第7話 新たなる一日、そして
翌日、シュニーは昼時の街を歩いていた。
昨日の領地の有力組織の者たちとの顔合わせは微妙すぎる結果に終わったが、へこたれてはいられない。
良き領主になる。領地を変えてみせる。それを熱に浮かされた一時の宣言ではなく本気で成すには、今のシュニーには足りないものが多すぎる。
「今日はひと通り、領地を見分する。いいね、キミたち!」
今のシュニーが最も重要だと考えているのは、昨日から変わらず領地の現状把握だ。
スノールト領について今のシュニーが知る情報量は「ああ、あの北の田舎かね? とりあえずそこの領民どもを従わせれば良いのだろう? ボクに任せたまえよ」などと余裕釈釈だった現地入り前と比べれば雲泥の差である。
「歴史についてはふたりが教えてくれたな、大儀だった」
「ええ。お坊ちゃまは相変わらず飲み込みが遅くて大変苦労いたしました」
「シュニー……さん、意外と……ダメ?」
「もう少しおべっかを使ってくれてもいいのだよ!?」
その立役者であるシュニーの教師ふたりは辛辣だった。
セバスがやれやれと首を振り、もう一人が指で小さくバツを作る。
「というかナルナ! キミがどうなるかはボクにかかっているのを忘れていないかね! やっぱり師匠のお説教で償ってもらってもいいんだぞ!?」
「ひぇ……! それだけは……!」
そのもう一人、鍔広帽子を被った少女は即座に謝罪の態勢へ。
つい昨日シュニーを暗殺しようとした彼女、ナルナは現在シュニーの教師役に抜擢されていた。
特段の経緯はない。
あれから様子を見に来たニル婆に事情を話したところ、安眠していたナルナは当然のように拳骨を落とされ説教タイムに突入した。
数時間分の説教を環境音にして執務に励んだ後、流石にいたたまれなくなってきたシュニーがニル婆との交渉に入りどうにか「ひとまずタダ働きで罪を償ってもらう」という形で締結。
こうしてナルナは救われた。の、だろうか?
「……まあいい。不出来の指摘に怒るほど、狭量ではないからね。たとえそれが命を狙ってきた相手からであってもだ」
シュニーは自分で言っていて「この状況はおかしいのでは?」と思わなくもない。
どうして初対面の相手にあのような蛮行に走ったのか。ナルナに問うても、彼女は堅く口を噤んでいた。ニル婆は何か事情を知っているようで「色々あんだよ、色々」と答えになっていない答えをくれた。
「ありがとうございます、シュニーさん……あなたのこと、傍で見させていただけると……」
あの雪うさぎのような少女から言われれば舞い上がっていたかもしれないが、つい昨日暗殺を試みてきた相手の言葉となると喜べない。
現状わかっているのは、ナルナは間違いなく自分の意思で命を狙ったという事。
操られているわけでも、突発的に錯乱したわけでもなく。
何らかの決意に従って、ああしたのだ。
「……いいだろう。あんな蛮行に走らねばよかったと後悔させてやるとも」
どうしてそんなナルナを許して教師役にまで抜擢しているのか、シュニーは自分の感情に確固たる根拠を持てていない。
足をメイドに踏まれただけで「処刑しろ!」と騒ぎ立てていたのに、命を狙ってきた相手にこうして甘い対応を取っているなど自分で自分が信じられなかった。
ただ、思い付く理由が無いわけでもない。
挙げるとするなら──
「そんな事よりシュニー様、勉強の成果をどうぞご披露ください」
「で、ですね……復習、大事です……」
「ボクの命に関わる問題なのだがね!?」
そこで若干重くなり始めた空気を、セバスが変える。
強引な方向転換だとは思ったが、シュニーもナルナも息が詰まりそうだと感じていたので内心ほっとしていた。
「仕方ない、心して聞くがいい」
こき下ろされた学習能力を見せつけるチャンスでもある。
己を納得させながら、シュニーは記憶から勉強の成果を引っ張り出し、説明を始めた。
この地の歴史は“冬”と密接に関わっている。
かつて……百数十年前までのスノールト領は、近隣諸国との交易によって栄えていた巨大な商業都市だったのだという。
バルクハルツ帝国は強大な軍事国家であり、絶えず周辺国家と衝突を繰り返していた。
しかしスノールト領は帝国の端に位置する土地の中でも帝都から特に離れており、辺境故の強い自治権を有していたために皇帝の意向をある程度違えることができた。
その結果生まれたのが、帝国の一翼を担いながらも多くの友邦に恵まれ、まるで一つの独立国かのように扱われていた異端者の地であった。
人間の居住区も今シュニーが治めようとしているここだけでなく、いくつもの町から構成されていたのだとか。
『スノールト』というのは地名であると共に、シュニーが今いる町の名前でもあったらしい。
この地の繁栄が揺らぎ始めたのは、137年前のことだ。
帝国歴1598年、雪歴0年……つまり“冬”の始まりである。
この地の、と殊更取り上げるのは正しくないのかもしれない。
スノールト領に限った話ではなく、あの年あの日よりこれまで人間と異種が築き上げてきた世界の全てが変わってしまったのだから。
“冬”は季節としての『冬』とは不可分でありながらも明確に区別される。
矛盾しているかのように感じられる表現ではあるが、そうとしか評せない現象であった。
最初にそれに飲み込まれたのは、もはや国名すら残っていない熱帯の島国だったという。
空を灰色の雲が覆い、雪が降り積もる。
気温が零下にまで下がり、人々の営みを大きく阻害する。
これだけを見れば、場所が異常であるというだけで季節としての冬、と変わりない。
しかし、それで終わりではなかった。
時が経つにつれて、その領域が広がっていく。次第に一年の殆どをこの環境が占めるようになり、最終的には二度と季節が変わらなくなる。
狂暴かつあらゆる生命への殺意に満ちた、氷の欠片を纏った獣や怪物が次々と現れる。
この現象は、帝国本土よりも先にスノールト領の知るところとなった。
交易相手の活動が不自然な程に低調になっていることから情報を集めはじめ、結果世界の端より災いが押し寄せているという事実が判明したのだ。
そこからのスノールト領の歴史は、多くが失伝しており今やあまり残っていない。
少なくとも、有力貴族に仕える歴史趣味の使用人が知れた範疇では。
わかっているのは、この地が『敵との最前線』という辺境領本来の役割を存分に担い、近隣の友邦全てが“冬”に呑まれ滅んでもなお抗い続けている、という事実くらいである。
そして年々その力は衰え本土からの支援も途絶え、今となってはかつての栄華は欠片も残っておらず、罪人を送り込み時間稼ぎの防壁とする流罪の地となっている。
“冬”の侵蝕こそ一時的に止まっているらしいが、それもいつまで保つかはわからない。
「……フッ」
ぺらぺらと覚えた内容を披露し、シュニーは思わず笑みを漏らす。
「……詰んでないかい?」
絶望からの失笑である。
どうして自分はこんな場所の領主になってしまったのだろうか。
というか罪人って。防壁って。
今までの己の振舞いに良くない部分があったのは部分的に、そう部分的には認めてもいいかもしれないが、果たしてここまでされる云われはあっただろうか。
「坊ちゃま、やっぱり諦めますか? 亡命申請、しちゃいます? 他の国なんてもう殆ど無いですけど」
改めて言葉にするとあんまりな現状に頭を抱えるシュニー。そんな彼をここぞとばかりに煽り散らすセバス。
執事とは思えない態度である。
とはいえ帝国でも名の知れた大貴族ルプスガナ公爵家の長子のお付きの者、というバラ色の将来が確約されたも同然の立場から今の状況への転落人生なので、シュニーとしてもその態度もむべなるかな、といった認識である。
「おのれ使用人風情が! キミは一体誰の味方なんだ!!」
「幼い頃よりお坊ちゃまの味方ですが?」
しかし少々の罪悪感と共に納得しているからといって、怒りが湧かないかどうかは別の話である。
煽られるのはいつもの話であるが、それでも爆発する時はする。
相変わらずの沸点の低さを存分に発揮しセバスに食って掛かるシュニーと、飄々と受け流すセバス。
「……こんにちは! ナルナちゃんと……おふたりはだあれ?」
そんな二人の喧嘩になっていない喧嘩へと乱入してきたのは、無邪気な声だった。
「む」
「おや」
「こ、こんにちは」
三人が同時に顔を向ければ、そこには幼い少女がいた。
年齢はシュニーの半分、六歳かそれより下か、といった程度だろうか。
ほつれと汚れが目立つ粗末な衣服からは、決して裕福な身ではない事が伺える。
「はじめまして、お嬢さん。セルバンテスと申します。こちらのお方は……」
少女の疑問に答えたのはセバスだった。
主人であるシュニーに代わり対応し、彼を紹介しようとする。
領民を一時的とはいえ客人として敬い自分より上に置き先に名乗り、しかし同時に直接話せる相手ではないのだと主人を立てる、貴族に仕える執事なりの応対である。
「ボクはシュニー。シュニー・フランツ・フォン・スノールト。この名が何を意味するか……わかるね?」
「わかんない!」
しかしそんな格式ばったやり取りは伝わっていなかった。
社交マナー的流れを無視して自分で名乗ったシュニーによる立場の匂わせは、少女の無邪気な笑顔にばっさり切り捨てられる。
「ま、まあ仕方あるまい……住んでいる土地の名前も知っているか怪しい年だろう……」
がっくり肩を落としながら、気にしてないし……と半分は少女に、もう半分は自分に言い聞かせるシュニー。
性格的に怒ってもおかしくない場面ではあるが、シュニーにだって小さい子供に対する分別くらいはあるのだ。
「シュニーくんとナルナちゃんに、セバスさん! なにやってたの? チコにおしえて!」
きらきら輝いた目で見上げてくる、チコというらしい少女。
彼女の言葉に、シュニーは己の目的を思い出す。
「心して聞くがいい。ボクたちはね、今からこの地に何があるか見て回ろうとしているのだよ」
セバスとの喧嘩で一瞬忘れかけていたが、シュニーが己に定めた本日の執務は『領地の現状把握』であった。
先日の勉強で、領地の歴史や人口といった記録はいくらか知った。
だが実際に現場を見て現地の人々に聞かねば気付けないものは多々あるだろう。
領民からおのずと情報を提供してくれる体制が整えば話は別だが、今がそうでない以上は己自身が出向いて集めるしかないと考えている。
その点では今のシュニーは、堕落した貴族にありがちな現地の声も情報も集めようとせず己の物差しだけで物事を決める姿勢とは無縁であった。
傲慢さが抜けていないのは未だ変わらないが、少なくともこの点においては変われる素質があったのかもしれない。
生家が軍事方面に強い関わりを持っており、現場を知る重要性を父から説かれていた影響も大きかった。
「あっ! だったらおしえてあげる! わたしくわしいんだよ!」
「お、おい待ちたまえ! ボクを誰だと思って……!」
だから、シュニーは己の手で幸運を引き寄せたのだと言っていいだろう。
ぱあっと輝くような笑顔を浮かべたチコに手を引かれ、彼は引きずられるように町を歩く。
こうして、新任領主は頼れる道案内役を手に入れるのだった。
―――――
「ここがねー、リュードくんのおうち!」
慣れぬ土地の散策には、現地民の案内役は大きな助けとなる。
町ひとつにしか人が住んでいないような小さな辺境領であればなおさらだ。
資料には載っていない生活に密着した情報が得られるのも、今のシュニーとしては大変助かる点だった。
「なるほど。そのリュードとやらはどのような者なんだい?」
「おせんたくがすっごいじょうずだったの! ぴっかぴかだよ!」
しかし一方で、得られる情報はあくまでも案内役の目線によるものである。
幼い子供の視点から語られるこの地には、領地運営にあまり関係なさそうな情報も多分に含まれていた。
「そうか……気に留めておくとしよう……」
洗濯物が得意な男の子がいた、という情報が領主として一体何の役に立つというのだろうか。
シュニーが知りたいのはどちらかというと領地がどんな問題を抱えていて領民がどんな悩みを持っているのか、というような部分だった。
幼子の好意を無下にもできないが、民ひとりひとり……それもまだ仕事にあまり関わらないだろう子供を紹介されるのは、時間を浪費してしまっているような気がしてならない。
「……待て。また、上手だったと言ったかい?」
……そこまで考えてふと、シュニーはチコの言葉に違和感を覚えた。
チコが友達であろう子供の家を紹介するのは初めてではない。
シュニーが疲労感を覚える程度には、この親切で明るい少女は家一軒一軒の住民をつぶさに紹介してくれていた。
“かけっこがはやかった”。
“みんなのリーダーみたいな子だった”。
けれど、子供を紹介する時にはその殆どが過去形で語られていたのだ。
今回だけであれば、まだ言葉の使い分けが上手ではない年なのだろう……と納得していた。
だが、三回四回と積み重なれば、否が応でも疑問に思ってしまう。
「……シュニー様」
「あの、ちょっと……」
「いや……失言だった。忘れるがいい」
いつものような『お坊ちゃま』呼びではなく、たしなめるように名を呼んだセバスの声とシュニーの自覚は同時だった。
思わず口を衝いて出てしまった言葉の意図を、それを幼い子供に問う意味を思い直し、シュニーは押し黙る。
「しつげん?」
意味を理解していない様子のチコを他所に、シュニーは視線を彼女から町全体へと移しながら思案する。
チコに街を案内されている内に、十人ほどの領民とすれ違った。
今も数人が路地を歩いている。
彼らに共通しているのは、暗く疲れ果てた顔だ。
現状に精魂尽きた、今後の生に希望を持てていない表情だった。
そうなるのも仕方ない、と納得できる。
まだ二日と少し過ごして多少学んだ程度だが、それでも十分理解できるくらい厳しい環境だ。
気力を大きく削がれていても仕方ない。
しかしそれでも、チコが元気に挨拶をした時には笑顔を向け、皆が皆彼らなりの好意的な対応を返していた。
まだ完全には折れていない。幼い子供に対して繕う程度であればできる。
最悪の中の、という但し書きこそ入れる必要があるだろう。
けれど、シュニーは己の領民たちの精神状況を良い傾向かもしれない、と考えていた
そして、今のチコとのやり取りを経て気付いた点がもう一つある。
「セバス、ナルナ。庶民の子は、普通なら昼時には何をしているんだい?」
「私だったら……お師様のお手伝いと勉強……でしょうか?」
「家にもよるかと思いますが……家業の手伝いが主かと。もしくは、外で遊んでいるか……」
子供を見かけないのだ。
寂れた小さな町といえど、中心部にあたる大通り。それも昼時となれば、子供も大人も関係なく買い物や仕事、遊興で忙しなく動き回っているだろう。
しかしシュニーが見たのは大人ばかりだった。
行き交う人も、店番をしているのも。
「……本来ならそうなのだな」
口減らし、という嫌な単語がシュニーの脳裏をよぎる。
未だ一年の四分の三程度しか“冬”に蝕まれていない人間文明最後の砦、バルクハルツ帝国の帝都では考えられない概念である。
だがシュニーが本で読んだ幾つもの寓話には、恵まれない地の過酷な実情が記されていた。
ヒトという生物は生きているだけで資源を消費する。
それは食事や水といった物として実際に減っていくものから、住居や排泄物の処理といった負担という観点のものまで様々だ。
人々に余裕がある環境であれば、これらについて問題はない。
だが明日を生きるのもやっとの貧しい環境ではそうも言っていられなくなる。
その結果が、生活への貢献度が低い人間の切り捨てである。
「みんな、げんきにしてるかな? いつかえってくるかなぁ」
無邪気に首を傾げているチコに、シュニーは何も言えない。
彼の中では、この最悪の予想は半ば確信めいた認識となりつつあった。
好き好んで触れたい事情ではない。
本音を言えば目を逸らしたい暗がりの部分だ。
けれど、はっきりと事実を確かめなければならないと思った。
どう解決すべき問題なのか、現状の自分では想像もできないが。
「そうだな……」
これ以上チコに聞くのは得策ではないだろう。
特段の情報は得られないばかりか、残酷な真実を気付かせてしまうかもしれない。
なにか別口で調べる必要があるな、とシュニーは今後どうするかについて思案する。
「あっ! ラズにい!?」
「シュニーさん、人が……あの……」
「お坊ちゃま、前方不注意です……お坊ちゃま」
不幸にも、シュニーはあまり複数の物事を同時並行で処理するのが得意な人間ではなかった。
考え事をしながら歩けば、目の前への意識はおのずと疎かになってしまう。
チコがシュニーの前方を見て誰かの名を呼んだのにも、セバスとナルナの警告にも気付けない。
「……ぬぁっ!?」
「おい」
だから、正面から接触コースで歩いてきた人間と衝突してしまうのは必然であった。
ド、という軽い接触音と共にシュニーの体が背後に弾かれる。
倒れこそしなかったが、よたよたと数歩後退してしまう。
「……誰だか知らないが、いい度胸だな!」
そこでやっとシュニーの思考は現実に引き戻された。
なんたる無礼なのだろうか。領主が歩いているというのに避けもせずにぶつかってくるとは。
「だがボクは寛大だ! 謝罪の言葉があれば……」
しかしシュニーは立派だった。
相手が前方不注意の庶民であろうと、許すつもりがあるのだ。
今の彼は凡百のダメ貴族とは違う、立場的にも精神的にもちょっと偉い貴族なのである。
ふふん、というしたり顔と共に彼は衝突相手を見て──
「探したぞ、テメェ」
「ゆるしてや、ろ……」
──硬直した。
どう見ても、堅気の人間ではない少年だった。
年齢は十五か十六、シュニーよりいくつか上といったところだろうか。背が明らかに高く、それに見合って顔も多少大人びている。
燃えるような赤の髪に、刺すような目つき。
服装こそ粗末なボロ布の上に使い古した雪避けの外套というありふれたものだが、少年の場合は貧相、というより飢えた獣を彷彿とさせる獰猛さを補強している。
そして何よりもシュニーから抵抗の意思を奪ったのは、右手に携えている凶器、槍だった。
整備不足なのか錆だらけではあるが、ところどころ白銀の地金が伺える。
上等な代物なのだな、と場違いな感想が現実逃避気味に浮かんでくる。
「兄ィになんつー口きいてんだ、アアン!」
「くるおぁぁあん!?」
少年の後ろには、シュニーと同年代くらいと思わしき子供がふたり続いていた。
シュニーに対して何やら怒っているようだが、今のシュニーにそちらに意識を向ける余裕など一切ない。
「用があんだよ、新領主」
ぎろり、と殺意の籠った鋭い目線を向けられて、すっかりすくみ上がってしまっていたのである。
もちろん、シュニーに荒事の心得はゼロだ。
これまでは生家の威光で周囲を跪かせてきたが、今や彼が振るえる権力は皆無に等しい。
「な、なにが狙いだ……ボクが領主と知った上で……」
がくがくと脚が震え、少しでも気を抜けば恐怖で涙が溢れそうだった。
何故このどう見ても蛮族の類が自分に用事などあるのかわからなかったが、碌でもない内容に間違いない。シュニーは確信を持ってそう言える。
「好きなだけ説明してやるからよ。とっととついて来い」
どうやら少年は同行を望んでいるらしい。
しかし、どう考えても歓迎会が催される流れではなさそうだ。
三日目にして領主怠慢罪で私刑に遭う情景がシュニーの脳裏にありありと浮かび上がる。
あまりに理不尽すぎる。
「セバス! セバス―!!」
なので、シュニーは恥も外聞も投げ捨てて助けを呼んだ。
ナルナはすくみ上がっていて何かできる状態はないし、先日見せた見事なまでのドジ&運動音痴っぷりは明らかに役立たない。
ならば今頼ることのできる唯一の力は、己の執事である。
得てして、貴族の付き人には武力が求められる。
使用人検定マスタークラスの資格がどうこうと言っていたから、セバスもきっと荒事に対応できるはず。
少なくともシュニーが知る範囲内ではそんな機会が無かったので実際のところどうなのかわからないが、そう信じたかった。
「……」
主人の声に従い、セバスが音も無く前に出る。
シュニーと少年の間に割り込む形である。
油断ならない相手だと感じ取ったのか、少年は一歩下がりセバスへと目線を移した。
まるで強者同士が微かな隙を探り合うような、無言のひりついた空気。
決着は、わずか数秒で付いた。
「昨日は悪かったな。こっちも事情ってモンがあんだよ」
「お構いなく。複雑な立場なのは承知の上でしたので」
「えっ、え?」
構えを解き、落ち着いて会話を交わすふたり。
知己であるかのようなやり取りに、シュニーは困惑する。
「もしや昨日来なかったのは……」
ひとりだけ来なかった領地の有力者。年がある程度近い同性。
ふたりの会話をかみ砕いて、シュニーはこの少年とセバスの関係性をなんとなく察した。
やっぱりまともな人間がいないじゃないか、と内心頭を抱える。
「んで、コイツ連れてくぞ。心配ならアンタらも付いてきてくれて構わねえ」
「いえ、夕食の準備を仰せつかっておりますので私は結構です。お早めに解放していただければと存じます」
「おう。こいつ次第だが善処はしてやる」
「セバスぅぅー!?」
ただ、少年の素性を考えているどころではなかった。
すっと身を引き、再びシュニーのななめ一歩後ろに位置取るセバス。
あっさり売られたシュニーは愕然と執事の肩を掴み揺さぶろうとするが、びくともしない。
セバスの体幹は細身にも関わらずあまりに強かった。戦闘能力もきっと高いのだろう。発揮する気はゼロのようだったが。
「ラズにい! シュニーくんつれてっちゃやだ!」
哀れなシュニーへの救いの声は、肝心な時に頼りにならない執事ではなく今日知り合った少女から発せられた。
ぽけーと成り行きを見ていたチコは、小走りで少年の元へと駆け寄っていく。
「おうチコ、忙しいからまた今度にしろや」
「シュニーくんまでつれてったら……あそぶ子、いなくなっちゃう……」
互いの名を知っているあたり、どうやら知り合いらしい。
そう推測する心の余裕はシュニーにはなかったが、チコの助けには感激の一言だ。
ただの領民が今は救世主に見える。
無事に帰れたら思わずチコを甘やかしてしまいそうだ。好きなだけ遊びに付き合ってあげよう。
栄誉あるルプスガナ家の跡継ぎが愚民と戯れるなど、と碌でもないプライドを発揮し庶民だけでなく他家の貴族からも白い目で見られた過去を持つシュニーだが、そんな意識は消し飛んでしまっていた。
「……ならこっち来りゃいいだろ。バカな奴らなんか捨てちまえ」
「パパもママも、バカじゃないもん……」
しかし、少年の態度は若干柔らかくなりながらも、譲るつもりなどないらしい。
理屈で言い返すにはあまりに幼く、チコは弱弱しく言い返したきり黙ってしまう。
「アニキ! 町の連中が!」
「……チッ」
気まずさともまた違う冷えた空気は、少年の背後に控えていた取り巻きの声で破られた。
シュニーがはっと周囲を見回せば、まだ距離はあったが何人かの領民がやって来るのが見える。
男も女も混じった、切羽詰まったかのような表情の人々だ。
「……おい、行くぞ。テメェもとっとと腹括ってついて来い」
「ぐ……!」
しかし、救いの手は遠すぎた。
助けてくれ、と声を上げようとしたシュニーだったが、それは先んじて少年に制止される。
槍の穂先を喉元でちらつかされては、もはや抵抗の術はなかった。
そして少年の取り巻きに連れられ、シュニーは混乱の場を立ち去る事になるのだった。
―――――
辺境伯、着任五日目にして荒くれ者に誘拐され行方不明に。
後に帝国全土で親しまれる英雄譚の一章目を飾る物語は、かくして波乱万丈な幕開けを迎えた。
凍えた土地で集団が生き抜くにあたって、最も重要なものの一つが『団結』だ。
それそのものが問題を解決するわけではないが、しかし何をするにしても皆が纏まっているかそうでないかはあらゆる活動の効率と成否に影響を及ぼす。
当時のスノールト領は、その重要なものが失われていた。
食べ物でも経済でもない、領民を二分していた大きな亀裂。
その解決はシュニーが最初に立ち向かった問題であり、領主としての基盤を固める最初の一歩であった。
なお伝記では此度の冒頭となる今回の事件はこう記されている。
『シュニー・フランツ・フォン・スノールトの五日天下』と。
当然本人はもっとカッコいいのがいいと抵抗したが、無事彼以外満場一致で決定された。
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