第15話 優雅に食料調達できるかな(後編)

『貴族の子供は、こんがり焼けた骨付き肉が野を走っていると思っている』。

 平民の間で流行っていた、甘やかされ放題で育った貴族の世間知らずっぷりを揶揄した冗談だ。


 それを初めて聞いた時、当時七歳だったシュニーは激怒した。

 いくら馬鹿にするにも程がある。

 肉が茶色ではなく元々は赤やピンク色だという事くらい知っているぞと。

 げらげら笑いながら話している民をひっ捕まえてそう言ってやろうとして、セバスに止められた。

 骨付き肉がもっと大きな塊から加工された状態だと知ったのは、もう少し後の話だ。


 そして、今日。

 まだ生きている野生動物は暴力的で生命力に満ち溢れているのだと、シュニーは実感を伴って理解する羽目になった。


「ぬわぁっ!?」

 

 受け身も取れずに地面に叩き付けられ、シュニーは悲鳴をあげる。

 痛みに悶えつつも呼吸が苦しくなって、貪るように息を吸う。

 胴から着地した衝撃で、肺から空気を一気に吐き出してしまっていた。


 慌てて起き上がろうとして、ふらついて倒れそうになってしまう。

 心臓が早鐘を打っていて、思考は混乱のただ中にあった。


「グモォォ!」

「うわぁぁっ!」


 だがそれでも、自分の命を保とうとする本能はきちんとシュニーを守ってくれる。

 背後から迫ってくる異様な圧と地面の揺れに、咄嗟に右方へと跳ぶ。

 数秒と経たずして、シュニーがいたはずの場所を巨体が通り過ぎる。


 鼻を突く生臭さと動けなければまず無事では済まなかったという実感に、表情が歪む。

 人の支配領域でぬくぬくと暮らしていたのではまず実感できない、獣の臭いと自然に命を脅かされる危機感だ。


「よしそのまま引きつけとけ!」

「できるわけないだろう!」


 そんな余裕の無い状況でも、無茶ぶりに対する拒絶は可能らしい。

 今後生かす機会が来てほしくない知見を新たに得ながら、シュニーは慌てて身を起こす。

 大猪の動きを注視すれば、身体を再びこちらに向け、姿勢を低くしていた。

 間違いなく突進の予備動作だろう。


 そして予測通り、大猪が走り出す。

 だというのに、シュニーは動けないでいた。


 シュニーの失敗は、中途半端に考える時間があった事だった。

 先のように本能に従って勢い任せで回避するでなく、どうするのが最適解か選ぼうとしてしまった。

 同じように右に跳ぶ。いや、一度行った手は獣とはいえ読んでくるのではないか。 

 では左か。いっそ正面から受け止めるべきか? それは無理か。


 シュニーは戦士ではなかった。

 検討に値しない選択肢は即座に切り捨てる、そもそも瞬間的な思考速度を鍛える、間に合わないと判断すれば直感に頼る、といった戦いに必要な思考の回し方が根付いていない。

 それゆえに無駄な時間を費やしてしまい、対処が遅れた。


「あ……」


 迷っていては間に合わない、と気付いてしまった時には手遅れだった。

 回避が上手くいけば間に合う距離を、とうに詰められていた。

 恐怖で足が地に張り付いたように動かず、苦し紛れの動きすらままならない。


「──なにボサボサしてんだ!」


 シュニーを救ったのは、暴言と共に繰り出された蹴りだった。

 急所を狙う機会を探っていたラズワルドが、大猪の頭部を左方より足で打ち据える。

 膂力で遥かに劣る人間の打撃だ。獣の突進を止められなどはしないはず。


「なっ……!」


 だが、そのただの蹴りで大猪の身体が吹き飛んだ。

 シュニーの身長三人分はあろうかという距離を飛び、巨体が横倒しになり地に叩き伏せられる。

 次いで離れたはずのラズワルドと大猪の距離が、一瞬にして詰められた。


 倒れ伏した大猪の喉に槍が突き立てられたのは、シュニーが二度目の瞬きをした後だった。

 目まぐるしく状況が移り変わる殺戮劇に、唖然とラズワルドを見ることしかできない。


「身体強化が使えるのかい……?」

「当たり前だろ」


 ようやく絞り出した疑問は、何もおかしくはない、というようにそっけない声で返された。

 シュニーの驚きは、人間の蹴りが獣を吹き飛ばした……という事実に対してではない。

 それを成せる技術をラズワルドが持っていたからだ。

 猛獣を蹴り飛ばした彼の右脚は、ぼんやりとした光を纏っていた。


 身体強化術と呼ばれるそれは魔術の一系統だ。

 読んで字のごとく、身体能力を一時的に強化する。


 だがシンプルな効能に反して、シュニーが意外に思ってしまう程度には珍しかった。

 魔術は貴族のステータスとも言われるが、シュニーには使うことができない。


 かつては生来の異才によってのみ振るわれていた聖神の力を、誰でも使えるように落とし込んだ技術。


 謳い文句こそ調子のいい事を言っているが、魔術の習得に対するハードルは未だ高い。 

 人間の区界に事象改変の概念は元々存在しないだの、具体的な内容を言われてもシュニーにはちんぷんかんぷんだったが、まず基礎となる理論をしっかり頭に叩き込む必要がある。


 そうして準備を整えて特訓してなお、魔術の基となるエネルギー、魔力の暴発によって幾度となく怪我を負う。

 貴族としてのステータスであるにも関わらずシュニーが習得しなかったのは、この痛ましい過程を嫌がったからである。


「それは……」


 すごいな、という賞賛が喉から出かかる。


 腕があらぬ方向にねじ曲がり泣き喚く弟を見た。

 高等な術を取得する際派手に失敗し、一月は寝込む傷を負ったと父から聞いていた。

 

 あのような苦痛を、年がいくつかしか違わないだろう目の前の少年は乗り越えたのだ。

 痛みから逃げ出したシュニーにとっては、研鑽の成果だろう彼の力は輝かしく映えていた。

 だが褒めてしまえば何だか負けた気がして、続きの言葉は声に出せない。


「グ、ガアァァ!」

「チッ……浅かったか……!」


 ごまかせて好都合、などととても思えない事態はその瞬間に起こった。

 槍を引き抜き、代わりに腰に差したナイフを抜いたラズワルドの身体が、意趣返しとばかりに吹き飛ばされる。

 下手人は当然、致命傷を受けたはずの大猪だ。


「お、おい……!」


 思わず叫んだシュニーの声は動揺で裏返っていた。

 獣が怒り任せに、頭を振っただけ。

 魔術でも技巧でもないただの力押しだ。

 だがそれだけで、今度は追い詰めていたはずの人間が一転して苦境に立たされる。


 どうにか受け身を取ったが完全ではなく、たたらを踏むラズワルド。

 血に狂った獣は、人間が姿勢を崩した隙を見逃さなかった。


「クソッ……!」


 獣の突進に人間が耐えるのは、万全の構えを取っていても難しい。

 それは戦技や高度な身体強化術、はたまた肉体の改造といった諸要素を重ねれば跳ね返る差だったが、少なくともラズワルドはその段階にまで至っていなかった。


 不安定な体勢ではなおさら堪えきれるわけもなく、大猪の突進がラズワルドを砂地に押し倒す。

 彼の得物である槍は長すぎて、密着された今の状態では十全に力を込められない。


 ならばとラズワルドはナイフを突き立てようとしたが、それは軽く振られた牙に弾かれ手の届かない位置に飛ばされてしまった。


「っ……」


 シュニーの、足元に。

 一転しての危機的状況に真っ白だったシュニーの思考が、戻ってくる。


 なんで、こっちに。これじゃ言い訳ができないじゃないか。

 最初に思い浮かんだのは、最低な言葉だった。


 この状況の最適解を、理解しているつもりだった。

 ラズワルドを見捨ててしまえば、次の標的が誰になるのかは容易に想像が付く。

 だけど今の自分になにができるというのか。それらしい理屈を並べ立てるのは簡単だ。


 囮と言われたんだ。それが失敗した以上はできる事なんてない。

 自分はあくまでも民の暮らしを視察しに来ただけだ。手伝うなんて一度も言っていない。

 子供たちの悲鳴がうるさくて仕方がない。まるで責められているようで忌々しい。

 そうだ、子供たちを連れて逃げる。それがいいかもしれないな。もう何人かは犠牲になるかもしれないが、自分が逃げられる可能性も上がるかもしれない。

 彼は領主の地位を狙っている、言わば反逆者の一味だぞ? 協力するだけ馬鹿を見るんじゃないのか?


 どのみち、無力な自分がラズワルドにできることなんて何もない。

 だから、しょうがないじゃないか。

 そう己を慰めて、獣に喰われようとしている民を見捨てる。

 弱者であるシュニーに許された特権のはずだった。


 けれど目の前に降ってきた刃は、別の選択肢をシュニーに与えてしまった。

 思わず、目を向けてしまう。

 一本のナイフだ。

 柄は傷だらけだが、刃は意外なほどにきれいに手入れされている。

 

 何かに媚びたような引き笑いが、しっかりと映り込むくらいには。


 ああ、醜い。

 これは誰の表情なのだろうか。

 民を導く領主の顔でないことは、きっと確かだ。

 そして、誰かが惚れてくれるような顔でないのも間違いない。


 怒りに満ちた獣は、ラズワルド以外の存在など目に入っていなかった。

 哀れに逃げ惑うことしかできなかった弱き者を、脅威と認識すらしていなかった。


 だから──


「……ええい! 感謝するがいい! 本当にな!」


──不格好に、必要もなく足元の砂を散らせながら走ってくる少年の気配に意識を向けることは、終ぞなかった。

 ドカ、という小さな接触音。

 全体重を乗せてなお軽い体当たりに、大猪は揺らがない。


「ガ、グ!?」


 だが、深々と脇腹に突き立ったナイフは別だった。

 不意打ちで腹を裂かれた苦痛に、体を捩り獣が暴れ回る。

 軽く接触しただけで、シュニーの軽い身はごろごろと砂浜を転がる無様を晒す。


 シュニーの突き刺した刃は致命傷には至っていなかった。

 刃物のサイズという点でもシュニーの力という点でも、その命を穿つにはあまりに足りない。


「ちったぁ役に立つじゃねえか囮役よォ!!」


 だがシュニーは不本意ながらも確かに己の役目を全うしていた。

 戦いの熱狂に支配された叫び声。

 戒めを解かれ、最も力を込められる最適射程から放たれた槍の一閃。


 その渾身の一撃は、怒り狂う獣の喉を今度こそ完全に引き裂いた。




「オウ、ちょっとツラ貸せ」


 生き物の体に刃物を差し込んだ感覚が、頭から離れない。

 子供たちの歓声と向かってくる水音と足音は、妙に耳に響いていた。

 その中でも目立つ大きな足音が一つと、無遠慮な声。


 体力を使い果たしてぐったり横たわるシュニーの元に、ラズワルドが近寄ってくる。

 抵抗のさ中牙を突き立てられたのか、脇腹の辺りが赤く染まっているのが見えた。


「……なんだね。謝るつもりはないぞ」

「何の話だよ」


 今でも不安になる怪我だが、最悪の場合はどうなっていただろうか。

 結局選ばなかったとはいえ一度は頭を過った選択に、シュニーは気まずそうに目を逸らす。

 当のラズワルドは意味がわかっていない様子であったが。

 

「バラすぞ。手伝えよ」

「フッ。本気で言っているのかい……?」


 告げられた内容に、思わず笑ってしまうシュニー。

 言うまでもなく『おいおい勘弁してくれよ』の苦笑である。

 もちろん動物の解体をした経験などシュニーにはない。


 獲物を見事討ち取って、周りから褒め讃えられるまでが貴族の仕事である。

 そこから宴の席に肉料理を並べるのは下々の役目だろう。

 自身ではなく他家の狩りに同行した時の経験だが、シュニーにとっての狩りはそんな認識だった。


 けれど、よくよく考えれば今は自分とラズワルドがやるしかないのだとシュニーは気付く。

 ここには貴族家に仕える使用人などいない。

 子供たちには子供たちの仕事が別であるのだろう。


 手間取る上に服が血で汚れそうだ。臭いも無視するのが難しいくらいにはきついに違いない。


「……やり方は説明してくれたまえよ」

「これだからお坊ちゃんはよ」


 だけどこれも経験か。川に入るのを渋った罰でもある。

 もう少し休んでいたかったが、仕方ない。


「ま、仕方ねぇか。特別だぞ」

「こちらの台詞だとも」


 のろのろと立ち上がり、軽口を叩き合う。

 食料調達の見張り役ふたりは、気持ちゆっくりで今日の獲物へと向かっていった。

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