを基盤として造られているらしい。フィンブルというのも旧都市の名前をそのまま借りたとステラが同時に教えてくれた。
わざわざ一から敷いたとも思えなかった石畳も城の基盤も、元々土台となる建物があったからこそ。
だが移動させようがないそれらと違い、在りし日の生活で使っていた物品の数々は既に持ち去られて何も残っていないだろうと思っていた。
ステラ達もここを定住地に選んだ際は同じように考えていたという。
そんな折に偶然、地下の倉庫と思われる穴に放置されていた個人用浴槽が見つかったらしい。
他にも様々な物品が残されており、町で活用されているそうだ。
金属製品など子供たちだけでは技術的に用意が難しい物品も、この忘れ物のおかげである程度は賄えているのだとか。
「これも神の思し召し……」
手のひらで湯を掬いながら、シュニーは再び信仰する神を脳裏に思い描く。
聖神キュアリネー。万物の創造主であり、この世界そのもの。聖職者が振るう、魔術と対を成す異能“神秘術”の母体。
ベルキア大陸全土で最も強い勢力を持つ宗教、聖神教が掲げる唯一神である。
シュニーはさほど信仰に篤い人間ではなかったが、それでもぼんやりとは信じている。
運を問われる時があれば「神よ……!」と祈る時もあるし、夕食の前の軽い祈りは半ば習慣付いていた。
「……いや、そうでもない!」
しかし一転、シュニーはぶんぶんと頭を振り美しい女神の姿を頭から追い出した。
もし本当にこれが神の思し召しなら、ステラとラズワルド達がこの地を占拠しているのが主に認められた正しい行いのようではないか。
偶然、そう偶然だ。彼らはまぐれで掘り出し物を手に入れることができただけ。
今の自分もそれにあやかっているだけ。
自分に都合の悪い考えを慌てて訂正して、シュニーは浴槽から立ち上がった。
上半身が外気に晒され、無数の針を突き立てるような寒さが襲い来る。
ひぇ、とか細い悲鳴をあげてしまったが、気持ちを改めるためにはそれくらいがちょうどいい気がしてどうにか耐えた。
ふと夜空を見上げれば、雪が少しずつ強くなり始めたようだった。
ここ城の裏庭は、元々入浴用の場所として作られた区画らしい。
木の囲いがあるため見られる心配こそないが、上方向に関しては完全な露天だ。
このまま雪が強くなればさすがに入浴している場合ではないかもしれない。
浴槽の傍に置いてある衣服が埋もれてしまっては大変だ。
いや、でも雪を肩や顔に受けながら湯船に沈むのは大変心地良いに違いない。
誘惑に従ってしまうべきか悩んでいるシュニー。
当然ながら、考え事に夢中の彼は周囲など見えていなかった。
「……おふろ、そんなにいいの?」
「やれやれ、わかっていないな。露天風呂の魅力はキミには……」
そこに疑問をぶつけられて、シュニーは当たり前だ、と上機嫌で返答する。
そんな朝陽が昇って夜沈むくらいの常識を問うてくるのはどこの誰か、と反射的に視線を向ければ──
「ぬくぬく?」
──雪兎のような少女が、目の前に立っていた。
……ふう、と一度大きく息を吐く。
やはり疲れが溜まっているのだろう。
目を少々乱暴にこすって、もう一度開けてみる。
風呂場に最近気になっているあの子がいた。
「きゃあぁぁぁ!?」
容姿を見ればどちらがあげたのかわからない悲鳴と共に、シュニーは勢いよく湯船に沈む。
ざぱーん、という水音に次いで、水が湯船から溢れ出す豪快な音が静かな裏庭に響いた。
「だ、だ、だからこの前言ったじゃないか! 急に来訪されては心の準備というものがだね!? というかそういう問題じゃないだろう今回については!!」
息が苦しくなって慌てて顔を出し、シュニーは猛抗議する。
何故自分は風呂を覗かれているのか。普通こういうのって逆じゃないのか。いや逆でもよろしくはないが。というか覗くという段階にもはやない。堂々と侵入してきている。
普通こういう場面でのお約束と言えば、デレデレしている覗いた側がぶん殴られるか、不慮の事故だったため顔を真っ赤にして慌てて出ていくかだろう。
シュニーが愛読していた冒険ものの小説では、大体そのような流れだったと記憶している。
「……なにしてるのかなって。だめだった?」
「む、ぐ」
しかしそんなシュニーの怒りも、すぐに消火されてしまった。
きっと怒っていい状況だ。ひとり疲れを癒していた時間、それも裸の時間に許可なく踏み入られる。
よくよく考えれば、これが逆の立場だったならシュニーは牢に放り込まれるだろう。
「しびれキノコでも食べた?」
「い、いやこれは」
そんな行為の被害に遭っているのに、口角がひとりでに持ち上がってしまいそうになる。
だらしないぞボク、もっと領主らしい毅然とした態度を見せるんだ。
そう自分に言い聞かせ必死に抵抗するシュニーだったが、結果は見えていた。
気になっている人が向こうから会いに来てくれた。
それも、「なにをしてるのか気になって」という理由で!
あの何事にも無関心そうな少女が、自分に興味を持ってくれている。ただそれだけで、今現在シュニーの脳裏には満開のお花畑が広がっていた。
「そ、それよりもだね……キミはどうしてここに来られたんだい?」
結局顔を背けて、シュニーは話を逸らしにいった。
来てくれたのは否定のしようもなく嬉しいのだが、よくよく考えると彼女がここにいるのは不自然だ。
彼女とこれまで会ったのは、スノールトの町。
シュニーと同じく戦闘の心得があるとは思えない彼女がわざわざ危険を冒してまで遥々こちらまでに来るとは思えなかった。
これで「きみに会うためにがんばってきた」などと言われようものなら、今から明日一日くらいはその言葉を反芻しながら上の空で過ごす自信があったが、流石にないだろう。
さすがにシュニーもそこまで夢見がちではないのだ。将来的にはそう言ってもらえるくらいになりたいだけで。
「もしかして……こっちに住んでいるのかい?」
様々な暑さでふわふわする思考の中を泳ぎ、シュニーはそれらしい答えを見つけ出す。
あちらで会った方が例外的な状況で、本来彼女はここの住民だったのかもしれない。
ならばこちらにいてもおかしくはない。
少なくとも、スノールトの町からこちらにやって来たという予想よりは現実味がありそうだ。
もしそうだったら、将来的には領主の館を移すのも一つの選択肢かもしれないな。
そんな事を考えるあたり、シュニーは長風呂でだいぶ茹っていた。
「そうともいえるしそうじゃないともいう。にりつはいはん」
「なるほどにりつはいはんか、それは納得だね!」
謎の単語が飛び出てきたので、シュニーは迷わず知ったかぶる。
彼女は時々難しい言葉を使う。後で辞書を引いておこう。
「わかったならなにより」
ほんとにわかってる? とでも言いたげなじとっとした疑いの目を向けられた気がしたが、現在の上機嫌なシュニーは無敵だった。
「んむ。それじゃあ今度はこっちの番。よろし?」
「勿論だとも! ボクに答えられる内容であればなんでも聞いてくれたまえよ!」
質問をしたなら次は受けるべき、とシュニーはしきりに首を振る。
今までだったら一方的に問うばかりで、他人からの疑問など答える価値など無いと思っていた自分が今はそう思えている。
さっきの自分からの質問も結局少女の家事情はわからなかったが、それでも構わなかった。
ただただ話をしているだけで、楽しくて仕方がない。
大変なことが沢山あったし今も山積みだが、また明日から頑張れそうだ。
もしかして自分は単純な人間なのだろうかと思わなくもなかったが、それさえもどうでもよくなるくらい気分が良かった。
「なんでこのまえ、女の子はべらせてたの? しゅちにくりんできゃっきゃうふふ?」
「弁明を! 弁明の時間をくれたまえ! 誤解なんだ本当に!!」
だが一転、天国から地獄へ。
酩酊に近い多幸感を一発で覚まされ、シュニーは悲鳴かと聞き間違う声で懇願する。
風呂で温まっていたのに、体の芯まで凍り付くような感覚だった。
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