第22話
爽やかな朝だった。小鳥がピチチとさえずる声に招かれるように、シェリルは「ルフュージュ」の扉を開けて外に出た。表にかかっている札をひっくり返し、「OPEN」に変える。ぐーっと伸びをして肺いっぱいに空気を吸い込むと、身体中に血が巡る感じがする。生きている。
こんなに解放的な気持ちは、いつぶりだろう。生まれて初めてかもしれない。
ソワイエ伯爵から縁切りを申しつけられてすぐ、シェリルは伯爵邸を飛び出した。未練などなかった。持ち出す物もほとんどなく、愛馬のミュリィに乗って「ルフュージュ」まで走った。
今後、シェリル・ソワイエと名乗ることはできない。身分もなにもない、ただのシェリルだ。いや、もう彼女をシェリルだと呼ぶ人はいなくなる。仮面の薬師として、この下町で生きていくのだ。
「おはよう、店主さん。朝から開店なんて珍しいですね」
「おはようございます。はい、これからは朝から晩まで営業いたします」
「まあ、それは助かるわあ」
おほほ、と笑い声をあげて、女性は去っていく。
伯爵令嬢だったときはソワイエ伯爵の庇護下にあったので、どうしても薬屋の営業時間もまばら且つ短くなってしまっていた。しかし伯爵の名を剥奪され、伯爵邸を追い出され、シェリルは「ルフュージュ」で生活をすることになった。そのため、不規則な営業の必要がなくなる。札に営業時間を書くのもいいかもしれない。
仮面の下でシェリルは笑顔を浮かべて、店の扉に手のひらを置いた。
――これからは、「ルフュージュ」がシェリルの居場所だ。
外は身をすくめたくなるような冷たい風が吹いたが、心の中はぽかぽかと暖かい。誰にも邪魔されない、シェリルだけの場所がここにはある。
店内に戻れば、カラコロと耳辺りの良いドアベルの音と、薬草のにおいがシェリルを包む。大好きな音、大好きなにおい。
好きなだけ、薬を調合しよう。新たな薬を開発するのもいいかもしれない。
薬草の束を手に取って、ふと、ディートリヒの事が頭を過った。すぐに胃を痛めるという欠点を持つ彼は、容疑をかけられたシェリルを必死に守ろうとしてくれた。その日会ったばかりの令嬢にすら、そこまで心を砕いていたら、彼の胃はすぐに駄目になってしまう。
とはいえ、ディートリヒがあそこまでしてくれなかったら、シェリルは本当に犯人にされていただろう。弁明も聞いてもらえず、今頃真っ暗なじめじめとした牢屋に放り込まれて、判決をおびえながら待っていたに違いない。
助けてもらった恩は返したいと思っている。でももう、ディートリヒとの繋がりはない。
そのとき。
――カラコロ
ドアベルが鳴った。
早朝から客が来るなど思っていなかったシェリルは、驚いて肩を揺らした。
「いらっしゃいま――」
「そなたを専属薬師にもらい受けよう」
「……はい?」
振り返るや否や、そんな声をかけられて、シェリルは戸惑う。
扉の前に立っていたのは、貴族のようだ。暗い色の髪をきっちり後ろに撫でつけ、アイロンのかかったシャツに紺色のジレを着ている。貴族に営業はかけていないのに、いったいどこから店の情報を仕入れてくるのだろう。
その貴族は、いらだたしげにシェリルを見下ろした。
「どうした、はやく準備をしろ」
「あの……? おっしゃっている意味がよく……」
「金ならそなたの言い値を支払う。心配は不要だ」
そういう意味ではない。
専属薬師だと? どうして急にそんな話になる。
シェリルの中ではまったく話が繋がらないが、相手の方はすでに完結しているらしい。
「いえ、お金のことではなく。失礼ですが、お客様はどちら様で?」
「庶民風情がこちらの名を求めるか。……まあいいだろう。キルノック子爵のガロン。貴族の私が言っているんだ。早くしろ」
「子爵……」
貴族の名に疎いシェリルには、ピンとこなかった。とはいえ、子爵ならば専属薬師を求めてもなんらおかしくはない。しかしこのタイミングでいきなり専属薬師に、というのはどうも腑に落ちない。専属薬師になるのは、そういう流れなのだろうか。
黙りこくる仮面の店主に、ガロンは目を細める。
「あとは子爵邸についてから説明しよう。その不気味な仮面も外してもらおうか、不愉快だ」
「――やめてくださいっ」
仮面に伸びてきた手を、思わずはねのける。その勢いで、一歩後ろに下がってガロンと距離を取った。
「お断りします」
「……なんだと?」
「仮面は、外しません。専属薬師にもなりません。どうかお引き取りを」
「この女っ! こちらが丁寧に出てやっているのをいいことに調子に乗りやがって! お前のような人間に拒否権はないのだぞ!」
激怒したらしいガロンは、近くの壁にかかっていた薬草と仮面を勢いよく払い落とした。シェリルの悲鳴と、仮面が床に落ち割れる音が店内に響く。
それでも満足した様子はなく、素早く術式を書いたかと思うと、店内に旋風が巻き起こる。薬草も、仮面も、調合に使う用具も、旋風に巻き込まれてあちこちに飛び散り、壊れる。
「なにをなさるのです! やめてください、やめてっ!」
「貴族に逆らうなどという身の程知らずの愚か者に、直接指導してやっているのだ!」
「きゃあ!」
ガロンの放った魔術が、仮面にぶつかる。パキリと嫌な音がして、シェリルはとっさに両手で仮面を顔に押し付けた。止まない魔術が、シェリルの手を、身体をも傷つけていく。
痛みはあった。血の流れる感触もする。それでも、シェリルはこの手を離すわけにはいかなかった。何者にもなれないシェリルを、「薬師」たらしめるこの仮面を、外すわけにはいかなかった。
そうでなければ、なんのために――。
「庶民が貴族に逆らったらどうなるか、思い知らせてやる」
竜巻が家を簡単に吹き飛ばすように、人間がアリの巣を無意味に踏みつぶすように、魔法はシェリルの心を無慈悲に砕いていく。ちっぽけな存在がどんなに労力をかけて作り上げたものでも、強大な力は一瞬で壊していくのだ。
なぜ、自分は魔力がありながらも魔法が使えないのか。なぜ、この男は魔法が使えるのか。神はあまりにも不公平で残酷だ。
少しでも、ほんの少しでも魔法が使えれば、敵わなくとも抵抗できるのに。
神に見放された出来損ないは、ちっぽけな尊厳を守るためにうずくまり、踏みにじられていくのを待つことしかできない。
惨めで、情けなくて――ひとりぼっちだ。
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