第4話 葛城山の神、咒を恨みて祟りせし語
一
珍しく、保憲が酒を飲んでいた。三月十五日の望月(もちづき)の光が燦々と降り注ぐ南廂に、庭を臨んで座り、自分で提(ひさげ)から杯へ酒を注ぎ、ちびりちびりとやっている。いつもならいる白君は、気配も姿もない。いつもながらの遅い帰り、遅い夕食の後、いつもなら、六壬式盤を使った式占――六壬神課や、少しばかりの書き物などをして、そろそろ寝ようという時刻である。
「……何かあったのか?」
寝殿の裏にある下屋(しもや)で湯浴(ゆあみ)をして戻ってきた小丸は、眉をひそめて問うた。濡れた髪と、単衣と下袴だけを纏った体が、夜風に吹かれてさあっと冷えていく。下格子を一部取り外し、上格子も簾も壁代も上げたままなので、月明かりに浮かび上がった夜の庭が目の前に広がり、夜風がそのまま吹き込んできているのだ。
「おまえも飲むか?」
保憲は、南廂に座ったまま、振り向いて問い返してきた。部屋の中に燈火を置いていないので、振り向いた保憲の顔は、月光の陰になっていて、表情がよく読めない。とにかく頷き、小丸は保憲の傍らへ行って腰を下ろした。保憲は小丸を待っていたのかもしれない。そこには、ちゃんともう一つ、杯が置いてあって、小丸がそれを持つと、保憲が提を傾けて、無言で酒を注いでくれた。
酒を飲むのは、初めてではない。けれど、久し振りだった。ひぐらしも保憲もあまり酒は飲まないので、自然、一緒に住む小丸もそうなったのだ。
とろみと甘みと熱さが口の中に広がり、ごくりと一飲みにすると、咽を駆け下っていく。そうして一口味わっておいてから、小丸はもう一度問うた。
「何かあったのか?」
「――祝い酒だ」
内容とは裏腹な、硬い声で、保憲は答えた。青白く照らされた庭を見つめるその横顔も、心なしか、気落ちしているように見える。保憲が続けた言葉で、小丸はその理由を察した。
「今し方、寝殿から知らせがあった。真木様が、懐妊されたらしい。父上が占ったところ、恐らく男子だということだ。父上も、さぞお喜びだろう」
成るほど、そう言えば、先ほどから寝殿のほうが何やら騒がしい。ささやかな祝いの宴でもしているのだろう。
「弟か。螢が喜ぶな……」
小丸は敢えて、喜ばしいほうの思いを口にした。
「そうだな」
保憲は低い声で応じて、また一口、酒を呷(あお)る。
「これで、おれはいよいよ用済みだ……」
ぽつりと呟いた保憲を、小丸は驚いて見つめた。保憲が弱音を吐くのを、初めて聞いた。そういう思いを持ったのだろうとは思ったが、まさか小丸の前で口にするとは思わなかった。
確かに、新たに男子が生まれ、その子に見鬼の力があれば、忠行の期待は、その子へ移るかもしれない。今でも、忠行は螢にかなりの期待を寄せている。けれど――。
「男だとしても、おまえほどの力を持つなんてことは、殆どないと思うがな」
小丸は心底本気で言ったというのに、何故か、保憲はくすりと笑って否定した。
「おれの力なんて、本当は、大したことない」
「修行もしない頃から鬼が見えてたんだろう?」
「そんなの、おまえもすがるも螢もじゃないか」
「だが、おまえは、式神も使う、三十六禽だって使う、龍まで使う。咒も祝詞もたくさん知ってて使える。六壬神課も射覆もする。そこまでできる奴は、殆どいない」
「何としてでも、父上の役に立ちたかったからな……」
微笑みを浮かべて保憲は杯を干す。その、どこか苦い言葉に触発されて、小丸は問うた。
「何で、そんなに、忠行の役に立ちたいって思うんだ?」
「――言ってなかったか?」
意外そうに応じて、保憲は小丸を見つめ、それから庭へと視線を戻して答えた。
「母上に捨てられた――置き去られたおれと姉上を、見捨てず、男手で育てて下さったからだ。下人はいても、乳母までは雇えないうちのような家で、三歳と四歳の童を働きながら育てるのは、簡単じゃない。それでも、父上は文句一つ言わず、怒りもせず、母上に対する恨み言も言わずに、育ててくれたんだ――」
「……母親が出ていった訳は? 全く知らないのか?」
つい小丸が訊ねると、保憲は、珍しく刺々しい口調で言った。
「知らない。知りたくもない。今となっては、どうでもいい。おれ個人としては。……でも、姉上の母上でもあるから、もし、手掛かりがあったなら、とことん調べるだろう。調べて、姉上に伝えて……、その後は、どうするかな……。まあ、手掛かりなんて、もう見つけられないかもしれないけれどな……」
本当に、結論が出ていないような感じで、保憲は言葉を途切れさせた。やはり、いつもと違う。弟が生まれるという知らせのせいだけではないような感情の屈折が、保憲から感じられる。
「あまり過ごすなよ。今日のおまえ、何か変だ」
「そうだな……」
保憲は小丸の忠告を素直に受け入れ、杯を置くと、庭を見つめたまま、問うてきた。
「小丸、おまえ、もし、おれがどこかに行ってて帰れない時には、姉上や、すがるや螢、生まれてくる弟を、守ってくれるか……?」
「あ、ああ」
面食らって、小丸は答えた。保憲を助けるために、守るために、自分はここにいる。けれど、保憲の声があまりに真面目で、つい承諾してしまった。やはり、今日の保憲は変だ――。
「――そうか。ありがとう」
柔らかな声で礼を述べ、保憲は、おもむろに小丸を振り向いて、言った。
「久し振りに、一緒に寝るか?」
「な……」
何を言っているのだろう。そんなことは、久し振りどころか、出会った日以来だ。そもそも、保憲を女と知ってしまっている今、そんなことができる訳がない……。保憲と一つ衾を被ると考えただけで、一気に血が上ってきて頬と耳が熱くなる。
保憲の双眸にからかいの色が浮かんでいるのに気づいて、小丸は更に血が上ってくる顔を背け、急いで立ち上がった。
「下らないことを言ってないで、さっさと寝ろ」
言い捨て、殆ど逃げるようにして自分の曹司に入り、ぴたりと襖障子を閉めると、小丸は、下袴を脱ぐこともせず衾を被った。慣れない酒が入ったためだろう、顔から熱が引いていくに従って、すうと落ちるように小丸は眠りについた。
◇
晧々とした円い朧月の光の中を、生温い風が吹き渡ってくる。その風の中に、覚えのある気配が、ほんの微かにだが、漂っている。
(「下らないこと」か……)
小丸を自分の曹司に下がらせるため、口にした言葉だった。けれど、どこかで本音が混じってしまった。
(これで最後かもしれないから、結構本気で言ってしまったな)
もう一度、あの幼い日のように、小丸の体温を感じながら寝たいと思ってしまった。
(お陰で、効果抜群だ……)
複雑な忍び笑いをして、保憲は音もなく立ち上がった。逃げるように己の曹司へ入った小丸は、酒の力で、すぐに深い眠りに落ちた。これで、気配に敏い小丸を気にせず動ける。簀子のほうから、温い夜風が、急かすように、着慣れた布衣の袖を翻す。その布衣を脱ぎ、烏帽子も取って、代わりに、南廂の東の隅に用意しておいた浄衣と冠を身に着けた。次いで浄衣に包んで隠しておいた、天児の姿に戻している白君を手に取って、見つめる。
(七年間、世話になった。ありがとう)
母が唯一自分に残した物だったので、特別な思い入れを持って式神としていた。幼い頃去った母に、やはり、自分は未練があったのだ。傍にいてほしい。愚痴を聞いてほしい。小言を言ってほしい。叱ってほしい。そんな自分の思いで、天児を式神にして傍に置いてきた。だが、それも、今日までかもしれない。
(おまえを連れてく訳にはいかないんだ。保明親王の時と同じで、おまえは、おれが危なくなればまた、小丸達を呼ぶだろうからな。でも、これは、おれが一人で決着をつけるべきこと。もし、おれが戻れなかった時は、姉上や小丸やすがる、螢、新しい弟を助けてくれ)
姉の夢には現れ、小丸にも会ったらしい母にも、自分は会わずじまいかもしれないと思うと、今となっては腹立たしくも寂しい。しかし、契りは違えられない――。保憲は、白君を今しがた脱いだ布衣、烏帽子とともに南廂の東隅へ置き、下格子を外しているところから簀子へ出た。
「もう行くの?」
簀子の西の端から、密やかに姉の声がした。先ほど小丸が座っていた位置からは決して見えない、西南の妻戸の向こう、西側の簀子から、月明かりを受けて少しだけ姉の姿が覗いている。
「丸七年ののちまでという契りの日は明日。だからこそ、わざわざ呼びにいらしたのでしょう?」
保憲は静かに答え、足音を立てずに簀子を歩いて、姉の前まで行った。西南の妻戸のすぐ外に座った単衣姿の姉は、七年前と同様、悠然と微笑んで、保憲を見上げる。姉の微笑みではない。気配も変わっている。そして何より、その気配を保憲には知らせ、小丸には悟らせなかった。やはり、咒に縛られていようとも、神は侮れない。
「われは、急かしてなどおらぬぞ? 契りもそれほど細かくはない。永き時を生きる神にとっては、一日や二日、一瞬に過ぎぬからの」
姉に憑いた神の言葉に、保憲は険しく眉を寄せて応じた。
「いえ。もう金輪際、そのように姉上の体を使ってほしくはありませんからね。神に憑かれれば、人は著しく消耗するのですよ。――全く、母上といい、あなたといい、姉上を、己の都合で使い過ぎる」
「神を降ろせるとは、並々ならぬ力と称えられるべきことよ。だが、分かった分かった」
神は、保憲の怒りを楽しむように言葉を連ねる。
「おぬしがすぐに来るならば、この女にはもう憑かぬと言い放ってやろう」
「すぐに参ります」
「では、この女にはもう憑かぬ。山で待っておるぞ――」
神が去って、ぐらりと崩れる姉の体を保憲は抱き止め、傍らの妻戸からそっと中へ入れて寝かせた。姉の意識は暫く戻らないだろう。名残惜しさは尽きないが、そもそも、きちんとした別れなど、できるはずもない。余計つらいだけだ。
「姉上、わたし(、、、)の身勝手をお許し下さい。どうかお幸せに。今まで、ありがとうございました」
いつも傍にして、母がいない分を埋めるように世話を焼いてくれた姉に、精一杯の思いを込めて囁くと、保憲は再び妻戸から簀子へ出た。階のところで浅沓(あさぐつ)を履き、庭へ下りる。望月の下、見慣れた邸を一度だけ振り返り、そして前を向いた。
「みんな、行ってきます――」
口の中で呟いて、保憲は賀茂邸を後にした。
二
起きて!
誰かが近くで叫んだ気がして、小丸ははっと目覚めた。
(夢か……。女だったが、誰だ……?)
小首を傾げた小丸の耳に、母屋との間を隔てる襖障子がかたかたと鳴る音が響いた。辺りは暗く静かで、まだ夜だと分かる。風が強いのだろうが、それにしても、いつもより吹き抜けてくる感じがある。
(保憲の奴、あのまま酔いつぶれて、格子も簾も壁代もそのままにして寝てるんじゃないだろうな……)
ふと気になって、小丸はそっと、襖障子の向こうの保憲の気配を窺った。
(保憲……?)
気配がない。寝息どころか、何も感じられない。気配を消す修行のようなことをしているのだろうか。
(あいつ、様子がおかしかった……)
募る不安に負けるように、小丸は襖障子に手をかけ、音を立てないようにゆっくりと開けた。いつもなら、すぐそこに寝ているはずの保憲は、いなかった。莚や衾や枕すら、ない。つまり、今まで寝ていて、少しばかり厠(かわや)へ行っている、という訳ではないのだ。
(どこへ行ったんだ……)
襖障子を開け放ち、小丸は保憲の部屋へ入る。格子も簾も壁代も、全てそのままだった。小丸は部屋を突っ切り、月光が溢れた庭へ走り出た。保憲の気配はない。ふと、目の端に白っぽいものが見えて、小丸は南廂の東の隅を振り向いた。天頂にある望月の光が届かない陰に微かに見えるのは、畳んで置かれた保憲の布衣と、その上に置かれた烏帽子と天児に戻った白君。
「わたくし、どうして、こんなところに……?」
不意に、南廂の西側で声が上がった。南廂へ上がってそちらを見ると、白い単衣姿のひぐらしが、何かに驚いたように座り込んでいる。小丸が走った音で目を覚ましたのだろう。
「保憲が、いない」
小丸は、掠れた声で告げた。
二人で捜したが、保憲は、中門の廊にも、釣殿にも、厠にも、前栽にも、西の対のどこにもいなかった。こんな夜中に、寝殿のほうへ行っているとも思えない。気配も感じられない。
「後は、白君が式神に戻るのを待つしかないわね……」
再び南廂に座り込んだひぐらしが、ぽつりと言った。その隣に立った小丸は、己の単衣の懐に入れた天児を、そっと押さえた。保憲は、白君に酌をさせていなかった。白君を、意図的に天児に戻したとしか思えない。
「あいつ、様子がおかしかった。おれが湯浴を済ませて戻ってきたら、独りで酒を飲んでて、真木に子ができた、恐らく男だって知らせがあったって……、自分は用済みになるって、弱音を吐いてた」
「あなたもお酒を飲んだの?」
「ああ」
「それは、あなたを眠らせるためね」
「ああ」
小丸は確信を持って答えた。絶対に、保憲にはそういう意図があったのだ。ひぐらしは、冷静に分析する。
「布衣は畳んで置いてあったし、部屋の中が乱れている訳でもないから、突然何かが起こって、急いで出ていった訳ではないわ。でも、おかしなことがたくさんある……。こんな夜中に、わたくし達に何も言わずに、出ていったこと。式神の白君を置いていったこと。わざわざ、布衣から何かに着替えて出ていったこと。あなたにお酒を飲ませて、出ていくことを悟られないようにしたこと。そして――、わたくしがいつの間にか寝ていて、しかも、いたはずの母屋ではなく、南廂の西の端にいたこと」
「自分でそこへ行ったんじゃないのか」
小丸が驚いて見下ろすと、ひぐらしはきっぱりと言った。
「ええ。それは確かよ。それに、体が凄く疲れている。この疲れた感じは、覚えがあるわ」
ひぐらしは強い眼差しで小丸を見上げる。
「きっと……神が来たのよ」
告げられた事実に、小丸は瞬きした。
「神?」
「ずっと前にも、あったの。話すから、座って」
ひぐらしには珍しく強い語調で言われて、小丸が腰を下ろしたところへ、簀子から、ひたひたと二人分の足音が近づいてきた。前を歩いているのは、幼いほうだ。全く、何かあるとすぐ嗅ぎつけてくる。末恐ろしい童だ。
「螢、すがる」
困った顔をしたひぐらしに、三歳の童は真っ直ぐ歩み寄り、言った。
「ぼくも、聞いていい?」
重ねて、すがるが言った。
「お母様なら、大丈夫。ご懐妊の宴があって、よく眠ってらっしゃるから。それより、螢が、お兄様に何かあったって言うから、お母様達がおやすみになるのを待って、急いで来たの。何があったの、お姉様?」
ひぐらしはやや躊躇した様子だったが、すぐに決意した口調で告げた。
「保憲が、いなくなったの。小丸には酒を飲ませて眠らせ、白君をわざわざ天児に戻してここへ残し、わたくしにも何も告げずに、姿を消したの」
「そんな、どうして――」
絶句して、簀子に座り込んだすがるを傍らに引き寄せ、ひぐらしは言葉を続ける。
「保憲の行き先は、恐らく、葛城山。あの山にお住まいの一言主様と、わたくし達賀茂氏には、因縁がある。それは、知っているわね?」
螢もすがるもすぐに頷いた。小丸も知っている。有名な話だ。
葛城山の神の一言主が、最初に人々に知られたのは、雄略(ゆうりゃく)天皇の御代である。雄略天皇が葛城山に狩をしに行幸した際、天皇一行と同じ装束、顔ぶれの一行が現れ、怪しんだ天皇側が矢を射かけようとすると、全く同じように弓に矢を番(つが)えた。天皇が名を尋ねたところ、葛城山の一言主の大神と名乗ったという。その遙かのち、一言主は、役行者に命じられて、他の鬼神達とともに、葛城山と吉野の金峰山(きんぷせん)との間に岩橋(いわはし)を架けようとしたが、己の醜い姿を恥じて、夜しか働かなかったため、完成させることができなかったという。久米(くめ)の岩橋として、よく歌の題材にされる言い伝えだ。役行者は怒って、一言主を咒で縛って谷の底に置いた。一言主は、その恨みを晴らすべく、都の人に憑いて讒言し、役行者を陥れた。のちの大赦の折、役行者は赦されたが、その後も、一言主は役行者の咒に縛られたままであるという。そして、その役行者は、賀茂の役(え)の氏(うぢ)と言われるように、賀茂氏に連なる者なのだ。
「七年前の三月に、わたくしが気を失って、目覚めたら、ひどく体がだるいということがあったの。その後、急に保憲――夏虫が、葛城山へ修行に行くと言い出して。まだ十歳だったのに、お父様を説得して、葛城山へ行って、夏の終わりまで籠って修行してきたわ。帰ってきた時にはとても力が増していて、すぐに白君を式神にして、三十六禽も使えるようになっていた……」
「夏の終わりまでっていっても、三ヶ月ちょっとだよね? そんなに急に力が増すの?」
螢の問いに、ひぐらしは小さく首を横に振って話を続けた。
「わたくしも同じことを思って、保憲に――夏虫に訊ねたの。そうしたら、あの子、姉上に隠し事はできないと言って、あっさりと教えてくれた」
そもそも夏虫が葛城山へ行ったのは、一言主がひぐらしに憑いて葛城山へ来いと呼んだからだと。神の誘いを無視する訳にもいかず、夏虫が葛城山へ赴くと、一言主は取り引きを持ちかけてきた。夏虫の力を引き出す代わりに、役小角がかけた咒を解く法を学んできて咒を解けというものだった。力を引き出された夏虫は、咒を解く法を学ぶため京へ戻ったと語ったという。
ひぐらしの話を聞く内、小丸の脳裏に蘇ったのは、またあの保明親王の言葉だった。
――「あの陰陽得業生、普通ではない。何か、尋常ならざる力を纏っている。人の呪いか、神の祟りか、そういったよからぬ類のモノだ。そなたも、あの陰陽得業生を案じているなら、傍にいることだ」
今、ひぐらしが話していることこそ、あの亡霊が告げたことの核心に違いないのだ。
(分かってたのに、おれは、傍にいなかった……!)
小丸は、ぎりと歯軋りした。
「そうして、修行や仕事の傍ら、今も、あの子は、役行者の咒を解く法を探求しているはずだった……」
ひぐらしの言葉に、すがるが口を開いた。
「一言主が、待ち切れず、痺れを切らしたということ?」
小さく頷いて、ひぐらしは難しい顔をする。
「今宵、一言主は再びわたくしに憑いて、あの子に、何かを伝えたと、そう思うの。恐らくは、早く咒を解きに来いというようなことを――」
「どうして、兄上は、姉上にも、小丸にも知られないようにして出てったの?」
不意に、今度は螢が口を開いた。ひぐらし、小丸、すがるの顔を見上げて問う。
「どうして、白君を置いてったの?」
素朴な疑問に、三人は一様に押し黙った。
(危険だからだ……)
小丸は唇を噛んだ。一言主の要求は、はっきりしないが、とにかく、相当な危険を伴うものだと保憲は判断したのだ。それで、白君が小丸達を起こしたり呼んだりしないように――小丸達を巻き込まないために、わざわざ白君を天児に戻して出ていったのだ。
「わたくし達に、心配をかけないようにと思ったのかもしれないわね。白君は、保憲に少しでも危ないことがあれば、すぐにわたくし達に知らせるから」
ひぐらしが寂しげに優しく言うと、螢は幼い眉間に皺を寄せた。
「でも、それじゃ、白君が可哀想。白君は、いつも兄上の傍にいて、役に立ちたいのに」
小丸は、まるで、自分の胸の内を指摘されたような気がした。
「――そうだな……」
螢の頭を一撫ぜして、小丸は立ち上がる。
「だから、おれが、あいつのところまで、白君を連れてってくる。あいつの行き先は、葛城山でいいんだな?」
「はっきりしたことは、何も言えないわ。今宵、あの子が出ていったのが、一言主に関わることだというのは、全てわたくしの推測に過ぎないから……」
ひぐらしは、小丸の問いに、顔を曇らせ、目を伏せてしまった。そこへ、すがるが唐突に強い口調で言った。
「――分からないことは、占えばいいじゃない!」
すがるは、願いの籠った眼差しで、小丸を見つめる。
「小丸、毎日、六壬式盤触ってたんでしょう? お兄様がどこへ行ったのか――、いいえ、お兄様を無事に連れて帰るにはどうしたらいいか、占って」
「けど、おれは……」
小丸は項垂れ、顔をしかめた。まだ、満足には扱えないのだ。
「――試す価値は、あるわね」
低い声で言ったのは、ひぐらしだった。
ひぐらしは、小丸の返事を待たず保憲の部屋の母屋へ入ると、長櫃と並べて部屋の隅に置かれた厨子(づし)のところへ行き、その下段の扉を開けた。そこに六壬式盤が仕舞ってあるのだ。
足元へ六壬式盤を持ってこられて、小丸は重い心で再び座った。確かに、ひぐらしの推測だけで動くのは危険だ。全くの見当外れだった場合、取り返しのつかないことになるかもしれない。或いは、一言主が相手だったとしても、すがるが言ったように、どうすれば保憲を無事に連れて帰れるのか、その方法を知ることは大切だ。ただ小丸が葛城山へ行ったとしても、保憲を助けられるとは限らない。むしろ、保憲が危険だと判断したほどの状況なのだから、容易には助けられない可能性のほうが高いのだ。
――「宇宙を感じるんだ、小丸。おまえならできる」
保憲の言葉を思い出しながら、小丸は教えられた通り、覚えた通りに、まず四課三伝を立てるところから始めた。
六壬式盤を使う式占、六壬神課は、占時を材料にして占う。今は、三月十五日辛卯(かのとう)の戌の時。三月の月将は従魁(じゅうかい)。昼夜の別は夜。小丸は、まず、六壬式盤の円形の天盤に手を伸ばした。天盤は、十二天将を記した第一層、十二月将を記した第二層、日干十二支を記した第三層、二十八宿を記した第四層に分かれるが、その内、第一層と第四層は独立して動き、第二層と第三層は連結して動く。小丸は第二、三層をくるりと回して、地盤の十二支の戌に、十二月将の従魁を合わせ、その位置での地盤の十二支と天盤の十二月将との対応を、ひぐらしが差し出した紙に、同じく差し出された筆を使って、正方形の図にして記し、天地盤(てんちばん)を完成させた。次に、辛(かのと)という日干から、式盤の地盤を見て、辛と同じ方向に記されている十二支が戌であることを確認し、作成した天地盤を見て、戌と対応している月将の従魁を導き出した。この従魁と辛が一課である。二課は、式盤の天盤を見て、一課の従魁と同じ方向に記されている十二支が酉であることを確認し、天地盤で、その酉と対応している月将の伝送(でんそう)を導き出して、伝送と酉。三課は、日支から卯(う)を取り、天地盤で対応している月将の功曹(こうそう)を導き出して、功曹と卯。四課は、式盤の天盤を見て、三課の功曹と同じ方向に記されている十二支が寅(とら)であることを確認し、天地盤で、その寅と対応している月将の大吉(だいきち)を導き出して、大吉と寅。その一から四までの課の月将と干支の五行の関係から、重審課(じゅうしんか)の三伝を出し、更に、戌の時という時刻と昼夜の別を考慮に入れながら式盤を使って、それぞれの月将に、順に天将を配した後、日干の辛と、四課三伝のそれぞれの月将との五行の関係を表す、兄弟、父母、官鬼、妻財、子孫という生剋も書き入れて、四課三伝を完成させた。
月将従魁 戌時 辛卯日
一課 従魁 玄武 兄弟(きょうだい) 辛
二課 伝送 太陰(たいいん) 兄弟 酉
三課 功曹 勾陳 妻財(さいざい) 卯
四課 大吉 青龍 父母(ふぼ) 寅
重審課
初伝 大吉 青龍 父母
中伝 神后(しんこう) 天空(てんくう) 子孫(しそん)
末伝 徴明(ちょうめい) 白虎 子孫
次は、この四課三伝に表れた象から、求めたい答えを読み解かなければならないのだが、それが何より難しい。小丸は、まず、三伝に注目した。
三伝は、初伝、中伝、末伝の順に状況の推移を示す。初伝の生剋は父母。自分を表すという日干の辛と月将の五行の関係は、金(か)の弟(と)、即ち金の性質の辛が、土の性質を持つ大吉から生じるという父母なのだ。中伝は、辛から水の神后が生じる子孫。末伝も辛から水の徴明が生じる子孫である。
(おれは最初生み出され、後は生み出す側に回るってことか)
初伝の父母は、自分を信じてくれるものであり、父母、師匠、家、学問といった象意を持つ。大吉の象意は財産、争い、神仏など。保憲を無事に連れて帰る法を占ったのだから、保憲との関係で読み解くと――。
(おれは賀茂邸に来て保憲に世話になって学問を身に付けた。この学問は神仏に関わることで、おれの財産だ)
中伝の子孫は、自分から生じるものであり、子や孫、己を守るものといった象意を持つ。神后の象意は水、秘密、女など。
(次におれは生み出す。身に付けた学問で、己を守るもの――術を生み出す。そこに水、秘密、女が関わってくる。保憲が女だという秘密か? いや、一言主のことか)
山の神は、基本女神だ。水という象意からも、谷底に縛られている一言主と考えるべきだ。
末伝にも子孫。徴明の象意は秘密、訴訟、汚いもの、孫、図面など。瞬間、閃くように、傍らの式盤が目に入った。
(そうか。おれが更に生み出す、己を守る術は、さまざまな象意を内包する、六壬式盤からか)
末伝の天将は白虎。その象意は果断、残酷、病気、怪我、武器、流血、交通などで、凶将だ。ただ、吉意が強く出た場合には、よい結果が迅速にもたらされる。水を喜び、何事も速やかに決断力を持って為すことを要求してくるのだ。
(おれが迅速に六壬式盤を使って術を生み出さないと、いい結果が得られないってことか)
逸る気持ちを抑えながら、小丸は、今度は四課に注目した。
自分を表す日干から導き出される一課は自分の状態を表し、一課から導かれる二課は、自分を取り巻く環境を表す。一課の生剋の兄弟は、自分と同類のものであり、兄弟姉妹、友、同輩、競争相手、破財などの象意を持つ。二課の生剋も同じく兄弟だ。一課の月将は従魁。その象意は宝、少女、山など。二課の月将は伝送。その象意は旅、兵、金銀など。
(これだけじゃ、何を表すのか分からない)
迷えば、最後に頼るべきは天将だ。一課の天将は玄武。水の陰の極まるところ、万物の終焉を表す凶将だ。知恵や知識、損得勘定を示すが、冷酷さと紙一重であり、型に捕らわれない大胆な動きは吉に転じることもある。二課の天将は太陰。物より心を重んじる吉将だ。清らかさ、正しさなどを重んじれば吉、邪な心があれば凶となる。秘めた気持ちなども示し、少女の姿をしているとされる。
(まず、おれの状態は凶、おれを取り巻く環境は吉か)
一課の月将従魁は、天将玄武と同じく凶将、二課の月将伝送は、天将太陰と同じく吉将だ。間違いないが、逆に言えば、そのくらいしかはっきりとは分からない。
小丸は三課と四課に目を移した。
相手や目的を表す日支から導き出される三課は、相手や目的の状態を表し、三課から導かれる四課は相手や目的にまつわる条件や環境を表す。自分を表す日干と三課の月将との関係を表す生剋は妻財。自分が利用し益を得るものであり、男にとっての女、配下、財などの象意を持つ。四課の生剋の父母は自分を信じてくれるものだ。
(今の占いで、おれにとっての相手は保憲、目的はあいつを無事連れて帰ること――)
確認して、小丸は苦い思いに捕らわれる。三課と四課の生剋をそのまま受け止めるなら、小丸は保憲を利用して益を得ており、小丸にとって保憲とは、父母であり師であり、家であり、学なのだ。確かに、と感じる。事実だろう。
(おれは、あいつから与えられてばかりいる……)
与え返したいのに、まだ何もできていないに等しい。だからこそ今、占っているのだ。
三課の月将は功曹。その象意は風、文書、婚姻、道路など。
(あいつの状態は、風、文、契り、道などで表され――)
四課の月将は初伝と同じ大吉だ。
(あいつの置かれてる環境は、財産、争い、神仏などで表される――)
三課、四課が初伝と同じ場合は、内輪のことや相手に関することが原因だとされる。
(今回のことの原因は、内輪のこと、あいつに関すること……)
契り、神、保憲自身のこと。一言主に関わることだとするなら、ぴたりと合う。
「今回のことは、一言主に関わることだとして、間違いはないと思う。一言主は女神ってことを考えながら、おれがあいつから与えられたこと――身に付けた学問から生み出した術を糧に、迅速に六壬式盤を使って術を生み出すことで、あいつを連れ帰れるってことらしい。すぐに、葛城山へ行く」
告げて、小丸は立ち上がった。すがるとひぐらしが占うように言ってくれたお陰で、光明が見えたが、自信は持てない。だが、ひぐらしは優しく微笑み、手早く六壬式盤を布に包んで、背負えるようにしてくれた。
「これは、ただの道具ではないから、あなたが求める限り、力を貸してくれるはず」
「――分かった」
小丸は、ひぐらしの強い眼差しに頷いた。
保憲が急いでいたなら、きっと三十六禽に乗って行っただろう。魔物の足や翼には、小丸の足も敵わない。六壬式盤を背負い、小丸は庭へ飛び出した。
三
踵のない尻切(しりきれ)を履いて飛ぶように駆け去った小丸の後ろ姿を見送った後、ひぐらしは静かに立ち上がり、妹と弟を見下ろした。
「お父様に、事の次第を説明してくるわ。あなた達も、様子を見て、東の対へ戻りなさい」
「お兄様、大丈夫かしら? お父様は、お兄様を助けて下さるわよね?」
すがるが、不安げに問うてきた。
「保憲は、危険な橋は渡るけれど、勝算の全くないことはしない子よ。お父様も、きっと何か知恵を下さるわ。ただ、お父様は、お仕事があるから、この京を離れることはできないと思うけれど、そのことを恨んでは駄目よ」
「はい……」
目を潤ませ、螢を抱き締めて頷いたすがるに頷き返し、ひぐらしは一度自室へ戻って袿を羽織ると、寝殿へ向かった。
寝殿は、寝静まっているかのように静かだったが、父の部屋には格子の外から小さな灯りの揺らめきが見え、妻戸を叩いて名乗ると、内側の掛金が外される音が小さく響いて、暗がりに父の顔が覗いた。
「入れ」
短く告げて室内へ戻る父の背中を追って中へ入り、ひぐらしは妻戸を閉める。室内の灯りは切燈台が一つ。その灯りの輪の中で、単衣の上に衵を羽織った父は文机に向かい、何か書きつけをしている。その背中へ、すがるは事の次第を語った。父は驚きも見せず、黙して最後まで聞いていたが、話が終わると溜め息をついて言った。
「ここから葛城山は南に当たる。暫くは天一神(なかがみ)、太白神(ひとひめぐり)、大将軍、王と相、どの神の遊行する方角にも当たらぬ。真っ直ぐ向かって大丈夫だ」
父が書きつけをしていた紙が、ちらりと見えた。具注暦(ぐちゅうれき)だ。日々の吉凶、禁忌、干支などを漢文で詳しく注記した、一巻が半年分の暦で、陰陽寮の暦博士が作成し、毎年十一月に、翌年のものを天皇に献上したのち、諸官に配布してあるものだ。写して私用にしたものは、時に書きつけをして、日記代わりに使用したりもする。父はそれで、方角の吉凶を確認したのだろう。
「全て御存知だったのですか?」
ひぐらしは、声音に微かな剣呑さを滲ませて問うた。そう、世に聞こえた陰陽博士の父ならば、気配だけで今宵起こったことの全てを悟ることもできるだろう。けれど、知っていたのなら、何故保憲を止めないのだ。
「保憲は、行かねばならぬ」
父は重い口調で答え、座った円座の上で少しだけ体の向きを変えて、ひぐらしを振り向いた。灯りの陰となったその顔に苦悩の色が濃いのを見て、ひぐらしもまた重い口調で問いを重ねた。
「何ゆえに、ですか」
「あれは、過酷な定めを負って生まれてきた。おまえ達の母は、その定めを変えるため、様々なことを試みてきた。夏虫と童名をつけたのも、この邸を出て行ったのも、全てはあれの定めを少しでも変えるためだ」
「――夏虫という名には、どのような意味があるのですか」
ひぐらしは訊かずにはいられなかった。いつも疑問に思ってきた、妹の不吉な童名。それにも、やはり意味があったのだ。
「あれは、夏に生まれた。五行で言うならば、火の定めを持って生まれた。ゆえに、夏生(む)した意も合わせた、火に飛び込む夏虫だ。あれは、自ら火に飛び込まねばならぬ。自ら定めに立ち向かわねばならぬ。そうでなければ定めを越えていけぬ。あれの定めはそういう性質のものだ」
ひぐらしは納得した。保憲が危険に向かうのを止めれば、きっと、定めはよいほうには変わらないのだろう。
(自ら火に飛び込まなければならない――)
その言葉は、男姿をした妹の凛とした横顔を、そのまま表すと思えた。
◇
円形の天盤と、正方形の地盤は、それぞれ、天は円、地は方という大陸の考え方に基づいており、天盤は楓(ふう)にできる瘤である楓人(ふうじん)から、地盤は雷に撃たれた棗(なつめ)の木から作られている。六壬式盤は、咒具なのだ。その重みを背中に感じながら、薄青い望月の光に明るく照らされた京の大路小路、時には誰かの邸の庭先を突っ切って、最終的には朱雀大路に出て南へ下ったのは、単に一番障害物がなく、走り易いからだった。
大内裏の正門たる朱雀門から伸びて、平安京を東西に分ける朱雀大路の南の果てには、羅城門(らじょうもん)がある。二階建てで七間あるという規模は、朱雀門と同じだが、篝火も焚かれていなければ、衛士もいない。ひどく寂れた印象を与えるその門の二階には、多くの亡骸が捨て置かれ、鬼が住むとも噂される。走り抜けようとしたその暗がりに、ふと既知の気配と動く影を感知して、小丸は門前で足を止めた。
「よう。久し振りっつっても、二月晦日(つごもり)以来だから、まだ半月か」
高足駄を鳴らし、門の陰から月明かりの中へ現れたのは、やはり仁和寺の寛朝である。墨染(すみぞめ)の袍の袖とその上に纏った袈裟を夜風に揺らした少年僧は、不敵に笑んで小丸に歩み寄ると、告げた。
「事情は大体知ってる。葛城山へ行くんだろう? 面白そうだから、一緒に行かせて貰うぜ?」
何故、と問う必要は感じなかった。寛朝の裏には、やはり保憲の母親がいて、娘の危機に、動いたに違いないのだ。
「ついて来られなきゃ置いていく」
短く答えて、小丸は再び走り出し、羅城門を抜けた。寛朝は袈裟の下の裳と袴を翻して、一歩後ろからついて来た。
月が中天に昇っていく間に、小丸は桂川と泉川が合流する辺りを渡り、望月をそのまま映す巨椋池を左手に見て、男山を登った。二月の十六夜から次の日の夕暮れにかけて、熊野から京へ走った道筋の半ばまでを、同じように懐に白君を入れて、逆に辿っている。けれど、今、胸中に竦む思いはない。迷いはない。保憲を目指して、足はもっともっと速くと動く。そんな小丸の走りに、寛朝は、どこまでも遅れずについて来る。一体どういう育ち方をしているのかと、自分のことを棚に上げて小丸は呆れてしまう。
やがて、寝静まった奈良の都を左手に見ながら生駒山(いこまやま)を通り過ぎ、信貴山に差しかかったところで、不意に夜空から金色の光が降ってきた。
「おまえは――」
覚えのある気配と姿に、小丸は身構えた。
「おいおい……! まさか、おまえ、龍と知り合いなのかよ」
背後の寛朝から、驚いた声が漏れた。
「あやつを追っておるのじゃな?」
無数の剣を纏った少年は、金色の双眸でひたと小丸を見据える。
「暫く前に、魔物に乗って、ここを通り過ぎて行きおったわ。何やら険しい顔をして、われに挨拶もせず素通りしていきおった。何か、まずいことが起こっておるのか?」
「ああ。葛城山の神と何か因縁があるらしい」
小丸は、微かな安堵を感じつつ、頷いた。保憲がここを通ったということは、自分の読み解きは当たっていたのだ。
「そうか。じゃが、そなたの足でも、魔物には追いつけぬ。われが送り届けてやろう。そやつもついでにな」
一方的に告げるや否や少年は龍の姿に変じ、小丸と寛朝をそれぞれ前脚で掴むと、小さな竜巻を起こし、一気に空へ昇った。
「ひゃあ!」
嬉しそうな寛朝の声が、耳を塞ぐ激しい風音の向こうに聞こえた。龍は体をくねらせ、ぐるりと小さく回ると、高く昇った月をほぼ正面に見て、真っ直ぐに南へと空を泳ぎ始めた。小丸は、龍の掌の中で体を捻って眼下を見た。龍田山(たつたやま)の裾野があっという間に流れていき、すぐに二上山に至る。葛城山はもうすぐだ。戌の時に邸を出たが、丑の時の終わりか、寅の時の始めには到着するだろう。
(保憲、無事でいろ……!)
小丸は、薄い雲を突っ切って飛ぶ龍の掌の中で、行く手を睨み据えた。
◇
今まで見た中で、一番嫌で、しかもはっきりした夢だった。保憲が、葛城山(、、、)へ行き、自ら立ち込めた霧の中へ入って、溶け込んで消えていった。跳ね起きたあやめはすぐに、布衣の袖を手掛かりにして小丸の状態を探り、寝ていることを知ると、起きて、と夢を通じて叫んだ。そして次に、生霊となって寛朝の僧房へ行き、小丸とともに葛城山へ行くよう、促したのだ。
――「賀茂邸まで、小丸を迎えに行ったほうがいいのか?」
寛朝の問いには、首を横に振った。ひぐらしなら必ず、葛城山の一言主だと気づくはずだ。
――「小丸は、夏虫を追って、真っ直ぐ葛城山へゆくはず。途中で合流して下されませ」
あやめの言葉に頷き、寛朝は、懇意にしている寺の童子達に牛車を用意させて、すぐに羅城門まで行ってくれたのだった。年齢などの上下で、上童子(じょうどうじ)、大童子(だいどうじ)、中童子(ちゅうどうじ)などと呼び分けられる童子達は、仏道を志して、寺で学びながら雑用をする少年達である。寛朝が頻繁に夜歩きできるのは、僧房から出る機会を作り、門を開閉し、時には牛車を手配して動かすという、彼らの手助けがあるからなのだ。
寛朝と小丸なら、必ず、夏虫を助けてくれるはずだ。
「夏虫、寛朝様と小丸を、必ず、待っていなさい……!」
あやめは、晧々と照る望月の下、右京の湿地帯を歩きながら、言霊を紡いだ。
四
酉の時の間に魔物の烏でかなり飛び、戌の時に入った後は魔物の豺を走らせ、亥の時に入れば、出てきた亥の時の魔物、豕(いのこ)と鼬(いたち)と猪(いのしし)の内、猪に乗って葛城山へ辿り着いた。懐かしい空気だ。七年前、夏の三ヶ月を過ごした山の、変わらない気配を感じながら、保憲は猪を操って山の奥深くの谷を目指した。役行者が一言主を咒で以って縛りつけた谷底。そこで、自分は、契りを果たさなければならない。役小角がかけた咒を解かなければならないのだ。しかし、咒を解く法は七年かけても見つけられなかった。後は、ただ一つ思いついた手を試してみるしかない。七年前、夏中かけて葛城山を歩き回り、探したが、咒具などはなかった。つまり、一言主は、咒で――言の葉だけで、縛られているのだ。その咒を、神の心の中へ探しにいき、見つけられれば、或いは咒を解けるかもしれない。保明親王に憑かれた時に思いついたことだった。
人しれずかをれる花よ久方の月をかたらひめにはえ見えず
思えば、保明親王が去り際に読んだあの歌の「花」は、桜なのかもしれない。梅の花などによく使われる、艶やかな印象の「匂(にほ)ふ」よりも仄かな印象の「薫(かを)る」は、霞などともよく用いられ、桜の花を連想させる。桜は、小座。神々の座るところ。憑いていただけあって、あの皇子は、保憲の、女というだけではない、神に愛でられる――そんな性まで悟ったのかもしれない。
(ただ、これも賭けだ)
神の心の中へ探しに行くということは、神に憑かれるということだ。正しく咒を見つけられたとしても、自分の心が無事かどうかは分からない。恐らく、怨霊に憑かれるよりも、危うさは上だ。だが、他に方法を見つけられなかった以上、やるしかない。一言主との契りは七年以内。これ以上の方法を見つける時間は残されていない。
(小丸、酔夢の中で祈っててくれ。おれが、おまえや姉上のところへ帰れるように――)
谷が見えてきた。小さな瀧もある深い谷には、望月の光を受けて、うっすらと月虹(げっこう)がかかっている。その谷の向こうに、ふと人影が見えた。保憲と全く同じ姿をして、同じ魔物の猪に跨っている。一言主だ。
「お約束通り、すぐに参りました」
保憲が声を張ると、神は同じ声で応(いら)えた。
「口にした通り、すぐに参ったことは誉めてやろう。足元も明るい。ゆるりと下りて参れ」
そうして、神は保憲を写した姿を消す。直後、保憲が跨っていた猪が蝙蝠(かわぼり)に変わり、右に鼠(ねずみ)、左に鸞(らん)――羽の色が赤色に五色を加えた色で、声は五音に合うといわれる、鶏に似た大陸の鳥が現れた。どれも、保憲を乗せられるほどに大きい魔物だ。時が子(ね)に移ったのだ。
「――ゆるりとする必要もないか」
保憲は独りごちると、鸞と鼠には姿を消させ、蝙蝠を操って、谷の底へ鼻面を向けさせる。自分の行き先について、賀茂邸には何の手掛かりも残してはいないが、父にも姉にも推測はされるだろう。その場合、小丸が追ってくる可能性が高い。
(あいつを巻き込む訳にはいかない――)
小丸が追ってきたとしても、その時には、成功するにせよ失敗するにせよ、全てが終わっていることが肝要なのだ。保憲は、月明かりを拒む深い緑の底へと、魔物の翼の膜を縮めさせ、一気に降下していった。
◇
「礼を言う。世話になった」
小丸は目の前で再び少年の姿へ変じた龍へ、本心からの感謝を伝えた。龍の速さはさすがだ。予想より早く、丑の時の中ほどに、葛城山の山腹へ着くことができた。
「礼など不要じゃ。それより、必ずあやつを助けよ」
金色の大きな双眸で真っ直ぐに小丸を見つめると、少年は龍の姿へ戻り、信貴山のほうへ一直線に帰っていった。
「……さて、どっちへ行く?」
寛朝の問いに、小丸は感覚を研ぎ澄まし、保憲の気配を探る。
(これは……?)
感覚の先に確かに保憲の気配がある。が、おかしい。
(あいつの気配に、強い何かがひどく入り混じってる――)
一言主の仕業だろうか。何であれ、尋常でない事態なのは確かだ。
「こっちだ……!」
低く叫んで、小丸は全速力で走り出した。
狼の遠吠えが聞こえる。夜風が、木々の枝を揺らし、草をなびかせて吹き渡る。血が騒ぐ。人ならざる血が騒ぐ。けれど、呑まれる気はしない。子の時に陰極まって、丑の時の今、陽気の増大が進んでいるというだけではない。ここには、保憲がいる。自分は、保憲を助けに来た。そのことが、重石(おもし)のように心に沈み、自分を繋ぎ止めている。
小丸は、帯から抜いた腰刀で蔓草を切り払い、木の根を跳び越え、滑らないよう注意して苔を踏み、小枝を避けながら、必死に保憲の気配目指して走り続けた。寛朝は、相変わらず一歩後ろから、小丸の足跡をそのまま踏むようにして追ってくる。やがて、二人の前に、深い谷が現れた。
「この底だ」
短く告げて、小丸は月明かりを頼りに素早く足場を探しながら、崖に近い谷を下り始めた。寛朝は無言でついて来る。ここに至って、疲れが出てきているのかもしれない。
谷は深い。張り出した木々の枝や垂れ下がる蔓草、突き出した岩によって、徐々に月明かりが遮られ、底に近づくにつれ、暗くなっていく。こここそ、一言主が咒で縛られているという谷底かもしれない。足場に気を付けつつ、身軽く下りて、岩の間を水が流れる谷底へ着くと、殆ど月明かりの届かない暗闇となっていた。その暗闇の中に、保憲の気配と、その保憲の気配に入り混じり、呑み込もうとするような、強く霊妙な気配がある。霊妙な気配は保憲の気配とともに人の形に納まって、ひたひたと足音をさせ、小丸達に近づいてきた。匂いは、間違いなく保憲のものだ。
「――小丸、か……」
声もまた、保憲のものだった。
「連れ帰りに来た。ひぐらし達が心配してる」
小丸が言うと、保憲の声は、ふっと笑って答えた。
「それは難しいの。おぬしらは少し遅かった。こやつの心は、最早まとまりもなく崩れ、死にゆくばかり。体だけでもよいのなら、連れ帰ることもできようが、心が死ねば、やがて体も死ぬ。帰り着く頃には、体も死んでおるやもしれぬのう」
小丸は目を見開いた。受け入れがたい事態に、呼吸が止まる。
「――そいつに、何をした――」
「われは、何もしておらぬ。こやつが、われを縛る忌々しい小角(をづぬ)の咒を解くには、われの心の内を探る必要があると言うたので、われを観想するを許したまで。深く深くわれを観想し、わが心の内に入り込み、勝手に迷うたは、こやつよ。神と人の心の違いなど、初めから分かっておったろうにのう」
嘲りとも憐れみともつかない響きで紡がれた言葉に、頭の中が真っ白になっていく。一言主が女神ということ、迅速に、六壬式盤を使って術を生み出すこと――。それが、今更、何になるのだろう。保憲は、わざと己に神を憑かせて役行者の咒を探ろうとし、挙句、神に呑まれてしまったのだ。その行き着く先は、死。けれど、それだけは耐えられない。受け入れられない。
「何か、助ける手――は――」
呼吸ができないまま、足掻くように問うた言葉には、にべもなく返事があった。
「知らぬ」
小丸は、胸郭全体を震わせて、はっ、と短く息を吸った。吐き気がする。
「――嘘――だ――」
溺れた者が掴まるものを探すかのように両手を伸ばし、目の前に立つ保憲の両腕を掴んだ小丸は、足に力が入らなくなって膝を着いた。保憲の両腕を掴んだ両手は、ずるずると滑って、保憲の両手首まで下りる。掌から保憲の体の温もりが伝わってくるが、神が入り込んだ気配の異常さも直に伝わってくる。その感覚が、神の言葉を否応なく裏づける。
保憲がこの世からいなくなるのだけは、耐えられない。自分は、耐えられない。この世でたった独りになってしまう。母にも、父にも捨てられた。もう自分には誰もいない。もう誰もいないのだ――。うえっ、と唐突に、えずきが口から漏れた。
壮絶な孤独感に心が支配されていく。保憲の心が崩れたように、自分の中でも何かが壊れていく。人らしい部分が消えていく。人として在るために、辛うじて保ってきた箍が外れ、内奥から、凄まじい力を伴った激しい感情が噴き出してくる。
(――ゆる――さな――い――)
一言主も、父も、母も。自分を、この孤独の暗闇へ突き落とした者達は、誰一人として――。
不意に、頭の片隅で、昔していた遊びを思い出した。
あれは、まだ、保憲と――夏虫と、出会う前のこと。
周りには、小丸の力に敵う存在などいなかった。母を懐かしみ、父を遠く見つめつつ、小丸は、寂しさを、目に留まる諸々の存在で紛らわせていた。簀子の下に行列を作っている蟻を一匹ずつ踏み潰していく。邸に入り込んでくる小さな鬼を捕まえて、頭と手足を一つずつ引き千切る。庭に現れた蛇の頭を木や石で叩き潰し、いつまでも動くその体を棒で突っつき続ける。邸の内外を彷徨う猫の亡霊を、何度でも脅しつけて、力任せに蹴りつけ、踏みつける。そんなある日、小丸は、安倍家で働く下人の一人に目を留めた。厨で働く女の娘で、母の手伝いの合間に、ふと、庭の花など眺めていたのだ。小丸は、その辺りに落ちていた小石を広い、その少女へ投げた。当たるかどうかというだけの、ほんの思いつきだった。小石は見事に命中し、少女は驚いた顔をして額から流れる血を触り、泣きながら逃げていった。その反応が面白かった。次に小丸は、自分の乳母が連れてきている男童、つまりは乳母子(めのとご)の少年に向けて小石を投げた。部屋の片づけをしていた少年は、小石が飛んでくるのに気づいて避けた。小丸は腹が立って、その辺りの物を片っ端から少年目がけて投げつけた。部屋の中はぐちゃぐちゃになり、少年は泣きながら逃げていった。翌朝、起きると、もう乳母はその子ともども、安倍邸からいなくなっていた。それから幾日もしない内に、小丸は、乳母の代わりに世話を焼いてくれていた小槻実雄を傷つけ、賀茂邸へと預けられたのだ。
あの頃と、同じだ。最早、誰に気遣うこともない。誰の眼差しも気にならない。ただ一人、嫌われたくない、失いたくない、守りたいと、心の底から願った相手は、奪われてしまったのだから。奪った神へ、この溢れ来る力を、怒りのまま思い切りぶつけることに、何の躊躇いが要るだろう。この力を、小丸の怒りを、思い知ればいいのだ。もう、何がどうなろうと、知ったことではない――。
純粋な怒りに身を任せた小丸の力は、暴力的に、周囲へと広がっていった。
五
どくんっ、心臓が跳ねた。
「硬く守っても、溶けてゆくぞ――」
意識のすぐ傍で、呟く声がする。
「幾ら硬く閉ざしても、神の前では隙だらけよ。幾らももたぬ――」
するり、と入り込まれた。
(あっ……)
神が入り込んでくる。意識を保つため、硬く閉ざして守っていたつもりの、心の中の最も柔らかい部分に、神が入り込んでくる。怨霊相手とは、やはり異なる。神は――神の心は、ありとあらゆる隙間を縫って、するする、するすると入り込んでくる。
(あっ……あっ…………あぁ……あ……っ)
保憲は、必死に抗った。が、無造作に、入り込まれていく。
「これは、そなたの弱みだの」
意識のすぐ傍で、呟く声がする。
「そなたが、唯一、負い目を感じておる相手だ」
途端に、さまざまな小丸の顔が、意識の中に蘇ってきた。むくれている顔。笑っている顔。傷ついている顔。怒っている顔。寂しげな横顔……。
(……ああ……)
懐かしい顔が溢れるように思い出されると同時に、硬く閉ざしておいたはずの心が、中から、崩れ、溶けていく。
「この童、ここまで来て、哀れよの――」
神が呟いている。――一体、誰のことを言っているのだろう。今、浮かんでいた顔は、誰のものだっただろう。心が溶けていく。自分であるはずの部分が、神と混じり合い、分からなくなっていく。
(……あっ……あぁ……)
硬く守ろうとしても、あちこちから脆く崩れ、溶け出していく。神にそのつもりはなくとも、神の心は容赦なく、間断なく、保憲の心を溶かし、侵していく。己というものが、消えていく。けれど、一言主を縛る咒を解くまでは、意識を保たなければならない。何とか抗おうとしている内、ふと、また誰かの笑顔が見えた。
(あ……?)
屈託のない、天真爛漫な笑顔。一体誰だっただろう――。
逆巻いては沈んでいく奥から、忘れ去られていた言葉、埋もれていた情景が、蘇る。
「ああ、葛城の一言主様か」
新緑が眩しい崖の縁で、山伏の青年は、顔立ちから装束まで、全て彼と同じ姿で現れた一言主相手に、実にあっけらかんとして言った。鏡の如く姿を写して現れる一言主に対して、ここまであっさりと言ってのけた者は今までいなかった。
「おぬし、何者だ?」
驚いて一言主が訊ねると、青年は、白い歯を見せて笑い、告げた。
「おれは、役小角」
偽ることなく名を告げた、その度胸と人懐こさに一言主はまた驚き、以来、役小角が葛城山で修行している時には、たびたびその前に姿を現して言葉を交わすようになった。
役小角には、いつも驚かされた。その力にも、その考え方にも、そして何より、鬼に対しても神に対しても物怖じせず、人懐こく話しかける、その振る舞いに驚いた。
「おぬしに、怖いものはないのか?」
ある日、問うた一言主に、小角は、珍しく笑みの欠片もない、真顔で答えた。
「ある。だからこうして修行している」
「何が怖いのだ?」
「己の心の弱さ。もう無理だ、もうこれ以上はできない、と思ってしまうことが怖い。いつか限界を感じてしまうかもしれないことが怖い。心弱く脆くなり果て、気力を失ってしまうことが怖い」
「己の死よりもか」
「己の生き様に満足して、誇りやかに死ねたなら、それ以上のことはない」
(死ぬなどと、そう容易く口にするな――)
自ら発した問いが招いた答えに、一言主は苛立った。
役小角が葛城山と吉野の金峰山との間に磐橋(いわはし)――咒をかけた岩橋を架けると言い出したのは、そんなことのあった後だった。一言主は、不思議に思って問うた。
「鬼や咒を使えば、空も飛べるおぬしが、何ゆえ橋など架けようというのだ?」
「咒をかけて、飛ぶよりも早く着く橋にする。おれも、後どれくらい生きられるか分からないから、生きている内に、一つ、大きなことをしてみたいんだ」
いつも通りのあっけらかんとした口調だったが、小角らしくないその答えに、一言主はすっきりしないものを感じた。
橋を架ける作業は、小角が使う鬼達を総動員して行なわれた。別に小角から特に願われたり請われたりした訳ではなかったが、一言主も力を貸した。だが、一言主は、夜しか働かなかった。本来の力を使うためには、本来の姿でいなければいけないが、その姿を、小角には知られたくなかったのだ。
暫くして、夜の作業中に、小角から問うてきた。
「何故、夜は手伝ってくれるんだ?」
「昼も手伝えというか?」
「手伝え、などと、命じたり願ったりする気はない。ただ、不思議に思ったんだ」
「――おぬしは、何も知らぬ」
硬い声で答えて、一言主は小角から離れ、作業に戻った。
それから暫くのちの夜。
一言主に、小角は静かに歩み寄ってきて告げた。
「人の手には到底負えない磐橋を造ると言えば、あんたは手を貸してくれると分かっていた。おれの前には、必ずおれの姿で現れる、あんたの真事(まこと)の姿が見たかった。けれど、あんたは、己の姿を恥じて、力を使う時は、夜の闇の中へしか現れてくれない。己を恥じるその姿は、醜い。どこにも、真事がない。おれが見たいのは、あんたそのものだ。あんたの真事が見たい」
「――神は人に姿を晒したりなどせぬ……!」
言い放った一言主を、小角はじっと見つめ、言った。
「永き時を生きる神よ、ずっと考えてきたが、おれが、あんたとおれのためにできることは、これしかない」
そうして、小角は、一言主を葛城山の谷底に縛りつける咒を唱えた――。
心が、溶けていく。もう一度、自分として――賀茂保憲として、表に出られるだろうか。全ては、役小角と、自分の力次第だ。
「己の姿を恥じるなど、確かに、醜いですね」
保憲は、呟いた。
「――全てを分かろうとし、全てを己が手に掴まんとする、人のほうが、余ほど醜かろう」
一言主がどこからか反論してきた。保憲は問うた。
「役小角様も、そうした人でしたか」
「――あやつこそ、その願いの著しき者であった。全てを己が手にできると、思うておった。神も鬼も、風も雲も、雨も霧も、山も谷も、全てを思うがままに操ろうとしておった。なれど、人は長くは生きられぬ。如何に望もうと、力に恵まれようとの。小角も、時の流れには勝てなんだ。後に残ったは、忌々しい咒と、造りかけの磐橋のみよ」
「――生きていてほしかったですか」
保憲が重ねた問いに、一言主の心は、乱れ、淀み、渦を巻いた。
「この一言主を使うた輩ぞ? この一言主に咒をかけて縛りおった輩ぞ? 何ゆえ、さようなことを思わねばならぬ?」
「あなたの心の中で、ただ一つ鮮明な部分、それが、役小角様です」
淡々と保憲は告げる。
「役小角様があなたに仰った言葉の一つ一つを、あなたは覚えておられるはずです。あなたは一言主。一言の重みを、何よりも分かっておられるお方ですから――」
一言主の激しい思いに、呑まれる。自分が分からなくなる。崩れていく。溶けていく。けれど、まだ、決定的な言葉を――咒を、探り当てられない。
◇
半ばうずくまった小丸から立ち昇った凄まじい力に、寛朝は思わず一歩下がった。
(人じゃ、ねえ――)
本能が、恐怖を擁く。谷の急な斜面に生える木々の枝が揺れ、小さな石ころが上のほうから転がり落ちてくる。その内、もっと大きな石も、岩すら転がり落ちてくるだろう。
(このまま続けば、この谷が崩れるぞ――)
小丸の絶望と怒りのままに噴き上がる力は、まるでそこに、それこそ龍でも現れたかのように、圧倒してくる。しかも、先ほど二人を運んでくれた龍のように、落ち着いてなどいない。猛り狂っているのだ。
(こいつが今まで人だったのは、ただ一人、おまえがいたからか……!)
暗闇の中、異様な気配を宿して佇む賀茂保憲は、ただ静かに足元の小丸を見下ろしている様子だ。その体を支配しているのは、最早完全に一言主なのだろう。
――「小丸という童とともに、夏虫を追いかけてゆき、葛城山の神にお会い下されませ」
壺装束の女の声が、耳の奥に蘇る。
――「可愛い夏虫は、火に飛び込む定め。なれど、飛び込んでも焼かれずに、帰ってきて貰わねばなりません。ゆえに、帰るべき場所を用意したのです」
市女笠の陰に見えた女の寂しい微笑みが、脳裏に蘇る。
――「追いかけて追いついて、夏虫に教えてやって頂きたいのです。おまえには帰らねばならぬ場所がある。この世で一番おまえを必要としている者の許へ――小丸の許へ、帰れと。これを渡して、教えてやって頂きたいのです……」
生霊から手渡され、ずっと懐の奥に忍ばせてきた布を取り出し、寛朝は小丸から迸る力に抗って、一歩二歩と進んだ。手にした白い布は、どう見ても、肩口から引き千切られた布衣の袖に見える。その袖に、香(かおり)がついている。
(これは――菖蒲(あやめ))
菖蒲の香(こう)が焚き染(し)めてあるのだ。
(そう言えば、あの女も、いつも微かに、菖蒲の香を漂わせてる――)
まだ今は菖蒲の季節ではない。だが、その香(かおり)には邪気を祓う力があり、そして今、この場では、更に何らかの意味を持つのだろう。
――「賀茂邸まで、小丸を迎えに行ったほうがいいのか?」
問うと、女は首を横に振った。
――「小丸は、夏虫を追って、真っ直ぐ葛城山へゆくはず。途中で合流して下されませ」
――「何故、自分で行かない?」
問いを重ねた寛朝に、生霊の女は、本当に悲しそうな顔をして答えた。
――「わたしが傍にいてはならぬのです。それに――、最早、あなたや夏虫のほうが、わたしよりも、力が強い。わたしがゆきましても、役には立たぬのです……。ですから、どうか、お願い致します……」
(何で、そんなに似てる)
十一歳で出家させられた時、別れたきりの、自分の母の姿が、壺装束の女の姿に重なる。
(いつもいつも、子供のためだ――。それが、子供にとって、どれほどつらいことだろうと、寂しいことだろうと、守るためと言って――)
寛朝は怒りの形相で、小丸の力に竦む足を強引に前へ出し、保憲へ近づく。
「葛城山の神よ」
ぐいと、その気配へ、布を突き出す。
「どうぞ、この幣を納め給え……!」
見えはしないが、布を確かに保憲の肩の辺りへ引っかけると、寛朝は小丸の力に押しやられるように一気に後ろへ下がった。人でありながら、人ではあり得ないほどの力を放つ小丸と、神に憑かれた保憲相手に、それ以上、何をしてやればいいのか、分からなかった。
◇
外から、何か圧力がかかってくるのが、ぼんやりと感じられた。自分とは異なる部分が、その力を脅威と感じている。そう、混じりかけてはいるが、確かに、自分と、自分ではない部分が存在している。外の力は、自分にとっては、どこか懐かしい。しかし、思い出せない。何故懐かしいのか、思い出せない――。
ふと、香がした。
(これは――)
菖蒲。あやめ。清冽な香が、溶けかけた心を目覚めさせ、霧を祓うように記憶を蘇らせる。あやめは――母だ。そして、この強い力は――。
(そうだ、小丸だ――)
その名を思い出すと同時に、事態の深刻さが分かった。理性の感じられない力の奔流、或いは爆発。あの少年に、尋常でないことが起こっている。
(小丸、泣いてるのか)
声をかけたいが、何もできない。見ることも聞くことも動くこともできない。体は、既に九割以上、自分のものではない。
(一言主を縛る咒を解かなければ――)
保憲は、再び呑まれて消えそうになる己を必死に保ちながら、一言主と混じり、一言主を縛った咒を――言葉を探す。たゆたう心。寂しく物悲しいその深みへ、潜(もぐ)る。
ふと、また小角の顔が見えた。珍しく笑っていない。真剣な眼差しでこちらを見つめてくる。
――「永き時を生きる神よ、ずっと考えてきたが、おれが、あんたとおれのためにできることは、これしかない」
前置きされた言葉に、神と混ざった心が慄く。別れ(、、)など、聞きたくない。
(けれど、聞かなければ……!)
保憲は、渾身の力で、心の動きに抗う。竦む心の奥へ手を伸ばす。そうして、聞こえた言葉は、神の予想とは別のものだった――。
「思い出されましたか……?」
力を使い果たし、もうどうしようもなく心が端から崩れ、溶けていくのを感じながら、保憲は神へ囁く。
「この咒を解くも解かないも、あなた次第なのですよ……」
永い時を生きる神は、忘れていた。別れを聞きたくないという恐れがそれほどに強く、聞いた言葉がそれほどに意外だったのだ。
「役小角様も、あなたを――」
伝えようとした言葉が、終わりまで紡げたかどうかも分からなかった。ただ、最後に心に浮かんだのは、自分の体のすぐ前で泣いているであろう少年への、詫びだった。
六
望月の光とは異なる明るさで、うっすらと空全体が白んできたことに、寛朝は気づいた。いつの間にか、寅の時も半ばを過ぎたのだろう。僅かに薄くなった闇の中で、仄かに、賀茂保憲と小丸の姿が見える。小丸は保憲の両手を握って蹲り、力を暴走させ、声にならない声で泣き叫んでいる。このまま続けば、谷が上から崩れてきそうな力だ。肩に幣をかけたままの保憲は、そんな小丸をただ静かに見下ろして佇んでいる。つと、その伏せられた目の端から、頬を伝わり落ちるものを見て、寛朝ははっとした。
「おいっ」
思わず小丸へ叫ぶ。
「おまえ、その阿呆みたいな力を使って何とかしろ! 女を泣かすんじゃねえよ!」
その言葉に反応したのは、小丸ではなく、保憲、或いは一言主のほうだった。
ゆっくりと眼差しを寛朝へ向けて、保憲が言った。
「おぬしも、この童も、われの力を超えた力を持っておるの。われが七年前に言い放ちし言の葉を、易々と乗り越えて、こやつを女子と見破りおるか」
「七年前……?」
この神は悪事(まがこと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離(はな)つ神、葛城(かづらき)の一言主の大神。この神が言い放った言葉が真実となる力を持つということは、寛朝も知っている。けれど、七年前にこの神が何を言い放ったかは、あの生霊の女からも聞いていない。話が見えず、眉をひそめた寛朝に、保憲に憑いた一言主は笑む。
「そう、七年前よ。まだ十(とお)であったこやつを、われはここへ呼び寄せた。女子でありながら、男子として生きようとするこやつに興味を惹かれての。直に会うて話をしたかった。こやつには願いがあった。男として力を使い、父の助けとなりたいという願いがの。それで、取り引きを持ちかけた。われを縛りし役小角の咒を、丸七年ののちまでに解くと契れば、咒を解くまでは決して死なぬだけの力を持ち、しかも、これから新たに会う人には、誰であろうと女子とは悟られぬ、と言い放ってやろうとの。つまり、咒を解けば死ぬやもしれず、十七の歳の三月十六日までに咒を解かねば、女子と周りの人に悟られる、という契りよ。こやつは喜んでその取り引きに応じた。ゆえにわれはそう言い放ち――、こやつは今ここで、われを縛りし咒を解き、死にかけておる。今、われが離れても、こやつは死ぬだけ。われの力によって死にかかっておるゆえ、われが新たに何かを言い放っても、力が相殺されてしまう。なれど、この小丸とやらいう童の力があれば、救えるやもしれぬ。今はただ、怒りのまま、われを消し去ろうと、この谷を壊しにかかっておるようだが――。おぬしも手を貸せ」
「……わたしにできることであれば、何なりと」
寛朝は乾いた声で、恭しく答えた。
「まずは、道標(みちしるべ)が必要だの」
呟くと、一言主は厳かに言い放った。
「小丸なる童、仁和寺の寛朝とともに、その強き力もて賀茂保憲を一言主の祟りより助(たす)く」
成るほど、これで、小丸が寛朝の手助けを得て賀茂保憲を助けるという道筋ができた訳だ。
(さすが神ともなると、名乗ってもねえおれのことも御存知らしいが……、それにしても、祟りって自分で言っちまうかね……)
寛朝が内心で呆れた直後、蹲った小丸の懐辺りから、ふわりと白いモノが生じた。
「わたしも今はこいつの力の一部だ。式神の白君という」
名乗った声も、顔立ちも、賀茂保憲とそっくりなモノは、垂らした長い黒髪と纏った白い汗袗を揺らして、寛朝など近寄れもしない力を発し続ける小丸に向き直って跪き、その両肩を正面から掴んだ。両手で保憲の両手首を握ったまま蹲った小丸の、丁度両腕の間に入る形だ。そして、式神は大きな声で間近から叫んだ。
「この阿呆! 正気になれ! まだ間に合う! わたしができる限り身代わりとなって夏虫が纏った一言主の力を引き剥がすから、その間に夏虫の心を助けろ! その背中の咒具を使え。分かったな!」
式神が口にした名に、寛朝は眉を撥ね上げた。あの壺装束の女が何度も口にしていた、賀茂保憲を表す呼び名。
(夏虫ってのは、ただの例えじゃなくて、やはり、賀茂保憲の童名だな! 童名を呼び捨てるってことは、思った通り、あの女――)
乳母でも、雇われた者でもない――。生霊の女の正体を示す証を掴み、確信した寛朝が凝視する先で、小丸は、のろのろと動いた。ゆっくりと上体を起こし、顔を上げて、初めは虚ろな目で――段々と人に戻っていく目で、白い式神を見つめた。式神は小丸の双眸を見つめ返したまま、すうっと浮くと、背中から保憲の体に同化するようにして消えた。
「……――まだ、間に合う……?」
ぽつりと白君の言葉を繰り返して、小丸は表情のない保憲の顔を見上げる。
「おまえは、まだ、そこに――……」
掴んだ両の手首を通して、改めて何かを観想しているようだ。不意に、小丸の横顔を、感情の波が走り抜けた。人へ戻った目が、しっかりと賀茂保憲を見据える。
「待ってろ。命に代えても助ける」
決意の籠った口調で言うと、右手をそっと保憲の左手首から離して、己の左袖に入れ、まだ仄かに明け始めただけの空の下で、きらきらとささやかに光る数珠を取り出し、そのまま繋ぐように、保憲の右手首を握った左手に巻きつけた。初めて出会った時、寛朝が渡した水晶の数珠だ。確かに水晶には、力を増幅させる効果がある。次いで、小丸は背中に括りつけた布包(ぬのづつみ)を解き、中から六壬式盤を取り出した。
(何で、あんなものを……)
わざわざ、こんな山中へ持ってきたのか。寛朝の疑問に答えるように、小丸は自分と保憲の間に置いた六壬式盤の上――丁度、円形の天盤の中心に描かれた北斗七星に右手を乗せて、目を閉じた。式盤を観想し始めたのだ。
(占いじゃねえことに式盤を使ってやがるのか……?)
六壬式盤は咒具だということは、聞いたことがある。だが、そうだとしても、こんな使い方は見たことも聞いたこともない。
(いろいろと常識を逸脱した奴だな……)
自分のことは棚に上げ、口元に引きつった笑みを浮かべた寛朝に、再び保憲の双眸が向いた。
「おぬしは、役に立ちそうな真言や陀羅尼を適当に唱えて、小丸を手伝え」
「――分かりました」
胸中に噴き上がる様々な悪態を口には出さず、寛朝は懐から白檀(びゃくだん)の数珠を取り出し、両手にかけながら、数ある真言、陀羅尼を思い浮かべる。結果、今唱えるに相応しいと思えたのは、法華経(ほけきょう)陀羅尼品(だらにほん)にある薬王菩薩(やくおうぼさつ)の咒。法華経の教えを世の中に広める者が、どんな困難に遭っても退くことなく進めるよう、彼らを守るために、薬王菩薩が説いた咒である。陀羅尼とは即ち、総持(そうぢ)――善を保って失わず、悪は押さえて起こさないようにするということだ。本来ならば、自分の口で唱えた音を耳で聞きながら、繰り返し唱える内、心に染み透り、力を発揮するものだが、耳から聞かせるだけでも、多少の効果はあるだろう。それに、名高い賀茂忠行の後継なら、この陀羅尼も知っているはずだ。聞かせている内に、本人が唱え出してくれれば、ありがたい――。
寛朝は合掌して唱え始めた。
「アニ マニ マネイ ママネイ シレイ」
不思議よ。思う所よ。心よ。無心よ。永遠よ。
「シャリテイ シャミャ シャビ」
修行よ。寂静(じゃくじょう)よ。淡白よ。
「タイ センテイ モクテイ モクタビ シャビ」
変化よりの離脱よ。解脱(げだつ)よ。済度(さいど)よ。平等よ。
「アイシャビ ソウビ シャビ」
無邪心よ。平和よ。平等よ。
「シャエイ アシャエイ アギニ センテイ シャビ」
迷いの滅尽よ。無尽の善よ。解脱の徹底よ。奥深く動揺せざる心よ。淡白よ。
「ダラニ アロキャ バサイ ハシャビシャニ ネビテ アベンタラネビテ アタンダハレシュダイ ウクレ ムクレ アラレ ハラレ シュキャシ アサンマサンビ ボッダビキリジッテ ダルマハリシテイ」
総持よ。観察よ。光輝よ。自信よ。究竟(くぎょう)清浄(しょうじょう)よ。凹凸なき平坦よ。高下(こうげ)なき平坦よ。転回なき心よ。旋(めぐ)りて処(ところ)を得(う)る心よ。清浄の目よ。等しくして等しからざるものよ。悟りの絶対境よ。しかも学ぶ真理の道よ。
「ソウギャネ クシャネ バシャバシャシュダイ」
教団の和合よ。明快なる説法よ。
「マンタラ マンタラシャヤタ ウロタウロタ キョウシャリャ アシャラ アシャヤタヤ アバロ」
万徳(ばんとく)の具足よ。万徳具足に安住する心よ。無限の働きよ。響き渡る声よ。大衆の声に対する明察よ。大衆に与える教えの全き選択よ。尽くることなき教えよ。
「アマニャ ナタヤ」
思わざるに法に従う自在の境地よ。
四十三の咒文を淀みなく唱え終えた寛朝は、小丸と賀茂保憲を見る。二人の気配に、変化が起きている。
(後、一押しか)
意を決して、寛朝は叫んだ。
「おい、賀茂保憲! おれをここへ来させたのは、あんたの母親だ!」
賀茂保憲と似た声をした生霊の女。可愛い夏虫と言っていた女。あの生霊の女は、賀茂保憲の母親に違いないのだ。
「おれがあんたを助けるのは、あんたの母親の望みなんだ! あんたの母親が、自分の力じゃあんたを助けられないからって、おれをここへ寄越したんだ。母の望みを裏切るな! 帰ってこい――」
使い古されたどんな咒より、効く咒がある。それは、親しい者からの思いを伝える、真事の言葉。それこそが、真にその者を縛ったり、解き放ったりするのだ。
◇
頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなっていた。ただ、溢れてくる怒りのままに、獣になりかかっていた。そこへ、白君の言葉が降ってきたのだ。
――「まだ間に合う――背中の咒具を使え――」
小丸は、その言葉に目覚め、縋った。保憲を無事に連れ帰るために、自分は与えられたことを糧に、迅速に六壬式盤を使って、術を生み出さないといけないのだ――。
六壬式盤の観想を始めてすぐ、辺りが黎明から闇に戻った。目を閉じたからというのではない。逆に何かが見え始めたのだ。
小丸は周りを見た。そこは、まるで夜空だった。無数の星々が光っている以外は何もない、深い深い闇の空間。
「ここだ」
言われて初めて、小丸はそこにいる存在を認識した。どことなく古風な裾の長い衣を着た男が一人、闇の中、星々を背景にして浮いている。
「誰だ」
問うと、男は面白そうに答えた。
「神とは遍在するモノ。そこにあると思えば、そこにある。おまえが、おれ達に訊くから、応じてあげているんだよ?」
小丸は眉をひそめた。観想して見えた男が何者なのか――神なのか、さっぱり分からない。
「おまえなんか知らねえって顔してるぜ。まあ、無理もねえか。おれらまで見る力を持つ奴は少ねえからな」
どこかあっけらかんとした、別の男の声が響いた。見れば、動き易そうな衣を纏った男が、同じく星々を背にして浮いている。
「勉強不足も甚だしい。われらを使おうというなら、われらについてもっと知っておくべきではないか」
また別の、硬質な男の声が響き、小丸がそちらを見ると、また別の、立派な衣を身に着けた男がいた。
「最近漸く本格的に勉強し始めたところなんだから、仕方ないんじゃないかあ?」
のんびりと言ったのは、簡素な衣を纏った、人のよさげな男。
「われらの間の問答は無用です。さっさと話を進めましょう」
澄んだ声を響かせたのは、豪華な刺繍入りの衣を纏った、たおやかな女。
「そうだ。早く話を進めろ」
最後に低い声で言ったのは、薄汚れた衣を身につけた、痩身の男だった。
「分かったよ、徴明。だが、こいつが知りたいことを教えてやるのは、おれだけじゃなく、今回の課式を一緒に担ってるあんた達もだからね」
口数多く答えてから小丸に向き直ったのは、最初に小丸に声をかけた男である。男は、笑みを浮かべて告げた。
「つまり、おれ達は、六壬式盤の式神の月将という訳だ。そもそも知っているかな? 式神というのは、式占に使われる神を言ったもので、そこから、陰陽師が使う神を式神と言うようになったんだ。ということで、おれは、十二月将の三の従魁。後は、口を利いた順に、十二月将の四の伝送。十の功曹。十一の大吉。十二の神后。一の徴明だ。まあ、六壬神課をしようというなら、おれ達の機嫌を損ねないようにすることだね。何せ、六壬神課の主役は、おれ達十二月将だから。同じ六壬式盤の式神といっても、天将達はただ、星や方角が神格化されただけの、事象を表すモノだけれど、おれ達十二月将は、太陽と月との会合点の神格化というだけでなく、もともと人なんだ。北斗七星の天旋――巨門のおれは、竈(かまど)の神でもあるけれど、見た目通り、知性が高く、器用で諸事に通じ、弁舌も爽やかで、いろいろな人の下で力を発揮した多才な男だったし」
「自分本位で高慢で堕落し易く猜疑心も強い」
ぼそりと徴明が付け加えたが、従魁は聞こえない振りをして言葉を続けた。
「陰を伝え、陽を送る、道祖神(さえのかみ)の伝送は、新しいもの好きで、飽き易く落ち着かない男だった。多才で器用だけれど、利己的で軽薄な面が出てしまうと台無しだったね」
「おまえにゃ言われたくねえな」
伝送が呟いたが、これも従魁は聞こえない振りをして先を続けた。
「風の神の功曹は、いつも中心的な役割を担い、積極的で活発で、財産の管理運営なんかも上手なやり手だった。ただ、強気で強引なところがあるから、人と争いになることもあったね」
「わたしはいつも最善の結果を求めていただけだ」
功曹が冷ややかに反論したが、従魁はこれにも取り合わず、説明を続けた。
「家や土地、家畜などを表す山の神であり、不安定になれば土砂崩れなどを起こす雨の神でもある大吉は、生きていた時は牛飼(うしかい)だった。だから、のんびりした性格をしているが、物事を滞らせることもあったね」
「牛飼の仕事は、牛との付き合いだからねえ」
大吉は笑顔で頷き、従魁は次の紹介へ移った。
「物事を少しずつ潤わせる力を持つ神后は、困難の末に、一つ一つ成功を積み重ねていく人生を送った女だった」
神后は溜め息をついただけで一言もない。従魁は最後の一人へ視線を送った。
「そして、明るい星という名の徴明は、河や雨を司る神だけれど、もとは亥の日に死んだ牢番だ。だから、激しさや忙しさとともに物事の終わりを象徴するんだよ」
腕組みした徴明からも、言葉はなかった。従魁は視線を小丸へ戻して目を細める。
「もともとが人だから、おれ達は人の心が分かって、ちゃんと応じてあげることができる」
「だったら御託を並べてないで、早く力を貸せ!」
苛々と、怒気も顕に返した小丸に、月将達は一様に驚いた顔をし、伝送が代表するように、呆れた口調で言った。
「おまえ、飲み込みが早えな……。少しは呆気に取られるとかしろよ」
「そんな暇はない」
小丸はきっぱりと返して、六体の月将達を睨んだ。
「機嫌は損ねたぞ……」
牢番だったという徴明が険しい眼差しを小丸へ向けた。
「面白い奴だなあ」
牛飼だったという大吉が笑った。
「確かに、そなたに、あまり暇はないですね」
神后が頷いた。
「その力と心に免じて、教えてやろう」
成るほど、いつも中心的な役割を担ってきたという功曹が話を核心へと持っていく。
「おまえは、才能に恵まれているが、自分本位という欠点を持つ。ただ、今は、緩やかに変わりつつある。どう変わるかはおまえ次第だが、利己的になってしまえば、その才能は活かせない。賀茂保憲もまた、才能に恵まれており、今回のことにおいても中心的役割を果たしている。安定した状況に置かれていれば、諸事滞るが、不安定な状況に置かれると、大雨で多くが流された後に豊かな土地ができるように、陰極まって陽に至る。今回のことは、賀茂保憲の、この状況から始まっている。不安定となり、陰極まって陽に至るのだ。困難から始まった状況は、少しずつだが、よくなっていく。しかし、完全によくはならないだろう。陽極まる前に、激しさを伴って変化は終わりを告げる。今回のことは、それで終了だ」
「どうすれば、陽に至れる? 保憲を助けられる術を教えろ」
小丸の求めに、功曹は淡々と答えた。
「術は、今、おまえが行なっていることだ。この術で分かること、それは、天将達の性質から考えるとよい。玄武により――おまえが型に捕らわれない大胆な動きをすれば、大きな吉に繋がる。太陰により――おまえは、とにかく心を重視し、清く正しく行動すれば、吉となる。勾陳により――賀茂保憲は頭を使うのではなく、道具や器具を使ったり、体を動かしたりすれば吉に繋がる。青龍により――全てはよいほうへ力強く動き、そこから始まるゆえ、富や権力を求めればよい。天空により――吉を呼び込むには、無難にまとめるよう努力し、白虎により――土より水を選んで、速やかに、決断力を持って行動することだ」
「変化をできるだけいいほうまで持っていきたいなら――」
不意に星空の上のほうから、徴明が声を響かせ、その背後で、星々がぐるぐると回り始める。
「――末伝を担うおれの力に勝て。目先のことに惑わされず、周りに気を配る余裕を持て――」
耳の奥まで低く響いた徴明の声に次いで、神后の声が高く柔らかく響いた。
「――賀茂保憲の心の奥底に迫りなさい。あの娘を救う手立てはそこにある。一言主も、あの娘の母親も、手を貸してくれる――」
続いて大吉の声が太く大きく響いた。
「――一陽来復だ。大丈夫だあ――」
更に伝送の声が響いた。
「――おまえの置かれた環境は、旅。保憲の心への道、おれが安全を保障してやる――」
最後に従魁の声が響いた。
「――おまえの状態は、宝だ。保憲が大切なら、どこまでもどこまでも、ともに行け――」
耳がわんわんと鳴り、星々も、月将達も、闇も、全てが遠ざかり――、小丸は、目を開け、顔をしかめた。月将達の声の残響が、まだ頭の中でわんわんと鳴っている。ぐるぐるとした星々の動きが瞼の裏に残っていて、頭がくらくらとする。けれど、休んでいる暇はない。小丸は、左手で握り続けている保憲の右手首を通して、保憲の観想を始めた。助けとなるのは、月将達の言葉と力――。
まず見えたのは、夕日が細長く差し込む、見慣れた賀茂邸の寝殿の南廂。そこに置かれた几帳の陰にひっそりと座り、母屋の中の様子を窺って、自分は聞き耳を立てている。
「七歳までは神の内と、これまで耐えてきたが、八歳になっても、一向、人らしくなる様子がない。それどころか、腕力や素早さは増すばかりで、先日は、何に腹を立てたものやら、わが家の家人を一人殺しかけた。最早、わが手には負えぬのだ」
覚えのある声が、母屋の中から聞こえた。小丸は目を瞠った。父、益材の声だ。
「そうまで仰るのでしたら、否やはございませぬ。謹んで、お預かり申し上げまする。但し、陰陽の道を修めるのも、容易いことではございませぬ。幾らそちらの才能がございましても、陰陽師として大成するという保証はできかねますが、宜しいでしょうか」
答えたのは、賀茂忠行の声である。
(これは……)
小丸は胸中でうめいた。これは、五年前、自分が賀茂邸に預けられた日の情景だ。
「多くは望まぬ。この子が、人として暮らしていけるよう、どうか、宜しく頼む」
父の声が言い、足音がして、父が母屋から出てきた。そうだ、あの中は、客間なのだ。自分は――自分が今入り込んでいる夏虫の姿は、几帳の陰になっていて、父からは見えない。父は、続いて出てきた忠行に付き従われて、車寄へと歩いていった。
(わが子を捨てるのか)
今度は、耳の奥から声が聞こえた。保憲の――夏虫の声だ。だが、夏虫は口を閉ざしたままだ。夏虫が思っていることが聞こえたのだ。
(捨てられて、おまえはどう思う? 捨てられるほどの力を、おまえはどう思う?)
夏虫は、客間に残されている幼い小丸へ向かって、心の中で話しかけている。
(人じゃないと言われたんだ。厄介払いされたんだ。おまえ、怖いんだよ)
忠行が車寄から戻ってきて、また客間へ入り、小丸の記憶にあるままの言葉が聞こえてくる。
「聞いての通り、そなたは今日からこの邸で暮らすことになった。だが、わしも陰陽師として陰陽寮に勤める身。決して暇ではない。よって、そなたの世話は当分の間、わが子、夏虫に任せることとする。まだ修行もせぬ十歳の頃から見鬼の力を発揮した子だ。そなたとは歳も近い。陰陽道を学ぶ前に、まず、人として生活することを、夏虫から学ぶがよい。――夏虫、後は任せるぞ」
(父上のためなら、仕方ない……)
夏虫は胸中でこぼしながら、硬い表情で立ち上がる。自室へ引き上げる忠行と入れ替わりに、客間へ入っていった。
幼い日の小丸が、円座に座したまま、敵意剥き出しの目で、夏虫を見上げる。その小丸を冷ややかに見下ろして、夏虫は最後に心の中で呟いた。
(おまえは、わたし(、、、)に似てるんだ……)
(保憲――夏虫――)
堪らず、小丸は唇を噛む。こんなものを、自分に見られたくはなかっただろう。今、自分は保憲の心の中に土足で踏み込んでいる。そう自分を戒めつつ、直に伝わってくる保憲の感情に、堪らない思いになる。自分という存在は、保憲の中で、これほどに大きかったのだ。
小丸の感情の揺れに伴うように、情景がごちゃごちゃと入れ替わり、気がつくと、辺りが白い霧に包まれていた。昼間なのは分かるが、陽光の眩しさはなく、ただ、白い霧が辺りの木々も岩も全て淡い影に変えて、音もなくゆっくりと流れている。その霧の流れを突き破るようにして、自分は――保憲は歩いている。霧の中から唐突に姿を現す、苔生した岩や尖った枝や水溜りに注意しながら、歩いている。視界の隅で、纏っている白い衣の袖が揺れる。浄衣の袖だ。
「――よく来たの――」
不意に、霧の向こうから、低い女の声が聞こえた。どこから聞こえてくるのか分からない、妙に響く声だ。
「お招きにより、参りました」
まだ幼い保憲の――夏虫の声が答えた。
(ここは……七年前のここか――)
小丸は唐突に悟った。今見えているのは、七年前、まだ十歳の夏虫が葛城山へ修行に来た時の情景なのだ。
「――われは悪事も一言、善事も一言、言い離つ神、葛城の一言主の大神。われが言い放ちし言の葉は真事となる力を持つ。役小角と同じ、賀茂の血を引く娘よ、われと取り引きをせぬか――?」
一言主の言葉に、夏虫の心がざわつく。
「取り引き、とは?」
問い返した声が硬い。対して、一言主は、面白がるような声音で説明した。
「――おぬしには、願いがある。男として力を使い、父の助けとなりたいという願いがの。そうして、われにも望みがある。われを縛りし小角の咒から解き放たれたいという望みよ。ゆえに、取り引きぞ。われを縛りし小角の咒を、丸七年ののちまでに解くと契れば、咒を解くまでは決して死なぬだけの力を持ち、しかも、これから新たに会う人には、誰であろうと女子とは悟られぬ、と言い放ってやろう――」
夏虫の心がまたもざわつき、その中から、芯のような覚悟が芽生えた。
「丸七年ののちまでに咒を解くことができなければ、どうなりますか」
覚悟の上で、夏虫は問い、一言主が答える。
「――丸七年ののちに、咒が解けておらねば、周りの人全てに女子と悟られることになる――」
「丸七年ののちまでに咒を解くことができれば、そののちはどうなりますか」
「――はっきりと言えば、すぐに死ぬやもしれぬの。われが与えるは、咒を解くまでの間に限り、決して死なぬだけの力ゆえ――」
(わたし(、、、)が父上のお役に立つ上で、最大の障害は、女であること)
夏虫が、芽生えた覚悟を胸中で言葉にする。
(まず、これから七年の間、女と悟られないことは、重要だ。それに、七年の間、死なないだけの力もほしい。七年後、咒が解けても解けなくても、それまでの間、確実に父上のお役に立てればそれでいい。七年後に咒が解けなければ、そのままここで死んでしまえば女子とはばれないだろうし、咒が解けて、その後死んだとしても、このまま何もせず大きくなって周りに女子と悟られ、父上に恥をかかせるよりはいい)
育てられた恩は、そこまで大きいのかと、小丸には苦しく感じられるほどの思いを胸に抱いて、夏虫は言った。
「分かりました。その取り引きに応じます」
またも情景が様々に入れ替わり、次に鮮明に見えたのは、碁盤だった。座った目の前に碁盤があり、向かいに、今より少しばかり若い忠行が座っている。影のでき方からすれば、昼下がりぐらいだろう。場所は寝殿の忠行の部屋だ。
勝負は今から始まるところらしく、盤上にはまだ一つの石も置かれてはいない。忠行が、二つある碁笥の内、白石の碁笥をこちら――夏虫のほうへ押して寄越し、己は黒石の碁笥を取った。碁は、基本的に、目上の者が、高貴な色である黒石を持つ。そして、目下の白石の者が、先に打つのだ。
「思った通りに、打ってみよ」
言われるまま、夏虫は白石を一つ指に挟むと、迷わず、中の聖目(ひじりめ)へ、ぱちりと打った。盤上に記された九つの星――聖目の内の、中央の聖目。それは、同時に盤の中心でもある。
「宇宙の中心だ」
忠行が、わが意を得たりというように、微笑んで言う。
「この石が置かれたことで、宇宙の広がりが生まれる――。わしがどこに次の石を置こうとも、その石と、この石の間には、見えん繋がりがある。宇宙では、全てが関係し合い、影響し合い、繋がっておる。ゆえに」
ぱちりと、忠行は黒石を、夏虫から見て遠いほうの左の聖目へ打った。
「母がどこへ行き、何をしようとも、おまえと、こうして見えん絆で繋がっておる」
告げられた結論に、ふと小丸は身震いした。
宇宙とは、空間と時間、双方の広がりだ。
「わしとおまえも、繋がっておる。ひぐらしとおまえも、繋がっておる――」
言いながら、忠行は、夏虫の傍の白石の碁笥からも勝手に石を取って、白、黒、白、黒と、それぞれある程度離して、盤上に置いていく。人と人との繋がりを象徴するそれは、また、宇宙を創造していくさまにも見えた。
(おれと保憲も――、おれと母さんも、おれと父さんも、こうして繋がってるんだろうか――)
視界を一瞬ぼかし、ぱたり、と音を立てて、滴り落ちたものがあった。小丸は目を瞠った。夏虫が泣いている。声は立てず、ただ俯いて、衣の胸元に、ぱたりぱたりと涙を零している。小丸が初めて見る、夏虫の――保憲の涙だった。涙の落ちる胸元の衣は、女物に見える。俯いた視界の両端にも、明るい色の艶やかな髪が垂れている。まだ女子として生きていた頃の夏虫が泣いている。忠行がそっと手を伸ばしてきて、夏虫の頭を優しく撫ぜた。夏虫の言葉にならない感情が、揺れて震える。そこで、カッと光が爆ぜた――。
――辺りが白い。
「夏虫――」
小丸は呼んだ。ずっと、夏虫――保憲が、賀茂家に、忠行に縛られていることを、何故と疑問に感じ、自由になれと思ってきた。けれど、違うのだ。絆なのだ。
「保憲、目を覚ませ――」
小丸は、保憲に呼びかける。崩れた心を、溶けた心を、呼び集める。
「迎えに来た。ひぐらしも、すがるも、螢も、忠行も、おまえの帰りを待ってる。寛朝を寄越したおまえの母親も、きっとおまえの帰りを待ってる」
小丸は、保憲の心の奥へと進んでいく。進んでいきながら、精一杯の思いで、保憲を呼ぶ。
「保憲、誰より、おれのために、帰ってきてくれ。おれを、一人にしないでくれ――。おれには、おまえしかいないんだ。おれには、もうおまえしかいない。おまえがいなきゃ、おれは駄目なんだ。おまえは、おれの全てなんだ――。頼む、帰ってきてくれ。一緒に、賀茂の邸へ帰るんだ――」
ただ白い中、温かいものが、少しずつ、少しずつ、小丸の周りに密度を増してくる。小丸は、更に呼んだ。
「邸に帰ったら、碁の相手をしてくれ。おれも、そろそろ、おまえと等し碁のはずだ」
「――手許しは、必要ない、と?」
白いどこかから、返事があった。手許しとは、碁の用語で、置かせて打つことである。
「ああ」
小丸が答えると、温かいものが――保憲の心が、ふっと笑った感じがあり、白い中に、一つの囁きが響いた。
「――アマニャ ナタヤ――」
刹那、全てが凝集し遠ざかった。
小丸が目を開けるのと、保憲の体がぐらりと倒れてくるのとが同時だった。咄嗟に左手で握った保憲の右手首を引き、立ち上がりざま両腕で抱き止めて、小丸は驚いた。目を閉じた保憲の頬に、仄かな朝の光の中、涙の筋が光っている。まるで、垣間見た過去の情景の続きのようだ。そして、保憲は、ぐったりとして動かない。
「保憲……?」
「――そんな顔をせずともよい――」
不意に低い女の声が、どこからともなく響いた。過去の情景の中で聞いた声だ。見れば、谷から立ち上り始めた霧の中に、幣らしい布が、ふうわりと浮かんでいる。その布が自分の布衣の片袖であり、その辺りに渦巻く、霧を含んだ大気こそが一言主なのだと、小丸はすぐに察した。
「――われが言い放ちし通り、そやつは助かる。この幣のそもそもの持ち主たるおぬしと、願いを託した女、直にわれに捧げたそこの坊主の祈りに応えてやった。後はさっさと連れ帰るがよい――」
谷に山に響く、淡々とした言葉に、小丸は深々と頭を下げた。やはり、あの市女笠の女は保憲の母親で、寛朝を通じて、保憲を助けたのだ。神后が表した――言った通りだ。
暫く頭を下げていて、一言主の気配が去ったのを感じてから、小丸は二人を繋いでいた水晶の数珠を外して左袖にしまい、意識のないらしい保憲を大切に背負った。と、保憲が纏った浄衣の懐から、転がり落ちたものがある。天児に戻った白君だ。更には、地面に置いたままの六壬式盤が目に入って、小丸はどうしたものかと、踏み出した足を止めた。保憲の体を支えると、両手は塞がってしまう。
「置いてく訳にゃいかねえんだろう? おれが持ってってやるよ」
濃さを増していく霧を掻き分けるように、寛朝が歩み寄ってきて、天児は懐に入れ、六壬式盤はもともとそれを包んでいた布で包む。
「但し、帰りは来た時より、もう少しゆっくり走ってくれ」
「保憲もいるからな。当たり前だ」
小丸は、少し笑って、まずは谷を下り始めた。
神に憑かれた者の中に入るという、型に捕らわれない大胆な動きをした。保憲の心も、一言主の心も重視し、清く正しく行動した。富や権力を求めるというのは、難しいが、まずは賀茂邸に戻るというのが、その第一歩となるだろう。無難にまとめるよう、保憲の心が無理なくまとまるよう、努力もした。土より水を――山より谷を選んで、速やかに、決断力を持って行動している。目先のことに惑わされず、一言主にも、式盤にも、白君にも、そして寛朝にも気を配っている。保憲の心の奥底にもこれ以上ないほど迫った。大切だから、どこまでもどこまでも、保憲とともに行く――。小丸は、月将達からの忠告を、全て忠実に守った。ここから先、必要なのは、保憲が頭を使うのではなく、道具や器具を使ったり、体を動かしたりすること。
(白君がここへ来たのも、あいつが頭を使わず道具を使ったことになるはずだが、まだ弱いか)
駄目押しにでも、保憲が頭を使わずに、考えなしに体を動かしてくれれば――吉に繋がる。
◇
――「あんたは神。今のおれは人。ともにはいられない。だから、ずっと、あんたとともにいるために、おれは残りの人生をかけて修行する。おれは人だから、いずれ死ぬ。けれど、必ず神となって戻ってくるから、その時まで、ここ(、、)で(、)、おれ(、、)を(、)待って(、、、)いて(、、)くれ(、、)。この磐橋は、そのために造ったんだ。この世とあの世を繋ぐために。おれが、あの世から神となって戻ってくるために」
それが、一言主を縛っていた役小角の咒だった。通り一遍の咒ではなく、役小角が己の真事の思いを伝えた言葉が、一言主を縛り続けていたのだ。
眠った振りをして、小丸の背で揺られながら、保憲は、一言主の心で見たものを反芻する。
一言主の正体は、実体のない山気だった。大陸の史記(しき)という書物には、蜃(しん)という大蛤(おおはまぐり)が吐く気によって、空中に楼台などが象られると書かれてあるという。あらゆる姿を写す一言主も、それに似た気なのかもしれない。磐橋を造る際には、雨風を伴う激しい力の使い方をするために、ただじっと他者の姿を写しているということができなかったのだろう。そして、人は、実体のないモノを好くことはないというのが、一言主の考えだった。一言主は葛城山の神であり、山の神はよく山姫とも呼ばれる通り、女神である。その葛城山の女神が初めて恋した相手が、役小角だった。
舒明(じょめい)天皇の頃、大和国に生まれた役小角は、十七歳の時には元興寺で学び、その後、葛城山、熊野、大峰、金峰山などの山々で修行を重ねた。文武(もんむ)天皇三年五月二十四日、六十六歳の時、弟子の韓国広足(からくにのひろたり)の讒言によって、伊豆島(いづしま)に流されたが、二年後の大宝(たいほう)元年正月、赦されたという。そして、その年の六月七日に、六十八歳で、箕面の天井ヶ岳において入寂したと言われている。伝わっている史実は、それくらいだ。けれど、一言主の心には、生々しく、役小角という人物の記憶があった。
(一言主が、役小角のただの言葉に強く縛られたのも、その言葉自体を忘れてたのも、全ては恋ゆえか……)
恋心ゆえに信じられず、恋心ゆえに恨んだのだ。永い時を生きる神にとっては、人との恋というものは禍(わざわい)なのかもしれない。しかし、役小角はそこまで分かっていた。――そう、修行していた役小角には、疾うに一言主の正体など分かっていたのだろう。その上で、それを明かせない一言主を責め、また、一言主と同じ在り方ができない己を責めたのだろう。そうして、磐橋を造り、咒となる言葉を遺し、いずれ神となるために修行を積んだのだ。
(伝説の磐橋は、未完成なんかじゃなかった)
途中までしかない橋は、まさに、この世とあの世を繋ぐ道だ。いずれ、かの磐橋を通って、役小角は神として蘇るのだろう。
(神となって、今度こそ一言主と永久(とわ)を過ごすんだろう)
一言主の記憶にある役小角らしい行ないだ。相手が神だろうが実体のない山気だろうが、構わないのだ。
(それにしても、十七歳という区切りまで、役小角のせいとはね)
一言主の心と自分の心が混ざった時に偶然知った事実には、唖然とするばかりだ。役小角が元興寺に入った年齢が十七歳なので、その頃には力がついているはずと、一言主は勝手に考えたらしい。
(本当に、役小角に縛られまくってるな……)
苦笑して、保憲は自らを省みる。自分もいろいろなものに縛られている。父に。母に。姉に。妹に。弟に。中でも、これからはより強く、小丸に縛られていくだろう。寛朝が来て、母の――あやめの望みを伝えてくれたことで、家族への屈折した思いは薄らいで、穏やかな真心となり、代わりに小丸への思いが強まった。それでいいと思う。自分は、小丸の呼びかけで帰ってきた。今までは父の恩に報いるため生きてきたが、これからは、小丸のために生きたいと感じて、あの深遠から戻ってきたのだ。
(おれは、まだ分かってなかった。二年前、斬りつけられた時に気づくべきだったのに)
自分は、小丸の、一人ぼっちにされることに対する恨みも寂しさも恐怖も、何も、真には理解していなかったのだ。初めて会った時に、小丸の心の隙間の危うさに気づいていながら、陰陽寮に出仕するようになってからは、その隙間を埋めようとすることを怠ってしまった。
小丸の孤独に対する恐怖は根深い。親しい者から捨てられることへの恐怖、人を傷つける恐怖、親しい者を失うことへの恐怖。親しい者とともにいたいが、傷つけたくないので離れ、離れれば守れず、近くにいれば傷つけることに恐怖する。葛藤で、小丸の心は、休まらない。
今度も、小丸が、その葛藤を乗り越え、保憲のために賀茂邸に戻ってきてくれたというのに、巻き込みたくないと勝手に思い定め、またも孤独の恐怖に陥れ、正気を失う寸前まで追い込んでしまった。それでも小丸は、恨むことなく、助けてくれたのだ。
(おれが、おまえに教えたつもりだったこと……)
人として生きること。人に限らず、他者に関心を持ち、向き合った相手のことを、深く知ろうとすることの大切さ。
(それを、実のところ、わたし(、、、)が、おまえに教わってしまったな……)
瞼を透かし眩い光が感じられて、保憲はうっすらと細く目を開けた。睫に付いた霧が雫となって散った向こうに、現の世界が広がる。
夜が明けきり、深々と辺りを覆った霧の彼方に、朝日が昇ってくる。黒々とした山々を包む霧が薄赤い黄金色に輝き、細い谷の奥まで、光が染み渡っていく。新たな日が始まる。半ば諦めかけていた、新しい日だ。
「――小丸、ありがとう――」
考えるより先に思いが溢れ、背負ってくれている少年の耳元へ囁いていた。
◇
役小角は、一言主に告げた通り、神となった。遥かのちの江戸時代、光格(こうかく)天皇の御世の寛政(かんせい)十一年一月二十五日には、朝廷から神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の名を贈られている。また、一言主は、保憲、小丸と関わってより、ただ一言託宣をするのみでなく、徐々に、一言の願いを叶える神として、その名を広めていくこととなる――。
七
「おまえ、いつまで赤い顔してるんだ?」
寛朝は、斜め前を走る少年の横顔を見遣って、にやにやしながら問うた。春の陽気の中だろうが、普段なら幾ら走ろうと汗の一つもかかない少年が、今は火照った顔をしていて耳まで真っ赤だ。原因は、その背中に負われている浄衣姿の少女である。先ほど、彼女に耳元で囁かれて、少年は見事に岩の出っ張りに蹴躓いたのだ。それでも、咄嗟に空中で斜めに小さく身を捻って転ばずに着地し、背中の少女への衝撃を最小限に抑えたのはさすがである。
「――うるさい」
真っ直ぐ前を見たまま顔をしかめて答えた少年が、走る速度を上げて、こちらを引き離したがっていること、けれど、背中の少女を気遣って、乱暴な走りはできずにいること。そんなことまで、観想もしていないのに全て見え透いてしまって、寛朝は限りなく、この小丸という少年が愛しく思えてしまうのだった。
(いい女だが、おまえに譲ってやるよ)
保憲という少女は、小丸にとって、何ものにも替え難い存在なのだ――。
「寛朝様」
当の少女が、小丸の背から少し頭を上げて呼んだ。途端、小丸の走り方が更に優しくなる。少女が舌を噛まないようにという配慮だろう。
「大丈夫か?」
寛朝が走りながら距離を詰めて顔を覗き込むと、保憲は、あの生霊の女よりも涼しげな目元に微笑を浮かべて言った。
「体は疲れておりますが、大事ありません。それよりも、無事帰れることを、早く父や姉に知らせてやりたいのです。懐にお預かり頂いているわたしの式神が、そろそろ使えるかと思うのですが」
「ああ、そうだな」
寛朝は走りながら、袈裟の下、墨染の袍の懐へ手を入れて、天児を取り出した。途端、天児は、ふわりと広がって、白い汗袗を纏った少女の姿へと変わる。保憲と瓜二つの顔をした式神だ。
「白君、父上と姉上に先触れしてくれ。わたしも小丸も無事だと」
「分かった」
式神は、保憲に頷いて、爽やかな青空へ舞い上がり、都のほうへと白い鳥のように飛んでいった。
◇
日が沈み、まだ赤紫色や藍色が残った空に瞬き始めた星々が美しい。賀茂の川原を吹き渡る夜風が、川の匂いを運びつつ、現れた壺装束の女の袖を、ゆったりと揺らす。
「久し振りだな」
忠行が先に声をかけると、あやめは市女笠を取って、顔を顕にした。久し振りに見る元妻は、相変わらず艶やかに美しく、強い眼差しをしていた。
「保憲――夏虫は、無事帰ってくると、式神で知らせてきた。そなたが、いろいろと手を打ってくれていたお陰だ」
精一杯の感謝を込めた忠行の言葉に、元妻は長い髪を揺らして、首を横に振った。
「いいえ。わたしがしたことは、本当に僅かよ。あの子が無事に帰ってきたのは、ひとえに、あの子が努力してきたから。そして、小丸を、ただの家人ではなく、本当の友としたからよ。あの子は、必要なものを、全て、自ら手に入れてきたの」
「そうだな……」
忠行は、感慨深く頷いた。自分達の二人目の娘は、神に愛でられる性を持つがゆえの、過酷な定めの下に生まれた。あやめの祖母がそう告げ、あやめ自身も、それに類する夢を見た。あやめの夢は、放っておけば、そのまま現となる。過酷な定めを全て変えることは難しいが、その中に含まれる不幸の数々を、少しでも減らしていこうと、二人で努力してきた。けれど、一つのことを変えると、また別の物事が新たに降りかかってくる。定めの大きな流れからは、逃れがたいものがある。
「それでも、あの子がああして生き延びて、自ら選んだ人生を歩んでいるのは、そなたのお陰だ」
きっぱりと述べた忠行から視線を落としたあやめは、低い声で言った。
「……そうせざるを得ないよう仕向けた、ひどい母親よ。何も知らせず、姿を消して……。おまけに、ひどい女だわ。わが子のために、蓮君(はちすぎみ)――寛朝様や小丸の定めまで変えてしまった」
泥の中から伸びて美しい花を咲かせる蓮(はちす)。その名を童名として息子に与えた式部卿の北(きた)の方(かた)の思いまで、あやめは背負っているのだ。
「だが、それは、蓮君や小丸のためでもある。式部卿の宮の北の方も、葛葉殿も、承知のことなのだろう?」
忠行の言葉に、あやめはのろのろと頷いた。全て分かっていて、尚、あやめは己を責めている。母親たる者にとって、子供達が苦しむというのは、なかなか割り切ることのできないことなのだろう。「白狐」とも言われる小丸の母、葛葉とは、正直、あまり関わりたくないが、保憲のためには、小丸の力が必要で、陰で小丸の行動を左右する葛葉の協力も欠かせないのだ。
「それに、それを言うなら、わしはもっと、ひどい父親で、ひどい男だ」
忠行は、溜め息混じりに言った。保憲に、あやめの真意を伝えていないのは、自分も同じだ。おまけに、保憲の父で、小丸の師で、二人と同じ屋根の下で暮らしていながら、二人を危険な目にばかり遭わせ、しかも、純粋に力が及ばなかったり、定めが予期せぬほうに変わることを恐れたりして、碌に助けられずにいる。世間からは、力ある陰陽師と言われるようになっているが、親として、師としては、失格だ。
「ごめんなさい」
目を上げたあやめが、強い口調で詫びた。ひぐらしにも保憲にも受け継がれた、澄んだ双眸が、忠行を見つめる。
「愚痴を言うために会っている訳ではないのにね。あなたが、自分を責めることはないわ。全て、わたしが始めたことなのだから。あなたは、あの子達の傍にいてくれるだけでいいの。夏虫、小丸、ひぐらしの傍にいてあげて。わたしは、傍にはいられない代わり、あの子達を全力で守るから」
「――すまぬ」
「だから、自分を責めないで。ね?」
あやめは、優しく微笑む。その笑顔に、相も変わらず惹かれてしまう自分がいる。けれど、そんな忠行の心中を察したように、あやめは言葉を継いだ。
「――真木様と、生まれてくる子も大切にして、あの子達と、幸せに暮らして。あの子達に、幸せな時をあげて。それこそが、あの子達の宝になるから」
「――分かった」
忠行が頷くと、あやめは微笑んだまま、市女笠を被り直し、踵を返して、いつものように川下へ去っていった。
◇
寛朝とは都の入り口の羅城門で別れ、布に包まれた六壬式盤を片手に提げた小丸は、夜空高く昇った十六夜の月が晧々と照らす大路小路を走って、賀茂邸を目指した。背中の保憲は、寛朝と別れる時は起きていたが、またうつらうつらと眠っているらしく、静かな呼吸だけが感じられる。その確かな温かさが、何ものにも替え難いほど嬉しい。できる限り揺れのないよう走りながら、疲れなど微塵も感じず、小丸の足は軽やかだった。
先に帰っていた白君に迎えられて賀茂邸の西門から入り、西の対に行くと、ひぐらしだけでなく、すがるも螢も、そして忠行も待っていた。
庭に下りて出迎えた忠行に対し、保憲は小丸の背から降りて、その場に膝をついた。
「御心配をおかけしました、父上。この通り、無事帰宅致しました」
頭を垂れて告げた保憲に、忠行は歩み寄り、目の前にしゃがんで低い声で言った。
「無事で何よりだ。あやめも、喜んでいた」
驚いて顔を上げた保憲に、ぎこちなく微笑んで、忠行は立ち上がる。
「早く休め」
一言残して、そのまま寝殿へ戻っていった。
「ありがとうございます」
父親の背中へ再び頭を下げた保憲に、今度はひぐらしが歩み寄る。
「お帰りなさい、保憲。ありがとう、小丸」
ひぐらしの優しい声と笑顔に、小丸はほっと息をついて、初めて自分が気を張っていたことに気づいた。保憲を背負って帰る道中も、嬉しさを感じながら、ずっとずっと無意識に気を張っていたのだ。
「姉上にも、御心配をおかけしてしまい、申し訳ありません」
殊勝に謝った保憲を、ひぐらしがそっと抱き締めた。
「無事なら、それでいいのよ」
そこへ、すがると螢も駆け寄ってきて、保憲に抱きついた。
「お兄様、凄く、凄く心配したんだから」
「兄上、良かった」
「すまなかった、すがる、螢。もう大丈夫だから」
ぽんぽん、と弟妹の背中を優しく叩いた保憲の、月光に照らされた横顔を、小丸は眩しく見つめた。やはり、咲き初めの山桜に似ていると思いながら――。
「さあ、中に入りましょう。保憲を早く休ませないと」
ひぐらしの声で、皆は西の対へ上がり、すがると螢は東の対へと戻っていった。
静かになった部屋で、保憲はひぐらしが用意していた少なめの汁粥を全て食べた。小丸は、六壬式盤を厨子に仕舞ったり、水晶の数珠を己の曹司に置いたりしながら、その様子を見て安堵した。体に問題はなさそうだ。
「御馳走様でした、姉上。片づけは、白君にさせます」
保憲の言葉を受けて、ずっと傍についていたひぐらしも安堵の表情で立ち上がった。
「では、わたくしはこれで。できるだけ、早く寝なさいね」
中の戸を開けて姉が自室へ戻るのを見届けると、保憲はおもむろに冠を外し、浄衣を脱ぎ始めた。白君は土器と箸が乗った折敷を持ってさっさと下屋へ消えていく。急に居場所がなくなった感じがして、小丸も立ち上がった。昼の間中走って帰ってきて、まだ子の時だ。明け方まで、充分寝られる。
「本当に、早く寝ろよ」
一言残して、小丸が自分の曹司に入ろうとすると、浄衣を脱いだ衵姿のまま、半挿から直接水を飲んでいた保憲は、振り向いて言った。
「忘れたのか? あそこで、おまえと碁を打つ契りをした。春の夜とはいえまだ間がある。一局、打とう」
「けど、おまえ、疲れてるのに……」
「頭が冴えて眠くないんだ。暫く、付き合えよ」
やはり、保憲は頑固だ。
「――分かったよ」
小丸は渋い顔で、南廂に座った保憲の前へ腰を下ろした。
「碁盤と碁笥をここへ」
保憲に命じられた白君は、すっと動いて、厨子に歩み寄った。その上段には、小丸がずっと使っている碁盤と碁笥がある。白黒の碁石の碁笥二つが碁盤の上に置かれたそれを、白君は捧げ持つようにして運び、静かに保憲の傍らに置いて下がった。保憲は、大儀そうな動きで二つの碁笥を床に下ろすと、白石の碁笥を小丸のほうへ押して寄越し、自分は黒石の碁笥を取った。
「等し碁だ」
契り通りに告げられて、小丸は白石を一つ指に挟むと、迷わず、中の聖目へ、ぱちりと打った。保憲の心の中で垣間見た記憶そのままに。
「宇宙の中心。――おれが父上から教わったことを、おまえもあの時、見たんだな」
「ああ」
後ろめたさに目を伏せながら、小丸は頷いた。保憲を助けるためだったとはいえ、勝手にその記憶を見てしまったことを、小丸は悔いていた。
「なら、おれが感じた宇宙の広がりも、感じたはず」
言いながら、保憲は黒石を取り、父と同じように、小丸から見て遠いほうの左の聖目へ打つ。
「月将達とも、話をして、力を借りたんだろう? おまえは凄い。小さな理屈なんて簡単に跳び越えて、真理を掴んでしまえる」
小丸は、驚いて保憲を見た。保憲が手放しで褒めている。けれど、今褒められたようなことは、全て、そうなるよう保憲が導いてくれたことだ。他者の心を推し量り、そこから多少なりとも学べるようになったのも、保憲が碁で修行させてくれたからだ。六壬神課の月将達についても、保憲が理屈ではなく、感覚で教えてくれていたからだ。だからこそ、できた。全ては、保憲のお陰なのだ。自分は、全く成長していないと思う。幼い日々、保憲――夏虫は、小丸の、殆ど全てだったが、その事実は、今も大して変わっていないのだ。
「……おれは、まだまだだ。おまえがいなくなった時、おまえが神に憑かれてた時、怖かった」
俯き、呟いた小丸に、すぐは答えず、保憲は白石の碁笥を指差して次の手を促す。促されるまま、小丸は白石を取って、保憲に近いほうの真ん中の聖目へ打った。保憲は無言で、小丸から見て遠いほうの右の聖目へ、黒石を置いた。小丸は、今度は自分の手前の真ん中の聖目へ、白石を打った。盤上に、縦に白石が三つ並んだ。保憲は、小丸から見て左手前の聖目より一つ斜め外の星へ打ってきた。小丸は次に、自分から見て中の聖目の左の聖目へ打った。応じて保憲は、小丸から見て右手前の聖目より一つ斜め外の目へ打った。小丸は更に中の聖目の右の聖目へ打った。保憲は、小丸から見て、左から八、向こうから三の目へ打ってきた。小丸は、少し考えて、左から三、向こうから六の目へ打った。――それぞれの石の関係が広がり、宇宙が、広がっていく。
「おまえは、宇宙を感じられる」
手を止めて、保憲は言う。
「六壬式盤やこういう碁盤を通じて、おまえは、宇宙を感じられる。修行を積めば、何もなくても、いつでも宇宙を感じられるようになる。そうして天と地の諸事象に通暁し、天と地を繋ぐ宇宙軸、宇宙そのものを集約した小宇宙になれる」
(本当に、おれは、おまえが期待するほどに、強くなれるだろうか。おまえを、危険に晒さずに済むくらいまで――)
目の前の簀子の先に広がる、地上の闇は深く、軒の向こうに広がる天空の星々は、色とりどりに輝いている。
保憲が言う通りであることを、願いたい。小丸は、自分の置いた白石と、保憲の置いた黒石を、――その間の繋がりを、食い入るように、じっと見つめた。
◇
小丸は、可哀想なほど真剣な顔で、碁盤の上の碁石を見つめている。これでは、碁の対局も、終局までいけるかどうか、怪しいものだ。先ほど安堵の表情で自室に戻った姉も、中の戸の向こうで、不安げに聞き耳を立てている。保憲が黙って葛城山へ行ったことで、前にも増して心配性になってしまったかもしれない。
「――全く、少し成長したとはいえ、本当に、おまえはまだまだ修行が要るな。これだけ付き合いの長いおれの心すら読めてないなんて」
保憲は溜め息混じりに言った。小丸が、また驚いたようにして、目を上げる。保憲は、微笑んで告げた。
「おれは、おまえに、おまえが持って生まれた力の使い方を教えたいだけで、おまえに、陰陽師として強くならなければいけないと言ってる訳じゃないんだ。おまえが陰陽師としてどうだろうが、本当は、どうでもいいんだよ。おれは、おまえに、幸せでいてほしい。そして――仏教には、輪廻転生という考えがあるけれど――、できることなら、百年(ももとせ)ののちも、千年(ちとせ)ののちも、おれはこうしておまえと向かい合っていたいんだ」
小丸は見開いた目を瞬いた。もっと分かり易い言葉にしないと、まだ伝わりにくいらしい。保憲は、碁笥から黒石を取り、右から八、手前から三の目へ、ぱちりと打ちながら、一言一言ゆっくりと言った。
「――わたし(、、、)も、おまえが大切なんだよ。分かってくれたか?」
小丸は、今度は瞬きもせず保憲を見つめていたが、やがて、頬を赤らめつつ、無言でしっかりと頷いた。
◇
成長した小丸は、元服して、安倍晴明(あべのはれあきら)と名乗り、保憲とともに、陰陽師としての名を高めていく。月と花のように並び称されながら、決して争うことなく助け合い、寛朝らの協力も得て困難を乗り越え、保憲を守り抜いたという――。
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