② 予兆

 東京メトロ表参道駅から徒歩で10分ほど。

 青山通りから骨董通りを進んでいくと、スマホのナビが示した通り、細い路地が拓けていて、ぼんやりと看板に照らされた店名が視認できた。


『L'Époque Cachée』レポック・カシェ


「こんな所に高級フレンチレストランがあったなんて、30年も東京に住んでて全然知らなかったな。まだまだだな」


 表参道駅で落ち会った岡崎はそう言って自嘲した。

 大学の頃、ローカル誌にグルメ記事を書いてた経験からそんな態度になったのだろう。


「狭いようで広いからな、東京は」


 隠れ家とはよく言った物で、年中予約がいっぱいのレストランにしては閑散としているような気がした。


「なかなか予約が取れない高級フレンチなんだろう。俺なんかが連れで申し訳ないな」

 岡崎はちっとも申し訳ない素振りを見せず、そう言って笑った。


「金をドブに捨てたと思う事にするよ」


「おお! 喜んで協力するよ。金をドブに捨てる時はいつでも呼んでくれ」

 岡崎の笑い声がコンクリートに反響して響き渡った。


 岡崎は高校時代の同級生で、卒業後も割と付き合いが続いている希少な友人だ。

 3年前、梨々花の婚約披露を兼ねた飲み会にも参加していた。

 あの時は酔いつぶれて、何があったのか思い出せないほどだった。


「さて、入るか」


 ガラス張りのドアの向こうには、黒いソムリエエプロンを付けたギャルソンが、品のいい姿勢で立っていて、すぐにこちらに気付きドアを開けた。


「いらっしゃいませ。ご予約のお名前をお伺い致します」


「泉です」


「泉さま。お待ちいたしておりました。結婚記念日とお伺いしております」


「あー、妻が急遽予定が入ってしまって、来れなくなって、代わりに友人と」


「さようでございますか。それでも記念すべき素敵な一日に変わりはございません。精一杯おもてなしさせて頂きます。こちらへどうぞ」


 テーブルは広めに間隔をとって、5席。既に席に着いている客が、料理を待っている状態だ。


 店内を彷徨うのは囁き合うような話声と、ボサノヴァの心地いいリズム。


 丸いテーブルに、真っ白い光沢のあるクロスが被せてあって、隣り合うようにセットされている椅子に腰かけた。

 正面の大きなガラス壁から、ライトアップされた庭園が見える。


 本当に、梨々花とこうして食事ができたらどれほどよかっただろうか。


 厨房から「サー・マッシュ」「ウィ・シェフ」という声が響き、ディナーの始まりを知らせた。


 このレストランにはフードメニューがない。ワインやビールの銘柄が書かれた小さなイーゼルがテーブルに置かれているだけ。

 その日入った食材で提供されるフルコースのみだそうだ。


「この辺りのレストランは、確か伊藤んちが野菜卸してるんだよな」

 岡崎はワインを、僕はノンアルコールビールを注文し終わった時だ。

 岡崎がそんな事を口にした。


「そうなのか?」


「ああ、都心部の個人店は大体伊藤んちの農家が、朝採れの新鮮な野菜を卸してるって聞いた事あるよ」


「じゃあ、ふーみんが収穫した野菜って事か……」

 ふーみんというのは、中学から高校まで僕が片思いしていた幼馴染で、保坂芙美。

 今は結婚して苗字が伊藤に変わったから、自然とみんなそう呼ぶようになった。


「おいおい。結婚記念日だろ。他の女の事考えるなんてナンセンスだぞ」


「バカ野郎。俺は梨々花にゾッコンだぞ。ふーみんの事なんてもう……とっくに……」


 終わってる。

 気持ちはとっくに……。


 そう言い聞かせた。


「クラフトノンアルコールビールでございます」

 ギャルソンが瓶入りのビールと背の高いシャンパングラスをセットした。


「希少なブルワリーが手掛けるクラフトビールで、個性的な味わいと高い品質で知られているノンアルコールビールでございます。ホップの香りとフルーティな味わいをお楽しみください」


 絶妙に泡立てながら、グラスを満たしていく。


「ありがとう」


 次は岡崎の前にグラスを置き、ワインのコルクを抜いた。

「シャブリでございます。ブルゴーニュ地方の白ワインで、キレのある酸味とミネラル感が特徴です」


「悪いな、俺だけワインもらっちゃって」


「いいよ。俺はもしかしたら梨々花を迎えに行かないといけないかもしれないからな。運転できる態勢を取っておきたい」


 岡崎はワイングラスを持ち上げてほほ笑んだ。

 店内はにわかに活気を帯びて、BGMは心なしか大きくなったような気がする。


 数分後。

 再びギャルソンがテーブルにやって来て。


「前菜でございます。摘みたての春野菜とオホーツク海沿岸でとれた海の幸のサラダになります。

 味付けは、レモン・ヴィネグレット。春の訪れを感じさせる一皿でございます」


「おおー!」

 と思わず声を上げるほどの、芸術的仕上がりだ。

 テーブルに並べられている小ぶりのナイフとフォークを取り、早速口に運ぶ。


「んー、んまっ」

 岡崎が唸り声を上げる。


「うん。素材の味が全部主張してるのに、邪魔しあってなくて……え?」


 それは突然だった。

 急に目の前に火花が散ったように閃光が点滅して、バチバチと音まで聞こえる。


 よほど疲れてるのか?

 目をぎゅっと閉じたり開けたりを繰り返していると、急に視界がグルっと回ってクロスフラッシュし始めた。


「え?? 何? これ?」


「おい! 泉!! 泉?? どうした?」


 その声で、幻覚はスっと消えた。


「なんだ? 今の?」


 その時だ。


 岡崎のスマホと僕のスマホが同時に着信のメロディを流した。


 しばし、岡崎と顔を見合わせる。


「江藤……」


「こっちは、千葉さんからだ」


 どちらも高校時代の友人で、女子。

 保坂芙美と最も仲のよかった女子たちだ。


 こんな静かな高級店で食事中に、電話に出てもいいか迷う。

 しばし、店内を見回すとギャルソンと目が合った。

 ギャルソンはにっこり笑って「どうぞ」と言いながら、流れるようなお辞儀をした。


 岡崎と目でコンタクトを取り合って、通話ボタンをタップした。


「もしもし、泉君!」


「千葉さん。久しぶりだね、結婚式以来か」


「うん。あのね、聞いて」


「ああ、ごめん。なに?」


「芙美が……」


「保坂……、あ、いや、ふーみんが? どうした?」


「死んだって、さっき……芙美のお母さんから、連絡があったの」


 千葉さんはそう言って、電話口で泣き崩れた。


「ちょ、ちょっと、何言ってる? 聞き取れなかった」

 いや、はっきりと聞き取れた。けど聞き間違いであって欲しかった。


「芙美が、自殺……したらしいの。伊藤君に連絡がつかないの。もしかしたら一緒にいるかもと思って」


「いや、残念ながら一緒にいるのは岡崎だ」


「伊藤君を探して! 携帯が繋がらないの。早く知らせなきゃ」


「わかった」

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