未来は過去を変えられる

本条想子

第1話 記憶喪失  

 男は目を覚ました。清々しい目覚めであった。ベッドから起き上がると、窓のカーテンを思いっ切り開けた。それから、窓を開けて深呼吸をした。ここまでの事は、この男のいつもの癖のようで無意識のうちにする行動だ。次に取る行動を、はたと考えあぐねた。今、確かに目覚めたはずだが、男はよく見る夢の中のような気がしてならなかった。そして、窓を開けたと同時に入って来た騒音が気にかかって窓を閉じた。

 男は舞台に出演しているシーンを見ているようであった。役者ではないのだから当然ながら台詞や身振りが頭に入っていない。だが面白そうなので、夢なら夢らしく作り話でもいいから台詞を言おうとするが、やはり脚本家でもないので一向に台詞が思い浮かばない。いつもならこの場に自分がいるのがおかしいと気付いて、これが夢である事を知る。そんな事をしているうちに、夢から覚めるというのが、いつものパターンのような気がしていた。

 しかし、まだこれが夢であるという確証はつかめないでいる。男は清々しい目覚めをしたはずだったが、次第に苛立たしくなって行くのだった。今現在の自分が誰なのかも分からないからだ。そんな事が自分の身の上に起こっていること事態、現実の世界とは考えられないでいる。



 男は早く目覚めたくなっていた。

「もう一度、眠るしかない」

と思い、男はベッドへ潜り込んだ。しかし、窓の外は明るく眠れるものではない。男は、夢か現か分からない状態で起き上がり時計を見た。時計の針は12時を指していた。この状態が夢であれば午前零時なのかもしれない。だが、これが現実であれば正午という事かもしれない。男はベッドの上で上半身を起こし、頭を抱えてしまった。外の様子からして、今は昼間だ。

「これは、白昼夢か」

と男は言い、現実を探そうとまたもベッドから起き出した。そして、部屋の中をキョロキョロと見回した。部屋はワンルームでベッドから全てが見渡せる。男は、サイドボードの上の写真を見た。写真には若い男と女が写っている。男は鏡を見て、その写真の男が自分自身である事を知る。しかし、隣に写っている若い女が誰であるか皆目見当が付かない。

 今度は本棚のアルバムを出してめくり始めた。そうして、その写真の女が恋人か妻である事が想像された。それで、もう一度、部屋の中を見回したが自分以外の者が住んでいる様子がない事が分かった。その写真の女が自分の現在の妻ではない事は確かだ。また、写真が残っている以上は別れた妻ではない事が推測される。それにしても、まだ自分の存在がはっきりしない。


 次に、男は自分の正体が知りたくて、クローゼットの外に掛けてあった背広のポケットの中を調べた。中には、財布や名刺入れ、定期入れ、キーケースなどが入っていた。運転免許証は、財布の中に入っている。自分の顔写真で、氏名は木田政幸となっていた。名前に覚えはなかったが顔写真から自分自身に違いないと思うしかなかった。名刺にも木田政幸とあって、公認会計士となっている。 

 男は名前と職業が分かった。それで、政幸は会計の事や自動車の運転が分かるのか確かめたくなった。書類を取り出して読んでみた。すると、次第に頭脳が機械仕掛けのように少しずつ動き出すのを感じた。そして、仕事の内容も思い出していた。事務所の名前や場所、そして担当先までも思い出していた。


 政幸は外へ出たくなって、クローゼットから私服を取り出してパジャマから着替えた。車のキーが入っているキーケースを持って玄関に立って、落ちている部屋の鍵を何気なく拾った。部屋を出てからは、何も考えずとも足が駐車場へと向かった。そうして、引き込まれるように車へ近付いた。持っていたキーで、疑心暗鬼ながら車のドアを開けた。運転できるか不安ながら、座席に座った。その瞬間、考えもしなかったのにひとりでに手足が動き、運転の方法が思い出され、ほっと一息ついた。そして、ゆっくりと車を発進させた。


 車の専門家に言わせると、運転しながらの考えは適当に運転の注意をしながらするので、考えが深刻になり過ぎないということだ。政幸はドライブをしながら考えていた。この状態が夢でないならば、記憶を喪失しているに違いないと思った。記憶喪失が真実ならば、もうすでに記憶は戻ったのだろうと考えた。

 政幸は幼い頃から辿ってみた。頭の中には幼馴染みの名前や思い出が浮かび上がって来ていた。しかし、どうもある部分の記憶だけが欠落しているようだった。それは、先ほど見た女の事だけが思い浮かばないからだ。何故か今日の日付から考えてみても、昨日までの記憶が網羅された形で甦って来ているにもかかわらず、女の思い出が欠落している。もうここまで分かれば、今後の生活に何も支障はないと、不安な気持ちも薄れて、苛立たしさも消え去っていた。それからは、冷静さを取り戻して、残りの記憶の回復に努めようと思うのだった。



 記憶回復のドライブは終わった。後の事は、部屋に戻るまで考えない事にしょうと運転に専念した。それは、この部分の記憶回復が難解のような気がしてならなかったからだ。仮にも現在の恋人を忘れるなんて只事でないと思ったからだった。部屋には先程まで見逃していた手掛かりが必ずあると思った。そんな事を考えると次第に楽しくなった。帰りの車の中では音楽を聞きながら、心が浮き浮きしてくるのが分かった。でも、それは良い結果が待っている事を想定していたからだ。


 政幸は部屋に戻った。もう一度、部屋の中を見回した。そこで、留守番電話に目が止まった。

「ピー、高沢です。上総商事さんからのお電話がありまして、月曜日の朝一番で来てほしいという事でした。所長も直行するようにとの事です」


「ピー、由利です。政幸さん、落ち込んでいるようですが、本当に申し訳ありませんでした。私は政幸さんのプライドを深く傷付けてしまったのでしょうか。私は政幸さんとは一生お付き合いをしたいのですが、悲しい事に男女の間に友達付き合いは成り立たないでしょうから、残念ですが諦めます。政幸さんも私の事を早く忘れてください。さようなら」 


 留守番電話は、まだ回っていた。しかし、政幸の耳には届いていなかった。これは明らかに恋人からの別れの電話であると悟った。多分、昨日どこかで酒を浴びるほど飲んで、帰る途中にでも頭を強打して記憶を一部なくしたのだろうと思った。この記憶喪失は幸いしているに違いないと思う事にした。

 

「ピー、おい斉藤だ。まだ、目覚めないのか。木田の気持ちも分からないでもないが、女の一人や二人に振られたぐらいで男がだらしないぞ。俺なんか、何人に振られていると思うんだ。所詮、女は一人では生きられないよ。その分、男を選択せざるを得ないんじゃないの。俺たち男どもは女のお眼鏡にかなって選ばれるのさ。あんな女は資産家の息子にくれてやれ、木田には似合わないよ。それでも忘れられないなら、今度は選ぶ側に回ったらどうだ。今野物産の社長が木田を気に入っているの、知らないわけがないだろう。

 と言っても、木田の性格ではそれが出来ないんだね。だから、昨日みたいに酔いつぶれるほど飲まないと忘れられないんだな。つくづく、木田の性格は不便に出来ていると思うよ。でも、そこがいいところだからね。

 昨日、部屋まで送って行って、帰りに鍵を掛けてポストへ入れたが、あるよな。じゃまた、元気な顔を見せてくれ」


 政幸は、玄関に鍵が落ちていた訳が、今わかった。そして、自分の性格が生真面目だった事に驚いた。記憶喪失になってからの性格が、変わってしまっているようだった。斉藤が冗談で言っていたことすら、何も悪い事をするとは思わなくなっている。以前の純真さは失われ、合理的な性格に変貌していた。

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