第5話 夢見る夫婦生活
恭子は子供の頃の夢を見ていた。恭子が小さい時、母は釜で炊いた御飯を御櫃へ移したあと、釜に残ったちょっと焦げた御飯に祖父の手作り味噌を付けておにぎりを作ってくれた。そのおにぎりを、風呂を薪で焚く間に風呂の蓋の上で食べるか、二階の窓から縁側の屋根の上に出て陽当たりが良く眺めのいい椅子に腰かけて食べるかしていた。それは、格別に美味しかった。そんな事を頭に浮かべながら歩き始めた。
町外れへ来ると、養鶏場が見えて来た。その周りは、区画された畑が並んでいる。その中では、夫婦とみられる男女が畑仕事をしていた。その畑には、養鶏場から逃げ出した雄のひよこが、二、三羽とびまわっている。そのひよこを、夫婦について来た幼児がよちよち歩きで追い掛けている。ひよことはいえ、幼児には易々と捕まえることができない。転んでは起き、転んでは起きしながらも、仕舞いには泣き出してしまった。それを笑いながら眺めていた連れの女も見かねて、捕まえて竹籠へ入れてあげた。幼児は、嬉しそうに籠を覗いてはしゃいでいる。
恭子は見知らぬ町を歩いている。バスの停留所にベンチがあるので、そこに腰を下ろした。周りは閑静な住宅街のようだ。腰掛けた所から見渡していると、一軒の家へ目が行った。小学生のような女の子が、太くて長い竹筒を風呂場から、穴の開いた流し場へ渡し、ポンプで水を汲んでいるのが窓越しに見えた。浴槽は、木で出来ている。浴槽は高いので、段が二段付いている。ポンプを漕ぐ女の子は、踏み台に上がり、数をかぞえながら竹筒から流れ出る水を見ていた。500まで数えると、風呂桶の水量を確かめつつ、水汲みをやめた。
町の通りは、車があまり走らないばかりか、歩いている子供連れが熟年夫婦ばかりだ。この町並みは、百坪から二百坪の家がほとんどで、先程から見えている家にも広い庭がある。その庭では、父親らしき男が兎小屋と鶏小屋を掃除して、その糞をまいて畑を耕している。母親らしき女は、流し場へ畑で取った新鮮な野菜を運んでいた。
今度は、広々とした公園が見えて来た。小さな子供達がお爺さんやお婆さんらしき人達と遊んでいる。でも、お爺さんやお婆さんと呼ぶにはまだ若い50歳前後の熟年だった。この地方では若者が出稼ぎに行って、老人が孫を育てているのかと思った。しかし、何人かの妊婦を見て、それが間違いであることに気付いた。妊婦がみな熟年で、若くはない。恭子は、熟年夫婦に奇跡的に生まれたものではなく、この町では一般的なのかと思った。
恭子の足は、知らず知らずのうちに、公園の中へと向かっていた。ベンチに腰掛けて、一人一人を観察し始めた。親子は敷物に座って、お茶やお菓子やお弁当を美味しそう食べながらはしゃいでいる。また、大人も子供も混じって、野球やサッカー、相撲もやっている。恭子は、子供のころ遊んでいた、鬼ごっこや縄跳び、缶蹴り、石蹴り、馬乗り、助け鬼、S陣取りなどと次々とやっている光景に見惚れていた。
ここは、若い人が働き、その後熟年に子育てをする世界だった。
恭子は、夢の世界から現実の世界へと戻って来た。政幸は、恭子の目覚める声で物思いから我に返った。
「気が付かれましたか」
「あら、病院へ連れて来てくださったのですか」
「ずいぶん、お休みになっておられましたね」
「ずっと、看病してくださったのですね。お仕事の途中ではありませんか。もう大丈夫です」
そこへ、院長が入ってきた。
「貧血によるめまいですね。身体にはどこも異常はありませんでした。あとは疲れているようなので、家へ帰って養生してください。貧血の薬を出しておきました」
「どうもありがとうございました」
と言って、院長を送り出した。
「私は藤城恭子と申します。この度は誠にご迷惑をお掛け致しました。申し訳ありませんでした」
「私は、木田政幸です。私の車の近くで倒れたので、ぶつかったと思い、急ブレーキを掛けてしまいました。藤城さんも驚かれたでしょう」
「あの瞬間は覚えているのですが。病院へ行くと言った後からは、今まで気を失っていたのですね。何と言っていいか、見ず知らずの私をここまでしてくださって」
「いいえ、車がありますから、お宅までお送りします」
「そこまでしていただいては」
「いいえ、あなたは私の恩人のようなものですから」
「ええっ」
「実のところ、私は記憶を一部なくしていたのです。そればかりか性格も変わってしまいました。それが、急ブレーキの際に頭をぶつけて元に戻ったようなのです。今は、清々しい気分です。私にお返しをさせてください」
「でも、朝早くに、どちらかへお出掛けではありませんでしたか」
「いいえ、休みを取るためだけの気ままな旅ですから、急ぎません」
「では、食事を御馳走させてください。私こそ、お礼をさせて頂きたいです」
「養生しなくてもいいのですか」
「家には当分帰りません。旅行先で養生します。そして、食事をしてから薬を飲みます」
恭子は、不思議な夢の中で生きる希望をみつけていた。そして、政幸は失われた記憶を取り戻して、明るい光が差していた。
政幸は、恭子が眠っている間中、考えていた。政幸の人生は、その時々の性格の変異によって大きく変化していた事を。由利との恋愛が上手く行かなかったのも、今考えると分かる気がしていた。あの頃、自分では優しい男だと信じていたが、由利にはそうは思えなかった事も。それは、男流の保護本能であって、女からは束縛以外の何物でもなかった事を。由利は、自分を認める政幸が好きだった。しかし、いざ結婚という段階になると男女の考えの食い違いが明らかになってきた。しかし、由利はそれを敢えて弁解はしなかった。
知世との結婚においてもそうだった。二人の結婚は傍からみて、誰もが祝福しているものと思われた。しかし、知世にとっては、秀樹を忘れさせるだけの男ではなかった事を思い知らされた。
そして、記憶が回復して性格も戻り、成長した政幸に未来が明るく微笑んでいるようだった。
「では、食事に行きましょうか」
「はい、よろしくお願いします」
と言って、会計を済まし、政幸の車へ乗り込んだ。
二人はレストランへ向かい、和やかに語り合った。政幸は、見知らぬ男と会話した、あのスナックを思い出していた。そして、この出会いがこれっきりかもしれないと思いながらも、未来が過去へやって来たのかとも思えるのだった。
「私は、夫には裏切られ続けました。そんな中、息子を二か月前に亡くし、心の拠り所を求めて傷心旅行へ出掛ける所でした」
「そうでしたか」
「私は、夢を見ていました。それは、夫とは味わえなかった温かい家庭の夢でした。これから、旅へ出て、将来の事を考えたいと思います」
「どんな夢だったのですか」
「私は、男性に流され、自分を見失っていた人生でした。しかし、夢の中の人達は、若いうちに働き、老後に子育てをしていました。親子で家事をして、みんな一緒に楽しそうに遊んでいました」
「私は、失恋をして酔い潰れ、知らない間に記憶を失くしてしまいました。その時、性格が変わり、逆玉という結婚をした末に、不倫をされ子供を置いて離婚しました。それから15年、独身のまま仕事に明け暮れて、45歳になります。しかし、記憶が戻った今、考え直したいと思っています。私の心の奥底に、男中心で回る世の中の考えが根付いていた事を」
「私も45歳になりました」
「初めて会って、こんな事を言うのは可笑しいかも知れませんが、どうかもう一度旅先から戻って来られた時に、会えないでしょうか」
「こちらこそ。私も、目の前が明るくなったような気がします」
「では、私の携帯番号をお渡しします。こんな出会いですから、お気持ちが変わってしまったら、お捨てください」
と言って、政幸はメモを渡した。
「はい、重ね重ねのお気遣いありがとうございました」
恭子は礼を言った。
恭子は旅行から戻って、敏彰に離婚を迫った。敏彰は、それをあっさり承諾した。その上に、20年の結婚生活の慰謝料として、1億円を渡すことを約束した。離婚に手間取りたくないという思いだったからだ。敏彰の愛人は今、妊娠7か月であり問題を大きくしたくなかったのだった。
恭子は離婚して、藤城の家を出た。
過去を思い出す。未来を予感する。浮かぶ、ひらめく、降りてくる、導かれる、啓示を受けるというのは、未来からの注意喚起なのか。過去と未来の相互作用で、フィードバックが繰り返されて、現在の行動がコントロールされているのか。過去は現在の逆方向の延長線上にあり、未来は信号を送っているのか。
そんな政幸の人生は、これから新たに始まるのだった。
未来は過去を変えられる 本条想子 @s3u8k
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