第2話 小丸、仁和寺の寛朝と双六せし語

          一


「上の子は、人に親しまれる性(さが)だろう。腹の子は、神に愛でられる性になろう」

 老女は、重々しく告げ、母となった孫娘を痛ましく見つめる。

「神に愛でられるということは、そなたも知っての通り、人並みには生きられぬということ。常に過酷な運命に立ち向かわねばならぬ。その定めの中で人並みに幸せに生きるには、同じく神に愛でられる性の子が傍に要ろう。希なる性だ。見つけられるかえ?」

「――必ず」

 母としての覚悟を持って、孫娘は答えた。例え如何なる時に生まれようと、如何なる定めの下に生まれようと、人は皆、幸せになるために生まれてくるのだと、そう生まれてきた子に信じさせてやるのが、親としての、務めだ――。


            ◇


 市(いち)での買い物も初めてなら、夕占(ゆうけ)を告げられたのも初めてだった。そもそも小丸は、人込みが――節操のない賑わいが、嫌いなのだ。しかし、ひぐらしに、すまなそうに頼まれると、嫌とは言えなかった。そうして、何とか、頼まれた買い物を終えた時、声をかけられたのだ。

「もし。もし、そこな童。少し聞いてゆきなさい」

 声は女のものだった。明らかに自分へ向けられた意思を感じた小丸は、辺りを見回し、小路と小路の辻に立っている市女笠(いちめがさ)を被った女に気づいた。目深に被った市女笠の陰から小丸を見て、壺折(つぼお)りして裾を端折(はしょ)った袿の袖を揺らして手招きしている。人込みを抜けて寄っていくと、女は市女笠の陰に見える赤い唇に、笑みを浮かべて告げた。

「そなたについて、面白いお告げがありました。今より初めに見かけた博奕(ばくえき)に参加なさい。生涯の友と出会うでしょう」

「博奕に興味はない。そんなお告げに、幣(ぬさ)を渡す気はないぞ」

 博奕とは、双六(すぐろく)などの、金品を賭けてする勝負事。幣とは、神に祈る際に捧げる糸や布、絹、紙のことである。警戒して立ち去ろうとした小丸に、女は手を差し出して言った。

「そう言わず、その袖、渡してゆきなさい。さもないと、貴重な出会いを逃(のが)すことになりますよ」

 女の言葉には妙な強制力がある。小丸は、ふと眩暈のようなものを感じて、眉をひそめた。眩い夕日が差して、行き交う人々は長い影を伴い、その影が交錯し、より濃い影を生じさせ、一瞬、何かの文様となっては消えていく。辻で交わる小路の、東西に伸びるほうは明るく、南北に伸びるほうは暗く、人々は、明るいほうから暗いほうへ、暗いほうから明るいほうへと、様々に歩いていく。日の入(いり)を前に、売り買いの喧騒は賑々しくもどこかうら寂しい――。

「――分かったよ」

 応じて、着ていた布衣の片袖を肩口から引き裂いて渡し、その辻を後にした小丸は、はっと我に返った。ぼうっとしていた。まるで、夢でも見ていたようだ。

(何なんだ、あの女)

 慌てて、先ほどの辻を振り返ったが、もうそこに、あの市女笠の女の姿はなかった。

(まずいな……)

 立ち止まった小丸は、衣の下に嫌な汗が滲むのを感じた。路が交わる辻というところは、この世ならざるところへと通じ易く、怪しいモノが出易い。しかも、着ていた衣の一部を渡すなどという愚かなことをしてしまった。あの袖を通じて、いつ呪詛(ずそ)されてもおかしくない身の上になってしまったのだ。

(こうなったら、とことん従ってみるか)

 恐れて中途半端なところで逃げるよりは、そのほうが、あの女の真意を量れていい。小丸は意を決すると、博奕をしている輩――博打(ばくち)を探し、歩き始めた。


            ◇


 大内裏から帰ってすぐ、着替える間もなく姉の部屋に呼ばれた保憲は、首を捻った。夕方、市へ買い物に行った小丸が、日が暮れても帰ってこないという。人込みを嫌う小丸が市に長居をするとは思えないし、市が開いているのは正午から日暮れまでである。

「しかし、わざわざ小丸に頼まれるなど、一体何を買いに行かせたんです、姉上?」

 保憲の問いに、ひぐらしは緊張した面持ちで、僅かに頬を赤らめて答えた。

「未醤(みそ)を切らせてしまったの」

 この邸で、衣や調度、しつらいに関しては真木が取り仕切っているが、食べ物に関しては、ひぐらしが下人達に指示して管理しているのである。

「あれは西の市でしか買えないものなのに、今日は晦日(つごもり)で、明日からは三月」

 姉の言葉が、三月十五日へ向かって進む時の流れを否応なく突きつけてきたが、保憲は表情を変えず、黙って聞く。

「東の市が開かれて、十五日まで西の市は閉められてしまうでしょう? 下人の誰かに買いに行かせようかとも思ったのだけれど、小丸なら足が速いし、身軽だから、帰り道、暗くなっても危ないこともないと思って、急いで買いに行って貰ったの。未醤がないと、お父様の御機嫌が悪くなってしまうから……。それが、こんなことになるなんて……」

 延喜八年十二月二十七日に施行の宣下があり、その後、臨時格(きゃく)二巻の追加を経て、延長五年十二月二十六日に完成された延喜格(えんぎきゃく)と、それを捕捉する太政官符(だいじょうかんぷ)により、毎月一日から十五日には東の市、十六日以降には西の市が開かれることと定められている。

「分かりました。捜しに行ってきます。御心配には及びませんよ。小丸はそこらの京童部(きょうわらわべ)などより余ほど強いですから」

 軽く請け負って姉の部屋を出た保憲だったが、小丸に何かが起きたという確信を持っていた。京童部、即ち京の無頼の若者達に負けるような小丸ではないが、このところ、京には群盗も跋扈しており、治安が悪い。それに何より、小丸には、鬼神の類を引き寄せ易いようなところがある。

(また、何か厄介事に巻き込まれてるんじゃないだろうな……。それにしても、晦日の三十日(みそか)に未醤を買いに行ったなんて、歌にも詠めそうな語呂合わせのよさだ……)

 迫り来る契りの日への緊張を、過ぎ行く日々への感傷を、敢えて笑いに変えながら、保憲は三十六禽を呼び出す。日が暮れて間もない今は酉の時。出てきた魔物は、鴉、鶏、雉の三羽だ。その内、夜の闇に紛れ易い鴉を選んだ保憲は、魔物ゆえ大きいその背に乗ると、残りの二羽には姿を消させた。とりあえずは小丸の捜索であり、一羽いれば充分である。

「西の市へ飛べ」

 保憲の命(めい)に応じ、魔物の鴉は、ばさりと羽ばたいて、西の空に僅かな明るさを残した夜空へ飛び上がった。明日からは三月とはいえ、空の高い位置へ上がると、かなり冷える。

(やはり、もう一枚、衵を重ねてくるべきだったかな)

 僅かに後悔しつつ、保憲は、鴉の首筋の羽に半ば顔を埋めて、袍の襟から風が入るのを防いだ。

 右京にある西の市は、左京の東の市同様、十二町の広さで、内町四町、外町八町からなる十字型をしている。北小路(きたこうぢ)と西靫負小路(にしのゆげいのこうぢ)が交わる辻を中心として、北は左女牛小路(さめうしこうぢ)から南は塩小路(しおのこうぢ)まで、東は西櫛笥小路(にしくしげこうぢ)から西は野寺小路(のでらこうぢ)までだ。内町四町の内、一町には市舎が設けられ、半町には市司(いちのつかさ)があって、その敷地内に市の守護神たる市姫(いちひめ)の祠もある。内町の東は西大宮大路(にしのおおみやおおち)、西は西堀川小路(にしのほりかわこうぢ)で、それぞれ大宮川(おおみやがわ)、堀川(ほりかわ)が流れていて橋が架けられおり、市を囲んだ築地の外にも溝水が巡らされていて、八つの橋により、外と繋がれている。

 鴉に乗ったまま西の市の上空をぐるりと一巡りした保憲は、市の西側の築地のすぐ外、野寺小路に小丸の気配を感じて、目を凝らした。小路沿いに燈明が見え、板葺や苫葺(とまぶき)の荒(あば)ら屋(や)が幾つか軒を連ねているようだが、晦日は即ち月籠(つきごも)りで闇夜、空は曇っていて星明かりさえなく、はっきりとは見えない。

(一体、こんなところで何をしてるんだ)

 訝りつつ、保憲は鴉を操って、そこから少し離れた、路の脇の溝に芹(せり)や蓮(はちす)、水葱(なぎ)が植えられている辺りの闇へ降り立たせた。次いで鴉に姿を消させ、湿地のぬかるみから出て、できるだけ乾いた辺りを通り、荒ら屋が連なるほうへ歩く。やがて聞こえてきたのは、男達が驚き騒ぐ声だった。

「また重六(ちょうろく)が出たぞ! すげえ、何回目だ?」

「何なんだ、この二人! これじゃ、先手必勝じゃねえか!」

「いかさまじゃないのか?」

 重六というのは、二つの賽(さい)を振って、ともに六の目が出ることで、賽の目の出方としては、最高の勝ちである。

(まさかあいつ、双六をしてるのか)

 保憲は意外に思いながら、申し訳程度の小柴垣(こしばがき)に囲まれた一軒の荒ら屋へと近づいていった。その屋の、燈明が漏れる戸口に数人の男達が立っていて、騒ぐ声もそこから聞こえてくるのだった。


          二


 小丸にとって、それは、陰のものが三個、陽のものが三個ある算木(さんぎ)を上手く置いて病を治したり、覆われ隠された見えないもの――覆物(おおいもの)を占う射覆(しゃふく)をしたりするより簡単なことだった。だが、板間に一人莚を敷いて座った、目の前の相手――袍の上に袈裟(けさ)を着て綺麗に頭髪を剃った僧形(そうぎょう)の少年も、同じように軽くこなしているようだ。二人が交互に筒(どう)に入れて振り、双六の盤上に転がす二つの賽の目は、先ほどから常に重六。長方形の盤上の白黒各十五個の駒石――馬(むま)は、双方全く同じように進んで、それぞれ目指す端の区画へ至ろうとしている。柳(つみかえ)という、双六の中でも最も単純な遊び方だ。このまま進めれば、余ほど馬鹿なことをしない限り、見物の男達が言うように、先手必勝。つまり自分の勝ちだ。

(あんまり遅くなったら、保憲が捜しに来るかもしれない……)

 ただでさえ忙しい保憲に、そんな迷惑は掛けられない。勝負を急ぐ小丸が、また重六を出すため、観想をし、力を込めて、筒の中の賽を盤上へ転がす――瞬間、ぱんっと手を打ち鳴らす音が響いた。途端にその場に満ちていた熱気がすっと冷め、見物の男達が一瞬動きを止める。静寂の中、からんころんと双六の盤上に賽の転がる音だけが小さく鳴って、五と三の目が出た。男達の熱気とともに、小丸の観想も、ただの一拍手に破られてしまったのだ。

「すみませんが、その者を帰して頂きます」

 涼しい声で言い、入り口の土間に集まった男達の間を縫うようにして現れたのは、保憲である。板間の端に腰かけたまま、ぎくりとして振り向いた小丸に目配せし、保憲は続けた。

「ここで去るを負けと言うなら、布衣でも衵でも置いていかせます。片袖のない布衣では駄目なら、わたしの布衣も置いていきましょう。それで宜しいですか?」

 さっさと話を進める保憲に、小丸の向かいに座った僧形の少年は肩を竦めて答えた。

「いや。この勝負、おれの負けだ。最初に余裕かまして先手を取らせたおれの不覚。あんたという邪魔が入らず、このまま続けてりゃ、確実におれが負けてただろうからな。ってことで、これをやる」

 少年僧が袍の袖から出して小丸に手渡したのは、きらきらとして透き通った数珠(ずず)である。

「それは、水晶……」

 保憲が呟き、じっと少年僧を見た。簡単に手に入るものではないのだ。

「だから、ついでに仁和寺まで送ってくれ」

 少年僧はあっけらかんとして言い、座っていた板間の莚から腰を上げる。

「じゃあ、おまえら、縁(えん)があったらまた遊んでくれ」

 見物の男達にひらひらと手を振って、土間に置いていた高足駄(たかあしだ)を履き、さっさと荒ら屋の外へ出ていった、その少年僧の後に、保憲がついて行く。周りの男達同様、唐突な展開に飲まれていた小丸も、傍らに置いていた未醤の壺(つぼ)を持って慌てて二人を追い、野寺小路へ出た。

「いや、しかし、あんた凄いな」

 荒れ屋から漏れる僅かな明かりを頼りに、真っ暗な野寺小路を北へ進みながら、妙に愛敬のある顔立ちをした少年僧は、迫力のある大きな両眼を好奇心に輝かせ、身振り手振りも交えて、大きな口で賑やかに話す。

「たった一回の拍手で、あの場の熱気を祓っちまったもんな。そう簡単にできることじゃねえ。そして、おまえも凄い。おれの他にも、賽の目を思い通りにできる奴がいるなんて、初めて知ったぜ。おまえら、一体何者なんだ?」

「陰陽得業生賀茂保憲と家の家人です」

 保憲がさらりと告げると、少年僧は愉快そうに笑った。

「ああ、あの賀茂忠行の後継ぎだな! それなら、あのくらいできるか」

「あのくらいで驚かれては困ります」

 どこかしら硬い口調で言って、保憲はいきなり三十六禽の鴉、鶏、雉を呼び出した。

「うわっ!」

 声を上げて後ずさった少年僧を尻目に、保憲は鴉に乗る。

「小丸、おまえは鶏に乗れ。あなた様は、どうぞその雉へ。これでお送り致します」

 仁和寺は、京のすぐ西北にある。西の市からの道程はかなりのものだが、空を飛べばさして時間はかからない。恐れることなく魔物の雉に乗った少年僧は、その、夜空のささやかな旅を楽しんでいるようだ。

(一体、あいつ何者なんだ……?)

 小丸は、ゆったりと羽ばたく魔物の鶏の背から、闇を透かして少年僧を見つつ、思う。あの市女笠の女が言った「生涯の友」とは、この少年のことだろうか。保憲が、妙に丁寧な態度を取っているのも気にかかる。確かに、水晶の数珠を持っているような相手は身分が上だろうが、それにしても、わざわざ三十六禽を呼び出して、こうして送る必要はないはずだ。

(おれのことも、安倍の氏(うぢ)は出さずに、ただ家人とだけ紹介してたしな。何か、警戒してるのか……?)

 保憲の考えは、いつも、はっきりとは読めない。だが、どちらにせよ、自分は保憲に迷惑を掛けてしまったのだ。いざという時、保憲を助け、守るためにと決意して、賀茂邸に留まってから、まだひと月半だというのに。抱えた未醤壺と、片方剥き出しになった衵の袖、手首に巻いた水晶の数珠を見つめ、小丸は、情けなさ悔しさに俯いた。

 やがて仁和寺の上空に至ると、保憲はその門前から少し離れたところに三羽の魔物を舞い降りさせた。

「世話になったな」

 少年僧は朗らかに礼を述べて雉から降りると、門へと向かいかけたが、ふと足を止めて振り返り、心持ち胸を張って言った。

「おれは寛朝(かんちょう)。伝燈満位(でんとうまんい)を賜ってる。何かおれで助けになるようなことがありゃ、頼ってくれ。じゃあな」

 ひらひらと手を振って、少年僧は去っていく。その後ろ姿をじっと見送ってから、保憲は雉に姿を消させ、自らの乗った鴉と小丸の乗った鶏を飛び立たせた。その横顔は、ひどく考え深げで、声をかけるのも躊躇われたが、小丸は思い切って口を開いた。

「保憲、すまない、遅くなって……。双六なんか、する気はなかったんだ……」

「する気はなかったのに、何故したんだ? 片袖までなくして」

 予想以上に冷たい口調で問われて、小丸は後悔の念を深くしながら、市女笠の女に声を掛けられ、妙な夕占をされて、幣として布衣の片袖を渡したことを話した。すると、保憲は更に考え深げな顔になり、押し黙ってしまった。


          三


 二羽の魔物を操り、大内裏の上空だけは迂回して賀茂邸に小丸を連れ帰った保憲は、魔物には姿を消させ、小丸には夕食を食べるよう指示すると、自らは真っ直ぐ姉の部屋へと向かい、簀子から格子の内へ声をかけた。

「姉上、ただ今帰りました。少々お話があります」

「中へ入って。今、妻戸の掛金を外すわ」

 近いところから返事があり、部屋の中で気配が動く。かちゃりと掛金の鳴った西南の妻戸を片方だけ開け、保憲はするりと姉の部屋へ入った。

 ひぐらしは、保憲が部屋に来るのを予期していたかのような顔で、円座を出し、無言で自らも莚に腰を下ろす。保憲は、その様子にむしろ納得がいって、話し出した。

「小丸は、おれが迎えに行った時、西の市の外で、博奕の双六をしてましたよ。何でも、市の、七条坊門(しちじょうぼうもん)と西靫負小路との辻で市女笠を被った女に勝手に夕占をされて、博奕をするよう告げられたそうです。それも、妙に迫力のある女だったとか。――姉上、未醤が切れたというのは嘘ですね?」

「ごめんなさい」

 素直に謝ったひぐらしに、保憲は溜め息をつく。

「大体、しっかり者の姉上が未醤を切らすなどおかしいと、最初から気づくべきでしたよ。で、一体どういう訳なんです?」

 問うと、ひぐらしはやや俯いて答えた。

「――夢を、見たのよ。お母様が枕元にいらして、今日の夕方、小丸を市へ行かせなさいと仰ったの」

「それは、夢というより、生霊(いきすだま)じゃないですか」

 母の所業に半ば呆れ、軽く皮肉った保憲に、ひぐらしは真顔で反論した。

「お母様が間違ったことを仰ったことはないわ」

「そうだとしても、小丸にまで干渉すべきじゃない」

 保憲がきっぱりと言い返すと、ひぐらしは僅かに怯んだような顔をした。姉の、母を信じる心を傷つけたくはないが、守るべき境界を忘れて貰っては困る。小丸は、今は家人同然とはいえ、安倍氏の人間なのだ。

「つまり、西の市で勝手に夕占をして小丸に告げたのも、われらが母上」

 断定した保憲の言葉に、ひぐらしも暗い面持ちで頷いた。夕占は、昔からある占(うら)の一つで、夕方、路に出て、区域を定めて魔除けの散米(うちまき)をし、咒を唱えたりして、その区域を通る人の言葉を聞いて吉凶を占うものである。しかしそれは、占いたい本人が占うものであり、卜師(うらし)などに占って貰うものではない。それを勝手に占って幣を要求するなど、押しつけがましいにもほどがある。

「どういうつもりなのかな、あの人は」

 額に手を当てて、保憲は呟いた。頭痛か眩暈がしてきそうだ。

「それで、お母様は、何故、小丸に博奕をするよう仰ったの?」

 ひぐらしが心配そうに訊いてきて、保憲は顔をしかめて言った。

「初めに見かけた博奕に参加すれば、生涯の友に会える、と。そうして、実際、それらしい方に会ってましたよ」

「それらしい方?」

「仁和寺の寛朝と仰る方で、伝燈満位を賜ってるそうです。おれと同い年か、少し上くらいの方ですよ」

「あなたと同じくらいの年で、伝燈満位……」

 ひぐらしも驚いたようである。伝燈満位とは、五位に相当する僧位だ。まだ学生で無位の保憲とは、比べものにならない高貴な身分である。しかも、夕暮れに寺にも帰らず博奕をしているあの奔放さ。あの自由さ。三十六禽を怖がりもしないあの気性。

「あの方の素性に心当たりがあります。恐らくは、式部卿の宮の二郎君(じろうぎみ)です」

「ということは、亭子院(ていじのいん)の……」

 ひぐらしの呟きに、保憲はゆっくりと頷いた。亭子院とは、寛平(かんぴょう)九年七月三日に醍醐天皇に譲位し、昌泰二年十月二十四日に出家して仁和寺に住まい、承平元年七月十九日に崩御した宇多法皇の号である。一品(いっぽん)式部卿(しきぶきょう)敦実親王(あつざねしんのう)は宇多法皇の第八皇子(おうじ)。要するに、あの少年僧は、先々帝の孫であり、今上の従兄なのだ。

「その方が、小丸の生涯の友になられるというの?」

「さあ、それは分かりません。まだ小丸の名も教えてないですから」

 答えながらも、保憲は直感していた。寛朝と小丸の間には、確かに今夕、縁ができたのだ。その縁は、もしかしたら、保憲がいなくなった後に、効力を発揮するのかもしれない。

(母上は、おれがいなくなった場合の賀茂家を案じて、この縁を作ったということか……?)

 自分にとっては、あまり愉快なことではない。けれど、小丸のためには、きっと喜ばしいことなのだ――。


            ◇


(あいつとはまた、別のことで勝負してみたいね)

 寛朝は、僧房(そうぼう)の己の部屋に寝転んで天井を見上げ、にやりと笑う。市まで出かけようが、博奕をして遅くなろうが、祖父が建立したこの寺での寛朝の地位は絶対である。宇多法皇が仁和(にんな)四年に建立させ、寛平九年七月三日に退位、昌泰二年十月二十四日に落飾ののち、延喜四年に僧房――室(むろ)を造らせ、二年前の承平元年七月十九日に六十五歳で崩御されるまで住まわれていた寺。それゆえ、御室(おむろ)とも、大内山(おおうちやま)とも呼ばれる仁和寺。そこへ、七年前、十一歳で放り込まれた――。

「ここは女人禁制だと、何度言ったら分かるんだ?」

 枕から頭を上げもしない寛朝の言葉に、現れた壺装束(つぼそうぞく)の女はにっと笑った。

「別に、足を踏み入れている訳ではないのですから、お許しを」

 目深に被った市女笠の陰に見える、赤い唇が動く。寛朝は舌打ちした。この女は生身でここにいるのではなく、生霊なのだ。

「で、何の用だ? 今宵、博奕には行ってきたぞ? それとも、また京のどこかへ、鬼見物にでも行けと言うのか?」

 寛朝は寝転んだまま女を見上げて問うた。

「どの遊びも、面白かったでしょう?」

 女は唇に笑みを浮かべたまま言い、ついと屈んで、白い指先で、撫ぜるように寛朝の額に触れる。

「そうして、面白い者達にお会いなされた。その者達との縁を、大事になされませ」

「……あんたの声、賀茂保憲に似てるな」

 寛朝が低い声で言うと、女の指が額から離れた。すっと立ち上がった女の唇からは、笑みも消えている。

「やっぱり、あいつと関係あるのか。あいつ、陰陽得業生とか言ってたが、女だろう? 賀茂氏にあんな姫がいるとは知らなかったが、何で、女がそんなことをしてるんだ? 陰陽寮の奴ら、誰も女が男の格好してるって見抜けねえのか? あんなにいい女なのになあ?」

「――夏虫は、火に飛び込む定め。なればこそ、瑠璃色の可愛い夏虫が思い切って火に飛び込めるよう、火に飛び込んでも、焼かれてしまわぬよう、打てる手は、打っておきたいのですよ。――また、参ります」

 淡々と告げて、女の生霊はすうっと消えた。

「漸く、あんたの思惑が見えてきた訳か」

 法名を金剛覚(こんごうかく)といった祖父、宇多法皇がまだ存命だった頃から、寛朝は孤独だった。師の背後から護摩の炎を睨みつけ、煩悩を焼き滅ぼすという、その火の中に、自分を寺へ入れた家族を見て、いつか法力を身に付けた暁には、呪詛をと思ったこともある。そんな自分の許を訪れ始めた生霊の女。追い返すことも、寺の者達に告げることもできぬまま、時が過ぎた。女の真意も分からぬまま言うことを聞いて、都を歩き回ってきた。

(あんたが来ねえと、おれは寂しくなる……)

 寛朝は顔をしかめて、ごろりと寝返りを打った。

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