月と花 承平陰陽物語

@hiromi-tomo

第1話 安倍の童小丸、陰陽の道へ入りし語

        一


 少し、甘かったのかもしれない。

 保憲(やすのり)は、焦りを覚えつつ、己の体の状態を確かめた。仰向けに横たわった体は、鉛のように重く、指の一本でさえ最早動かすことができない。やはり、一筋縄ではいかない怨霊だ。

(かの神との契(ちぎ)りがあるから、まだ大丈夫だと高を括ったのが、間違いだったかもしれないな)

 弱った心に浮かんだのは、傍にいるはずの父でも、邸で待ち続けているであろう姉でもなく、二年前に去った少年の面影だった。

(小丸(こまろ)――)

 最後に見たのは、泣き顔だった。普段なら、不機嫌と照れと戸惑い以外の感情を大して表さなかった切れ長の目や、まだ幼い鼻や口元にまで保憲の返り血を浴びて、混乱と悔恨の中で涙を流している顔。

(おれは、おまえの面倒を見るはずだったのに、結局、おまえを傷つけた――。このまま、おまえと会えないまま、怨霊に体を乗っ取られたり、死んだりするのは、嫌だな……)

 父への恩返しは、この厄介な怨霊を引き受けたことで果たせたかもしれないが、小丸のことだけは心残りだ。

(おまえに、もう一度、会うまでは――)

 保憲は、歯を食い縛り、心を強く立て直し、己にとり憑いた怨霊へと、意識を集中した。


            ◇


 雲の流れる中天を、二月(きさらぎ)の十六夜(いさよい)の月が過ぎようとしている。見上げたその月に重なるように、頭の上や顔の横で夜風に揺れているのは、赤みがかった若芽と淡い色の可憐な花だ。


  月(つき)かげも花(はな)もひとつに見(み)ゆる夜(よ)は大虚(おおぞら)をさへ折(を)らむとぞする

  〔月の光も花の色も白く一つに見える夜は、大空までも枝のつもりで折ろうとしてしまいそうだ〕


 寒空の月に手を伸ばし、ふと口ずさんで、太い幹と枝に体を預けた小丸は苦笑した。山奥で、山の獣の毛皮で作った皮衣(かわぎぬ)を纏い、蔓(かづら)で髪を束ね、獣同然に暮らしている自分。そんな自分が、早咲きの山桜(やまざくら)の大木を寝場所に選び、月を見上げ、紀貫之(きのつらゆき)の歌など口ずさんでしまうことがおかしかった。

 この熊野(くまの)の、様々な参詣の道からも外れた、遠く海を望む峰々に分け入って二年。新たな年を迎え、小丸は数えて十三歳になった。人として生きるのはやはり無理だと思う反面、いつまでも人里の――京の都暮らしを引き摺っている自分にも気づく。

「中後半端だな」

 小丸は呟いた。午(うま)の時から子(ね)の時にかけては、陰気(いんき)が増大していくせいか、自分の中の人ならざる血が騒ぎ、獣のように押し黙り耳を澄ませて過ごす。だが、子の時に陰極まって陽気(ようき)の増大が始まると、心が人に戻るのか、多くの言葉を思い、周囲に誰もいない山中では、つい口に出してしまうことがたびたびある。

(このおれが、こんなことを思うのも、全部おまえのせいだな……)

 今度は胸中で呟いて、小丸は、月の光を浴びる花や蕾を見つめた。

――「桜は、もともとは、小さな座と書いて、小座(さくら)。神々の座るところという意味なんだよ」

 懐かしい声が、耳の奥に残っている。咲き初めの、凛とした桜花(さくらばな)に重なるのは、透き通るような白い肌に、やや色の薄い絹糸のような髪が落ちかかる、涼やかで儚げな面影だ。代々陰陽道(おんようどう)を継承し、研究してきた賀茂(かも)氏に生まれた逸材。小丸より四歳年上で、小丸と同じように、修行する前から、この世ならざるモノを見る見鬼(けんき)の力を発揮した神童。和歌や陰陽道など、人の世のことを小丸に教えてくれたのは、まだ夏虫(なつむし)という童名(わらわな)で呼ばれていた、賀茂保憲(かものやすのり)だった。

(知りたいことも、知りたくないことも、全部、おまえから教わった)

 あの頃、小丸と人の世を繋いでいたのは、保憲だった。そして今も尚、小丸が人らしい部分を保っているのは、保憲と暮らした記憶があるからだ。

(おまえだけは――)

 ――失いたくない。

 母は、自分を置いて出ていって、今も消息が知れない。父は、自分を人らしくないと言って、賀茂邸に、捨てるように預けた。そんな母や父に何かあっても、自分は大して心動かされないだろう。だが、保憲に何かあれば、自分はきっと耐えられない。

(それだけは、耐えられない)

 だからこそ、自分は保憲から離れ、ここにいる――。

 清浄な夜気の中、震えのようなものが伝わってきて、小丸ははっと身を起こした。山を守る女神――山姫(やまひめ)が、異質なモノの侵入を感じている。

(何だ?)

 神経を研ぎ澄まし、小丸は、花と若芽の陰から辺りを窺った。月明かりに晧々と照らされた山肌は、ところどころに花を咲かせ始めた山桜が目立つ以外、どの木々も冬枯れの枝に芽吹いたばかりで、見通しはいい。と、不意に、山のモノとは異なる、妙に人臭い気配を感じて、小丸はそちらへ目を凝らした。まだ裸に近い木々の枝の下を、白い影がちらちらと動いている。

(こんな山奥に……、山の猟男(さつお)か、山伏(やまぶし)か?)

 人の形をしていて白い衣(きぬ)を着ているが、妙に足が速い。まるで滑るように、山肌を、小丸のほうへと登ってくる。

(――人じゃない)

 小丸はそう結論付けた。人臭いのは、恐らく、人に縁あるモノだからだろう。

(そんなモノが、何でおれに向かってくる?)

 人の姿をしたモノは、はっきりと、小丸を目指している。その動きには、明確な意志が感じられる。古くからの神域であり亡者の地でもあるこの熊野に、怪異は多いが、わざわざ自分を目指してくるモノに、心当たりはない。

(一体、あれは……)

 木の上で身構え、向かってくるモノを見極めようと集中を高めた小丸は、木の間を縫って近づいてきた姿に、目を瞠った。白い汗袗(かざみ)の長い裾と、濃色(こきいろ)の長袴(ながばかま)を翻し、腰を越す長い黒髪を靡かせた、抜けるように白い肌の、少女の姿。それは、よく見知っているモノだった。保憲と同じ顔、同じ声をした、保憲の分身のようなモノ。小丸がいる山桜の根元まで来て足を止めたのは、保憲の式神(しきがみ)だった。

「おまえ、白君(しろき)――」

 こんなところまで来るとは、何があったというのか。小丸を見上げ、その名も、白い君という式神は、険しい顔で告げた。

「夏虫が、危ない。京へ、戻れ」

 この式神は、いつまでも主(あるじ)の保憲を童名で呼ぶ。しかし、保憲が危ないとは。

「何があった」

「忠行(ただゆき)が内裏(だいり)に呼び出されて、それについて行った」

 式神は、硬い口調で語る。忠行とは、保憲の父親であり、京で名の知れた陰陽師(おんようじ)である。

「それから、今日で六日になる。だが、帰ってこない。おまけに、あいつの力、わたしを使えなくなるほどに、弱っている」

「内裏ってことは、帝の呼び出しか」

 元服(げんぷく)もまだの、弱冠十一歳の今の帝――今上(きんじょう)は、病弱だ。そして、その体の弱さは、ある怨霊に因るものだと、京では既に広く噂されている――。

 確かめようとした小丸に答えかけて、式神の姿がふうっと揺らいだ。

「……すがるの力では、こ……までか」

 式神は呟いて、苦しげに小丸を睨む。

「わ……とて、……まえなどに頼りたく……いが、わ……は、夏虫の身代わりにしかな……、帝の身代わ……無理……。……いつを助けら……のは、おま……だけ、京……、賀茂の邸(やしき)へ……れ」

 揺らぎつつ言い残して、汗袗を着た少女の姿は霞むように消えてしまった。

「白君?」

 小丸は急いで木から飛び降り、式神が立っていた辺りを見回した。が、少女の姿は跡形もない。すがるとは、保憲の腹違いの妹だ。保憲ほどではないにしろ、見鬼の力も持っている。保憲の式神を、すがるが使っていたとなれば、白君の言葉通り、保憲に何かあったということだ。

「賀茂の邸へ……」

 小丸は、乾いた声で呟いた。

 今も、己の手に付いた保憲の血の感触を、まざまざと覚えている。己の手が保憲を傷つけてしまった恐怖を、体の底からの震えを、はっきりと覚えている。二年前、保憲に大怪我を負わせ、賀茂邸を飛び出したのは自分自身だ。今更、帰れるはずもない。

「――戻れない――。無理だ――」

 怖いのだ。また何かあったら、自分は己の意思に反して、保憲を傷つけてしまうかもしれない。自分自身が、信じられないのだ。自分は獣なのだ。何をするか、何をしてしまうか、自分でも分からない。保憲を失うのだけは耐えられない。そして、自分が一番、保憲にとって危険な存在になるかもしれないのだ。

 俯いた小丸のつま先に、何かが触れた。枯草の中に半ば沈むように、白いものが落ちている。拾い上げてみると、それは、白い練絹(ねりぎぬ)を縫い、中に綿を入れて作られた人形(ひとがた)――天児(あまがつ)だった。幼い子供に降りかかる災いを、身代わりに引き受けるようにと、その枕元に置かれる形代(かたしろ)だ。

「……そうか、おまえ、保憲の天児だったのか」

 だからこそ、保憲と同じ顔、同じ声だったのだ。普通、子供が三歳ぐらいになれば捨てられる天児を、保憲は式神にして使っていたのである。白君という名には、白い君という他に、代(しろ)の君という意味もあったのだ。

 両手に収まる大きさの天児の、墨で描かれた線だけの眼差しが、訴えるように、じっと小丸を見上げてくる。その目を見つめる内、ふと、二年前、最後に聞いた保憲の言葉が、脳裏に蘇った。

――「そんな顔を、するな……。大丈夫だ……。初めて会った時にも、言っただろう? おれは、おまえが少々暴れようが何しようが、やられたりするほど、やわじゃない――」

 小丸の腕に、ぐったりと重い体を預け、血を流しながら、保憲は笑みすら浮かべてそう言ったのだ。

「……分かったよ」

 低い声で囁くと、小丸は小さな人形から枯草の屑を丁寧に取り、そっと胸に抱いた。

 再び保憲に会おうとするなど、二年前には、とてもできなかったことだ。過ぎた歳月は、無為ではなく、自分に、前へ進む力を与えてくれたようだった。


          二


「駄目……!」

 莚(むしろ)を敷いた床の上に座り込んだ十一歳の少女は、目鼻立ちのはっきりとした愛らしい顔を歪め、絶望したように喘いだ。

「熊野は遠過ぎる。力が続かない。白君、どうなったか分からない……!」

 白君という式神は、元が天児というだけあって、使う者が意識を繋げておけば、白君が見聞きしたもの、感じたものが、そのまま伝わってくる、即ち己の身代わりとして使うことのできる式神である。その白君を使って、ここ平安京(へいあんきょう)のある山城国(やましろのくに)から、紀伊国(きいのくに)の熊野まで意識を飛ばし続け、ついに力尽き、肩で息をしながら涙ぐむ腹違いの妹。その隣に座り、自分とお揃いの袿(うちき)を纏った背を、ひぐらしは優しく撫ぜて慰めた。

「大丈夫よ、小丸がきっと、白君を連れて、戻ってきてくれるわ」

「でも、白君が小丸に会えたかも分からないし、会えたとしても、小丸、本当に戻ってきてくれるかしら? 小丸、お父様のこと恨んでるかもしれないわ」

「……それはないわ」

 ひぐらしは、床に届く黒髪を揺らして、妹の言葉をはっきりと否定した。ひぐらしには、すがるのように式神を使うほどの力はない。この世ならざるモノを感じ、意図的に姿を現している式神を見るぐらいの力しかない。けれど、すがるより八年長く生きていて、人の世の機微には、すがるより通じている。父、忠行のことも、かの少年、小丸のことも、すがるよりはずっと大人の目で見ていた。ゆえに断言できる。

「小丸は、保憲を傷つけてしまった自分が怖くなって出ていったのよ。お父様や、わたくし達、そして誰より保憲を傷つけたくなくて、出ていったの。自分の力の恐ろしさを知って、人を傷つけてしまう怖さを知った、優しい子よ。優しい子だから、人を助けるために、強くなるわ。保憲のためなら、絶対よ。必ず白君を連れて、戻ってきてくれるわ」

「……そうよね……!」

 頷いて涙を拭ったすがるの滑らかな黒髪を何度も撫ぜ、ひぐらしは、傍に置いた切燈台(きりとうだい)へふっと目を遣った。寒さを防ぐため、床の上に莚を敷き、火桶(ひおけ)を置いて几帳(きちょう)で囲んだ、この狭い空間を照らす細々とした燈火(ともしび)。その小さな火が、今のひぐらしには不吉の象徴のように見える。

(お母様は、何故あの子に、夏虫などという名をお付けになったのかしら)

 ひぐらしと夏虫の生みの母、あやめは、夏虫が三歳の時に家を出て行方を晦ましたので、最早、何故と問う術(すべ)はない。

(夏虫などと、不吉な名を……)

 恋歌で、自ら滅ぶものとして詠まれる夏虫。自ら火に飛び込む夏虫。夏虫――保憲が、内々のお召しを受け、父とともに参内(さんだい)してから既に六日が経つ。先年の秋の司召除目(つかさめしのじもく)で陰陽師から陰陽博士(おんようはかせ)へと位を進めた父、忠行と、同じく先年、得業生(とくごうしょう)試に受かって陰陽生(おんようしょう)から陰陽得業生(おんようとくごうしょう)へと進んだ保憲。この二人が内々に内裏へ呼び出された、その用件は明らかだ。きっと、都中で噂されている、かの怨霊が関係している。

(……道真(みちざね)様のお怒りとお悲しみは、お亡くなりになって三十年が過ぎた今になっても、まだ癒されることはないのね……)

 ひぐらしは、燈火を見つめる目を悲しく細めた。

 昌泰(しょうたい)四年の春、従二位(じゅにい)の右大臣(うだいじん)であった菅原道真(すがわらのみちざね)は、左大臣(さだいじん)藤原時平(ふぢわらのときひら)らの讒言から、先帝の醍醐天皇(だいごてんのう)により大宰権帥(だざいのごんのそち)に落とされて大宰府(だざいふ)へ左遷され、そのまま京へ帰ることなく、延喜(えんぎ)三年二月二十五日、この世を去った。以来、京ではたび重なり怪異が起こるようになった。

 延喜四年四月七日には、内裏の紫宸殿(ししんでん)などに落雷があった。延喜五年四月十五日には月蝕があった上、大彗星が乾(いぬゐ)の方角に現れて人々を脅(おびや)かした。この大彗星はそれからほぼ毎夜見えて、乾の反対の巽(たつみ)の方角まで夜空を横断するように長々と伸び、五月三日になって漸く見えなくなった。これにより、六月十五日には大赦令の詔(みことのり)が出された。同年八月には、道真の門弟の味酒安行(あまさけのやすゆき)が太宰府の東北に道真を祭る祠を建て、方々に左遷されていた菅原氏一族も復官を許されたが、延喜六年四月には雷雨と暴風が数日続いて賀茂川(かもがわ)が氾濫し、更には梅(むめ)の実ほどの雹も降って人畜が死傷した。延喜八年十月七日には雷雨があり、道真の左遷に関わっていた一人、参議(さんぎ)兼侍従(じじゅう)兼式部大輔(しきぶのたいふ)藤原菅根(ふぢわらのすがね)が、雷に打たれて亡くなった。延喜九年四月四日には、道真を陥れた中心人物である藤原時平が、働き盛りの三十九歳で没した。延喜十二年六月三日には、乾の方角にまた彗星が現れ、九日まで続き、十二日には西の空に再度現れた。延喜十三年三月十二日には、右大臣源光(みなもとのひかる)が狩りの最中、泥に沈み、遂に骸(むくろ)すら見つからなかった。源光は、時平とともに讒言して道真を陥れた首謀者の一人であった。延喜十七年には、七月以降旱魃が続いた上、京を跋扈する盗賊の群(むれ)――群盗が著しく増加していった。延喜十九年には時平の弟、参議藤原仲平(ふぢわらのなかひら)が味酒安行の建てた祠を大きな社殿に建て直したが、延喜二十三年三月二十一日には、東宮(とうぐう)であった保明親王(やすあきらしんのう)が二十一歳の若さで、何の病でもなかったというのに突然薨去した。この親王は、醍醐天皇の皇子(みこ)であり、時平の妹、穏子(やすこ)を母后(ははきさき)として生まれているので、その急死は道真の祟りと考えられ、朝廷は左遷の詔を破棄して道真を復官させた上で、改めて正二位(しょうにい)を贈った。同年閏四月十一日には、年号も延長(えんちょう)へと変えられた。しかし、保明親王の後を継いで三歳で東宮となったその子、慶頼王(よしよりおう)も、二年後の延長三年、春から流行した疱瘡(もがさ)に罹り、五歳で病没。慶頼王の母たる女御(にょうご)、仁善子(よしこ)は、時平の娘である。延長八年六月二十六日には、旱魃が続くので、上達部(かんだちめ)、殿上人(てんじょうびと)らが内裏で雨乞(あまごい)について話し合っていたところ、午の三刻に黒雲が現れ、突如雷鳴があり、清涼殿(せいりょうでん)の西南の第一柱に落雷があり、火事が起こった。清涼殿の殿上(てんじょう)の間(ま)にいた大納言(だいなごん)兼民部卿(みんぶきょう)藤原清貫(ふぢわらのきよつら)と右中弁(うちゅうべん)兼内蔵頭(くらのかみ)平希世(たいらのまれよ)は雷に打たれ、藤原清貫は衣が焼け胸が裂けて即死、平希世も顔が焼けてやがて死亡。紫宸殿にいた右兵衛佐(うひょうえのすけ)美努忠包(みぬのただかね)も髪を焼かれて死に、その他、辺りにいた近衛(このえ)など数名も大怪我を負い、死亡した。著しい衝撃を受けた醍醐天皇は病の床に着き、同年九月二十二日に、慶頼王の後に東宮となっていた八歳の寛明親王(ゆたあきらしんのう)――第十一皇子(おうじ)の今上に譲位して、僅か七日後の二十九日に崩御した。その翌年の延長九年四月二十六日には、年号が承平(しょうへい)へと変えられたが、その承平元年六月には参議兼大蔵卿(おおくらきょう)藤原清蔭(ふぢわらのきよかげ)邸が怪火で焼失、年末には故藤原菅根邸に群盗が押し入って立て籠るということがあった。承平二年、即ち去年には、富士が噴火し、世の中は未(いま)だ落ち着かない。この承平三年一月には、群盗があまりに横行するので、それぞれ左右ある兵衛府(ひょうえふ)、衛門府(えもんふ)、馬寮(まりょう)の者に、組と順を決めて宿直(とのい)の任に当たらせるということもあった。

 新たな年を迎えて御年十一歳になられた今上は、保明親王の同腹の弟宮(おとみや)であり、生まれてより三年間は、道真の祟りを恐れて、住まいの寝殿(しんでん)の格子(こうし)も上げず、夜も昼も燈火を絶やさずに、帳台(ちょうだい)の内で育てられた。それゆえか、或いはやはり祟りのせいか、体が弱く、即位してのちも、健康の優れない日々が続いているという。父と保憲が内裏へ呼び出されたのも、十中八九、今上の健康のことでだろう。六日も帰ってこないということは、それだけ深刻な事態だということだ。保憲の式神である白君も、保憲の身が危ないと言って、自らすがるに頼み、小丸の気配があるという熊野へ行ったのだ。

(どうか保憲、無茶だけはしないで……)


  あたらしき年(とし)の始(はじめ)にかくしこそちとせをかねてたのしきをつめ

  〔新しい年の始めにこのようにして、千年もの未来を先取りして、楽しみを積み重ねるのだ〕


 ひぐらしは、目を閉じ、禍(わざわい)を吉に転じる霊力を持つ神、大直毘神(おおなおびのかみ)を祭る歌を呟いた。


          三


 先々帝(さきのさきのみかど)たる宇多(うだ)天皇の御世以来、たびたび仁寿殿(じじゅうでん)に替わって天皇の御所となっている清涼殿。その清涼殿の外では、邪気祓いの弦打(つるうち)の音が絶え間なく続いている。が、弦打如きでは、最早殆ど意味はないだろう。清涼殿の夜御殿(よるのおとど)の東側に隣接する二間(ふたま)の中、陰陽博士賀茂忠行(かものただゆき)は、ぎりと唇を噛んだ。座して見つめたその先には、畳と綾莚(あやむしろ)を重ねた寝床に、衾(ふすま)をかけて寝かせた保憲の、血の気を失った白い顔がある。東大寺(とうだいじ)や延暦寺(えんりゃくじ)、宇多天皇の建立である仁和寺(にんなじ)、藤原氏の氏寺である興福寺(こうふくじ)など、諸寺の有名な僧綱(そうごう)らを召して行なわれた加持(かぢ)、祈祷(きとう)も、効果を現さなかった。陰陽(おんよう)の大家として自他ともに認める自分が、持てる力と知識の限りを尽くして卦(け)を立て、様々な式占(しきせん)を行ない、幾度も観想(かんそう)し、咒(じゅ)を唱え、兎歩(うほ)を行なっても、内裏に満ちたこの邪気を祓うことはできなかった。

 六日前、まだ幼い今上の容態は寸刻を争った。憑いている怨霊をすぐにでも引き剥がし、邪気を祓う必要があった。けれど、この怨霊の恨みは相当強い。恨みの強い怨霊は、それだけ相手から離れにくい。紙や布などで作った生半可な形代や撫物(なでもの)では、この怨霊を引き受けられない。保憲は天児から作った式神を持っているが、それは保憲の身代わりにしかなれないモノなので、今上の身代わりは務まらない。生身の形代――身代わりとなる人間が必要だった。しかし、身代わりとなった人間の命は保障できない。悩む忠行に、助手として、内裏について来た保憲が、形代となることを申し出たのだ。

――「父上、わたしなら大丈夫です。わたしを信じて下さい」

 まだ修行もしない十歳の頃から見鬼の力を発揮したわが子の言葉に、忠行は縋った。他に手段はなかった。

 この不吉な清涼殿を避けて、母后のおられる飛香舎(ひぎょうしゃ)に移られた今上の容態は、とりあえず安定し、十三日には藤原仲平を右大臣とする詔を出すなど、形ばかりとはいえ、政務も行なえるようになった。一方、この二間に寝かされた保憲の体は、日に日に弱ってきている。天賦の力を持った子といえども、怨霊に憑かれることに対して、そう強い訳ではなかったのだ。

(やはり、これほどの怨霊をその身に引き受けるなど、荷が重かったか)

 自分に、もっと力があれば、と思う。

(こんなところで、この子を失う訳にはいかんというのに……!)

 膝の上で両手を握り締めた忠行の脳裏に浮かんだのは、保憲を凌ぐほどの天賦の力を持つ、一人の少年だった。



 あの少年が邸に来たのは、五年前の二月だった。春とはいえまだ寒い日の夕刻、従五位上(じゅごいのじょう)主計頭(かずえのかみ)であった安倍益材(あべのますき)が、あの少年を伴って訪ねてきたのである。

 当時、まだ従七位上(じゅしちいのじょう)陰陽師であった忠行は、位がかなり上の客人(まろうと)の来訪を家人(けにん)から告げられて、眉をひそめた。安倍益材が常陸介(ひたちのすけ)に任じられた際、忠行も陰陽師として常陸国(ひたちのくに)へともに下ったという縁(えにし)はある。が、位が上の者が、わざわざ位が下の者の邸に訪ねてくるなど、一体どうしたことだろう。

(これは、面倒事だな)

 確信して、寝殿の南面(みなみおもて)の客間に益材(ますき)を迎えた忠行は、その傍らに幼い少年を見て、面倒事の内容を、ほぼ看破した。益材は、上座に置かれた円座(わろうだ)に腰を下ろすと、頬のこけた顔で忠行を見、自らの右手側に座した少年にもちらちらと目を遣りながら、話し始めた。

「陰陽の大家として名の知れたそなたに、折り入って頼みがある。これなる、わが子を、陰陽師として、育てて貰いたいのだ」

「かの安倍仲麻呂(あべのなかまろ)様や、右大臣安倍御主人(あべのみうし)様、最初の左大臣安倍倉橋麻呂(あべのくらはしまろ)様を輩出した由緒ある安倍氏の若君を、陰陽師に、ですか」

 安倍氏は、これまでに陰陽寮(おんようりょう)の長官(かみ)たる陰陽頭(おんようのかみ)は輩出しているが、その下で働く技官たる陰陽師を出したことはない。念を押した忠行に、益材は苦渋の表情で頷く。

「七歳までは神の内と、これまで耐えてきたが、八歳になっても、一向、人らしくなる様子が見えぬ。それどころか、腕力や素早さは増すばかりで、先日は、何に腹を立てたものやら、わが家の家人を一人殺しかけた。最早、わが手には負えぬのだ」

 忠行は、八歳になったという少年を、じっと見つめた。上級貴族の子のように髪を頭の両側で輪にする鬟(みづら)に結ったりはせず、ただ束ねて後ろに垂らしているが、それでも貴族の子らしく、童装束の細長(ほそなが)の袍(ほう)を着せられている。しかしその格好とは裏腹に目が鋭く、一応座ってはいても、落ち着きというものがない。神経を尖らせ、絶えず、何かに気を取られている様子だ。何に気を取られているのか――、忠行には、分かる。常人の目には見えないモノ達――賀茂邸の中にも、そこらの虫けらと同じ扱いで放っておいている小物達が多少いるが、それらの、微かな気配や姿に反応しているのだ。

(やはり、あの噂は本当か)

 この少年の母は、益材が助けた「白狐(しろぎつね)」であるという。人にあらざるモノが、そう簡単に人と交わるとは思えず、信憑性の薄い噂だと思っていたが、こうして、直(じか)に見てみると、俄然、真実味が増してくる。

「そうまで仰るのでしたら、否やはございませぬ。謹んで、お預かり申し上げまする。但し、陰陽(おんよう)の道を修めるのも、容易いことではございませぬ。幾らそちらの才能がございましても、陰陽師として大成するという保証はできかねますが、宜しいでしょうか」

「多くは望まぬ。この子が、人として暮らしていけるよう、どうか、宜しく頼む」

 最後には頭まで下げて、益材は帰っていった。後には、ぽつりと、頑なな様子で座り続ける八歳の少年が残された。

 車寄(くるまよせ)まで益材を見送りに行って客間に戻った忠行は、険しい顔をした小柄な少年の真ん前にどっかりと腰を下ろして言った。

「聞いての通り、そなたは今日からこの邸で暮らすことになった。だが、わしも陰陽師として陰陽寮に勤める身。決して暇ではない。よって、そなたの世話は当分の間、わが子、夏虫に任せることとする。まだ修行もせぬ十歳の頃から見鬼の力を発揮した子だ。そなたとは歳も近い。陰陽道を学ぶ前に、まず、人として生活することを、夏虫から学ぶがよい」

 幼い少年は、鋭い目で忠行を見上げた。獣の目だ。

「夏虫、後は任せるぞ」

 忠行は、先刻から客間の外の廂(ひさし)の間(ま)に控えているわが子に声をかけて、客間の隣の己の居室へ引き揚げた。

 目論見通り、少年は夏虫に懐き、人らしくなっていき、陰陽道のことも覚えていった。だが、やはり、人にはなり切れなかったのだ。夏虫が元服して保憲と名を改め、陰陽生となり、陰陽寮に毎日出向き始めてから、少年の素行は再び荒れ始め、二年前、とうとう保憲に大怪我を負わせて姿を消した。以来、京でその姿を見たことはない。



(あやつならば……、あの力があれば……)

 だが、戻っては来ないだろう――。忠行は、充血した目で保憲の閉じた瞼を見つめると、居住まいを正して立ち上がった。巻き上げず、垂らしたままの壁代(かべしろ)と簾(すだれ)を一緒くたに潜って孫廂(まごびさし)へ出、孫廂から簀子(すのこ)へと出て、階(きざはし)から東庭へ降り、忠行は何度目かの観想を始めた。


            ◇


 庭から、歯を鳴らして邪気を祓う鳴天鼓に次いで、勧請咒、天文咒、地戸咒、玉女咒と、続けて唱える声がする。父がまた、同じ一連の咒を唱え、兎歩を行なおうとしている。ただの繰り返しだ。

(父上も焦ってるな……)

 いつもの沈着冷静な父ならば、この邪気を祓うために、もっと別の手段なり何なり、考えようとするはずだが、完全に思考が止まってしまっている。

(このままじゃ、さすがにまずいな)

 体は、もう殆ど動かせない。意識も、いつまでもつか分からない。

(あの契りが果たされるまで、死ぬことはないはずだから、形代となることを申し出たけれど……、死なないだけで、体が使いものにならなくなる可能性はある。早く、突き止めないとな……)

 保憲は、自らをとり殺そうとする怨霊に、意識を集中する。内裏へ来て、この邪気を感じ、この怨霊を目にしてから、ずっと感じている違和感がある。父を始めとする陰陽師達、そして加持、祈祷をしに来ている僧正(そうじょう)達や、その配下の僧都(そうづ)や律師(りっし)達の話では、この怨霊は菅原朝臣(すがわらのあそん)ということだった。しかし、僧鋼達が連れてきた寄りましの女童(めのわらわ)は、怨霊を降ろされても大したことを話していないし、ただ一体の怨霊にしては、気配が濁り過ぎている気がするのだ。

(確かな姿はまだ見せてくれないが、この怨霊の思念を辿れれば、はっきりと正体を掴んで、鎮められるかもしれない……)

 保憲は、辛うじて己を保ちながら、意識を怨霊の中へ融け込ませていった――。


          四


 紀伊国を出て、大和国(やまとのくに)と河内国(かわちのくに)の国境(くにざかい)に連なる山々の尾根を駆け、金剛山(こんごうざん)を過ぎた辺りで空が白み始め、葛城山(かづらきやま)を過ぎ、二上山(ふたがみやま)に至ったところで、盆地に溢れた雲海の彼方に、空を朱(あけ)に染めて日が昇り始めた。


  東(ひむがし)の野(の)にかぎろひの立(た)つ見(み)えてかえりみすれば月(つき)かたぶきぬ

  〔東の野に曙(あけぼの)の光の射し初めるのが見えて、振り返ってみると月は西空に沈もうとしている〕


 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌が、脳裏を過(よ)ぎる。保憲が、最も好きだと言っていた歌だ。この雲海の底には、藤原の宮――奈良の都の前の都があったはずだ。そんなことも、保憲から教えられた。飛ぶように走る足を止めないまま、小丸はちらと西の空へ目を遣った。十六夜の月は、白く薄く、まだそこにある。

(すぐに行く……)

 小丸は、懐に入れた天児と、京にいる保憲に、胸中でそっと囁いた。


            ◇


  峰(みね)たかきかすがの山(やま)にいづる日(ひ)はくもる時(とき)なくてらすべらなり

  〔峰が高い春日山に出た日は、これからずっと曇ることなく世を照らすに違いないでしょう〕


 生まれた時に、そう寿(ことほ)いでくれたのは、典侍(ないしのすけ)藤原因香朝臣(ふぢわらのよるかのあそん)だったと聞く。父帝(ちちみかど)が選ばせた古今和歌集(こきんわかしゅう)にも載っていた。そうして祝われて生まれ育ち、東宮となった自分が、何故、天皇になれず、このような暗闇にいるのだろう。

「大輔(たいふ)、大輔……」

 寝言のように呟いて、保憲ははっと目を開けた。意識が混濁していた。怨霊の思念の断片が、自分の中に入り込んでいた。

(今のは、菅原道真様じゃない。今のは――)

 保憲は、鉛のように重たい体を動かして、傍にいるはずの父を捜した。が、父の姿が見えない。それどころか、瞼を開けているはずなのに、何の調度(ちょうど)も目に映らない。室内の様子も分からず、綾莚の上に寝かされ、衾をかけられているはずの自分の体すら、どこにあるのか、全く見えない。

(まずい)

 怨霊の思念に完全に取り込まれてしまえば、終わりである。怨霊の意識の中に入り込みながらも、己の意識は保っておかなければ、鎮めることはできない。焦った保憲の目の前に、ふっと、くつろいだ袿姿の美しい女人が現れた。

「貴子(とうといこ)」

 反射的に呼びかけると、女人は袖を口元に当てて、ふわりと微笑み、言った。

「どうか、貴子(たかこ)とお呼び下さいませ。そのように親しくお呼び下さいますと、恥ずかしゅうございますわ」

「いいだろう? わたし達は夫婦(めおと)なのだから。それにわが父帝も、わたしが童(わらわ)の頃は、わが母后のことを、親しく穏子(おだいこ)とお呼びになっていた」

 悪戯っぽく答えて、自分は女人に歩み寄り、その豊かな黒髪ごと抱き締める。

「わが愛しい、貴(とうと)い子」

 耳元で囁くと、貴子は、腕の中で、くすぐったそうに身を捩った――。

 そこで、目の前の情景が変わった。

 豪華な衣装を身に纏った母后が、涙で袖を濡らしている。周りにいる者達が、女御であるはずの母后のことを、中宮(ちゅうぐう)様と呼び、祝っている。母后の手許へ、歌が一首届けられた。自分の乳姉妹(ちきょうだい)の、大輔命婦(たいふのみょうぶ)の筆跡だ。


  わびぬれば今はとものを思へども心ににぬは涙なりけり

  〔もうすっかり嘆き切っているのだから、何事も今は思うまいと心に決めているのに、心のままにならないものは涙でした〕


 何を嘆く歌だろう。大輔は、何を嘆く歌を寄越したのだろう。母后は、何故、祝われながら、悲しげに隠れて涙しているのだろう。

 また、目の前の情景が変わった。

 両側に木々の生い茂る山道だ。どこかで、郭公(ほととぎす)が鳴いた。上には山寺があり、そこから、黒色や鈍(にび)色ばかりの行列が下ってくる。喪中の行列だ。法事の帰りだろう。行列の中には、鈍色の喪衣(もぎぬ)を着た大輔が混じっていて、沈んだ面持ちで歌を詠んだ。


  今はとてみ山を出づるほととぎすいづれの里に鳴かんとすらん

  〔今はこれまでというので、山の寺から人々は帰っていき、折しもほととぎすが山から里へ出ていって鳴いているが、ほととぎすならぬ人々は、これからどの里へ行って泣き暮らそうというのだろう〕


 今は、今は、と、大輔は何を悲しみ、何を過去に置き去ろうとしているのだろう。

 また、違う情景が現れた。

 清涼殿の殿上の間に、餅が出してあり、大臣(おとど)、上達部、殿上人らが入れ替わり立ち代わりやって来て、赤子が生まれて五十日目の五十日(いか)の祝いを述べている。その中に、左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)藤原伊衡(ふぢわらのこれひら)がいて、壁を隔てた母屋(もや)におられる帝(みかど)へ、歌を詠進した。


  ひととせにこよひ数ふる今よりはももとせまでの月かげをみん

  〔今宵のおめでたい祝いに当たって、一日を一年に数えるとしますと、今宵の百日はそのまま百歳ということになって、百歳までの輝く月光――御子(みこ)様の末長い御威光を仰ぎ見ることができましょう〕


 すると、驚いたことに、父帝が、自ら歌を返した。


  祝ひつることだまならばももとせの後(のち)もつきせぬ月をこそ見め

  〔そなたの祝ってくれたこの歌の言葉に霊妙な力があるならば、この御子も百歳ののちまで生き長らえるだろうから、いつまでも尽きることのない月光――御子の威光を見ることができよう〕


 百年(ももとせ)ののちまでの月光――威光を見られる――、そう寿がれているのは、どの御子だろう。ここまで寿がれているのだから、皇子であることは間違いないだろうが――。

 ふっと、また情景が変わった。

 再び、貴子が目の前にいる。だが、その美しい横顔は、前とは違って憂いに満ちている。貴子は、文(ふみ)を書いている。薄く上質な紙――薄様(うすよう)にさらさらと書きつけているのは歌だ。


  時のまもなぐさめつらん君はさは夢にだに見ぬわれぞ悲しき

  〔夢で会えたあなたはその間だけでも慰められたことだろう、わたしは夢で会うことさえできなくて悲しい〕


 そう歌われている、夢でも会いたい相手とは誰だろう。

「これを、大輔の君へ」

 貴子は、控えていた女房(にょうぼう)にそう告げて、文を渡した。大輔の君とは、乳姉妹の大輔のことだろう。二人が文を遣り取りするような仲だとは知らなかった。自分の妻と乳姉妹とが文を交わしているとなると、やはり、その内容の大半は――。

 目の前の情景がさあっと移り変わり、いつの間にか、貴子の手許に、大輔からの返しの歌が届いている。


  こひしさの慰むべくもあらざりき夢のうちにも夢と見しかば

  〔恋しさは慰めようもありませんでした、夢現のような日々を過ごす中の夢で会ったのですから〕


 大輔も悲しんでいる。大輔が夢で会った、貴子が夢でも会いたいと歌った相手は、一体誰なのだろう――。答えが分かりそうで分からない。全ての答えを既に知っている気がするのに、何故か思い出せない。意識が混濁している。自分は、今、何をしているのだろう。自分は、一体、誰だったろう――。思い出せない。

 ――彼は、その否応のない苦しみに、うめいた。


          五


 山城国に入り、西日を反射してきらきらと輝く巨椋池(おぐらいけ)を右手に見つつ男山(おとこやま)を下った小丸は、泉川(いづみがわ)と桂川(かつらがわ)が合流する辺りを渡り、そのまま真っ直ぐに京を目指した。が、京に近づけば近づくほど、足が鈍りそうになる。気持ちが怯みそうになる。保憲に呼ばれて行く訳ではないということが、改めて強く思われ、心が竦む。自分が目の前に現れた時の、保憲の反応が怖い。

 自分は保憲に大怪我を負わせ、その最大の秘密を知ってしまった。許されるはずもないと思いながら、許されることを願っている。

 あの幼い日々、保憲――夏虫は、小丸の、全てだった。



 出会ったのは、小丸が八歳に、夏虫が十二歳になった春。ある日の夕方、父に引き摺られるように牛車(ぎっしゃ)に乗せられ、賀茂忠行邸に連れて行かれたのだ。

 父は、昔部下だった陰陽の大家の忠行に、小丸を陰陽師として育ててくれと頼み、そのまま小丸を置いて帰ってしまった。体のいい厄介払いである。見知らぬ邸に預けられたことに、ひどく傷つき、緊張して座っていた小丸の前に、やがて現れたのが、夏虫だった。

 小丸にとって、夏虫の第一印象はあまりよくなかった。妙な気配の奴だと思った。そして、全く、変な奴だった。質素な無紋の狩衣(かりぎぬ)――布衣(ほい)を着て髪を束ねた夏虫は、最初、冷ややかな目で小丸を見下ろし、立ったまま、いきなり歌を一首口ずさんだ。


  こひしくはたづねても問へ和泉(いづみ)なる信太(しのだ)の森のうらみくずのは

  〔恋しく思ったならば捜してでも訪ねてきなさい、和泉国(いづみのくに)にある信太の森の裏見(うらみ)の――心残りの葛の葉です〕


 それは、葛葉(くずのは)と呼ばれていた母が、小丸を置いて家を出る時に残した歌だった。びくりと肩を震わせた小丸に、夏虫は口調も冷ややかに言った。

「母親に捨てられ、今また父親にも捨てられたと、そういう顔だな。手に負えない、と言われた気分はどうだ? いっそ、人じゃないので捨てる、とはっきり言われたほうが、踏ん切りが着いたか?」

 そこまで言われて、小丸は最早、耐える必要を感じなかった。

 体中に湧き上がる怒りのままに、小丸は夏虫へ向かって跳ね上がり――、ばさばさっと羽音も荒く現れた三羽の大きな鳥の魔物によって、阻まれた。

 予想外のことに気が動転し、両手両足を使って着地した小丸を見下ろし、夏虫は言葉を重ねた。

「隙間だらけの心だ。弱過ぎる。だから、そうしてすぐ魑魅魍魎に入り込まれ、簡単にわれを忘れる。まずは、その隙間を埋めていかないと駄目だな。――この鳥達は、三十六禽と呼ばれる三十六体の魔物の内の三体でね。時刻によって、三体ずつ違う魔物が出てくる。もう日が暮れて酉(とり)の時だから、この三体、鴉(からす)、鶏(にわとり)、雉(きじ)が出てくる」

 淡々と説明し、夏虫は、ふっと微笑む。

「だから大丈夫だ。おれは、常にこいつらに守られてる。おまえが少々暴れようが何しようが、やられたりするほど、やわじゃない。安心していい」

 それから腰を屈めて、夏虫は小丸の顔を覗き込んだ。

「夕食(ゆうけ)は食べてきたか?」

 小丸は答えず、目を逸らした。ここへ連れて来られると聞いて、強情を張り、食べなかったのだ。そんな事情も見透かしたのだろう、口の端に苦笑を浮かべた夏虫は、すっと手を伸ばして小丸の手を握り、言った。

「だったらお腹空いただろう? 汁粥(しるかゆ)を用意させる。おれの部屋で食べよう」

 小丸は手を掴まれているのが無性に嫌で、逃げようとしたが、夏虫は小丸の手をぎゅっと握って離そうとしない。それで、仕方なく引っ張られて客間を出た。実際お腹は空いていたのだ。

「ところで」

 夏虫は小丸の手を引いて、廂から更に簀子へ出て歩きながら、振り向いて問うてきた。

「何て呼んだらいい? まだ名を聞いてないんだけれど?」

「……小丸」

 小丸は、目を伏せて答えた。

 夏虫は、小丸が初めて知る類(たぐい)の人間だった。小丸には分かりにくい、難しいことを、ぺらぺらとよく話し、表情もくるくると変わるが、どれが本気の表情なのかよく分からない。

(でも、強い)

 三匹の魔物はいつの間にか姿を消したが、その気配はまだ近くにある。人に従う魔物など見たのは初めてだ。夏虫という、この年上の少年は、この世ならざるモノが見え、それらに自ら関わることができるのだ。

(母上みたいな……、こんな奴が、母上の他にもいるんだな)

 小丸は、ぽつりと胸中で呟いた。

 夏虫は簀子から寝殿と対(たい)の屋(や)を繋ぐ渡殿(わたどの)へと進む。両側に簾がかけてあって壁のない、透渡殿(すきわたどの)だ。

「この西の対(たい)には、おれと姉上が住んでるんだけれど、それ以外のモノもいたりするから、うちで使ってる下人(しもびと)達は、鬼の対なんて呼んで、あんまり近寄りたがらないんだよ」

 意味深長な説明をしつつ、夏虫は廂に上がって北へ向かい、北廂の入り口にある遣戸(やりど)を引き開けて、中へ小丸を入れた。

「ここが今日からおまえの部屋だ」

 言われたそこは二間の曹司(ぞうし)になっており、突き当たりは壁、簀子側は格子、簾、几帳で外と隔てられ、母屋側は絵の描かれた襖(ふすま)障子(しょうじ)になっている。夏虫とともに、そこにあった円座に腰を下ろし、暫く待っていると、遣戸から、抜けるように肌の白い少女が入ってきて、手にしていた足付(あしつき)の折敷(をしき)を小丸の前に置いた。驚いたことに、少女は、夏虫と瓜二つの顔立ちをしている。折敷の上には、湯気の立つ汁粥が土器(かわらけ)に盛られて乗っていて、木の箸が添えてあった。お腹が小さく鳴り、ほわりとした湯気に誘われながらも、小丸は、遣戸から出ていく少女を睨んだ。

「あれは、白君という」

 夏虫が、小丸の視線に気づいたように説明する。

「おれが式神として使ってるモノだ」

(しきがみ?)

 初めて聞く言葉に眉をひそめつつも、小丸は汁粥に箸を付けた。夏虫の態度を見れば、人ではないあの少女が安全なのだと、理解できた。

 小丸が汁粥を食べ終えると、また白君が現れて、折敷を下げていった。続いて、今度は夏虫が立ち上がり、曹司の隅に畳んで置いてあった莚を広げて敷くと、次には曹司の壁際に置いてある長櫃(ながびつ)から、衾を二枚、枕を一つ出して、莚の上に寝床を作り、小丸を振り向いて言った。

「今夜は一緒に寝ような」

 簡潔な誘いに、小丸は口籠る。母が家を出てから、誰かと一緒に寝たことなどない――。

「ここはおれの部屋の一部で、今日からおまえに貸すんだよ。口応えなんてしないよな?」

 薄く微笑んで畳みかけられ、小丸は黙らざるを得なかった。

「さ」

 布衣、布衣袴(ほいばかま)、綿入りの衵(あこめ)、下袴(したばかま)を脱いで単衣(ひとえぎぬ)姿になり、脱いだ衣を畳んで隅に置いた夏虫が促す。細長の袍、指貫(さしぬき)、衵、下袴を脱いで同じく単衣姿になった小丸が、衾と莚の間に潜り込むと、そこへまたも白君が現れて、焼石(やきいし)を置いていった。布に包まれた温かいそれを、夏虫が衾の下に入れ、続いて自分も衾の下へ潜り込む。

「こうすると、幾ら寒くても平気だろう? おれは名の通り、寒がりでね。毎晩、こうやって寝てる。今夜はおまえがいるから、余計にあったかい」

 いつの間にか、二枚の衾は重なっていて、それを被っている小丸と夏虫も、焼石を挟んでくっ付いている。鬱陶しかったが、温かいのは確かだった。しんしんと冷えてくる夜気をしっかりと遮断する、綿の入った二枚重ねの衾と、莚、ほかほか温かい焼石と、そして自分以外の人間。心地よい温もりの中で、小丸はすうっと眠りに落ちた。母と寝ていた頃を思い出す、幸せな眠りだった。

 翌日の夜からは、夏虫は母屋で寝るようになったが、そこは、小丸の曹司と襖障子で隔てられたすぐ隣だった。つまり、襖障子を開けさえすれば、そこに夏虫が寝ているのである。

 それから小丸と夏虫は、夏を越え、秋を楽しみ、冬を過ごし、再び春を迎え――、三度目の春に、夏虫は元服して、名を保憲と改めた。また、その年の秋からは陰陽生となって、毎日陰陽寮に出仕するようにもなり、小丸は、保憲との間に、徐々に隔たりを感じるようになっていった。そうして半年後、あの事件は起きたのだ。



 自分の手に付いた保憲の血を、保憲の衣の裂け目を、あの光景を、体の芯からの震えを、一生忘れないだろうと思う。

(おれは、己の心の弱さに負けて、保憲を傷つけた……)

 思い返すたび、後悔がいや増す。

 あの事件の後、小丸は書き置きを残して賀茂忠行邸を出、山に入った。和泉国(いづみのくに)へ行って母の消息を尋ねたいという思いもあり、何より、保憲を傷つけるかもしれない自分への恐ろしさで、あの邸にはいられなかったのだ。

(おれは、ちゃんと保憲を助けられるだろうか)

 竦む心を、懐に入れた天児が、無言の存在感で戒める。

(だが、白君はおれを頼った。おれが行って、あいつを助けられることがあるなら、おれは行って、助けなきゃならない)

 保憲は、今、危ないのだ。保憲を助けろという白君の言葉から逃げる訳にはいかない。己の手の届かないところで保憲が――など考えたくもない。それだけは、耐えられない。だから、自分で、己の弱い心に勝たなければならない。二度と、己の心の弱さに負ける訳にはいかない。

「保憲、おれは今から、おまえのところへ行く。そして必ずおまえを助ける」

 己の心を立て直し、言霊(ことだま)で縛って、小丸は、京へと駆けていった。


            ◇


 肝(かん)中の青気、左耳より出で、化して青龍(せいりゅう)となりて左にあり。肺(はい)中の白気、右耳より出で、化して白虎(びゃっこ)となりて右にあり。心(しん)中の赤気、頂上より出で、化して朱雀(すざく)となりて前にあり。腎(じん)中の黒気、足元より出で、化して玄武(げんぶ)となりて後にあり。脾(ひ)中の黄気、口中より出で、化して黄龍(こうりゅう)となりて上にあり。

 夕闇が押し寄せる中、必死に、木(もく)、金(きん)、火(か)、水(すい)、土(ど)の五行の気を感じ、三度鳴天鼓をして五臓の気を観想した忠行は、もう何度目か分からない勧請咒を唱え始めた。しかし、唱えつつも、心の内に、諦めが這い上がってくる。

(こんなことでは、どの仏にも神にも、言葉が届かんぞ……!)

 自らを叱咤しつつも、張り詰めている気持ちが、どこからか、萎えそうになる。

(保憲――)

 綾莚に寝かされたわが子は、うわ言を繰り返すばかりで、最早意識がないように見えた――。


          六


 ひぐらしが撫ぜるその手の下で、すがるが、急に顔を上げた。直後、かちゃりと、すぐそこの西南の妻戸(つまど)の掛金(かけがね)が鳴り、戸の隙間に差し入れられた松葉によって、内側に掛けた掛金が外された。次いで僅かに戸が開き、足音もなく、小柄な人影が南廂(みなみびさし)に入ってくる。その姿を壁代の隙間から簾越しに見て、ひぐらしは一瞬息を飲んだが、獣の皮衣を纏ったその少年の、懐かしい顔を確認すると、すがるとともに慌てて立ち上がり、大急ぎで壁代と簾を潜って南廂に出た。

「――小丸」

 思わずといった勢いで抱きついたすがるに、少年は困惑の表情を浮かべる。ひぐらしは溢れてきた涙を袿の袖で拭いつつ微笑み、そっと妹の肩に手を置いた。

「ほら、すがる、小丸が困っているわ。まずは話をしないと」

「ええ、そうね、お姉様」

 すがるが頷いて離れると、小丸は懐に手を入れ、天児――白君を取り出した。

「こいつが、おれのところへ来て、保憲を助けろと言ったから来た。こいつを使ってたのは、すがる、おまえだな? 一体、何が起こってる?」

 彼らしくもなく、一息に多くの言葉を口にした小丸に、すがるより早く、ひぐらしは答えた。

「保憲は、お召しがあって、お父様と一緒に、七日前から内裏にいるの。何のお召しかは分からないんだけれど、保憲が危ないと白君が言うものだから、あなたを呼びに行かせたの。ごめんなさい。わたくし達の力では、内裏に行くことすら、できないから」

「――おれが今から行ってくる」

 ぶっきらぼうに言って、小丸は手にしていた天児をすがるに渡す。

「ずっとおれの懐に入れておいたから、もう少しで力が回復するはずだ。後は、おまえが抱いてろ」

 そうして、皮衣を纏った少年は、また足音もなく、妻戸の掛金だけを鳴らして、夜が訪れた外へ出ていった。


            ◇


 賀茂忠行邸は、左京の端、京極川(きょうごくがわ)と賀茂川を望める東京極大路(ひがしきょうごくおおち)近くの、勘解由小路(かげゆこうぢ)沿いにある。邸の周囲に巡らされた築地(ついいぢ)の西南の角を飛び越えて勘解由小路へ降り立った小丸は、まず真っ直ぐ西へ、大宮大路(おおみやおおち)まで走った。大宮大路に出ると、宵闇の中、夜目の利く小丸の目には、正面に、碧瓦(へきが)を葺き朱塗りの柱に彩られた、唐(から)風の白い築地が見えた。その手前には、人工的に造られた川も流れている。大内裏(だいだいり)を囲む宮城垣(きゅうじょうがき)と御溝水(みかわみづ)だ。それらを右手に見つつ、小丸は大宮大路を素早く下る。宮城垣に設けられた十四ある宮城門(きゅうじょうもん)は、左右の衛門府によって守られており、大宮大路沿いなどの左京側、即ち東側にある諸宮城門は、左衛門府(さえもんふ)の管轄である。一町弱の距離を下った小丸は、左衛門府の衛士(えじ)達が篝火(かがりび)を焚いて守る待賢門(たいけんもん)の手前で、地面を強く蹴って宮城垣を飛び越え、大内裏の中へ侵入した。

 左兵衛府(さひょうえふ)の官舎や、その向こうにある左近衛府(さこんえふ)の官舎はさすがに避けて、東宮の学問所である東西の雅院(がいん)の敷地を抜けた小丸は、大路(おおち)を挟んだあちら側の築地に視線を走らせた。その檜皮葺(ひわだぶき)の築地は、内裏を囲む宮垣(みやがき)だ。その内側へは入ったことがないが、保憲に会うためには、入らねばならない。小丸は、宮垣に設けられた宮門(きゅうもん)の一つ、一番近くに見える春華門(しゅんかもん)の様子を窺った。土門(つちもん)両扉の門の左右にはそれぞれ、檜皮葺の陣舎があり、ここにも左衛門府の衛士達が火を焚いて詰めている。だが、左右の衛門府によって守られている権礼門(けんれいもん)や、門外に陣舎だけでなく、侍従所(じじゅうどころ)や、左衛門佐(さえもんのすけ)の座する佐宿(すけやどり)まである建春門(けんしゅんもん)の近くよりはましだろう。意を決した小丸は、闇に紛れて素早く大路を渡りきり、地面を蹴った。空中で一瞬辺りを見回してから、くるりと宙返りし、宮垣の内へと降り立つ。そこは、宮垣と、その内側にもう一重設けられた築地に挟まれた路(みち)だった。初めて見るこの築地は、保憲が言っていた閤垣(こうえん)というものだろう。築地に沿って延々と廊(ろう)が巡らしてあり、すぐ近くの角になっているところには、角に沿って三舎が設けられている。丁度角のところにある真ん中の一舎は、確か、鳥曹司(とりのそうし)というところで、鷹の他に、犬も飼われているはずだ。風に乗って、獣臭い臭いも漂ってくる。

(近づく訳にはいかないな)

 小丸が思った時、ふっと築地の檜皮葺の屋根が明るくなった。東から月明かりが差している。立ち待ちの月が昇ったのだ。月明かりがあると闇に紛れにくくなるが、内裏の中には多くの殿舎があるはずなので、隠れるのに苦労はないだろう。

(見つかったら、見つかった時だしな)

 保憲を助けるという目的さえ果たせれば、後は逃げて、また山へ帰ればいいだけのことである。小丸は鳥曹司の北にある小さな廂門、延政門(えんせいもん)の脇辺りで閤垣をさっと飛び越え、内裏の中へと侵入した。


            ◇


 大輔、大輔。

 彼は、乳姉妹を呼んだ。彼と同じ年に生まれた大輔。彼の乳母(めのと)の娘として、物心付く前から傍にいて、ともに大きくなった大輔。誰より彼の傍にいた大輔。後宮(こうきゅう)の女房となって、ずっと傍にいてくれた大輔。彼の子まで生んだ大輔。明るくて、知的な大輔命婦。頼れる大輔の君。

 大輔、どこだ? どこにいる? どうしてわたしを一人にしている? わたしは一体、どうなっている? どうなってしまったのだ?

 誰も答えてくれない。東宮である自分が、一人で放っておかれている。何故だろう。

 貴子、母上、仁善子……!

 彼は、果てしない暗闇へ手を伸ばした。


            ◇


 閤垣の上を飛び越えた瞬間に、凄まじい違和感に襲われた。邪気が満ちている。

(怨霊か)

 小丸は着地すると同時に辺りを見回した。暗い。全てが闇に飲まれている。先ほど差してきた月明かりが、この閤垣の内には届いていないのだ。

(相当な怨霊だな)

 だがとにかく、この状況では、どこをどう動こうと目立たないだろう。

(保憲は――、あそこか)

 懐かしい保憲の気配も混ざった、邪気が最も凝(こ)っている辺りを見定めた小丸は、立ち並んだ殿舎の間を通り抜け、それらを繋ぐ渡廊(わたりろう)、渡殿(わたどの)の上を飛び越えて、内裏の中心よりやや西の、そこへと走る。しかし、何かに押し戻されるようにして、段々と足が進まなくなった。

(おれが、拒まれてる……)

 怨霊が、小丸の侵入を嫌っている。

(なら、無理矢理にでも……!)

 小丸は、皮衣の上に巻いた縄の帯から、八寸の腰刀(こしがたな)を抜くと、刀禁咒を高らかに唱えた。

「われはこれ天帝(てんてい)の使者なり、執り持たしむるところの金刀(きんとう)は、不祥を滅せしむ、この刀は凡常の刀にあらず、百錬(ひゃくれん)の鋼(はがね)なり、この刀一たび下(くだ)さば、何の鬼か走らざらん、何の病か癒えざらん、千殃万邪(せんおうばんじゃ)、皆(みな)伏(ふ)し死(し)し亡(う)す、われ今刀下す、急ぎ急ぎ天帝太上老君(たいじょうろうくん)の律令の如くせよ!」

 手応えはあった。けれど、あまり芳(かんば)しいものではない。顔をしかめた小丸の耳に、闇の中から低い哄笑が響き、次いで、しわがれた声が届いた。

「天帝の使者とは言うも言ったり。何という大言壮語。一体誰がそのようなことを信じるのだ?」

「単なるはったりだ。騙されてくれればそれでいい。それにこれは咒だ。言うことによって、言霊が宿り、ある程度の力が得られる」

 憮然として答えた小丸の視線の先で、すうっと闇が濃くなり、冠(こうぶり)を被って袍の腰を石帯(せきたい)で締め、半臂(はんぴ)の下から下襲(したがさね)の裾(きょ)を後ろへ長く垂らして引き摺り、指貫を穿いた、いわゆる布袴(ほうこ)姿の初老の男が一人現れた。皺のある顔に笑みを浮かべている。怨霊だ。布袴は、朝服(ちょうふく)の正装たる束帯(そくたい)の上袴を指貫に変えた、略式の正装である。位を表す袍の色は、闇が濃過ぎて判然としない。しかし、恐らくは高貴な色だ。

「何者だ」

 その正体に半ば確信を持ちながら小丸が問うと、怨霊は目を細めて言った。

「そなたなぞが直に口を利ける相手ではない。が、今は許してやろう。それにしても、そなた、はったりとはいえ、己が唱えたその咒の意味、本当に分かっておるのか? 天帝とは何だ?」

「唐の一番偉い神だ」

「何ゆえ、唐の神の名を出す?」

「日本の神より強いからだろう」

「日本においては、日本の神が強いのではないのか? 仏のように、その像や経典なぞで、その力を持ち込めたものはよいが、天帝の力なぞ、まださほど持ち込まれてはおらぬだろう」

 小丸は答えられない。怨霊は愉快そうに続けた。

「それに、金刀とは何か、定かに知っておるか? この場合は、金属の刀の意でも黄金の刀の意でもなく、純粋に刀剣という意味だ。金には武器という意味もあるゆえな。千殃万邪、皆伏し死し亡す、とはどういうことか、正しく理解しておるか? 分かり易く言えば、千の殃(わざわい)万の邪(よこしま)、皆隠れ滅び消える、という意味だ。急ぎ急ぎ天帝太上老君の律令の如くせよ、と言うのも問題よな。天帝の太上老君の律令で、この日本は支配されておるのか? 太上老君の律令なぞ、この日本のどれほどの者が本当に知っておる? 日本には日本の律令がある。どうせ咒を唱えるならば、あちこちから引いてきた詞(ことば)をそのまま唱えるのではなく、もう少し己で考えた咒を唱えよ。はったりであるならば、相手に通じ易い言葉で唱えねば意味がなく、また、己がある程度信じておる事柄でなければ、幾ら唱えようと真に力ある咒になぞならぬ。そうこうしておる内に、あの陰陽寮の学生(がくしょう)の命が尽きていくぞ」

 怨霊の最後の言葉に、小丸はざわりと寒気立(そうけだ)った。

「おまえ、あいつに何をした」

「わしはまだ何もしてはおらぬ。何かしておるのは、わしの邪気に当てられて命を落とし、そのままわしに取り込まれた、哀れな皇子(みこ)だ」

「それは誰だ」

「先帝(せんだい)の二の皇子、保明親王(やすあきらのみこ)」

 淡々と答えると、怨霊の姿は闇に溶けるようにかき消えた。

「保明……?」

 内裏のことになど興味はないので、親王の名なども知らない。だが、保明という名はよくない。保憲と一字違いだ。名が似ていれば似ているほど、近しくなってしまう。

(おまえほどの奴が、とり憑かれてしまったのか?)

 小丸は邪気が凝っているほうを睨んだ。自分を拒む力は、いよいよ強まっていて、最早満足に進めない。気を抜けば、後ろへ押し戻されてしまいそうだ。

(くそ……)

 賀茂忠行から教えられた咒は効かなかった。他にも幾つか咒は教えられているが、恐らく、どれも効果は似たり寄ったりだろう。

(どうしたら、おまえのところへ行ける……?)

 唇を噛んだ小丸の脳裏に、ふっと、ある記憶が蘇った。



 あれは、確か初めて六壬式盤(りくじんちょくばん)に触った時のことだ。

 六壬式盤とは、六壬神課(りくじんじんげ)という式占に用いる式盤(ちょくばん)である。

 陰陽寮では、三式と呼ばれる、太乙神数(たいいつしんすう)、奇門遁甲(きもんとんこう)、六壬神課の三種類の式占を主に用いるらしいが、この内、六壬神課のみが私蔵を許されている。それゆえ、賀茂邸にも六壬式盤があり、まだ夏虫だった保憲が、それを小丸に見せたのだった。

 六壬式盤は、正方形の地盤の上に円形の天盤が乗った形になっている。円形の天盤の中央には北斗七星、その周りを囲む第一層には星や方角を神格化したという十二天将、第二層に太陽と月との会合点を神格化したという十二月将、第三層に十二支と十干、第四層には二十八宿が記されている。その周辺を囲む正方形の地盤の第一層には十干、第二層には十二支、第三層は空欄で、最外には二十八宿が記された上に、四正と四隅とが示されている。二十八宿とは、月、太陽などの位置を示すために、赤道、黄道付近で天球を二十八に区分し、それぞれを一つの宿としたもので、月は凡そ、一日に一宿ずつ動く。盤上に表された全ての天体は、空を見上げた時とは逆の並びで記されており、これは、天球を外側から眺める構図で、世界を俯瞰できるようになっているのだ。

「つまり、これを扱うということは、宇宙の理(ことわり)を知り、まるで神のように、世界を見渡せるということ。おれが三十六禽を使役するためにかじった修験道の表現を使えば、天と地の諸事象に通暁し、天と地を繋ぐ宇宙軸、そして、宇宙そのものを集約した小宇宙になれるということだ。宇宙を感じるんだ、小丸。おまえならできる」

 楽しげに説明した夏虫は、小丸の手を取り、天盤に触れさせて、円形のそれを、くるくると回転させた……。



 木(もく)は火(か)を生じ、火は土(ど)を生じ、土は金(きん)を生じ、金は水(すい)を生じ、水は木を生ず。木は土に剋(か)ち、土は水に剋ち、水は火に剋ち、火は金に剋ち、金は木に剋つ。天と地の五行は相互に連絡し、天の事象は地の事象に影響する。

 腰刀を構え直した小丸は、体中の神経を研ぎ澄ませて五行を観想すると、凛とした声で唱えた。

「われはこれ天地を結ぶ宇宙軸なり、執り持つところの刀剣は、不祥を滅せしむ、この刀はわれ観想し集約せし小宇宙なり、この刀一たび下さば、何の鬼か走らざらん、何の病か癒えざらん、千の殃(わざわい)万の邪(よこしま)、皆隠れ滅び消ゆ、われ今刀下す、急ぎ急ぎ律令の如くせよ!」

 次いで腰刀で、縦に四度、横に五度、空(くう)を切りつつ唱えた。

「朱雀、玄武、白虎、勾陳(こうちん)、南斗、北斗、三台(さんだい)、玉女(ぎょくじょ)、青龍!」

 四縦五横印の応用である。十二天将に含まれる朱雀、玄武、白虎、青龍、勾陳。そして星神の三台、玉女、南斗星君と北斗星君。

(とにかく何でもいい、あいつのところへ――)

 この宇宙の広がりの中、天と地を巡る大いなる繋がりの中に、自分も保憲もいる。いつも、確かに、どこかで、繋がっている。

(道よ、開け!)

「オン アビラウンケン ソワカ!」

 小丸は、凝る邪気を睨み付け、最後には叫ぶように、宇宙の象徴たる大日如来(だいにちにょらい)への勧請咒まで唱えた。


          七


  海ならずたたへる水のそこまでに清き心は月ぞ照らさむ

  〔月は、澄んでいる水なら、海どころかもっと深く湛えた水の底までも照らすが、そのようにわたしの清い心、即ち無実の罪は、天が照覧して下さるだろう〕


 霊妙な気配がし、歌を詠唱する声が響いてきて、すっと意識の混濁が解けた。目を開けると、月明かりの中に布袴姿の誰かが立っている。纏った袍の色は浅紫(うすきむらさき)。二位、三位を表す色だ。従二位で太宰府へと左遷され、死後に正二位を贈られた人には、馴染みの色なのだろう。

「漸く、お会いできましたね」

 保憲は微笑んで声をかけた。

「あの童の働きゆえと、感謝するがよい」

 相手は答え、背を向けて立ち去ろうとする素振りである。保憲は、やんわりと問うた。

「お恨みは、まだ晴らされませぬか?」

 相手は足を止め、だが振り返りはせず、言った。

「わしは生前、仕事にかまけて家族を顧みることがなかった。が、わしの失態で、家族までが左遷、離散、没落の憂き目を見たのだ。怨霊としてあることで少しでも家族、子孫の役に立てるならば、まだまだ怨霊であり続けようぞ。それに、政(まつりごと)の行く末も気になるゆえな。遣唐使を廃し、大陸の影響をなくす舵取りをしたは、わしだ。時平は、唐の文化に負けぬものをと、先帝に奏して古今和歌集なる勅撰和歌集なぞ作らせおったが、あのようなものはただの慰みであって、政に利用すべきものではない。日本が、独自の道をどう歩むのか、北家(ほっけ)藤原氏の専横が過ぎぬよう、わしはまだまだここに留まり続けて見定めねばならぬ」

「そうですか……」

 保憲は軽く溜め息をつくと、先ほどから傍らにいる人影をちらと振り向いて、去りゆく相手に請うた。

「こちらの皇子は、もう解き放って下されませ」

「その皇子次第よ」

 さらりと答えて、邪気の大元は、すうっとその場から消えた。


  枝よりもあだにちりにし花なればおちても水のあわとこそなれ

  〔枝からも儚く散ってしまった花だから、落ちてもやはり儚い水の泡となるのだ〕


 歌を一首詠唱して、保憲は傍らの人影に真っ直ぐ向き合った。

「古今和歌集に収められている、菅野高世(すがののたかよ)という方のお歌で、詞書(ことばがき)には、東宮の雅院で、桜の花が御溝水に散って流れていったのを見て詠んだ、とあります。この菅野高世という方は、今から百年以上前の弘仁(こうにん)の頃の方なので、この東宮も、その頃の東宮でしょう。けれど、このお歌は、延長元年になって、既に出来上がっていた古今和歌集に追加の形で収められました」

「延長……元年……」

 人影は、かすれた声で呟いた。その様子を見極めつつ、保憲は静かに告げる。

「延喜二十三年と同じ年です。延喜二十三年三月二十一日にあなた様が薨去なされた後、改元され、延長元年が始まりました。そして、古今和歌集撰者のお一人、紀貫之様が、このお歌を、古今和歌集に加えられたのです」

 人影は、ふわりと苦笑した。

「……わたしは、貫之に憐れまれたのだな」

「皆が、あなた様を惜しんだのです。特に、近しい方々のお嘆きは尋常ではなかった。あなた様も、そのことは御存知のはずです。御霊(みたま)となって、全てを見ておられた」

「けれど、母上にはすぐにまた皇子が――寛明(ゆたあきら)が生まれ、中宮にもなられた。寛明が帝となった今では、帝の母――皇太后(おおきさい)の宮だ。貴子は重明(しげあきら)に――わたしの腹違いの弟宮に再嫁して、女王(にょおう)を生んだ。わが小さき王(おう)、慶頼(よしより)は死んでしまった。仁善子とわが大子(おおいこ)は、わたしのことを口にもせぬ。わたしは、ただ、忘れられていく」

「御母后(おんははきさい)の宮様は、中宮の御宣旨を受けられたお祝いの宴(うたげ)で、喜んでおられましたか? 貴子様は、夢でも会いたいと嘆いておられたのではないですか? 大輔の君が、僅かの時でも、あなた様のことを忘れたことがありましたか? 寛明親王(ゆたあきらのみこ)――今上は、ただ、あなた様が薨去なされたすぐ後にお生まれになったというだけ。それで罪なのですか? その御誕生を喜んだり、お祝いしたりしてはいけなかったと、そう仰せになるのですか? 仁善子様にとって、あなた様はただ一人の夫(せ)の君、御大君(おんおおいぎみ)様にとっては、ただ一人の父宮(ちちみや)様ですよ? それでも、お忘れになっていると、お忘れになれると、そう仰せになるのですか?」

「……いや、そんなことは言えぬ――」

 人影はうな垂れる。

「――ただ、わたしは寂しかったのだ。寂しくて……、そして少しばかり憎かった。だが、もうよい。そなたにいろいろときつく言われて、目が覚めた。儚く散った花は、やはり儚い泡となって、惜しまれていよう。憎まれ、恐れられる存在には、なりたくない」

 きっぱりと言って、人影は消え始めた。薄れていくその影へ、保憲はそっと囁いた。

「どうか、かの岸への道すがら、あの方々の許へ寄って下さい」

「ありがとう。そなたに会えて、よかった」

 遠くなる声で影は答え、歌を一首詠んで、消えた。


  人しれずかをれる花よ久方(ひさかた)の月をかたらひめにはえ見えず

  〔人知れず仄かに香っている花だ、月と親しく交わって目に見ることはとてもできない〕


「ばれたかな」

 口の中で呟いて、保憲は目を開けた。途端に、保憲のいる二間の中で風が起こり、几帳が倒れ、二間の壁代と簾、次いで孫廂の簾が勢いよく吹き上げられ、ぴったりと閉じられていた格子とそれを覆う蔀が、がたがたと次々に外れて開いた。そうして、部屋の中から丸見えになった簀子に、皮衣を纏った一人の少年が立っている。保憲は上体を起こした。今度こそ、本当に目が開けられたようだ。爽やかな月の光を背中一杯に浴びて立つ少年は、ばさりと下りてきた孫廂の簾を片手で受け止め、二間の半分取れかけた簾と壁代の隙間から、じっと保憲を見つめた。

(気を遣われたみたいだな)

 この状況は、保明親王(やすあきらしんのう)の去り際の贈り物だろう。さすがにこの清涼殿の中にまで踏み込むとなると、浮き世離れしたこの少年にも躊躇いがあったはずだ。

「もう、大丈夫だ」

 保憲が言うのと、弦打をしていた近衛達が集まってくるのとが同時だった。少年はひらりと身を翻し、近衛達が到底捕まえられない身軽さ、素早さで、走り去っていった。

「――今のは、小丸だな」

 父の声に、保憲は振り返る。父の顔を見るのも、何か久し振りのような気がする。

「わざわざ、助けに来てくれたようですね」

 苦笑して言った保憲に、父は声を低めて命じた。

「白君を使って、あやつをこの京に留めさせよ。戻ってきたものを、また去らせる訳にはいかん。益材様にも顔向けできんからな」

「――小丸には、わたしのことを知られているのですよ?」

「書き置きを読んだ限りでは、おまえに負い目を感じておった。ああいう輩は、手許に置いておくほうが安全だ。それに、おまえに劣らんあの力、野に埋もれさせるには惜しい」

「しかし、小丸には、小丸の生き方が――」

「『白狐』のような、か? 人にあらざるモノの生き方など、わしは認めん」

 父は低めた声のまま言い放って、おもむろに立ち上がり、傍に倒れていた几帳を立て直した。


            ◇


 中天に昇った立ち待ち月の光が清々しい。

 自分は、どうやら保憲を助けることができたようだ。

(これで、もういい。長居はできない)

 大内裏を出た小丸は、満足して、足を京の外へ向けようとした。が、その目の前に、ふわっと白い袖をはためかせ、式神が現れた。

「白君――」

 小丸は眉をひそめる。この上、自分に何をしろと言うのだろう――。

「おまえ、自分の状態が分かっていないだろう」

 白君は、助けられた恩など微塵も感じていないように、ずけずけと言った。

「何が言いたい?」

 ますます眉をひそめた小丸に、式神はわざとらしく溜め息をつき、呆れた口調で問うてきた。

「寝ていないばかりか飲まず喰わず、殆ど休みもせずに、一体どれだけ動く気だ?」

 言われてみれば、昨日の夜から丸一日、ずっと動き続けである。そう気づいた途端、足からふっと力が抜けた。危うく路の脇の溝水(かわみづ)の中へ落ちそうになったが、白君がさっと近づいてきて、小丸の体を支えた。間近に迫ったその白い顔は、練絹そのままの肌の色で、少々白過ぎる点を除けば、保憲と瓜二つである。

「おまえ、何で、そんなに似てるんだ」

 小丸は愚痴のように呟いた。

「わたしはあいつの天児で、あいつの力でこの姿になっている物怪(もののけ)だから、当たり前だ」

 白君は答え、保憲の髪より黒い、濃い墨色の長い髪を無造作に前へ垂らすと、有無を言わさず小丸を背負った。向かう先は、賀茂忠行邸だろう。

「余計なことを……」

 小丸の抗議を黙殺して、白君は走り出した。

 白い上袴と重袴を捌く白君の走りは、まるで滑るようだ。滑るように、大路(おおち)小路(こうぢ)を走っていく。実際は、恐らく飛んでいる。白襲(しらがさね)、或いは氷襲(こおりがさね)というのだろう、表裏とも白い汗袗の、その長い裾が、ひらひらひらひらとはためく。それを見るともなく見ている内に、小丸は眠りに落ちた。


          八


 ずっと着たきりの浄衣(じょうえ)の襟周りなどを整え直した保憲は、事後処理に当たる父を残し、近衛の一人に送られて、閤垣に設けられた閤門(こうもん)の一つ、宣陽門(せんようもん)の外へ出た。御上(おかみ)から、頭(とう)の中将(ちゅうじょう)を通じて内裏の外まで送れ、と命じられていた近衛は、そこで踵を返し、戻っていく。閤垣の内側は左右の近衛府(このえふ)の管轄だが、閤垣から宮垣までは、左右兵衛府の管轄ということもあるのだろう。

(さて、ここから邸まで、辿り着けるかな……)

 保憲はのろのろと宣陽門の石階(いしのきざはし)を下り、閤垣沿いの門外に設けられた南舎、北舎、内記所(ないきどころ)を目の端に見つつ、すぐ外にある宮門、建春門へ向かった。父の前では元気そうに振る舞ったが、七日もの間邪気の中にいて、しかも怨霊にとり憑かれていたので、正直ふらふらである。

(ここまで近衛に送らせてくれた御上のお心遣いはありがたいが、ここから先が長いということを、まだお分かりじゃないんだな……)

 何しろ、菅原朝臣の怨霊を恐れて、三歳頃まで、住まいの寝殿の格子も上げず、夜も昼も燈火を絶やさずに、帳台の内で育てられた宮だ。即位してのちも、殆ど外出などしていないのだろう。内裏の外、大内裏の外の世界を、十一歳の今上はまだ知らないのだ。

(まあ、とにかく、今回はお助けできてよかった)

 保憲は、左兵衛府の兵衛(ひょうえ)達が、わざわざ開いてくれた建春門を通って外へ出たが、そこで立ち眩みがして足を止めた。

(本格的にまずいな……)

 これ以上無理をすると、小丸の許へ差し向けた白君まで、また力を失ってしまいかねない。眉間を押さえてしゃがみ込んだ保憲に、衛士達が寄ってきた。左衛門府の衛士達だ。宮垣に設けられた建春門は別名を左衛門陣(さえもんのぢん)といい、門外には板敷きの南北二舎があり、その北舎の北には侍従所、更にその向こうには佐宿がある。宮垣から外のこの東側は、左衛門府の管轄なのだ。

(せめて何か飲んで食べられたらいいんだが……)

 清涼殿で、食べ物の所望などはできなかったのだ。そろそろと顔を上げた保憲の前に、衛士達を掻き分けるようにして、一人の少年が現れた。目鼻立ちのくっきりとした、凛々しく端正な顔には、まだ幼さが残っている。自分と同い年くらい、恐らくは少し年下だ。何者かは、着ている袍の色で分かった。七位を表す浅緑(うすきみどり)でも、六位を表す深緑(こきみどり)でも、五位を表す浅緋(うすきあけ)でも、四位を表す深緋(こきあけ)でも、二、三位を表す浅紫でも、無論、一位を表す深紫(こきむらさき)でもない。

「わたしは所(ところ)の雑色(ぞうしき)の重輔(しげすけ)です。気になって、追いかけてきてみてよかったです。すぐに食べ易いものを用意してきますね」

 少年の言葉に、保憲は微かに苦笑した。保憲がほぼ丸一日飲まず食わずだったということに、気づいた者もいた訳だ。所の雑色とは、蔵人所(くろうどどころ)の雑色という意味で、禁中の細事や天皇の御膳の給仕などをする蔵人(くろうど)を手伝って雑務をこなすが、無位のため、位(くらい)により色の定めある袍を着用できないことから、その名が来ている。やがては六位蔵人(ろくいのくろうど)に出世できる職であり、それなりの身分の人の子も、出世のため、この職に甘んじることが多い。この重輔という少年もまた、六位蔵人を目指しているのだろう。

 重輔は衛士達の協力を得、佐宿で糒(ほしいい)を湯に浸した湯漬(ゆづけ)を作って持ってきてくれた。金椀(かなまり)に入れられたそれをありがたく受け取り、さらさらと噛んで飲み込むと、人心地がつき、立てるようになった。

「ありがとうございました」

 礼を述べ、空にした金椀を傍の衛士に返した保憲は、重輔に微笑みかけると、内裏にいる間ずっと封じていた三十六禽を解き放った。途端に、牛(うし)と蟹(かに)と鼈(すっぽん)の、三匹の魔物が姿を現し、保憲に平伏する。もう丑(うし)の時なのだ。魔物ゆえ、普通よりも大きいそれらの内、蟹と鼈には姿を消させて、保憲は牛の背に乗った。これで楽に邸まで帰れるというものだ。

「では、失礼致します」

 呆気にとられている衛士達と雑色の少年に、保憲は軽やかに告げた。魔物の牛が見えている者もいれば、保憲がただ宙に浮いたように見えた者もいるだろう。だが、陰陽生のすることと、今は看過してもらうしかない。保憲は魔物の牛を走らせ、宮城垣を飛び越えさせて、さっさと大内裏を後にした。自分の部屋が、ひたすら恋しい。そして何より、小丸のことが気にかかっていた。


            ◇


 掛金を外しておいた西南の妻戸が揺れたので、はっとして、すがるもひぐらしも立ち上がった。だが、両開きの板戸の片方だけをそっと開けて入ってきたのは、今年三歳になった弟だった。真ん中で分けた髪を肩の辺りで切り揃えた振り分け髪にして、丈の短い衣を着、袴の紐を背から胸へと襷(たすき)掛けにしている。

「螢(ほたる)、どうしたの?」

 すがるは思わず大きな声を上げて、壁代と簾をはね上げ、廂へ出た。東の対で、母の真木(まき)とともに寝ているはずの弟が、こんな夜遅くに、寝殿を挟んで反対側のこの西の対まで、一体何をしに来たのだろう――。

「小丸って人、来たよね」

 螢は、ぱっちりとした両眼ですがるを見上げ、さらりと言って簾と壁代を潜り、母屋へ入る。ひぐらしの横を通り、几帳を回って、そこに座っていた白君に問うた。

「よく寝てるの?」

「よく寝ている」

 白君は答えて、ちらと視線を背後へ投げた。敷いた莚の上に、衾を掛けられて寝ている小丸は、すうすうと寝息を立てている。傍にこれだけの人間がいるのに、起きる気配はない。

「兄上は、もうすぐ?」

 問いを重ねた螢に、白君は頷いた。

「へとへとになっているが、もうすぐ着く」

「じゃあ、それまで待つ」

 螢は、その場にぺたんと座り込んだ。

「ちょっと螢、お母様に見つかったらどうするの……!」

 後を追って母屋の中に戻ったすがるが、低い声で叱っても、螢は知らん顔だ。

「全く、強情なんだから!」

 すがるは口を尖らせて、自分も腰を下ろした。無理にこの西の対から連れ出すことはできるが、そうして叫ばれたり泣かれたりすると面倒なのだ。母の真木は小丸を嫌っている。見つかれば、螢どころか、すがるも、小丸の傍にいることを許されない。せめて保憲が帰ってくるまで小丸の傍にいるには、母に気づかれないことが肝要なのだ――。

 突然、白君が立ち上がった。

「あいつもそろそろ限界だ。迎えに行ってくる」

 淡々と告げて、白い汗袗の裾と重袴をさやさやと引き摺り、外へ出ていった。


            ◇


  人しれずかをれる花よ久方の月をかたらひめにはえ見えず


 牛の背で揺られながら、小さく呟いて、保憲は苦笑する。白っぽい花が月の光に紛れるという現象は、古今和歌集撰者だった凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)や紀貫之が歌にした題材だが、あの歌の「花」は、自分のことだろう。歌の中にはそれとなく「ひめ」まで詠み込まれていて、「姫にはとても見えない」という意味も含ませてある。

(まあ、とり憑かれてたんだから、ばれるのも当たり前か)

 保明親王は既に死者であって「人」ではないので、あの契りには抵触しなかったのだろう。問題なのは、生きている存在だ。――あの歌の「月」は、もしかしたら、月光を背にあの場に駆けつけた少年のことかもしれない。

「おれは、あいつを、ここに留まらせるべきなんだろうな?」

「何故、わたしに訊く? 好きにしたらいいだろう」

 現れた式神は、無愛想に答えつつ、保憲を牛の背から下ろして、自分で背負った。同じ顔をした相手に背負われるというのも妙な気分だが、牛の背より、格段に楽で、安心できる。保憲は牛にも姿を消させて、自嘲気味に言った。

「おれの好きにはできないさ。父上は、小丸をずっと邸に留めるおつもりだからな。つまり、おれはあいつを留まらせて、また仲良く過ごさなきゃならない訳だ」

「仲良く過ごしたくないのか?」

「おれが何も言わなければ、あいつは、父上が何と仰ろうと、京を出ていく。おれが説得すれば、あいつは邸に留まる。だが、この京は、あいつにとって、まさに仏教で言う穢土(えど)だ。賀茂の邸に留まって、陰陽師の道を歩むことが、あいつの幸せに繋がるとは思えない……」

「だが、忠行に逆らうつもりはないのだろう?」

「――ああ。父上の御意志は裏切れない」

「なら、悩む必要はない。小丸を説得して、邸に留めればいい。稀有な力を持つ者は、一人でいるより二人でいるべきだ。それが、おまえと小丸、二人のためになる」

 白い式神は夜風を切って走りつつ、母に似た声で言った。

(二人でいる、ね……)

 保憲は苦く思う。

(小丸がここに留まったとして、後ひと月。たったひと月しかない……)

 自分には、白君も、邸の誰も知らない古い契りがある。

 小丸のことは、弟分として愛している。父や自分の事情だけを考えれば、邸に留まらせるべきだが、小丸自身のことを考えれば、権力争いに明け暮れる都暮らしは向いていない、何にも縛られず、山野で自由に暮らすべきと思う。

 そして、恐らく心の底には、競争者として妬む気持ちも潜んでいる。父も認めたあの力に、嫉妬している。自分がいなくなった穴を、小丸がそっくりそのまま埋めて、或いは自分以上の働きをするかと思うと、嬉しさよりも、つらさがある。書類仕事では確実に自分が上で、小丸に幾ら力があろうと、陰陽寮では大して役に立たないと、自分を慰めるように思う自分が惨めだ。だから、都暮らしは向いていないなどと理由を付けて、小丸を追い出そう、小丸の陰陽師としての道を閉ざそうとしているのかもしれないと、自分の心が分からなくなる。二年前の、年号がまだ延長であった春、あの年の二月も、また、そうだった――。



(あいつ、また来てる……)

 忍び寄る夕闇の中に微かな気配を感じて、陰陽寮の一室で周易(しゅうえき)を写本していた保憲は眉をひそめた。この大内裏の中へは来るなと何度も言い聞かせているのに、小丸は言うことを聞かない。

(誰かに見つかったらどうする気だ……?)

 陰陽寮は中務省(なかつかさしょう)の管轄であり、その官舎も、中務省の官舎の東に隣接して建てられている。陰陽寮の北側には東から、主鑰(しゅやく)、主鈴(しゅれい)、監物(けんもつ)の各詰め所が並び、隣の中務省の東北には内舎人(うどねり)、西北には侍従局(じじゅうのつぼね)の詰め所も隣接していて、人が大勢いる辺りである。中務省試に及第して陰陽生となった保憲は、毎日この陰陽寮へ通って、陰陽師となるべく、勉学の日々を送っているのだが、小丸はそれが気に入らないようなのだ。

(大体、この陰陽寮には父上がおられるし、神祇官(じんぎかん)のほうには、地方からそんな童ばかりが集めてある。それに、他にも、気配を読むのに長けた人が何人かいるんだぞ……)

 大内裏の中は、入ることを許されていない小丸にとって、決して安全な場所ではない。しかし、保憲に席を立つ気はなかった。周易の写本はできるだけ進めておきたいし、こんなところでまで小丸の面倒を見る気もない。何より、小丸ならば、誰かに見つかろうとも、無事正体を知られず逃げおおせるだろうという確信がある。父、忠行に見つかったならば、邸に帰ったのち怒られれば済むことだ――。

「保憲」

 声をかけられて、保憲は顔を上げた。この室内に今いるのは、保憲の他にもう一人だけである。振り向くと、少し離れたところで新撰陰陽書(しんせんおんようしょ)を写本していた弓削時人(ゆげのときひと)が、いつもの物憂げな目でこちらを見ていた。古(いにしえ)、孝謙(こうけん)天皇の病を治して寵愛を得、太政大臣(だいじょうだいじん)禅師(ぜんじ)にまでなった、かの道鏡(どうきょう)の末裔であり、保憲より一歳年上の、同輩の陰陽生である。線の細い整った面立ちと、すらりとした立ち姿のせいで、密かに女達にも人気がある。が、実際、時人が興味を持っているのは、陰陽道に関することと、碁くらいだ。

「そろそろ日が暮れる。おれはもう帰るが、おまえはどうする……?」

 改めて問われると、まだ写本を続けるとは答えづらかった。陰陽生は全部で十人。その中から試験で三人が選ばれて陰陽得業生となり、その内の才能ある者だけが、更に試験で選抜されて、れっきとした官僚の陰陽師としての栄達を望むことができるのだ。まだ残ると言えば、まるで抜け駆けをするような雰囲気になってしまう恐れがある。

「では、わたしももう切り上げて帰ります。ここのところ、少々寝不足気味ですし」

 朗らかに答えて筆を置き、保憲は文机(ふづくえ)の上に広げていた周易の巻物(まきもの)をくるくると巻いた。この巻物も、先輩の陰陽生が写して作ったものだ。写本は、書物を増やし、知識を得られる一石二鳥の作業なので、陰陽生の重要な仕事となっている。午前中は陰陽博士の講義や様々な実技講習、午後は写本というのが、陰陽生の毎日なのだ。時には、父や他の陰陽師達の助手としての仕事も入る。正直、忙しい。

(小丸にも、ここのところ、あまり構ってないな……)

 墨を乾かすため、文机の上に周易を写しかけの紙を残したまま、筆と硯と巻物を片付けて、保憲は時人と連れ立って廊へ出た。建ち並ぶ官舎の碧瓦の上に見える空は殆ど紫色で、もう星が瞬き始めている。一際目立つのは、まだ僅かに茜色の残る西の空の長庚(ゆうつづ)――金星だ。

「ん?」

 不意に、傍らの時人が小さく声を上げた。

「どうしたんです?」

 保憲が振り向いて問うと、南の空を見つめていた少年は、物憂げな目を瞬いて逸らし、何故か頬を赤らめて答えた。

「いや、今、あっちに流星が見えたというだけだよ……」

 流星は、一般には夜這星(よばいぼし)と呼ばれる、一瞬で夜空を過ぎる星のことである。時人が頬を赤らめたのは、夜這星という名が脳裏を掠めたせいかもしれない。この同輩は、達観しているように見えて、その実、純情なところがある――。そんなことを思いながら、保憲も南の空を見たが、既に流星は消えた後だった。

 廊を進み、石階を下り、庭を歩いて陰陽寮の東の寮門(りょうもん)を出た保憲と時人は、主鑰の詰め所の角のところで、いつものように軽く会釈を交わす。

「お疲れ様でした」

「ん、また明日……」

 寡黙な時人は多くを語らないが、住まいは右京の土御門大路(つちみかどおおち)沿いにあるらしく、毎日、大内裏の西側に設けられた四つの宮城門の内、最も北にある屋根のない土門、即ち土御門(つちみかど)の上西門(じょうさいもん)から出て、土御門大路を西へ帰っていくのだ。

 一人になった保憲は、大路を挟んで陰陽寮の向かいにある西院(さいん)と、続く醤院(しょういん)の北の垣に沿って歩き、待賢門へ向かった。同時に、感じている小丸の気配も動いていく。そこらの官舎の屋根の上や裏庭、垣の陰などを素早く移動しているのだろう。

(あいつは、人を超えてるところがあるからな……)

 保憲も、身軽さには多少の自信がある。修験道を学ぶため、かの役行者(えんのぎょうじゃ)が修行した霊場――葛城山で修行した経験があるからだ。しかし小丸の身軽さは更に上をいくのである。「白狐」と言われる母から譲り受けた力なのかもしれない。

 大内裏の中の大路を、大膳職(だいぜんしき)の前もゆっくりと通り過ぎて待賢門に至った頃には、空はかなり暗くなっていた。案の定、待賢門では、衛士達が通過する人々に名を訊いている。宮城門はどれも、黄昏(たそかれ)ののちは出入りが厳しく監視され、五位以上は名を言い、六位以下は姓名を告げなければ、通ることを許されないのだ。因みに姓とは、天武天皇が制定した八色(やくさ)の姓(かばね)であり、皇族のみに賜る真人(まひと)から順に、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなき)の八姓(はっしょう)がある。

「陰陽生賀茂朝臣(かものあそん)保憲」

 身分と姓名を告げて、保憲は待賢門を出た。賀茂氏も、藤原氏や安倍氏などと同等に、第二位の姓たる朝臣を賜っているのは、役行者――役小角(えんのをづぬ)や、吉備真備(きびのまきび)などと縁(ゆかり)のある、それなりに由緒ある家柄だからだ。

 そうして、大宮大路を数歩も行かぬ内、傍らには小丸が現れていた。

「大内裏の中には来るなと言っただろう」

 振り向きもせず言った保憲に、半歩遅れてついて来る少年は低い声で答えた。

「南のほうで……、おまえが奈良の都があるって言った方向よりは少し西にずれたほうで、変な感じがした……」

「南のほう?」

 保憲は聞き返し、小丸の無言の肯定を受けて、軽く眉をひそめた。時人が夜這星を見た方向だろうか。夜這星は矛星(ほこぼし)――彗星とは違って、特に不吉だとかいうこともないが、星の動静には常に何らかの意味がある。

「分かった。気に留めておく。だが、大内裏には、もう来るな」

 保憲が言い放った言葉に返事はなく、小丸の気配はのろのろと後方へ離れていった。


            ◇


 ――面白くない。

 大内裏へ戻り、その宮城垣の南面中央に設けられた正門、大門(だいもん)とも呼ばれる朱雀門(すざくもん)の二階に入り込んだ小丸は、身に纏った布衣が埃に汚れるのも構わず、ごろりと床に横になった。この大内裏の中にいる人間達など、小丸に言わせれば、ただ下らない。下らないことに興じ、下らないことを案じ、下らないことに騒ぎ、下らないことを尊び、下らないことばかりしている。特に、彼らが物怪を恐れるさまは、愚かしく滑稽だ。何故、保憲はあんな人間達に頭を下げ、生真面目に従い、毎日、下らない手伝いに忙しくしているのだろう。小丸には理解できない。

(あいつがその気になったら、三十六禽でも何でも使って、ここの連中なんてみんな、黙らせられるだろうに)

 保憲は忠実に律令というものに従っている。

――「律令がなかったら、法というものがなかったら、全ては混沌として、人は迷うばかりだ。人が考え、行動するためには、その基準となる枠組み、制約が必要なんだよ」

 保憲はそう説明したが、小丸は納得できない。何故、あれほどの力を持つ保憲が、あの下らない連中に従わねばならないのだろう……。

 腹を立てつつ、小丸はうとうととした。大内裏の中を隠れて動き回ったからとて、別段疲れていた訳でもない。木芽月(このめづき)の異称がある二月だからとて、日が落ちているので、寝入るような陽気でもない。だが、小さな明かり取りの窓が僅かにあるだけの暗がりの中、何故か眠気に襲われたのだ。そうして、小丸は夢を見た。

 同い年くらいに見える少年が、涙をぽろぽろと流して泣いていた。黒髪をただ肩へ垂らし、無数の剣(つるぎ)を連ねて綴った鎧のようなものを纏っている。と、少年が小丸のほうを見た。人にはあり得ない、金色の双眸が小丸を捉えた。同時に、少年の体が光り始め、次いでぐうっと長く伸びていき、手足の指に鉤爪が現れ、綴られた剣と見えていたものが、きらきらと輝く鱗に変じた。小丸を見据えていたのは、一匹の龍だった――。

 龍の双眸から目が離せない。焦りを感じた小丸の目に、滲むように、ふと別のものが映った。

 年老いた僧が、手招いている。

「八(はち)や、八」

 優しい声で呼んでいる。

「命蓮(みょうれん)――」

 小丸は、知らないはずの、その僧の名を呟いた。

 これこそが、自分の感じた異変の正体なのだと気づいたが、気づいた時には遅かった。鱗を光らせた龍は小丸の中に入り込み、荒れ狂うその感情で小丸を支配していく。ただ、寂しい悲しいと、声にならない声で叫んでいる。寂しい悲しいというその心の叫びが、やがて自分のものとなっていくのを、小丸は微かに自覚した――。


            ◇


 邸に帰り、朝服たる袍を脱いで布衣を纏い、冠を脱いで烏帽子(えぼうし)を被り、黙々と夕食を終えた保憲は、顔をしかめた。

(小丸の奴、帰ってこないつもりか)

 夕食を食べていないはずの少年は、どこで強情を張っているのだろう。邸の敷地内に、小丸の気配はまだ現れない。暫く前に小丸を捜しに行かせた白君もまだ戻らない。

「小丸、また大内裏へ行っていたのでしょう? 少し、きつく叱り過ぎた……?」

 隣の部屋から襖障子越しに、同腹の姉、ひぐらしの声がした。中の戸と呼ぶ襖障子で西の対を二つに仕切り、それぞれの部屋としているので、耳さえ澄ませば、声も気配も筒抜けだ。そうでなくとも、この姉には隠し事が難しい。

「どうも、そのようです」

 保憲は苦い声で答え、円座から腰を上げた。ここのところ、勉強と仕事に時間を割かれ、本当に寝不足だというのに、何故あの少年は手間をかけさせるようなことをするのだろう。全く以って、腹が立つ。

「ちょっと、捜してきます」

 言い置くと、保憲は廂へ出て、東南の妻戸から外へ出た。庭を横切り、西門から外へ出る。

「夏虫!」

 勘解由小路を幾らも行かない内に、保憲は白君の声を聞いた。

「見つかったのか?」

 足を止め、顔を上げた保憲にふわりと寄ってきた式神は、眉間に皺を寄せて報告した。

「まずい状況だ。龍が憑いている」

「龍、だと……?」

 保憲は思わず聞き返した。龍は山河の精気が凝ったモノである。そんなモノが、何故、この穢れに満ちた京にいて、しかも小丸に憑いたというのだろう。

「とにかく、そういう状況になっている。場所は朱雀門だ」

 白君に急かされて、保憲は大内裏へ走った。

 勘解由小路を真っ直ぐ西へ行き、次いで大宮大路を下った保憲は、あわわの辻で曲がって二条大路(にじょうおおち)を朱雀門へと走り、その腋門(えきもん)の手前辺り、門外に設けられた陣舎の衛士達に不審がられないところで足を止めて、目を瞠った。

 恐らく、力のない者には、ただ清々しいとか爽やかだとか、そのようにしか感じられないのだろう。しかし、見鬼の力を持つ保憲にとって、それは、あまりにも清浄、清冽で、眩しさや息苦しささえ感じる、圧倒的な気配だった。

「本当に龍らしいな……。だが、これほどの力を散らさず、よくまとめてる。あいつを器としたからか」

 大いなる力は、両側に腋門と陣舎を備えた、二階建てで七間ある朱雀門にほぼ収まり、外へ発せられてはいない。だからこそ、保憲も近づくまで気づけなかったのだ。

「どうする」

 白君の問いに、保憲は意を決した。このままにはしておけない。小丸の世話は、自分に任されているのだ。

(けれど、ここじゃ、何をするのもややこしい)

 まだ深更にはほど遠く、朱雀門を出入りする官人(かんにん)は多い。二条大路を挟んだ反対側、朱雀大路(すざくおおち)の東側には大学寮(だいがくりょう)もあり、勉学に倦(う)んだような学生の姿もちらほらしている。

(とりあえず、人目の少ない右京のほうへ誘うか)

 京の西半分――右京は湿地帯で、東側の左京と比べると、格段に人気(ひとげ)がなく寂(さび)れているのだ。保憲は大路の端、闇の濃い辺りで三十六禽に姿を現させた。出てきたのは、魔物ゆえ普通よりも大きな、狗(いぬ)と狼(おおかみ)と豺(やまいぬ)。今は戌(いぬ)の時なのだ。

「おまえ達は龍に吠えかかってからついて来い」

 狗と狼に命じた保憲は、人目に立たぬよう素早く豺に跨って、二条大路を右京へと駆けさせる。やがて、後方に強烈な光が現れた。龍が朱雀門から出てきたのだ。振り向くと、ついて来る狗と狼を追って、確かに小丸が走ってくる。だが、その両眼は爛々と輝き、金色の光として目に映る精気が全身に溢れていた。白君が言った通り、龍が憑いているのだ。

(時人が見たという夜這星は、この龍かもしれないな)

 見鬼の力のない者に龍は見えないが、それなりに修行を積んできている時人には、充分その力がある。彼が見た夜這星がこの龍ならば、つまり、この龍は南から来たということだ。そう言えば、こうして龍に憑かれている小丸自身、南の奈良の都から僅かに西にずれた方向に、何かを感じたと話していた。

(南のほう、奈良の都から少し西にずれた方向に、龍のいるようなところがあったか……?)

 考えた保憲は、はたと思い出して、もう一度まじまじと、龍に憑かれた小丸を見つめた。あれは確か、延長八年八月十九日のことだと記憶している。その年の六月二十六日の清涼殿への落雷事件以来、重病に臥されていた先帝――醍醐天皇が、蔵人の一人を使者に立て、大和国と河内国に跨る信貴山(しぎさん)に住む聖(ひじり)に祈祷を依頼なさった。すると聖は、剣を纏った護法童子(ごほうどうじ)を参らせて、一度は先帝の病を平癒させたというのである。護法童子とは、童子(どうじ)の姿をした仏法を守護する鬼神の類のことだ。残念ながら、その年の九月二十九日に先帝は崩御されたが、その聖は、いつも麓の里へ鉢を飛ばして施しを受けていたらしい。

(鉢を飛ばす法というのは、水断ち穀断ちして、飢餓状態の中で、龍を操る法を会得し、その龍に鉢を運ばせるんだったな……)

 修験道を学んだ時にかじった知識だ。つまり、小丸に憑いているのは、信貴山の聖が使役していた龍である可能性が高い。

(しかし、聖が健在なら、龍をこんなふうに暴走させることはないはず。何かあったということか。厄介だな)

 保憲は険しい表情をして、豺を左へ曲がらせ、木辻大路(きつじおおち)へ入らせた。

 右京はやはり人が少ない。夜ともなれば尚更だ。

(相手が聖に――法師に使われてた龍なら、祝詞(のりと)や道教由来の咒なんかよりも、真言、陀羅尼(だらに)のほうが効く可能性が高いか)

 遥か天竺(てんじく)の言葉だという梵語をそのまま音写した短いものを真言、長いものを陀羅尼という。仏道や修験道などの行者(ぎょうじゃ)が尊ぶ、力ある言葉だ。保憲は、あらゆる功徳があるという大日如来の真言、光明真言(こうみょうしんごん)を繰り返し唱え始めた。


            ◇


「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン。オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン。オン……」

 頭に、澄んだ声が響く。心に、真言が突き刺さる。まるで、霧が晴れるように、雪が融けるように、現実が見えてくる。目にしたくない現実が、逃げ続けてきた現実が、見えてくる。

 ――寂しい、悲しい。現実など、見たくない。

 叫び声を上げたのは、自分か、自分の中に入り込んだモノなのか、分からない。けれど、意志は一つだった。あらゆる混濁、あらゆるまやかしを祓い、現実に引き戻そうとするその声を、言葉を、断ち切らねばならない。

 小丸の手には、龍の鱗の一枚が変じた一振りの剣が現れていた。その輝く刃で、狗を斬り伏せ、狼を斬り払い、豺に乗った声の主へ、斬りかかった――。

「夏虫!」

 白君の叫びが聞こえた。生暖かいものが顔と手にかかった。鉄錆と同じ、不快な臭いが鼻を衝く。もやもやとしていた視界が、突如、鮮明になり、小丸は膝を突いた。

 豺は消え、大路に座り込んだ保憲が、血を流している。その纏わりつく血の臭いが、忘れ去っていた過去の記憶を呼び覚ました。



 人を傷つけたのは、初めてではない。

 あれは、まだ安倍邸にいた頃。古い家人の小槻実雄(をつきのさねを)に付き添われ、自分は寝殿の母屋で夕食を摂っていた。父は、どこかの宴にでも呼ばれていたのか、いなかった。日が徐々に傾いて、辺りが茜色に染まり、次いで忍び寄るように暗くなっていくと、急に簀子から寒々とした空気が押し寄せて、同時に、小さな訳の分からないモノ達が、庭先から上がり込んできたり、隅の暗がりから現れたりした。それらのモノは小丸の目の前の折敷に群がり、膝に這い登ろうとさえした。小丸は叫んで、それらを払い飛ばし、蹴り飛ばし、そして、宥める声を上げて押さえ込みに来た小槻実雄を、持っていた箸で刺した。力任せに突き立てた箸は、実雄(さねを)の老いた首の皮を貫き、どくどくと血を流させたのだ。実雄は死にはしなかったが、その傷が癒える前に、小丸は賀茂邸に預けられたのだった。



 今、あの時と同じ臭いが、辺りに立ち込めている。

「や……保憲、保憲、おれは、何を……」

 手足が恐怖にがくがくと震え、力が入らない。保憲が纏った布衣は、肩口から斬られ、血に染まって垂れ下がっている。

「一体何を……」

 この現実を信じたくない。

 剣は、いつの間にか霧散した。が、震える右手には、まだ保憲を斬った生々しい感触が残っている。この手で、保憲を傷つけた。

 保憲が纏う衣は、布衣の下の衵も、ぱっくりと斬られて中の綿を晒して血に濡れている。更に、その下の単衣は真っ赤に染まって斬れていて、まだ血の流れ出す肌が見えている。――そこには、保憲に大怪我を負わせたという現実とはまた別の、小丸を更に追いつめる事実があった。目を瞠り、その肌を凝視して、疑いようのない事実に、小丸はうめいた。

「……保憲――」

 この、眼前に晒された事実は――、どう受け入れればいいのか。何故、身近に接していながら、今まで気づかなかったのか。主と瓜二つの式神、白君も少女の姿であるというのに。

「小丸、話は後だ」

 保憲は痛みに耐える声で言い、小丸のすぐ横へ視線を向けた。

「鎮まられましたか?」

 保憲の問いに、激しく髪を揺らして首を横に振ったのは、剣を連ね綴ったものを纏った、あの少年だ。

「嫌じゃ、嫌じゃ、われは認めぬ!」

 幼子(おさなご)のように泣きじゃくる龍の少年に、保憲は白君に支えられてゆっくりと歩み寄った。

「――信貴山の聖様に、何かありましたか」

 保憲が重ねた言葉に、少年はびくりと肩を震わせ、数歩後ずさりしながら、また髪を揺らして首を横に振った。駄々をこね、嫌々をする幼子そのものだ。

「――聖様は、御自分の望まれたところへ行かれたのですね」

 保憲は静かに言って、後ずさりした少年の頬へ手を伸ばし、そっと触れて涙を拭う。触れられて身を竦めた少年は、しかし、もう逃げなかった。ただ、肩を震わせて、後から後から、ぽろぽろと涙を零し続ける。すぐ横に立つその姿に、ふと自分の姿が重なって、小丸は居た堪れない気持ちになった。この龍と自分は、孤独という、同じ感情に苦しんでいるのだ――。

「もう、お泣きなさいますな」

 保憲が優しく言葉を紡ぐ。

「聖様は、お幸せなのですから、あなた様も、喜んで差し上げねば」

「――分かっておる……!」

 龍の少年は怒ったように答えると、漸く自ら涙を拭った。多少ばつの悪そうな顔をしながらも、金色の双眸で保憲と小丸を見る。

「そなたらには迷惑をかけた。ただ寂しゅうて、寂しゅうて、己だけでは思いを抱えられぬようになってしもうて、誰かにこの思いを委(ゆだ)ねてしまいたかったのじゃ。すまぬ。もう二度とこのようなことは起こさぬゆえ」

 神妙に謝って、つと保憲の傷へ手を伸ばした。

「起こしてしもうたことを取り戻すことはできぬが、せめてその傷の回復が早(はよ)うなるよう、少し力を分けてゆこう」

 輝く剣を纏った少年の手から、溢れんばかりの精気が、保憲の傷口へと注がれる。

「ありがとうございます」

 礼を述べた保憲に、龍の少年はつっけんどんに言った。

「礼など申すな。全てわれが仕出かしたことじゃ。この程度のことでは償いにもならぬじゃろう。ゆえに、そなたにはもう一つ、与えておく。われの助けが必要な時には、わが名を呼べ。わが名は八じゃ。初めて命蓮と逢うた時、どうせ八俣大蛇(やまたのおろち)の眷族じゃろうから、八と呼ぶと言われたのじゃ。それで、施しを乞う鉢を運ぶのをわれの役目にしたのじゃから、戯(たわぶ)れ言(ごと)のつもりじゃったのかもしれぬがな。――その命蓮ももうわれを呼ばぬ。これからは、そなたの呼びかけにだけ、応えるとしよう」

 一方的に約束すると、少年は、ぱあっと光り輝きながら龍の姿に戻って、無数の星が瞬く夜空へ昇っていった。木辻大路には、保憲、小丸と、白君のみが残された。

「小丸」

 保憲に呼びかけられて、小丸は全身を強張らせた。自分は、何より寂しかったのだ。夏虫は、春夏秋冬を小丸とともに過ごし、日々様々なことを教えてくれていたのに、元服して保憲と名乗ってからは、小丸から離れていく一方だ。その保憲が毎日を過ごす大内裏がどんなところなのか、見に行かずにはいられず、結果、失望した。保憲を理解しがたく、余計に保憲が遠くへ行ったような気がした――。

「おれがこんな格好をしてるのは、ひとえに父上の御ため、賀茂家の繁栄のためだ。螢が生まれるまで、父上に男子(をのこご)はなく、おれには父上を驚かせるだけの見鬼の力があったからだ。このことは、おれが十一になってから賀茂邸に入られた真木様も、すがるも螢も知らない。愚かしいと呆れたらいい。下らないと笑うなら笑え。だが、人に話されるのは、困る」

 保憲の声は、真剣だった。鋭利な響きを持った切っ先が、小丸の胸に突き刺さる。

「……絶対に、話さない」

 それだけを何とか口にした小丸の目の前で、保憲はゆらりと倒れた。慌てて駆け寄り、抱え起こした小丸の腕に、保憲の体はぐったりと重い。けれど、保憲は薄目を開けて、小丸の顔を見上げ、口の端に笑みすら浮かべて言った。

「そんな顔を、するな……。大丈夫だ……。初めて会った時にも、言っただろう? おれは、おまえが少々暴れようが何しようが、やられたりするほど、やわじゃない――」

 その脇から、辛うじて式神としての姿を保った白君が付け加えた。

「寝不足で疲労が重なった上に、血を相当失っている。早く邸へ」

 保憲を背負って賀茂の邸へ帰った小丸に対し、事の経緯(いきさつ)を白君から聞いた忠行は、己の曹司に籠っての謹慎を言いつけた。だが、小丸には最早、賀茂の邸に留まるつもりがなかった。自分が悪いのだ。半分、人ではない己の心の弱さ、寂しさが龍を引き寄せた。隙間だらけの心に入り込まれ、とり憑かれて、保憲に大怪我を負わせ、その秘密さえ知ってしまった。最早、保憲の傍にいることはできなかった。再び傷つけてしまうかもしれないことが、恐ろしかった。自分は、家人の小槻実雄を傷つけただけでは終われず、保憲をも傷つけてしまったのだ。自分は、必ずまた繰り返す。防ぐためには、誰からも離れなければならなかった。

 小丸は書き置きを残し、翌早朝には、賀茂邸を出、京を出て、山々へ分け入ったのだった。


          九


  心こそ心をはかる心なれ心のあたは心なりけり

  〔心こそが心を騙す大元なのだ、心の敵は心だったのだ〕


 読み人知らずの歌を呟く聞き慣れた声に、小丸ははっと目を開けた。枕元に、保憲が座っている。がばりと身を起こした小丸から微妙に目を逸らし、保憲は低い声で言った。

「父上は、おまえをこの邸に留め置くおつもりだ」

 それは、小丸にとって、意外な言葉だった。忠行は、保憲を傷つけ、その秘密を知った小丸を、絶対許さないだろうと、ずっと思い続けてきたのだ。けれど、忠行がどう言おうと、自分は、保憲の傍にいる訳にはいかないのだ。

「――おれは、おまえを傷つけた。傍にいたら、また傷つけるかもしれない。ここには、いられない」

 頑なに応じ、衾を押しやって立ちかけた小丸に、保憲は淡々と言った。

「あれは、おまえのせいじゃない」

「でも、ああなったのは、おれに、隙があったからだ。おれの心がまだ弱いからだ。おれは……おれは怖い。もう二度とあんなことにはならないと、誓えない自分が怖い。――本当に、悪かったと思ってる。もう二度と、来ない」

 気持ちを振り絞って、咽の奥につかえていた言葉を何とか口にし、小丸は立ち上がって、傍らの几帳を回った。しかしそこには、すがるが立ち塞がっていた。その後ろでは、ひぐらしと螢も端然と座ったまま、小丸を見上げている。

「行かせないわ」

 すがるが宣戦布告のように言う。

「あなたは、ここに留まるべきなのよ」

 小丸は無言で、素早くすがるの脇を擦り抜けようとしたが、そこへ、どこからともなく白君が姿を現し、同じく立ち塞がった。

「おまえ……?」

 困惑した小丸の背後から、保憲が言った。

「小丸、少し話したいことがある。釣殿(つりどの)へ来てくれ」

 保憲は小丸の横をさっさと通り抜け、壁代と簾を潜って、廂へ出ていく。小丸は保憲の意図が分からないまま、無言で従った。

 西南の妻戸から簀子へ出た保憲は、すたすたと歩いて西の対から伸びる西の中門(ちゅうもん)の北廊へ行き、北廊の突き当たりの、中門に出る妻戸を開け、そこの簀子から向こうの簀子まで、地面を歩かなくていいよう渡してある板切れの打橋(うちはし)を歩いて、中門の南廊へ至り、妻戸を開いて南廊に入ると、更に進んで、釣殿へ出た。釣殿は、中庭(なかにわ)に設けられた池の上に張り出して造られている建物だ。板葺(いたぶき)の屋根がある以外は、板間の周りを簀子と高欄(こうらん)が囲んでいるのみで、風を遮るものはなく、寒がりの保憲にとって、この季節、好ましいところではないはずだ。そんなところに移動してまで、すがる達に聞かれたくない話とは、何だろう。

「夜中にこんなところにいると、風邪を引くぞ」

 とりあえず忠告した小丸に、保憲は振り向いて、悪戯っぽく微笑んだ。

「大丈夫、綿入りの衵をかなり着込んでるし、ちゃんと、焼石も持ってる」

 成るほど、帰ってから着替えたらしい布衣は何となく着膨れているし、片手に布の包みを抱えている。

「……それで、話したいことって何だ……?」

 促した小丸の前で、保憲は簀子近くの板間に腰を下ろし、小さく溜め息をついて言った。

「おれ達の間に何か起こるのは、いつも二月だな。儀式が目白押しの一月が過ぎて、何か、箍(たが)が緩むのかもしれないな」

 確かに、と小丸は納得せざるを得なかった。保憲と出会ったのも、二年前この邸を出たのも、二月だった。そして、今も二月である。二月は、神祇官が仕切る祈年祭(としごいのまつり)や藤原氏の氏神を祭る春日祭(かすがまつり)、大学寮で孔子(こうし)とその弟子達を祀る釈奠(しゃくてん)などがあるが、殆ど上旬に片付いてしまう上、そう大変な行事でもなく、賀茂氏にとって重要でもない。比べて一月は、大晦日(おおつごもり)の追儺(ついな)から休む間もなく、明けて元日には、朝賀、小朝拝(こちょうばい)、元日節会(がんじつのせちえ)などがある。今年は、今上の体調のこともあり、元日の朝賀は取り止めとなったが、七日には白馬節会(あおうまのせちえ)、初(はつ)子(ね)の日には子(ね)の日の宴(えん)、また日を選んで三日間に渡って行なわれる県召除目(あがためしのじもく)、十四日には男踏歌(おとこどうか)、十六日には女踏歌(おんなどうか)の、踏歌節会(とうかのせちえ)もあり、官僚の家の者として、何かと忙しいのだ。

「――それに、おれと姉上の母上がこの邸を出ていったのも、二月だった」

 ぽつりと続けられた言葉に、小丸は立ったまま、保憲の横顔を凝視する。そんな話を聞くのは、初めてだった。

「おれが三歳になった年のことだから、殆ど何も覚えてないんだけれどね。ただ白君だけが、母上の残していったものだった」

 保憲は、立ち待ちの月を映した池を眺めて、静かに語る。

「母上の名はあやめといったらしいけれど、本当の名かどうかは分からない。母上は、いわゆる遊女(あそびめ)でね。父上とは、菖蒲小路(あやめこうぢ)辺りで出会ったらしい。若かった父上が入れ込んでね、まあ、はっきり言えば、手玉に取られたんだろうな。母上はこの邸に住むようになって、姉上とおれが生まれた。そして、おれが三歳になった年の二月のある日に、突然、いなくなったんだ。おまえの家と、似てると思わないか?」

 保憲は、小丸をちらと振り向いて微笑む。

「最初に会った時、おれはおまえに割ときついことを言っただろう? あれは、結構、おれ自身に重ねて言ったんだよ」

「……何だ、それ」

 話の先が見えない。いつまでここにいればいいのだろうか。保憲の傍に自分がいる、この状況が恐ろしい。自分は、一刻も早く、ここを立ち去らねばならないのだ。じりじりと後ずさり始めた小丸に、保憲が不意に問うてきた。

「おまえは、おまえの母君の素性を知ってるのか?」

「――白狐」

 足を止め、硬い声で答えた小丸を、保憲がじっと見上げる。

「本当に、狐だと思ってるのか?」

 改めて訊かれて、小丸は顔をしかめた。真実など、自分は知らない。あの幼い日、母が去ってから、自分は一度も母と会っていない。二年前、賀茂邸を飛び出した後、和泉国の信太の森も訪ねてみたが、母は姿を現してくれなかったのだ。父に捨てられる以前に、自分は母からも捨てられていたのだ。

「父上は何も話しちゃくれなかった。世間の奴らは白狐だと言ってる。おれは、人の姿をした母上しか見たことがないが、確かに、あの人は普通じゃなかった。そして、おれも、普通じゃない。半分、人じゃない」

 両拳をぎゅっと握って俯いた小丸に、保憲の真剣な声が告げた。

「世の中には、都人や里人から、人にあらざる人と呼ばれる人達がいる。人里に家を建てて住んだりせず、山奥や川原(かわら)や、或いは神社や寺院の門前に住まう人達だ。人里に住む人達より、ずっと神々の近くに住んで、その声を聞き、その息吹を感じて過ごす人達だよ。おれの母上も、おまえの母君も、多分、そういう人達の一人なんだと思う」

 意外な話に顔を上げると、保憲は、至極真面目な表情をして小丸を見つめていて、更に話を続けた。

「小丸、おまえ、おれが陰陽生になって、陰陽寮に通い始めてから、不機嫌になってただろう? おまえとおれは似てるが、おまえの心のほうが、ずっと神々に近いところにあるんだ。だから、おまえには、大内裏という世界が矮小に見える。その矮小な世界に終始しようとするおれのことが理解できないで、苛立つんだよ。おまえに、都暮らしは向いてない。大臣、上達部、殿上人達の権力争いの道具にされる陰陽師の仕事は向いてない。でも父上は、益材様が仰った通りに、おまえを陰陽師になさる気だ。そしておれは、父上に逆らえない。父上は、母上が去った後も、姉上とおれを見捨てず育ててくれた方だからな。おれは、おまえに、ここに留まれと言う。おまえは、自分が怖いと言うが、そんなことは、力を持ってる奴、皆が思うべきことだ。おまえは、ちゃんとその怖さを知った。人を傷つける怖さを知った。それが、人に必要なことだ。自分が怖いなら、自分の力が恐ろしいなら、自分を律することができるよう、ただひたすらに修行をすればいい。心の隙間をなくし、心を強くすればいい。おまえは、誰が何と言おうと、人だ。おれが断言する。――後は、おまえ次第だ」

 保憲は立ち上がり、小丸の横を通り過ぎて、中門の南廊へと戻っていく。

「おれはもう寝る。疲れ過ぎてて、白君を操る力も残ってないからな。おやすみ」

 南廊の暗がりの中へ去っていく保憲の背中を振り返り、小丸は唇を噛んだ。「おれは、おまえに、ここに留まれと言う」と言いながら何故、おれが寝たら立ち去れるぞと暗に知らせるのか。

(おまえも、おれが怖いんじゃないのか……?)

 釣殿の戸口に立ち尽くした小丸の視界が、不意に暗くなった。月が雲に隠れたのだ。と、池の上を吹き渡ってきた風が、小丸の髪や袖をそよがせた。異様に生暖かい風だ。

(何だ……?)

 俄かに緊張した小丸に目に映ったのは、いつの間にか、簀子に佇んでいる青年だった。直衣(のうし)を着て立烏帽子(たてえぼうし)を被ったくつろいだ姿で、池を見下ろしている。その姿の向こうに、高欄が透けて見える。

(亡霊か)

 邪気はない。どう対処すべきか迷った小丸を、青年の霊が振り向いた。閉じた檜扇(ひおうぎ)を口元に当て、格子と簾越しに小丸を見つめると、穏やかに言った。

「寄るべき辺りには寄ってきた。後は逝くだけだが、ここでそなたとあの陰陽得業生が話しているのを見かけてね。最後に一つ、お節介をしていくことにした」

 扇をぱらりと開き、亡霊は微笑む。

「そなたは女心が分かっておらぬ。来てよいと言われた時には、暫く行かずに焦らすものだが、去ってよいと言われた時には、暫く傍にいて、真意を確かめるものだ。あの陰陽得業生は、そなたを案じているぞ。それに、あの陰陽得業生、普通ではない。何か、尋常ならざる力を纏っている。人の呪いか、神の祟りか、そういったよからぬ類のモノだ。そなたも、あの陰陽得業生を案じているなら、傍にいることだ。離れていては、いざという時、助けられぬ。大切なら、傍にいよ。一生をかけて守れ」

「――どういうことだ。おまえ、誰だ」

 険しく眉をひそめた小丸の問いには答えず、亡霊は、またぱちりと扇を閉じる。

「保憲に宜しく伝えておいてくれ。保明は、無事に逝ったと。二度と迷わぬよう、堤中納言(つつみちゅうなごん)を供(とも)に旅立ったとな」

 一方的に言い残して、青年の霊は、すうっと掻き消えた。同時に、冷え冷えとした夜気が戻り、ふっと、再び月の光が差したのだった。


            ◇


 自分の部屋に戻ったことも、衾を被ったことも、記憶にない。鳴き交わす雀の声に目覚めると、見慣れた自室の奥の間に寝ていて、うっすらと差し込む朝の光の中、枕元に、白君がいた。

「あいつ、この邸に残ったぞ」

 告げられて、保憲は横になったまま溜め息をついた。留まれと説得したつもりはない。ただ、二年前には告げられなかった自分の思いを、正直に告げた。その上で、小丸自身の意思で決めろと促した。結果、小丸は留まったという。

「全く……。後悔するなよ……」

 保憲は呟きながら天井を見上げた。

 二年間の山籠りで、小丸の力は更に強くなっているに違いない。今度こそは、しっかりと向き合い、その力の扱い方を教えていかなければならない。

(だが、あまりに近しくなり過ぎて、関わらせる訳にはいかない)

 二年前の二月、傷心の小丸が姿を消したと知った時には、まだ独り立ちさせるには早いという思いと、それでもこれで小丸を巻き込むことはないという安堵と、自分の代わりに父を支える存在がいなくなったという不安と醜い喜びが、胸の内で混在していた。その小丸が再び、この邸に住むという。――小丸を関わらせる訳にはいかない。知られる訳にはいかない。自分が負っているものは、自分が願った結果だ。自分が危うくなれば、また小丸は助けに来ようとするだろうが、あの契りに巻き込む訳にはいかない。自分の独り善がりな思いは解き放って、小丸には、ただ、これからを生きていくために必要な、一番基本のところを教えるのみだ。

(おれが小丸に教えるべきこと、おれにしか教えられないこと――)

 人として生きること。人に限らず、他者に関心を持ち、向き合った相手のことを、深く知ろうとすることの大切さ。

(三月十五日までに、きちんと伝えないとな……)

 保憲は、密やかに決意を固めた。


            ◇


 先帝の忠臣であり、歌人としても有名であった堤中納言、即ち中納言(ちゅうなごん)兼右衛門督(うえもんのかみ)藤原兼輔(ふぢわらのかねすけ)の訃報が京に広まったのは、その日の内であった。

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