第5話

 一筋の光だけの狭い世界。

 暗闇に呑まれた壁には幾つもの絵があった。

 薔薇の絵だ。

 永遠に枯れぬ美しい薔薇。

 だが、その大地は白磁の器。

 中身を失った器に薔薇がのさばり、咲き誇る。

 醜くて、美しい。

「お前が描いたのか」

 据え置かれたソファーに座るブラウローゼが問う。

 青年は筆の手を止めずに返した。

「私はこれ以外に何もない。物心ついた時には此処にいた」

 表情一つ変えることもなく、青年は言葉を紡ぐ。

「私は化け物らしい。腕や足を斬られても、一晩もすれば治った。だから、此処にいる。此処以外に居場所はない」

 表情を変えない青年にブラウローゼは沈黙した。

 青年は自身が愛した、元は人間だった妻の子。

 吸血鬼は心から愛した人間のみ、一族に加えることが許されていた。

 故に、妻キルシュは吸血鬼であり、この青年の血の半分は吸血鬼なのだ。

 ハーフは本来許されない。

 歪な血はより歪な者を作る。

 人に近く在れる者もいれば、吸血鬼に近く在れる者もいる。

 されど、どちらにも異端過ぎる血を持つ者は孤立し、差別され、迫害を受け、殺される。

 青年は何処に属するのかは分からない。

 ただ、此処では人間とは認められなかった。

 パレットに乗る幾つもの絵の具が筆に攫われ、白い布に落ちる。

 独特の油の香りが部屋に広がる。

「貴男は、驚かれないな」

 青年は宝石ではない瞳で雷を見る。

「私は、今、化け物と言った」

「血塗れの男に何を言う」

 ブラウローゼは男を貫いた手を掲げる。

 既に血は乾き、赤茶けていた。

「貴男は美しい。何に汚されようと、私は貴男を招き入れ、モデルを所望した」

 青年は僅かな喜びを瞳に浮かべ、筆を動かす。

 やはりそれは美しく、ブラウローゼの視線を杭で打つ。

 青年は吸血鬼の魔性を受け継いでいた。

 だが、この青年はブラウローゼを美しいと言う。

 元来、吸血鬼というものは人間よりも美しい容姿をしている。

 だからと言って、男を絵のモデルにするのは物珍しく思えた。

「貴男は物語のユニコーンのようだ。気高く誇り高く、凛としている。そして、己の角で他を圧倒する血に濡れた銀のユニコーン」

 熱を帯びた瞳は一度だけ射止めるようにブラウローゼを見た。

 次いで、姿を変えるキャンバスへと向かう。

 白くあった布地はいつの間にか様々な色に塗り替えられていた。

「血が、好きか?」

「……私の絵を見て」

 問いに答えはしなかった。

 だが、特に意に介したこともなく言葉に従う。

 壁にあるのは美しい薔薇の絵だ。

「薔薇の赤は描くが、血の一滴とて私は描かない。美しくないからだ」

 絵には薔薇の赤以外にその系統色すらなかった。

 何枚もある絵全てがそうだった。

 固執しているならば、芸術家らしい。

「俺の返り血はどうだ?」

 美しくないという血を身に纏うブラウローゼは皮肉に問う。

「貴男は穢れない。だからこそ、汚れた血すら美しく魅せる。または逆……」

 筆を置いた青年は舞うような柔かな仕草で立ち上がり、ブラウローゼの前に歩み寄る。

「穢れないから染めたい」

 青年の指先が銀の髪に触れる。

 油絵の具の匂いが鼻を掠める。

「美しいものは何時だって儚い。永遠であればと同時にぐちゃぐちゃに汚し壊したい。そんな衝動に駆られる」

 女のような赤を帯びた唇が笑みを浮かべる。

「貴男のその壊れてしまいそうな瞳はより美しく、焦がれさせられる」

 髪を弄んでいた指先が輪郭をなぞる。

 異なる一対の瞳が、雷を見下ろす。

 青年の長い髪が顔に影を作り妖艶に見せた。

「初めてだ。こんな熱い気持ちは。貴男は一体誰だ?青薔薇のように望まれながら存在しえない人なのか?」

 見下ろされていたブラウローゼはしばし沈黙し、目を伏せた。

「俺は、俺だ。全てを失い、復讐も果たした……生き長らえた必要ない存在だ」

「必要ない?」

 青年が無感情に繰り返す。

 それに、緩やかな動作で肯定した。

「一族は殺され、最愛の妻すら守れなかった」

「嗚呼。だから、貴男の瞳は」

 青年の指先が顔を包む。

 それは冷たく感じた。

「壊れてしまいそうなのか」

 瞳を開けば、妻によく似た顔の青年が微笑んでいた。

「愛しいまでに美しくあるのか」

 それは何処か、歪な微笑みで。

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