XIII. 逃避行の果てに

 書斎の金庫から引っ張り出したパスポートの有効期限は、ちょうど三週間後だった。さしあたっての気懸かりが晴れ、ひとまず安堵する。

 パスポートを捲ると、自然とこれを作った頃のことが思い出される。五年前のハワイ旅行、あれが家族で行った最後の旅行だ。

 気が緩んだせいか、急に脱力感に襲われ床にへたり込む。見回した書斎は、まだ父と母が自宅で仕事をしていた頃から時が止まったようだった。二人が仕事をしている横で、よくこのマットの上に寝転んで本を読んだ。もうこの部屋に戻って来ることも無いんだと思うと、なんてことのない景色が途端に愛おしく思える。

 一人で迎える四回目の夏休み。今日だけは、両親が仕事で家を空けていてよかったと心底思う。顔を見たら、やっと決めた心が揺らいでしまいそうだから。あんなのでも、ここまで私を育ててくれた大切な家族だから。

 ……だけどごめんなさい。最初で最後の親不孝、きっと許してくれないだろうなあ。

 ここにいるとだめだ。早く荷造りを済ませてしまわないと。


 あっという間に日は暮れ、予定通りに衣笠さんが迎えに来た。必要最低限の荷物を入れたショルダーバッグを持って外に出ると、車の窓から寧が手を振っていた。取り出しかけた玄関の鍵を仕舞い、手を振り返す。

「もうよろしいですか。まだ時間はありますが」

 再び取り出した鍵を塀の郵便受けに突っ込み、後ろは振り返らずに車に乗り込んだ。

「大丈夫です。出してください」

「かしこまりました」

「ありがとね、凪沙」

 隣に座る彼女は、病室にいたときより元気そうに見えた。

「そっちは大丈夫だった?」

「うん、今のところは。パパたちにも気づかれてないみたい」

 あの約束の後、私は衣笠さんを呼びに行った。連れて行くと言ったものの、私一人では難しいと考えるとどうしても協力者が必要だった。話を聞いた彼女は戸惑っていたが、寧の説得の末、「お嬢様が決めたことなら」と承諾してくれた。

 まず病院から穏便に抜け出すため、手術のための転院という名目で退院の手続きをお願いした。それから寧の荷支度や航空券の手配も彼女が纏めてくれた。

「すみません。色々とお任せしてしまって」

「私のことはお構いなく。零時の便ですから今のうちにお休みされておいた方がいいですよ」

 頭上の水銀灯により一定間隔に浮かび上がる安らかな寝顔を眺めているうち、いつの間にか眠りに落ちていた。次に目が覚めたのは高速を下りた頃だった。

 すやすやと眠る寧の頬をつつく。反応は無い。今度は髪を掻き分け、穴だらけの耳たぶを引っ張る。すると寧は眠たげに目を開けた。

「起きて。もうすぐ着くよ」

「ふあー……もう空港?」

 車は止まること無く進み、ターミナル前の一般車乗降場へ入っていく。

「着いちゃったか。衣笠とはここまでだね」

「そうですね。今までお世話になりました」

「やっぱり他人行儀だなあー。最後くらい泣いてくれないのー?」

「申し訳ございません。もう既に今日の分まで泣いてきましたので」

「衣笠らしいね。あ、そうだ。もしパパに責められるようなことがあったらこれ使って。向こうも立場上、大ごとにはしたくないだろうし、それから……」

 なんとなくいたたまれなくなって、私はしれっと車から降りた。

 少しして寧も外へ出てきた。こちらに向けられたその微笑みは、隠し切れない寂しさに滲んでいた。走り出した車に向かって大きく手を振る彼女を横目に、小さくなっていくテールランプをただ黙って見送ることしかできなかった。


 空港内はこの時間でもそこそこ人がいた。チェックインの開始はまだのようで、時間までロビーの長椅子に座って待つ。その間、二人の口数は少なかった。

 アナウンスが流れ、カウンターに移動した。手荷物検査の列に並んでいると、唐突に寧が「あ」と呟いた。

「そういえばまだピアス付けたままだった。これ金属探知機に引っかかっちゃうかも」

「早く外しちゃいなよ」

「それが今屈むと気持ち悪くなりそうで……凪沙が外してくれない?」

「いいけど、それってどこなの」

 寧は目配せをして、私の腕を自分の体に手繰り寄せた。

「ここだよ」

「えっ、ここって……」

 それは臍ピアスだった。理解した瞬間、顔が熱くなるのが自分でもわかった。これを外すにはシャツの下に手を入れなければならない。四方を人に囲まれたこの状況、そんなのどう考えても恥ずかし過ぎる。

「外してくれないの?」

「でも、こんなとこで……」

 体を密着させればできるかもしれないけど、やっぱり恥ずかしくて無理だ。もしこのまま行ったら、職員の前で服を捲って見せることになるのかな。それとも一人で別室に……そんなことを考えてるうちにも列は進み、とうとう先頭まで来てしまった。

 寧は無言で金属探知機へと向かう。ゲートをくぐるとき、思わず目を瞑った。

 目を開けると、寧は何事も無かったかのようにゲートを通過していた。慌ててその後に続き、素知らぬ顔で手荷物を受け取る彼女に詰め寄った。

「本当は引っかからないってわかっててわざと頼んだでしょ!」

「えーどうかなあ」

「もお、焦って損した」

 からかい混じりに笑って、ピアスの付いた舌を出して悪びれる。その悪戯な笑顔は、初めて会ったときと全く同じで、内心ほっとしていた。

 あとどれだけ、こんな時間が続けられるんだろう。


 漫然と、それでいて確かに、時は流れていった。ロンドン行きの直行便で六時間のフライト。寧が空路での移動に疲れてしまったと言うので、急行列車で五時間かけグラスゴーへ。ヴィクトリアン・ゴシックの建物が目を引く美しい街並みを眺めつつシャトルバスで空港へ行き、そこからまた飛行機で海を渡りシェットランドに向かう。

 見えないものに追われるように、先を急いだ。


 一度のトランジットを経てティングウォール空港に降り立ったのは午後四時を過ぎた頃だった。ターミナルなどは無く、倉庫のような小屋がいくつか並ぶ簡素な飛行場、そして辺り一面に広がる夏草色の平原が、かなり遠くまで来たことを実感させる。

「んー。空気が澄んでて気持ちいい」

「体調はどう」

「まあまあかな。これからどうする?」

「とりあえず泊まるところを探さないと」

 一台だけ停まっていたタクシーで近くの町に行き、運転手に薦められた宿を取った。部屋に荷物を下し一息つくと、寧が「まだ外明るいね」と言った。

「さっき見たんだけど日の入りは二十一時半らしいよ」

「うそ!? まだ四時間もあるじゃん」

「ここって北極に近いからね。もう時間感覚おかしくなってきちゃった」

「じゃあせっかくだしその辺見て来ようよ」

「なんか私より元気だね……」

 日付の上ではまだこの時間だが、実際は一日以上経過している。そう考えると急に恐ろしくなった。地球上のどこにいても、私たちにとっては見かけの時間なんて何の意味も無いのだから。


 宿の周辺は坂が多く、ヨーロッパの片田舎といった感じの住宅街と田園風景が広がっていた。

「あっトヨタある」

 坂を下っていくと、前方に見慣れたロゴマークが飛び込んできた。

「ほんとだ。こんな異国の地に知ってるものが溶け込んでるのってなんだか不思議な感じ」

「あっちにスズキもあった」

「車好きなの?」

「うん。特に昔の。おかしいよね、死んでも免許取れないくせに。って笑えないか。あ、こっちはスバルだ」

「…………。」


 その後も適当に通りを散策して宿に戻った。実際、寧は私より元気そうだった。そして翌朝、こんなことを言い出した。

「車買おう」

 あまりに唐突な提案にもう一度聞き返す。

「だから車買おうよ」

「え、なんで?」

「だってこれから足が無いでしょ。タクシーは行ける範囲が限られてるし、歩くわけにもいかないし」

「それはそうだけど、それ誰が運転するの?」

 寧は決まってるでしょと言わんばかりにこちらをじっと見つめる。

「私!?」

「こんな病人に運転させるつもり?」

「いやいや無理だよ! 運転なんてなんにもわからないし」

「大丈夫だって、車少ないし道も広いところだから。お願い、渚沙……!」

 結局押しに負け、というより半ば強引に、カーディーラーでたまたま見かけたクリオスポールという小型のハッチバックを買うことになった。

 寧はこの車を私に似てると言って気に入り、即決でオーナーに話を付けた。流暢な英語の交渉に私の入れる余地は無かった。

 車は次に泊まる予定の宿に届けてもらうことになっているらしく、宿まではタクシーを使った。そこは寧の言った通り、車はおろか人すらほとんど歩いていないような閑散とした農村で、ほんの少し肩の荷が下りた。


「前方からポニーを連れたおじいさんが! どうする、一旦止まる?」

「いやこれくらいならいける」

「おー上手いじゃん! 初めてとは思えないよ」

「一晩中動画で勉強したからね……」

 最初こそ戸惑ったものの、ほとんど誰も通らない平坦な一本道をひたすら徐行するくらいなら難無くこなすことができた。どこまでも続く丘陵の牧草地にポツポツと点在する石造りの民家と羊の群れ。代わり映えのしない風景と不気味なくらい青く広い空に挟まれ、ゆっくりと北上していく。地図を見る限り、旅の終わりは近い。


 車を走らせ続けて数時間、古びた灯台のある岬に辿り着いた。

「もう道が無いみたい」

「そうだねえ。ちょっと歩こうか」

 車を傍らに停め、岬が成す内海の岸辺へと下りていく。寧の病状は半日で急激に悪化していた。今はもうほとんど耳しか聴こえていないと言う。それでも自分の力で歩こうとする健気な姿に胸が締めつけられる。

 足許のおぼつかない寧の手を取って砂利坂を下りきり、亜麻色の砂浜に踏み入った。夜風がそよぐ入り江には、穏やかな波の音だけがささめいている。

「なんかさ、世界に私たちしかいないみたいじゃない?」

「うん。二人だけの世界ってこんな感じなのかな」

 こんな世界がずっと続けばいいのに。

 ——寧も同じこと、思ってるのかな。

 入り江の先に打ち捨てられたボートを見つけた。近づいてみると、ちょうど二人が乗れる大きさの舟だった。

「まだ旅は終わってないみたい」

 澱みのない時をたたえた水面にボートで漕ぎ出す。水平線の遥かには、満月が標のように煌々と輝いている。


 少しずつ遠くなる陸を仰ぎ、寧が口を開く。

「ごめん渚沙、そろそろかも」

 櫂を手離す。ここが旅の終着点。けれど、ゴールはここじゃない。

「私たちはアデルなんでしょ、きっと生まれ変わってもまた逢える……よね」

「この姿じゃなくても、私を好きでいてくれる?」

「当たり前だよ。どんな姿だって寧は寧、魂は変わらないはずだから」

「私、生まれ変わったら花になりたいな」

「そしたら私は蝶になって寧のところへ飛んでいく」

「私のこと、ちゃんと見つけてね」

「うん……約束する」

 寧は力なく微笑むと、手の中の小瓶を差し出した。その中には二錠の小さな薬が入っていた。

 全てを悟り、一つを自分の口へ、もう一つを寧の口へと入れる。

 両の手を固く結ぶ。決して離れないように。

 三つ数えて、薬を飲み込んだ。

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