第2話 女性の一人暮らし

 政幸は、すっきり爽やかなに、直行から事務所へ戻って来た。 

「やぁ」

「この間はすまなかった」

「元気を取り戻したようだな」

「ああ」

「心配したぞ。木田のことだから、もう立ち直れないかと思ったよ」

相変わらず冗談を言う斉藤だった。

「来週、またどうだ。今度は、いい酒にしょう」

と言った後、斉藤は出掛けて行った。


 政幸は由利の事が思い出せなかったが、仕事は何ら問題なくこなすことが出来る事を確認して、記憶喪失の事を周りに知られないですみそうと安堵していた。そこへ、以前から政幸に好意を持っていた高沢好江が、お茶を運んで来た。

「ありがとう」

と言って、高沢に微笑みかけた。今朝直行した会社で出たお茶は、プラスチック製のコップに入っていたので、湯吞茶碗のお茶は特別ありがたかった。しかし、高沢は別の意味に取ったのか、いやに嬉しそうなのが、木田は気にかかった。もしかして、斉藤が彼女にいらぬ事を吹聴したのかと疑った。

 木田は、好意を寄せてくれる高沢に甘えてみたくなった。そんな事を思う自分に政幸は、これが今の性格と知った。

「高沢さん、お昼食べに行きませんか」

政幸はまた先程のような笑みを作って言った。

「ええ」

快く応じた。

  


 二人は和風レストランへ入った。

「私、今日落ち込んでいます」

「ええっ、何かあったの」

「昨夜、酔っ払いが私のアパートのドアを叩いたり、怒鳴ったり、大変だったんです」

「それは災難だったね」

「もう、恐怖でしたよ」

 高沢のアパートは、大家の住んでいるアパートとは別棟で建てられていた。下が駐車場で二階に二軒あり、階段は別々になっている。高沢は引っ越しをして来た時、隣へ菓子折りを持って挨拶に行ったが断られた経緯があった。高沢は、顔も知らない女が隣にいて、生活音だけが聞こえて来る部屋にいるのだった。事務所で、同僚に微笑みかけられたら、嬉しくなり勘違いもするというものだ。


 そんな高沢は、降って湧いた出来事に震え上がった。中年の男は、部屋の階段を駆け上がって来て、ドアを蹴破らんばかりに怒り狂ったのだった。高沢は、部屋の電気を消した。しかし、相手の言うことは正しかった。

「いることは分かっているんだ。出て来い」だった。

至極当然な気がしたが、電気を付けたり、反論する気には成れずに震えていた。男は、酔っているらしく、隣の部屋の階段へも駆け上がって行くが、また戻って来るということを繰り返していた。


 高沢は、男が諦める様子がないようなので、もう頼りは警察しかなかった。

「生まれて初めて、110番というものをしました」

「そこまで激しかったの」

「どうも、遺恨があるらしく、尋常じゃないです」

「高沢さん、恨まれる事したの」

 木田は、由利の伝言を思い出していた。

「人違いなんです。男性の名前を言っていましたから。いい迷惑ですよ」

「無事でよかったね」

「ええ」

と、ほっとしたように言った。

 


 高沢は後日、警察から事情を知らされた際、間違えられた男との関係を疑われて気分を害するのだった。ただ単に、恋人として見られたのなら、相手は人気演歌歌手でもあり、気分を害するというものでもなかったが、警察の聞き方はそうではなかった。人気歌手なら、一人や二人の愛人がいてもおかしくなく、高沢がその一人であっても何の不思議がないとでもいう口振りだったので、警察の失敬さに腹を立てる事になった。こうなったのは、その演歌歌手の事務所が近くにあり、その父親とのトラブルが原因らしかった。


 高沢は電気を消してパトカーが来るまでの時間が長かった事を思い出していた。

「野中の一軒家でもあるまいし、都会でも恐いですね。あれだけ男が騒いでも、誰も何もしてくれませんでした」

「都会といっても、むしろ離れ小島じゃないのかな。関わりたくないんだよ」

「そうなのかしら」

 高沢は隣の人と同じような事をしてしまったのを思い出していた。

それは、見知らぬ男が引越しの挨拶だと言って、夜の八時を回っているのに訪ねて来られ、不信感で帰ってもらったことだ。大家に尋ねても、そのような男は引っ越しの挨拶に来ていなかった。男と女の別はあったが、隣の人からすれば、都会では見知らぬ男も高沢も同じなのかもしれない。隣の女は、鍵を掛けた後に、ドアノブを二、三十回はガチャガチャ回して確かめないと安心して出掛けられないような、用心深い性格のようだった。


「都会では、みんな孤独に打ち勝たなければならないのですね」

「結婚すればいいじゃない。愛する男性と子供がいる生活。幸せじゃないか」

「専業主婦と兼業主婦では、女性は違いがありますよね。男性は、仕事に熱中していればいいけど、女性はどちらかで、大きな違いが起こってきます」

「高沢さんはどちらがいいの」

「専業主婦は望み薄なので、家事を手伝ってくれる男性がいいと思っています」

「そうなんだ」

 政幸は、高沢もプラスチック派なのかとがっかりした。

「専業主婦でもそうですが、炊事や掃除、洗濯、育児、買い物などを金額に換算すると、時給千円で13時間を30日とし、39万円になりますね」

「それでは、僕は払えないです」

「だから、手伝ってくれる男性が理想です。でも、そうはいませんよね」

「頑張って、探してください」

と言って、昼食を終えた。


 政幸は、高沢の今までの印象と違っていた事に驚かされた。ただ大人しい女性という印象だったからだ。由利の印象も今は、どうだったのか思い出せない。やはり、結婚相手は斉藤の言うように、今野物産の社長令嬢がいいに決まっていると考えていた。記憶喪失後の木田には、結婚というものが愛の形とは考えられなくなっていた。

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