第5話
ディートリヒを見送って、扉に下げている札をひっくり返した。店じまいの合図だ。
シェリルは店の中へ引っ込み、内側から鍵をかけて仮面を外す。ふう、と小さなため息がこぼれた。自分が思っていた以上に、ディートリヒの来訪には気が張っていたらしい。
「どうしてここを……」
シェリルの呟きは、誰もいない静かな店に溶けていった。
一体何があって、ディートリヒはこんな町外れの寂れた薬屋を気に入ったのだろうか。やけに効果を気にしていたが、シェリルが出しているのはごく普通の、その辺の薬師が出している薬と変わらないはずだ。多少、分量の差はあると思うがその程度である。
それが他の薬師との違いだというのであれば、たまたまちょうど良い分量を当てたというだけだろう。
外した仮面を壁に掛け、裏口に回る。シェリルは店に来るときも帰るときも、この裏口を使っている。もともと人通りの少ない場所だが、裏口から繋がる道は更にひっそりとした場所に出る。おかげで、誰にも正体がばれずに済んでいるのだ。
「ミュリィ、遅くなってごめんね。戻ろうか」
屋敷から店までは距離があるため、シェリルは馬を使って行き来をしている。裏口を出るとちょっとしたスペースがあるので、馬を繋ぐ小さなガレージにしている。
ガレージでしずしずと水を飲んでいた馬に声をかけると、返事をするように顔を上げる。シェリルの愛馬、ミュリィだ。
スカートをたくし上げてまたがると、ミュリィは心得たように屋敷に向かって走り出す。
びゅうと冷たい風がすり抜けていく。暖かくなっていく季節とはいえ、夜はまだ冷える。ぶるりと身体を震わせながら、伯爵邸を目指す。
空を見上げれば、ちらちらと星が見え始めていた。
すっかり暗くなっているが、シェリルの不在を心配する者は屋敷にはいない。いつも出かけているからまたなのだろう、という認識ではない。
本当に、いないものなのだ。
シェリルが魔法を使えないと分かったときから、シェリルには家族がいなくなった。虐待されているわけではない。家を追い出されたわけでもない。だって、ソワイエ伯爵家が血の繋がった娘を虐待したとか、年端もいかない少女を追い出したとかだと、外聞が悪いから。
ならばどうするか。徹底的に見えない存在にした。
朝、すれ違っても挨拶もしないし目もくれない。朝食の席には、父と母と兄と弟の四人分だけが当然のように並ぶ。
シェリルは伯爵家の中で透明人間になったのだ。
とはいえのたれ死なれてはたまったものではないので、一部の使用人には世話をするよう指示がいっているらしい。部屋に食事は運び込まれてくるし、湯浴みもできる。服も質素ではあるが何着か用意されている。おかげで最低限の生活に困ることはない。
だから、シェリルがいようがいまいが、屋敷はいつも通り。
周囲から万が一目を付けられることがあっても、魔法も使えないできそこないにもかかわらず放り出したりせず大切に育てる、慈悲深いソワイエ伯爵家のできあがりだ。外聞を気にし、保身に走る。虫唾が走るような偽善精神だが、そのおかげで生きることに苦労せずにいられるものまた事実。
こんな扱いを受けるのは、魔法が使えないのが悪い。当然の結果なのだ。住む場所、食べるもの、生活ができるだけでもありがたい。
シェリルはそう思うようにしている。
ただしひとつだけ、シェリルが透明人間から伯爵家の人間になるときがあった。
レナだ。幸か不幸か、ネルヴェア伯爵令嬢がシェリルのことを気に入っている。将来は魔法連合会の就職も期待されている優秀な魔術師である。この繋がりを使わない手はない。
レナの訪れる日だけ、シェリルはソワイエ伯爵令嬢になる。
だからといってレナの存在に感謝したことはないが、レナのことは嫌いではない。一方的に複雑な心境を抱えるいびつな関係の幼なじみ。そういう繋がりだった。
ミュリィをしばらく走らせれば、大きな屋敷が見えてくる。ソワイエ伯爵邸だ。いくつかの窓から明かりが漏れている。
大きな門の前まで来るとシェリルはミュリィからひらりと飛び降り、重たい鉄扉を身体全体を使って押す。金属の重厚な音が、鼓膜を震わせた。愛馬を先に入れ、自分もするりと滑り込む。シェリルの力では大きく開けられないし、そう長い時間持たない。
はあ、と肩で大きく息を吐いてから、ミュリィを馬小屋へと戻す。
自分も部屋に戻ろうと、玄関の扉を開いた。開いた状態のまま、固まった。
「遅かったじゃないか、シェリル」
「お、とう様……お母様も」
予想しなかった出迎えに、シェリルはたじろいだ。
普段であれば、シンとした静かな空間がシェリルを出迎える。時には真っ暗なホールに迎えられたことだってある。
つまるところ今日は、父と母が玄関ホールで娘の帰りを待っていた。
母は心配そうにシェリルに駆け寄り、冷えた両手を温めるように握った。
「寒かったでしょう。部屋を暖めているわ。早くお入りなさい」
「は、い……」
半ば引きずられる形で、部屋まで連れて行かれる。部屋は暖炉がついていて、夜の空気を纏った身体を溶かしてくれる。
「ネルヴェア伯爵家から、シェリル宛に夜会の招待状が届いたの。もちろん、父様と母様、も同行するわ」
「噂によると、レスター侯爵家にも送られたらしい」
どくんと心臓が大きく鳴った。この人達の今回の目的は、そういうことだったか。
レスター侯爵家。レナが招待状を送っているなら、ディートリヒの手元に届いているはずだ。
「あのディートリヒ様も、参加なさる可能性がある。これを逃さない手はない!」
「可愛い私の娘だもの、見初められてしまうかも。当日は張り切っておめかししなきゃね」
ワハハ、ウフフという耳障りな声が、部屋に響く。
暖かい部屋のおかげで身体は温まったが、反対に心はどんどん冷えていく。
(見初められるかも、ですって?)
何をふざけたことを。自分たちが散々蔑ろにしている「できそこない」に、天才魔術師がひとかけらでも意識を向けると思っているのか。だとしたらよほどおめでたい頭を持っているようだ。
いや、大して期待などしておらず、これからますますの隆盛が期待される侯爵家との繋がりを持つことが目的か。
どちらに転んでも、ソワイエ家にとってはおいしい展開だ。吐き気がする。
何も言わない娘を気にした風もなく、母は招待状を握らせた。
「参加の返事、しておいてちょうだいね。家族も同行すると伝えるのも忘れずに」
「頼んだぞ。お前は、ソワイエ家の大事なひとり娘なのだから」
好き勝手言うと満足したのか、強欲な貴族は部屋を出て行った。大事なひとり娘におやすみも言わず。
シェリルはベッドに腰掛け、力が抜けたように後ろに倒れ込んだ。天蓋がシェリルをあざ笑うかのように見下ろしている。
「ディートリヒ様が、参加される」
将来は、レナと結婚をするらしい。結婚まではいかないにしても、できそこないのシェリルが入る隙はない。
皮肉なことに、貴族の名を持つシェリルよりも、素性も名前も不明の怪しい薬師の方がディートリヒの関心を引いている。
は、と乾いた笑いがこぼれた。
透明人間の方がいい。怪しい薬師の方が百倍いい。
魔法の使えない伯爵令嬢は、なんて惨めなのだろう。
握らされた紙に、皺が入る。
腹の中で渦巻く気持ち悪い感情から逃れるように、目を閉じた。
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