第5話 寛朝、保憲らを頼みて、母を訪ねし語

          一


 この季節になると、いつも心が塞ぐ。

 光る風、萌える緑。春が終わり、夏へと、空も山も川も野も、人々の表情でさえ、全てが煌く爽やかな季節。けれど、自分だけは、一人取り残されたように、気持ちが晴れない。

(――母上……)

 北の対の前栽(せんざい)の、瑞々しい若葉を芽吹かせた庭木の下まで、母はわざわざ見送りに出てくれた。今生の別れではない。しかし、限りなく今生の別れに近い。出家とは、そういうことだ。父は、時折、この仁和寺を訪ねてくれる。だが、女人である母とは、会えない。十一歳の時のあの別れ以来、会っていない。こうなると分かっていて、それでも、母は、息子が、生きて、この世にできる限り長く在ることを望み、送り出した。

(母上、会えないのなら、生きていても、死んでいても、同じではないのですか……?)

 母に、会いたい。兄弟達に、会いたい。会いたい。寂しい。寂しさのあまり、恨んでしまう。呪ってしまう。家族から離れての、一人は嫌だ――。

「一昨日は、可愛い夏虫のこと、ありがとうございました。心より、御礼申し上げます。――それにしても、浮かない顔をしておられますのね」

 声とともに、気配が形を取り、菖蒲の香が微かに香って、壺装束の女の生霊が部屋の隅に現れた。唐突な現れ方にも、実体ではない姿にも慣れっこになった寛朝は、仰向けに寝転んだ姿勢のまま、女を見上げ、言葉を返した。

「三月(やよい)の下旬は、いつもこうだろう」

「御年十八歳で、まだ、お母様が恋しいのですか」

 市女笠の陰に見える、赤い唇が淡々と心の傷をえぐる。けれど、こういう反応にももう慣れっこだ。

「ああ、そうだよ!」

 寛朝は、怒りと悲しみを隠そうともせず、吐き捨てた。自分でも、煩悩に捕らわれていると、いつまでも執着を捨てられずにいると、分かっているのだ――。

「――なら、会いにゆかれませ」

 女が、さらりと言った。唖然として上体を起こした寛朝に、更に女は突き放すように促す。

「人は、いつまでも生きるものではありません。今生で会える内に、会っておかれませ」

 寛朝は、市女笠で半ば顔を隠した女を凝視した。会いになど、行ける訳がない。自分は剃髪した身であり、例え母であれ、女人に会いにいくなど、許されるはずがない。

「できもしねえことを……言うな」

「そう思っていらっしゃるだけで、できぬことではありませんわ。夜に抜け出すなど、もうお手のものでしょう。あなたに懐いている寺の童子達が、喜んで手を貸してくれる」

「だが、六条の邸に、そう簡単に入れる訳がねえ」

 寛朝は硬い声で反論した。父、敦実親王の邸である六条院(ろくじょういん)は、六条大路(ろくじょうおおち)と坊城小路(ぼうじょうこうぢ)とが交わる角にある。そこまで行くのは容易いが、門の中へは、入れない。邸の内へは、入れない。父宮や家人や下人達に、逃げ帰ってきたなどと、思われたくない。しかし、その心を読んだように、女が告げた。

「手を、お借りなされませ。あの、賀茂の者達に。一昨日の御恩返しをさせればよいのです。さすれば、見つからず、お母様にだけ会いにゆくことも可能でしょう」

 確かに、三十六禽その他を使う賀茂保憲や、あの小丸という少年の力を借りれば、可能だろう――。誘惑に心が乱れ、寛朝は生霊の女から目を逸らして、低く言った。

「――去れ」

 女は黙って消え、後には静寂と暗がりだけが残り、寛朝はどさりと再び寝転んだ。

 怪異が続いたのだと、聞いている。そして、それゆえに、自分は寺に入れられたのだと。

 母が寛朝を身籠った頃から、二歳年上の兄が熱を出して臥せったり、父宮の琵琶が壊れたり、母の夢見が悪かったりというようなことが度重なった。母は不安に駆られ、藁にも縋る思いで、ある日の夕方、腹心の女房に、夕占を聞きに行かせたのだという。すると、一人の女が通りすがりに、こう言った。

――「生まれてくる子には、前生からの呪いがかかっている。長生きしない上、周りに呪いを振りまくね。でも、童の頃から寺に入れたなら、全て良い方向へ巡って、その子も長生きするだろう」

 その女はそのまま通り過ぎていったが、女房が伝えたその言葉は、母の心に深く刻まれ、あの十一歳の日、彼は仁和寺へ預けられたのだ――。

「……母上……」

 顔を覆った袖の陰で、寛朝はひっそりと呟いた。閉じた瞼の裏に浮かぶ母は、いつも、悲しそうな顔をしている。あの別れの日もそうだった。

 瑞々しい若葉を芽吹かせた庭木の下で、母はじっと悲しみに耐える顔をして寛朝を見送った。光るような風に、母の美しい黒髪がなびき、その頭上に伸びた枝も、柔らかな若葉を震わせて同じように揺れた。そう、あれは、楓と桜だった――。


          二


 その文が届いたのは、三月十九日の酉の二刻、雨風が吹く中だった。応対したのは、ひぐらしである。

[今宵、行く。善良で人情の厚い風俗が懐かしい。忍びだから、忠行にも知らせるな。ほんのちょっと、世話してくれたらいい 寛朝]

 文使の中童子は、返事も待たず、仁和寺へ帰ってしまった。

「ごめんなさい。あまり突然だったから、引き止めることもできなくて」

 事の顛末を説明したひぐらしが、寝床で上体を起こして文を読む保憲を、傍らで心配そうに見守る。

「……相変わらず、一方的で、よく分からない奴だ」

 小丸が横から覗いて呟くと、保憲は文を畳んで、隅に控えた白君を振り返った。

「これを仕舞ったら、夕食の支度を」

 式神の白君は、心得た動きで文を受け取ると、厨子の上段に置いた文箱(ふばこ)へしまい、下屋へと姿を消した。

 三月十六日の夜に葛城山から帰ってきて以来、臥せって出仕もしていない保憲は、疲れた様子で莚に横になって、衾を被り、枕へ頭を乗せる。神にかなりの間憑かれていて、死にかけたのだから、まだ体がつらいのだろう。

「……無理するなよ」

 小丸が我慢できずに言うと、保憲は微笑んだ。

「もう殆どいい。心配いらない。そう長い間出仕を休む訳にもいかないしな。おれの席がなくなってしまう」

「けど、おまえが纏ってた一言主の力は消えて、ばれ易くなってるかもしれないんだろう? 無理して行かないほうがいい」

 一言主が七年前に言い放った言葉は、十六日の日に一言主が改めて言い放った言葉に相殺され、お陰で保憲は助かった。しかし、そのために、七年前から保憲を守ってきた、「これから新たに会う人には、誰であろうと女子とは悟られぬ」という一言主の言葉の力まで、消えてしまっているのだ。一言主の力は全て相殺されたので、今まで欺いてきた周りの人全てに、たちどころに女と悟られるということもないらしいが、ばれ易くなっているのは確かである。

「分かってる」

 保憲は、あくまで穏やかに答えた。ずっと纏ってきた一言主の力が消えてから初めて出仕することについて、緊張や不安はないのだろうか。

(おれがずっと騙されてたのも、一言主の力のせいだろうしな……)

 五年前に初めて出会ってから三年の間、小丸も保憲を男だと思わされていた。その力が、消えたのだ。

「とにかく、食べて元気にならないといけないわね」

 ひぐらしが言ったところへ、白君が三人分の夕食を器用に運んできた。

 足付の折敷に乗せられているのは、笥(け)に盛られた固粥(かたかゆ)、金椀に注がれた精進物(しょうじんもの)たる芹の汁物、盤(ばん)に盛られた合わせの鹿肉(ししにく)の煎物(にもの)。これらの食べ物は、邸の北の築地の内側に沿うように建てられた下屋の厨(くりや)で調理されている。見えたり見えなかったりする白君を恐れる下人達も、いい加減、空中を運ばれていく折敷には慣れたことだろう――。

 再び上体を起こして、傍らに置かれた足付の折敷に向かい、保憲が食事を始めたのを見てから、小丸も柳の箸を持ち、まず鹿肉の煎物を口へ運んだ。

 煮ても焼いても旨い鹿肉や猪肉は、干物(からもの)の鹿脯(しかほじし)や猪脯(いのししほじし)としてよく出回っている。仏教の教えにより、食べた当日の参内は許されないとされるものだが、精がつく食べ物であることは確かで、まだ出仕を見送っている保憲のために用意されたものだろう。昨日は五臓を補うと言われる薯蕷粥(いもがゆ)が出ていた。ひぐらしが相当保憲の体調に配慮して食材を調達しているのだ。

「――どう考えても面倒事だが、おまえはどうする? 嫌なら、関わらなくていいぞ?」

 やがて食べ終えた保憲に問われて、それよりも早く食べ終えていた小丸は眉をひそめた。

「おまえは、関わるつもりなのか?」

「世話になった借りは返したい」

「なら、おれがやる。あいつが来ても、おまえは寝ていろ」

「いや」

 保憲は首を横に振る。

「明後日からは出仕しようと思うからな。きっといい肩慣らしになる」

「おまえ――」

 言いかけて、小丸はその先の言葉を飲み込んだ。言っても無駄なのだ。保憲は、意外に頑固で、言い出したら聞かない。

「分かった。但し、おれもついて行く。それと、無茶はするなよ」

「ああ」

 保憲は悪戯っぽく笑うと、立ち上がって、枕元の几帳に掛けてあった着替えの衣を取り、三人分の夕食の器を捧げ持った白君とともに、下屋のほうへ歩いていった。久し振りに湯浴をしに行ったのだ。

「あの子、何だか前より少し、物柔らかくなったわね」

 ひぐらしが、保憲の背を見送って、ぽつりと言った。確かに、と小丸も思う。忠行のことについて、ひどく頑なな部分や、どこかしら、小丸を突き放そうとしていた部分がなくなったように感じる。

「葛城山で、何か悟ったのかもな」

 答えた小丸に、ひぐらしは微笑んだ。

「そしてあなたは少し、大人になった気がするわ」

「――それは、気のせいだ」

 憮然とした小丸を、ひぐらしは保憲そっくりの悪戯っぽい笑顔で見ていたが、暫くすると、真顔に戻って言った。

「寛朝様には、葛城山まで、あの子を助けに行って下さったこと、お礼を申し上げないといけないわね。差し上げられるようなものが何もないのが心苦しいけれど」

「物じゃなく、行動で返していけばいい。今宵のことも、返しになる。保憲も、そう言ってた」

「そうね」

 ひぐらしは頷き、呟く。

「でも、あの子が寛朝様の御用件に乗り気なのは、ただ御恩返しをするためだけではなくて、わたくし達のお母様と寛朝様との関わりや寛朝様の境遇に、思うところがあるせいだと思うの」

(寛朝は、あの市女笠の女――保憲とひぐらしの母親に言われて、おれとともに葛城山へ行き、あの布衣の片袖を幣にして、保憲を助ける手立ての一つにしてくれた……)

 三月三日、五条第で、保憲が小丸に告げた推測は、事実だった。

(それにしても、何で、あいつはあんなところまでついて来て、助けてくれたんだ……?)

 保憲達の母親に、何か弱味でも握られているのだろうか。だが、あのあっけらかんとした態度を思い返すと、そうは思えない。

(ただの善意か……?)

 僧なのだから、あり得ないことではないが、そう単純なことではない気がする。

「もしかしたら、今度のことも、あんた達の母親が関わってるのかもな……」

 呟くように言って小丸は立ち上がると、少しばかりひどくなってきた雨風を遮るため、早々と上格子を下ろし、簾と壁代も下ろしながら、ちらと厨子の上段の文箱を見遣った。寛朝の文の内容は、何らかの含みのあるものだった。保憲も食べながらその内容を考えていたのだろう。

(「善良で人情の厚い風俗が懐かしい」……? 一体何が言いたいんだ、あいつは……)

 頬に格子越しの風を感じながら、小丸は眉根を寄せた。


            ◇


「来た。もうすぐ西(にし)門だ」

 亥の時になって、白君がすっと立ち上がった。西の棟門近くまで、寛朝が来たのだ。

「夏虫、起きろ。築地の外で車から降りる気だ。音が止まった」

「さすがにお忍びだな」

 仮眠していた保憲は、呟いて起き上がると、几帳の向こうへ回って衣を整え直し始めた。普通は、牛車を築地に設けられた門の中へ入れ、中門の車寄のところで停めて降りるものだが、寛朝は、それを控えたらしい。

「おれが先に行って西門を開ける」

 小丸は保憲が几帳の後ろから出てくるより早く、妻戸を開けて、外へ出た。雨風は止んで、厚い雲も消え、空は晴れて、薄い雲が流れる間に寝待(ねま)ちの月が出ている。門衛などは置いていないが、さすがの寛朝も迎えがいなくては入りづらいだろう。保憲の手間を少しでも減らそうと、小丸は中門の南廊を飛び越え、一足飛びに西の棟門へ行った。

 門を開けると、寛朝は、袈裟を着ず、袍と裳と袴も着崩した姿で立っていた。墨染の袍の袖が闇に溶けそうな風情で、夜風にひらひらと揺れている。

「よう。三日振りだな。保憲は大丈夫か?」

 寛朝の口調は相変わらず明るかった。しかし、表情や体の動きに、二月晦日や一昨日のような、切れのよさや不敵さがない。何かが、翳っている。

「ああ。とりあえず、入れ」

 短く答えて、小丸は先に立ち、少年僧を賀茂邸の敷地内へ入れ、西の中門で高足駄を脱がせて邸へ上げた。西の対の南廂で出迎えた保憲は、丁寧に先日の礼を述べた。

「先日は、お助け下さり、ありがとうございました。今夜は、御恩返しをさせて頂く所存です」

「元気そうで何よりだ」

 どこか硬い表情で応じた寛朝は、招じ入れられた保憲の部屋の母屋で、白君が出した円座に腰を下ろすなり、切り出した。

「で、文に書いたこと、頼めるか」

「六条へ、ですね? 方違(かたたがえ)は大丈夫ですか? 仁和寺からそちらへは巽(たつみ)に当たりますが、今は王相が東と巽にいらっしゃいます」

 つまり、寛朝が行こうとしているところは、六条の中でも、仁和寺から巽――東南の方角にあるということだ。

「ああ、問題ない。昨夜は、石清水(いわしみづ)へ遊びに行って、今日はそこから来たからな」

 石清水とは、京の南の男山にある石清水八幡宮(いわしみづはちまんぐう)のことである。日本の神は本地である仏や菩薩が姿を変えて迹(あと)を垂れたモノとする、本地垂迹説(ほんぢすいしゃくせつ)に基づく神仏習合のため、神社に僧侶がいるのは一般的なことである。寛朝のいる仁和寺と岩清水八幡宮とは繋がりが深いとも聞いたことがある。が、小丸は、先日、葛城山への往復の殆どをともに走った寛朝の姿を思い出し、顔をしかめた。

(こいつ、まさか走って行ってきたんじゃないだろうな)

 この普通ではない少年僧に限っては充分あり得る話だが、今は門前まで牛車で来ていたことであるし、それはないのだろう。

「分かりました。では、庭へお越し下さい」

 保憲は全て承知しているというふうに応じて、庭へ下りていく。寛朝はすぐに腰を上げ、保憲について庭へ下りていった。小丸はすかさずその足元へ、西の中門から持って来た高足駄を置いてやった。

 月の光が仄かに照らす庭で、亥の時の魔物、豕と鼬と猪を呼び出した保憲が、こちらを振り向いた。

「どれがいいですか」

「その鼻の長い奴だ」

 寛朝は、迷わず豕の背に乗った。猪とあまり変わらない、尖った顔をした獣だ。

「なら、小丸はおれと猪だ」

 保憲が続けた言葉に、小丸はきょとんとして、鼬に乗ろうとしていた体の動きを止めた。残る鼬と猪の内、どうせ二人でそれぞれに乗るのだろうから、乗り心地のまだましな猪を保憲へ譲ろうとしたのだったが。

「そんなモノに乗ったら、舌を噛むぞ」

 保憲は呆れたように言って、先に猪の背へよじ登り、跨ると、小丸へ手を伸ばしてくれた。身軽な小丸に、そんな必要はないと分かっていて、敢えて差し出された手。ふと、葛城山からの帰り、保憲に耳元で「ありがとう」と囁かれ、蹴躓いて転びそうになったことを思い出して、顔が熱くなる。微妙に視線を逸らしながら、保憲の手を握った小丸は、一息に、ごわごわした毛で覆われた魔物の背へと上がった。

「いやあ、しっかし、さすが、学者の家の人は違うねえ! 六条だと、すんなり分かってくれて、嬉しいぜ」

 邸の築地を跳び越え、富小路(とみのこうぢ)を下り始めた魔物の背で、寛朝が感嘆の声を上げた。何故、六条なのか、何故、六条へ行くのか、まだ分からない小丸は、すぐ前にある保憲の背中を見つめる。魔物達を淀みなく走らせながら、保憲はよく通る声で淡々と応じた。

「『善良で人情の厚い風俗』とは漢語で淳風。淳風坊(じゅんぷうぼう)といえば、左京の六条大路の別名ということぐらいは、存じております。それに、あなた様が六条の式部卿の宮様の次郎君ということも、存じておりますので」

「――なら、話が早いな」

 ふとまた、持ち前の笑みを翳らせて、寛朝は声を落とす。

「おまえの察した通りさ。ちょっと、里帰りがしたくなってな」

 保憲は、何も答えない。寛朝も、それ以上は何も言わず、魔物達の蹄や爪が小路を蹴る音だけが、低く重く、小丸の体に響き続けた。

 やがて、六条大路に出ると、保憲は魔物達の鼻を西へ向けさせ、坊城小路へと走らせた。一品式部卿の宮の邸が六条大路と坊城小路が交わる角にあることは、周知の事実である。

「――さて、どのようにして、中へ入りますか」

 邸の築地を前に、保憲が問うと、寛朝は緊張した面持ちで、一言言った。

「密かに、頼む」

「分かりました」

 保憲は答え、魔物達を跳躍させた。築地を越え、次の跳躍で中門の廊も越えさせて、一気に中庭への侵入を果たす。そこで魔物達をじっとさせて、保憲は寛朝を振り向き、小声で問うた。

「どなたかに、お会いになられますか」

 寛朝は、中庭の池の向こうに見える寝殿や対の屋の燈籠へ視線を注いで、暫く黙った。庭に焚かれた篝火の数は最小限で、特に客人がいる気配もなく、管弦や詩歌などの宴がある様子もなく、邸は静かだ。夜風が柔らかに池の上を吹き渡り、寝待ちの月を映した光る細波(さざなみ)を立てる。

「……母上に、会いたい」

 ぽつりと、寛朝は呟いた。


            ◇


(母上、母上、母上――)

 二度と会えないかもしれないと思っていた母に、今、会いに行こうとしている。しかし、魔物の背に乗って来る間、寛朝の心を占めていたのは、歓喜よりも不安だった。

 寛朝には、一人の兄と、三人の弟がいる。二歳年上の兄は、童名を楓(かえで)といったが、元服して、寛信(ゆたざね)という名で、侍従を務めていると聞く。四歳年下の弟の桜(さくら)は、元服を前に、せっせとあちこちの集まりに出ているという噂だ。幼い頃から勤勉な性質の弟は、源(みなもと)の氏を賜って臣籍に下る、ほぼ確定的な未来のために、顔と名を売っているのだろう。六歳年下の葵(あおい)は、今年十二歳。さぞ大きくなったことだろう。そして更には、寛朝が出家した時、まだ生まれてもいなかったので、顔も知らないが、十歳下、今年八歳になる弟もいるという。それだけ息子に恵まれれば、母は、もう寛朝のことなど、他所へやった子として、気にもしていないかもしれない。いきなり訪ねていっても、戸惑われ、迷惑がられるだけかもしれない――。

「お母上のお住まいは、どちらですか」

 保憲に問われて、寛朝は躊躇った挙句、低い声で答えた。

「変わってなけりゃ、北の対だ」

 迷惑がられても、それでも、一目、会っておきたい。思い立った今、会っておかなければ、必ず後悔することになる。

「では、行きましょう」

 保憲が囁くように言い、人間を乗せた二頭と何も乗せていない身軽な一匹は、足音を立てず、静かに北の対へと歩き始めた。

 篝火の近くには、少数ながら、警護の侍(さぶらい)達がいる。

「魔物は、常人の目には見えなくできます。見えなくなった魔物に触れたまま、その陰にいれば、見つかることはありません」

 保憲の密やかな指示に従って、寛朝と小丸はそっと魔物から降り、その陰に隠れて歩いて、侍達の目を誤魔化した。三人はそのまま寝殿と東の対とを繋ぐ渡殿の下を潜る。

「問題は、北の対のどこにいらっしゃるか、どこから入るか、ですね」

 北の対を目の前に、保憲が呟いた。いざとなれば、あの白君とかいう、主そっくりの式神を呼び出して探らせることもできると言いたいのだろう。

 寝殿とほぼ同じ構造、規模で、ただ屋根だけが破風(はふ)を入れて二方葺き卸しになっている対の屋は、静まり返っている。

「――多分、ここだ」

 寛朝は小声で言って、北の対の東の坪に植わった前栽の中へ分け入った。変わっていない。幼い頃、危ないと言われながら、女房らの隙を見て登った楓に桜。その根元の辺りには葵が茂り、その先には、大きな甕を埋めて造られた、こぢんまりした池があって、月明かりの下、蓮が浮いている。変わっていない、母の祈りが籠った庭。否、柳(やなぎ)が、新しく植わっている。きっと、新しい弟のためのものだ。

――「この庭には、そなた達とこの母との繋がりがあるのです。そなた達をそれぞれ身籠った時に植えた木や草の近くに、そなた達の胞衣(えな)が、大切に埋めてあるのですよ。そなた達の童名も、それらの木や草から付けたものです」

 母が語ってくれた言葉が、耳の奥で温かく蘇る。母の優しく寂しげな横顔が、瞼の裏に蘇る。胞衣とは胎盤。母と子の、切っても切れぬ絆が、ここにある。寛朝は無言で坪を過ぎって、高足駄を脱ぎ、簀子へ両手を置くと、そっと地面を蹴って上がった。次いで東南の妻戸へ忍び寄り、耳を当てる。声が上がったのは、突然だった。

「寛朝様!」

「兄上?」

 低く叫んだのは保憲、その声に重ねて、驚いた声を上げ、南の簀子で足を止めたのは、細長の袍を着て鬟を結った少年である。

「おまえ、桜……」

 父からは桜丸(さくらまろ)と呼ばれて可愛がられ、乳母や女房や家人からは、桜君と呼ばれて愛されていた、聡明で、美しい顔立ちの弟。

「兄上、何故ここに……と言っている場合でもない、まずは中へ」

 半分一人で呟いて、桜は、寛朝の袍の袖を引っ張り、無造作に妻戸を押し開ける。掛金は掛かっていなかった。

「今宵は父上も寛信兄上も内裏で宿直(とのい)をなさっているのです。そこで、われら兄弟も母上の許で宿直をしようと、集まることにしていたのですよ。この時期、母上はいつも沈んでいらっしゃるので……。そこに、まさか、蓮(はちす)兄上がいらっしゃるとは……」

 説明しながら、桜は寛朝を廂へ引っ張り込む。几帳を回ったそこには、母付きとして覚えている一人の女房に守られるようにして、二人の少年が、目を丸くして立っていた。女房を押し留めるようにして円座から離れ、一番手前に立っているのは、葵だ。顔に、微かな覚えがある。その後ろ、女房の右手に縋りつくようにしている小さな少年は、きっと一番下の弟だ。

「葵、柳(やなぎ)、四条(しじょう)、心配ない」

 二人の少年と女房に声をかけてその間をすり抜け、桜は母屋の簾に近づいて言った。

「母上、蓮兄上が、お忍びでいらっしゃいました」

 どくん、と寛朝の心臓が鳴る。簾の向こうに母がいる。自分は、ここまで来てしまったのだ。

「……蓮」

 懐かしい声が、呟くように、懐かしい名を呼んだ。いずれ寺に入れると決めた子に、両親がつけた童名。

「……母……上」

 寛朝は、咽の奥から乾いた声を搾り出した。

「蓮、本当に……?」

 簾が揺れ、下に白い指先がちらりと覗く。

「蓮、蓮……、こちらへ……」

 女房の四条がすすと素早く袴を捌いて動き、簾を持ち上げて、母のいる内側へ入る。その一瞬に、暗がりの中、衾を被って横たわった白い人影が見えた。

「母上……」

 一歩、簾のほうへ歩みかけて、寛朝は、ぐっと堪(こら)え、その場に膝をつき、腰を下ろす。丸めた頭(こうべ)を垂れて、低い声で言った。

「すみません、母上。思いが募り……来てしまいました……」

「もう少しこちらへ……、簾の傍まで、お越し下され」

 母の声が、静かに呼んだ。寛朝は一瞬躊躇したが、黙って、ずるずるといざって、簾のすぐ傍まで進んだ。簾の内から懐かしい匂いがする。母が使っている、懐かしい薫物(たきもの)の匂い。

「――わたくしのことを、恨んでいるのではありませぬか……?」

 簾のすぐ向こう側から、母の声が弱々しく問うた。息遣いさえ聞こえそうなその近さに、胸が詰まる。

「――いいえ……」

 寛朝は俯き、掠れる声で否定した。本当は恨んだ。恨んだが、それは、恋しさゆえだ。

「……ただただ、恋しく懐かしく……、それでも、会えぬものと懸命に諦めておりましたが……、ふと今生では最早会えぬかもしれぬと考えると……、つい心弱く、出家の覚悟も忘れてこのように……。御仏(みほとけ)にお仕えする者として、恥ずかしい限りです……」

「いいえ、そのようなことは、ありませぬ」

 きっぱりとした声に続いて、簾の端が、内側から、女房の四条によって持ち上げられる。その下を潜って、母が姿を現した。ゆったりと袿を纏っているが、今まで臥していたためだろう、髪に乱れがある。母は静々と袴を捌いて間近まで来て、寛朝の硬く握った右の拳を、柔らかな両手で包み込んだ。寛朝の顔を覗き込んだ切れ長の両目には涙が溜まっている。記憶の中で、朧になりかけていた、懐かしい顔だ。

「悪いのは、この母です。心弱いのは、この母です。そなたには恥ずべきことなど、一つもありはしませぬ」

 母は俯いて、両手で包み込んだ寛朝の拳に、ぽたぽたと涙を零す。

「少しばかり気が滅入ったというだけで、床に着き、そなたを思い出しては泣き、薬も咽を通らず、鬱々と過ごしてしまう、この心弱い母が悪いのです。その心弱さを、御仏が哀れに思われて、このようにそなたを遣わして下すったのでしょう」

 肩を震わせ、喜びの涙を流す母を、その顔を、今度こそ忘れまいと、寛朝はじっと見つめた。

「母上、御仏のお慈悲にて、蓮兄上が来られたのです。どうかここは、御仏への感謝を示すためにも、お薬をお飲み下さい」

 そう言って、すかさず桜が小鉢に入れた丸薬を差し出した。呵梨勒丸(かりろくがん)という、よく飲まれる薬だ。桜は、さすが、なかなか抜け目のない人間に成長したようである。

「そうですね……」

 母は頷き、四条に目配せした。四条は心得て、簾の奥へ一旦下がり、半挿(はんぞう)にでも入れて用意してあったものだろう、水を椀(まり)に満たして捧げ持ってきた。母はその水で、呵梨勒丸を呑む。その様子を見守る、桜の横顔が、ほっとしている。冷静でありながらも、心底、母を心配していたのだろう。この弟と、兄の楓――寛信が傍にいるなら、母は大丈夫だ。

「母上……」

 つい、声が湿っぽくなる。

「お顔を拝見できたからには、思い残すことはありません。すぐにお暇致します」

 無理矢理視線を逸らし、外へ戻ろうとした寛朝の手を、母が強く握った。

「まだ、宵です。暫く、暫くの間だけ、ここに――」

「外の従者は大丈夫ですか」

 桜が確認してきた。本当に、しっかり者になったものだ。

「ああ。暫くなら、待っててくれる」

 寛朝は、ここへ来て初めての笑みを浮かべ、改めて、母と弟達を見た。


            ◇


「無事、会えたみたいだな」

 前栽に植えられた柳の陰で小丸が呟くと、幹を挟んで隣に立つ保憲は、うっすらと微笑んだ。垂れ下がった柔らかな枝葉(えだは)の陰の中、僅かに届くあえかな月明かりに浮かんだその横顔に、小丸はふと見入ってしまう。そんな眼差しに気づいてか気づかずか、ちらと小丸を見て、保憲も呟いた。

「やっぱり、おれ達に似てるからな。ここまで来たのが、無駄にならなくてよかった」

 ああ、そうか、と小丸は漸く納得した。親から捨てられたと、母が恋しいと、自分達同様、寛朝にも、そんな思いがあったのだ。あの尊大な態度の裏に、そんな寂しさがあったのだ。それが溜まり溜まって、「ちょっと里帰り」などしたくなったのだ。

 一刻ほどして、寛朝は大小幾つかの人影に見送られて、滑るように妻戸から出てきた。すっきりした顔で簀子から飛び降り、高足駄を履いて前栽の暗がりの中に入ると、袍の袖から数珠を取り出して両手に絡め、見送りの人影を振り向いて、丁寧に頭を下げて拝んだ。

「どうか、末永くお達者で。御仏の御加護があるよう、毎日、毎日、祈っております」

「そなたも、どうかお健やかでいらせられますよう。わたくしも、朝夕祈っておりますゆえ」

 応じた女の声に、深々ともう一度頭を下げて、寛朝は未練を断ち切るように踵を返す。

「待たせたな」

 保憲と小丸に歩み寄り、にっと笑った。

「では」

 保憲が間髪を入れず、前栽の外に再び三十六禽を呼び出す。時は子に移ったらしい、魔物は、鸞と鼠と蝙蝠が現れた。寛朝は無言で鸞に乗り、小丸は保憲に目で促されて、蝙蝠に一緒に乗る。鼠には姿を消させて、保憲は鸞と蝙蝠を静かに飛び立たせた。幾つかの人影は、まだ簀子にある。隣の鸞の上の寛朝は、首を回して、見えなくなるまでずっと、六条院の北の対を見下ろし続けていた。

 鸞は滑らかに、蝙蝠はばたりばたりと膜の翼を鳴らして、京の上空を、北を指して飛ぶ。

「仁和寺へ、直接お送りすれば宜しいですか」

 保憲の問いに、寛朝は明るさを取り戻した口調で答えた。

「ああ、頼む。おれの京中の夜歩きは、基本的に、行きは寺の牛車、帰りはいろいろだからな。近けりゃ徒歩だし、馬を借りて乗ることもありゃ、そこら辺の適当な奴に衣の一つもやって文使させて、改めて寺から迎えの牛車寄越させたり、時には魔物に乗ったり、な。この間みたいに走りまくるのは、例外中の例外。京の外へ出た時だけだ」

 全く、人を使うことに慣れきった上に、人を食った若君だ。それでも憎む気にならないのは、やはり、この少年僧に徳があるからなのだろうか。

(けど、まだ何か、翳ってる感じがする……)

 小丸は、寛朝の横顔を見つめて、眉をひそめた。

 やがて、月明かりに照らされ、ところどころに篝火などが見える地上の夜景の中に仁和寺が見えてくると、保憲は一羽と一匹の魔物をゆるゆると舞い降りさせ、門前から少し離れたところに、二月晦日と同じように着地させて寛朝を下ろした。

「世話になったな」

 寛朝も前の時と同じようにひらひらと手を振ると、門へと去っていった。

「……これで、少しは罪滅ぼしになったか。全く、母上の思うがままだがな」

 保憲が、少年僧の後ろ姿を見送り、ふと呟いてから、小丸を振り返る。

「さて、帰るか。姉上も、多分寝ずに心配してくれてる」

 疲れた声で言って、蝙蝠には姿を消させた。乗り心地が、鼬に負けず劣らず最悪だからだろう。

 今度は賀茂邸目指して舞い上がった鸞の背から、小丸は、仁和寺を見下ろした。腋門から門内へ入った寛朝の姿は、もう建物の中に入ったのか、どこにも見えない。明るい口調に戻りながらも、まだ残っていたあの得体の知れない翳りが、気にはなる。が、小丸が手出しできることでもない。

「……あいつ、大丈夫だろうな……?」

 すぐ前に跨った保憲に、問うともなく呟いてみると、一拍を置いて、答えらしき言葉が返ってきた。

「全ては、なるべくしてこうなったようだからな。あの人は、それほど弱くない」

「――そうだな」

 小丸は、保憲の背中を見つめ、全幅の信頼を込めて応じた。


          三


 壺装束の女の生霊は、寛朝の帰りを待っていたかのように、僧房の自室に腰を下ろした途端、すうっと現れた。やはり、そういうことだったのだろう。確信を持って、寛朝は女より先に口を開いた。

「あんたが、夕占で、母上に告げたんだろう?」

 女は、市女笠の陰で、息を呑む気配を見せたが、声は出さない。寛朝は座ったまま、女を睨み据えて、低い声で畳みかけた。

「見当はついてた。何で、おれのとこに現れるんだってのは、ずっと思ってたからな。けど、最初から全て仕組まれてたって訳だ。そもそも、おれが、この寺へ入ることからしてな!」

 寛朝が、まだ母の胎内にいた頃から、この女は、何らかの目的を持って、今日のこの状況を作り上げるために動いてきたのだ。

「二つだけ、訊く」

 寛朝は、声に力を込める。

「一つ。全ては、賀茂保憲のためなのか? 一つ。おれが長生きするために、出家することが必要というのは、本当のことなのか? ――答えろ」

「……手にかけていらっしゃるのは、蓮の種の数珠ですね。お母様が、お庭の蓮の種を集めて、一つ一つ糸に通して作られたものを、今夜、頂いたのですね」

 漸く話し始めた女を、寛朝はただ黙して見つめる。女は、市女笠の陰に見える赤い唇をゆっくりと動かして、言葉を続けた。

「わたしも、わが子に、自ら作った天児を残しました。母とは、そういうものです。わが子が、一番可愛い。けれど、夏虫のためばかりではないのです、決して。――あなたが、寺に入らなければ長生きしないというのは、本当のことです。力の強過ぎるあなたには――神に愛でられる性のあなたには、御仏の御加護が必要なのです」

「それだけ聞きゃ、充分だ」

 寛朝は、女のそれ以上の言葉を遮って、寝転んだ。

「多分、そうだと思ってたしな。おれも、いつまでも十一歳の童じゃねえからな。恨んじゃいねえよ。あんたの助言通り、今夜、母上にも会えたしな」

 女のほうを見ずに、ぶっきらぼうに言っている内、ふっと気配が近づいてきた。敢えて振り向かず、起き上がらずにいると、囁くように、間近で、女が言った。

「――ありがとう」

 直後、気配が消え、しんとなった部屋で、寛朝は頭から衾を引き被って、声を殺して泣いた。悲しいとか嬉しいといった単純な泣け方ではなく、ただただ、感情が揺れて溢れて、しょうがなかった。涙とともに、心身を覆っていた翳りのようなものが漱がれていく、そんな気がした。

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月と花 承平陰陽物語 @hiromi-tomo

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