第13話
ディートリヒが危なげない足取りでソファに座ったのを見届け、シェリルはホッと胸を撫で下ろした。
「マリンさん、ありがとうございました」
ディートリヒが来ていたのには気づいていた。
当然だ。あんな一度見たら忘れないような宝石級の顔は、たとえフードで少し顔を隠していたって分かる。特に、狭い店内で、客の動向を全て把握している状況なら尚更。
ディートリヒは入って早々、賑わう店内の様子に驚いたのか、シェリルの元まで来ることなく、入り口付近の壁に避難してそこから動く気配はなかった。いつもならーーというほど長い期間の付き合いでもないがーーずけずけと来るくせに。
そこでシェリルははたと止まった。ディートリヒは怪我をして数日と経っていない。治癒魔法具を使用してくれていればいいが、そうでないならまだ痛みがあるだろう。もしかしたら傷が悪化したのかもしれない。
(まさか、動けなくなるくらいの痛みなんじゃ……!)
だとしたら、シェリルのせいに他ならない。
今すぐにでも駆けて行きたいが、なかなか客足が落ち着く様子はない。それに、こんな大勢いる前でマントを脱がせて傷口をあらわにするのも躊躇われる。相手は庶民と貴族だ。
時折気にして見ているのがバレたのだろう。今日も来ていた常連のマリンは何気なくシェリルの顔が向く方向を見て、同じく壁際に立つ貴族らしき人物に気づいたらしい。
「あの方、私が来た時からずっとあそこに立ってらっしゃるわね。具合でも悪いのかしら。確認してきますね」
薬を受け取ったマリンは気を利かせ、ディートリヒの元へ早足で寄って行った。
マリンの気遣いに感謝しつつ、今いる客を物凄いスピードで捌いていく。きっとマリンがディートリヒを連れてきてくれるだろう。それまでに、人払いをしておかなければいけない。
そうして焦る気持ちを隠すように黙々と、来る客来る客を捌いていたが、マリンがディートリヒを連れてくる気配は一向にない。
不思議に思って顔を上げると、何やら二人は話し込んでいるようだった。
(何事?)
そんな話し込むような事情なのだろうか。だったら、薬師であるシェリルが聞いた方がいいのではないだろうか。
というより、本来やらなくていい客の相手をマリンにお願いしてしまっている時点で、よろしくない。
幸い客はだいぶ捌けたようだったので、シェリルは目の前の客に薬を手渡して代金を受け取ると、周囲に気づかれない程度の速度で二人の元へ向かった。
そして声をかけるに至ったのだが、結局何を話していたのか分からずじまいで、ディートリヒをソファに促し、マリンにお礼を言うかたちとなった。
「いいえ、私が言い出したことですもの、気にしないでくださいな。でも、話を聞いた感じあの方は特に不調があるわけではなさそうでしたよ」
「え? そう、なんですか?」
シェリルは驚きから頓狂な声を出してしまった。
すっかり、ディートリヒはあの怪我が悪化して、歩くのも辛いほどの状態だと思い込んでいた。
庶民相手なのでディートリヒが誤魔化した可能性も考えられるけれど、マリンと普通に会話できるほどではあるということだ。その事実だけでも、シェリルは安堵した。
「あの方、貴族の方でしょう? 何か店主さんに用事があるとおっしゃっていました。専属薬師の話だったらどうしようかと」
マリンは困ったように頬に手を充てて、ふう、とため息を吐く。
前にもそんなことを言っていた。それほどまでに、シェリルが専属薬師になることを危惧してくれて、必要としてくれているらしい。
そんな彼女の気持ちを裏切るつもりは毛頭ないけれど、ディートリヒもシェリルを必要としてくれる一人だ。今は命の恩人でもある。
シェリルは安心させるように、ゆったりと言葉を紡いだ。こういうとき、表情を見せられないというのは不便だと感じる。
「大丈夫です。あの方は、そんなつもりでこちらにいらしているわけではないですよ。もし専属薬師に、と考えていたとしても、無理やり言い聞かせようとする方ではありません」
そう言えるくらいには、シェリルの中でディートリヒは信用できる人だった。
店主にそこまで言われてしまうと、ただの客であるマリンは食いさがれない。少しだけ顎を引いてシェリルを見つめた後、ほんのりと笑みを浮かべた。
「そうなんですね。店主さんがそう仰るなら、杞憂なのでしょう。ごめんなさい、このお店が庶民のためのものでなくなるのが、どうしても平常心ではいられなくて」
「いいえ、それ程までに薬屋に価値を感じでいただけているのなら、嬉しい限りです」
「そう言ってもらえて良かった。これ以上はご迷惑になってしまうから、帰りますね。また来るわ」
マリンは軽く手を振って、するりと店を出て行った。
マリンに続いて、店に残っていた客たちも流れ出ていく。その際にシェリルに向けられた表情は、恐怖に染まっていた。
(そんな、魔物でもあるまいに)
庶民にとっては似たようなものか。
貴族、ましてや暴力的までの美貌の持ち主だ。圧倒されてもおかしくはない。
シェリルは振り返り、ソファで待つ人物に声をかけながら近付く。
「お待たせしてしまい申し訳ございません。お客様、お怪我の状態はいかがで――」
ディートリヒの隣までたどり着いたシェリルは、心配して発していた口を噤んだ。
つい先日、深い傷を負って痛い思いをしているはずであろう本人は、ニコニコと笑ってシェリルに手を振ったのだ。
(は?)
シェリルは呆然と、怪我は完治しました、とでも言いたげな表情を浮かべる男を見つめる。
「忙しいところすまないね、今日はあなたに相談があって」
「お怪我の話ですよね? 痛みはいかがですか?」
「この菓子に合うハーブティーを一緒に考えてほしいんだ」
「……治癒魔法具を使ったんですか?」
「あぁ、これは最近人気の焼き菓子みたいでね、よければ一緒に食べよう」
「…………」
まるで会話が成り立たない。
というより、話題を避けているようにも感じる。
治癒魔法具を使ってくれたなら、それに越したことはない。一言、治癒魔法具で完治したと教えてくれるだけでいい。まさか、治癒魔法具を使ったことで薬師のプライドが傷つくことを恐れての気遣いでもないだろう。
「…………」
「…………」
二人の間に沈黙が流れる。
どうやら、ディートリヒはこれ以上何かを話すつもりはないらしい。
折れたのは、シェリルだった。客が求めていないことを詮索するのは、薬師の域を超えている。
小さく嘆息して、ディートリヒと向かい合うようにソファに腰をかけた。
「ここは、歓談所ではないのですが」
「でも、相談には乗ってくれるんだろう? 僕は今、この焼き菓子に合うハーブティーを探しているんだ。あなたは、どんなハーブティーが合うと思う?」
ディートリヒは悪びれた様子もなく笑顔を浮かべて、テーブルの上に菓子の入った箱を置く。箱に印字された店の名前は、シェリルには分からなかったが、きっと有名なところなのだろう。
動かないシェリルを見かねて、ディートリヒは箱を開いた。
中には、様々な形に焼かれたマドレーヌと、カラフルなメレンゲクッキーが詰められている。
きっといい匂いがするに違いないが、残念ながら焼き菓子の甘やかな香りは、シェリルの元に辿り着く前に、薬草のにおいで打ち消されてしまう。
「……ハーブティーはクセや香りが強いものが多く、味を楽しむお菓子には不向きかと思います。紅茶で探してみては? もっとも、紅茶は私の知識の範囲外ですのでなにもお答えできませんが」
「へえ、それは知らなかった。でも、僕はあなたの淹れたハーブティーで飲みたいな。味が分からないというのなら、まずは味見してみて」
「いえ、私は結構です」
「まあまあ、そう言わずに」
ディートリヒは、笑顔のまま、ずいと箱をシェリルに差し出す。
押しが強い。
ここはハーブティー専門店ではなく、あくまで薬屋なのだが、どうもこの客は勘違いをしているらしい。最初にハーブティーを出してしまったことが間違いだったか。
引く気のなさそうなディートリヒの様子を察して、シェリルは諦めて要望に応えることにする。
「マドレーヌもメレンゲクッキーも、甘さがあるものにななりますので、合わせるお茶は爽やかな風味だったり、香りが控えめの茶葉がよろしいかと。そうですね……」
シェリルの頭の中でいくつか候補が浮かんだ。その中で、最近仕入れた珍しい茶葉がある。
見た目も綺麗で菓子に併せるのに向いているが、如何せん値が張る。なのでシェリルの趣味で終わらせるつもりだったが、目の前の客は上客だ。売れる。
「なにかいい茶葉が?」
「ええ、ございます。少々お待ちください」
素早く立ち上がり、奥に引っ込んだ。
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