Ⅻ. Fly Me to the Moon
「まさかお嬢様を訪ねておいででしたとは。大雨の中大変でしたでしょう」
「あはは……連絡が無いからちょっと心配になっちゃって」
「そうでしたか。それはご心配をお掛けしてしまいましたね」
あの状況で言い訳できるわけもなく、というよりそんなことを考える余裕もなく、正直に現在地を即答していた。ホテルのロビーで待つように言われ、一時間程して彼女が車で迎えに来た。
「それで、今はどこに向かっているんですか」
「市外の大学病院です。お嬢様は月曜日の朝に突然倒れられて緊急搬送されたんです」
「そんな……」
「ずっと気を失われていましたが、先ほど意識が戻られまして、今は病室でお休みになっています」
ひとまず寧が無事だとわかり、そして、絆はやっぱり嘘じゃなかったと確かめられて、胸を撫で下ろす。
「それで目を覚まされてすぐ、凪沙様を連れてきてほしいと。何か話したいことがあるそうです」
「話したいこと……それって」
「すみません、私からお伝えできるのはここまでです。あとはご本人の口からお聞きいただけますか」
「そうですよね。いえ、全然大丈夫です」
あまり良い予感はしない。いつの間にか、雨は上がっていた。
衣笠さんに連れられ、とある病室の前に案内された。ネームプレートなどは無いが個室のようだった。
「では私はこれで」
彼女とは後で下の休憩室で落ち合うことになっている。彼女の姿が見えなくなり、静まり返った特別病棟の長い廊下は、私一人だというのに空気が薄い。
大きく息を吸い込んで、小さく吐き出す。もう一度繰り返して、目の前の扉を軽くノックする。また一呼吸置いて、扉を引いた。電気の消えた病室に、ベッドに腰掛ける寧の姿があった。
「……寧」
「待ってたよ、凪沙」
彼女は窓の方を向いたまま動かなかった。
「体は大丈夫なの?」
「うん。今は大丈夫。それより今から秘密を話すね。私の最後の秘密。だから何も言わず、最後まで聞いてほしい」
「わかった」
嘘だ。本当はわかってない。わかりたくもない。ずっと知りたかった寧の秘密、でも今は違う。だって、今それを知ってしまったらきっと——————。
「私、もう長くないんだ。先生はひと月もたないって。前から判ってたんだけどね、神経の難病で、十八までに死ぬだろうって」
寧は他人事のように淡々と話す。
「だから手術を受けろってパパがしつこくてさ、それで家出して隠れてたんだよ。だってその手術って成功確率がほぼゼロで、成功したとしても普通の生活はまず無理なヤツらしくて」
自分のことなのに、わざとどうでもよさそうに話してる。それが透けてしまうのが、余計に痛ましさを際立てる。
「病気のことを知ったのは十二のとき。それを聞いたママはショックでどっか行っちゃったみたい。でもパパは必ず私を救うって言ってくれて、特効薬の研究を始めたの。私はそれを信じて、薬の研究者になるっていう夢に向かって勉強してた。でもそれから二年くらいして知っちゃったんだ。特効薬のプロジェクトはとっくに打ち切られたって」
あまりに残酷なモノローグは、尚も続いた。
「それは別によかったの。難病の研究って製薬会社にとって利益にならないことだし、しょうがないって納得できた。私がつらかったのはね、それをパパが私に正直に話してくれなかったこと。たった一人の家族なのに、ありもしない研究成果でずっと騙し続けてたってわかって、もう何も信じられなくなった。だから家を出て、残りの人生は私の好きに生きることにした。……それももう終わりみたいだけど」
涙が止まらなかった。私が泣いてる場合じゃないのに。最後の秘密は、私一人が受け止めるにはあまりに重い。
「泣いてくれるんだ。凪沙は優しいね。ねえ、こっち来て」
言われるまま、ベッドに歩み寄る。近くで見ると、彼女の腕にはタトゥーの上から点滴の管が刺さっていた。
「そんな顔してたら私まで泣きたくなっちゃうじゃん。せっかく私の秘密全部教えてあげたのに」
おもむろに寧が私に体を寄せる。
「ごめんね、こんな大事なこと隠したままで。もし伝えちゃったら、今まで通りに接してくれなくなると思って。凪沙には普段のままでいてほしかったから。だから許して」
「許す権利なんて私に無い……寧がこんなに苦しい思いをしてたのに、私は自分のことばっかりで、挙げ句の果てに寧のことを疑っちゃって」
「いっしょだね、凪沙も」
「え?」
「私怖かったの。その人の全てを知らずに他人と繋がるのが。全てを知るなんて到底無理なのにね。他人と付き合うっていうのは嘘も秘密も全て受け入れることだって誰かに言われたけど、私にはもうそれができなくなってた」
虚ろな瞳が真っ直ぐに私を見つめる。
「そんなときに凪沙に出会った。私に応えてたくさん秘密をくれた。凪沙に出会えて本当に良かった」
そっと、彼女の手が頬に触れる。まるで私の存在を確かめるように、ピアスの付いた左耳をなぞる。
「正直もうあんまり見えてないんだよね」
息が詰まりそうになるのを必死に堪え、震える手で寧の頬を撫でる。すると何か黒いものが手に落ちた。それは髪の毛だった。
「せっかく重ねてきた私たちだけの秘密、もう守れそうもないかも。あーあ、いっそバラしちゃおっか。この格好で明日学校行って、みんなを脅かすとか面白そうじゃ——」
「だめだよ!」
自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。きょとんとする寧。見つめ合ううち、彼女の顔が歪み出す。大粒の涙が堰を切ったように溢れ、私の胸へ倒れ込んだ。
「私、怖いよ。知らない間に自分が自分じゃなくなっていくのが、怖い……」
肩を揺らして咽び泣く寧を抱きしめる。押し潰されそうな私の心に、ある想いが灯った。
「だったらさ、誰も知らないとこに行こうよ。私たちのことを知ってる人が一人もいない遠い、遠い場所に、二人で」
ゆらゆらと顔を上げた寧は、泣き腫らした目で笑う。
「なにそれ。遠くってどれくらい?」
「それはわかんないけど、とにかく行けるところまで。それでもし、この世界のどこにも行けなくなったとしても、その先もずっと、ずっと一緒にいよう」
「なんか愛の告白みたい」
「……そうかも」
にわかに、甘酸っぱい静寂が私たちを包む。
「いいよ。私のこと、連れてってよ」
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