第3話 The End of the Loss

 「お兄ちゃん…!」

 「お兄ちゃん、ダメ! 死んじゃダメ!!!!!!」

 目の前に意識を失って昏睡状態の兄が真っ白なベッドに横たわっていた。

オーバードーズをしてしまったの?

薬はどれ?どれを飲んでしまったの?

風邪薬…頭痛薬…向精神薬????

どうしよう、薬を、くすりを、隠さなければ、隠さなければ…

今から隠してももう戻れない戻らない戻れない戻らない戻れない…!!!!


 「はっ。」

 起き上がればカーテンからまだ明るい日差しが差し込んでいた。

 「14時と数十分か。」

 今は、いつものように平日の日々を越えた後に訪れる土曜日の昼下がりだった。

先のことは、すぐに夢だと気が付いた。だって兄はオーバードーズなんてしたことなかったのだから。

 今よりも古いタイプの統合失調症の薬の副作用で、尿が出にくいとトイレに長めに籠もっていたり、呂律が回らなかったり、手が震えたり・・・

そんな症状にも耐えていつも生を渇望していた兄だった。

通信制の高校の勉強は拒否していたけど、パソコンで音楽を作ってみたり、ピアノをひたすら弾いていたり、生きることを諦めたことなんてなかった。

オーバードースをかつてしたのはわたしだった。

(こんなに胸が苦しいものなのね)

わたしは自殺して人を失う苦しみを味わった。まるで一生這い出ることのできない日差しを望めない深すぎる海底で苦い水を飲み続けるように胸がつっかえた。


 「もう(兄の)アルバムをとっておくことができない、月菜がやってね。」

 お母さんは、日常会話のなかでぼんやりと言った。

(・・・専業主婦なのに。)

真っ先に思う刺々しい胸の痛み。

そして兄のアルバムを引っ越して以来触れることができないのは、わたしも同じだった。

 母は確かにわたしが16歳の時にフリースクールに入寮するまで子育てしてきたし、その後も、家事や送り迎えをわたしができるようになるまでしてくれた。

今も夕飯は母が作ってくれた。キッチンが狭いからわたしが割り込むこともしにくいという言い訳もあるが。

だけど、わたしはお母さんは自由に生きてきたように思う。

今は家中に母の推しのアイドルのアルバムやグッズがあちこちに置かれ、そして四六時中アイドルの曲やらゴシップ動画を母はスマホで見ていた。


 そして父親の娘を可愛がるような笑顔も、今となっては気持ち悪い。

ただ、セクハラについてを10数年も謝らなかっただけでもうつなぎとめるものはない。与えてくれた家と、光熱費水道代と食事代の一部・・・といった山のように積もった父母の恩恵と性の恐怖は頭の中をいったりきたりして

理想の娘を演じることはもうないと思った。


 今年の遅き梅雨は、仕事からの帰り道のアスファルトを濡らした。

思い返せば、勤務中にもすでに雨は降り始めていて、窓辺にパッパッとかかってくる雨粒に、

 「ああ、雨だよ。足下を濡らしてかなわないね。」

 と父と同じくらいの齢の社員の宵野間よいのまさんがポツポツと言った。

 「今日はのきでお祭りがあるのにね。」

 と久礼和くれなさんも言った。牡丹ちゃんは首を長くして外の様子を見ていて、隣に一人、二人と社員さんも寄ってきて雨の具合を心配していた。


 やっと雨のことが気になりだしたわたしは、屋台の準備に行ったり来たりする別の部署の社員さんたちを窓から眺めた。キッチンカーは何台か並び、雨よけに張られたテントが見え、そしてほんのり唐揚げや甘いスイーツの香りが漂い始めていた。いかつそうに見える屋台のおじさんの輪郭がうっすら見えた。

 お祭りの時間になると、そっと勤務をおのおの抜け出して、さくっとお目当ての食べ物を買いに行った。

 胸中世捨て人のわたしは、また一つ言葉を重ねた。

 「もう、久礼和くれなさんもみんな買いに行ったよ。牡丹ぼたんちゃんも行ってこようよ。」

 わたしは頷くのも待たずそっとその場から立ち去った。

あまりにも信心深くもないのに尼のような心地で生きてきてしまったために、

ハッとなんか大事なものを忘れていることに気がついた。


 もう、鞄に貴重品をしまい始めている終業の時間、わたしは彼女にそっと言った。

 「お祭り始まってるよ!わたしもこんなに買ってきちゃった。18時までだから愛奈さんもぜひ!」

 焦点がずれたわたしの目に、お祭りの提灯行灯ちょうちんあんどんのようにゆらゆらと揺れた愛奈さんの輪郭が映った。


 「・・・何か落ちてるよ・・・。」

 娘に嫌われているのを察していた父はボソボソと窓に向かってつぶやいた。

わたしも窓を見た。濡れたアスファルト。わたしの軽自動車の脇にぼんやりと滲む布っぽいもの。

 (あ。)

 慌てて玄関を飛び出し拾い上げた毛布。水でどっぷり重くなっていたのをきゅっと絞り、大事に抱えて家に戻った。

ふたたび庭先を振り向く瞳は物置を捉えそして小さく願いにして自分に伝えた。

(わたしが、もう一度、お兄ちゃんのアルバムを触れてみよう。)

虫がわくまえにどうかどうか。

 

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人として生く 5 ――幻想と自然な情動 夏の陽炎 @midukikaede

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