Ⅺ. 微熱と夏雨

 中学三年間は皆勤賞だった。卒業式の日、クラスで名前が呼ばれたのは私の他に二人だけ。表彰状をもらったけれど、正直恥ずかしかったのを覚えている。そんな真面目ぶっていた私が、高校では半年も経たず初欠席。それもタトゥーのせいで。


 カーテンの隙間から差し込む白日が鬱陶しい。昨日の朝起きた時から全身が重く、軽い頭痛と微熱が続いている。寧とスタジオに行った翌日の日曜日もずっとベットで寝込んでいたが、結局快くならなかった。

母が買ってきてくれた林檎を小さく齧る。「病院はいいの?」「薬はこれを飲んで」「何かあったらすぐ呼んで」と口では心配そうにしていたくせに、今朝目が覚めたら普通に仕事に行っていた。何を期待していたわけでもないし、別にどうでもいいけれど。

 寧も私のことを心配してくれていた。施術後に体調が悪くなるのはままあることらしい。

「体にとってタトゥーのインクは異物だから、その防衛反応として熱が出たりするの。大丈夫、安静にしてればすぐに治るよ」

 その他、経験者ならではのアフターケアについても詳しく教えてくれた。


 寧の言った通り、翌朝にはすっかり回復した。しかし、その寧が学校に来ていなかった。

 始業前のフルールの集まりで、彼女は昨日も来ていなかったと先輩から聞いた。私が最後に連絡を取ったのは日曜日の夕方。それ以降はなしのつぶて。一体どうしたんだろう。

 寧に会えないとわかっている学校は退屈だ。昨日一日我慢していた分、尚更に。

 そんな私と対照的に、クラスメイトたちの顔はどれも明るい。皆明後日から始まる夏休みに胸を躍らせているのだろう。

 教室内を見渡すうち、急に疎外感を覚えた。最近あまりクラスの人と話していない気がする。ピアスがバレるのを恐れて、それとなく距離を取るようになってしまったのだから無理もないか。

 こんな周囲から浮いた状況、少し前の私ならとても耐えられなかったのに、それに気づかず過ごせていた自分に驚く。寧と出会って自分が変わったことに気づかされる。


 翌日は雨だった。昨日までの快晴が噓みたいな大雨。相変わらず寧からの返信は無い。

 プルミエ不在の終業式が終わり、気づけば旧校舎にいた。いつも昼休みに寧と過ごしていた席に座る。真っ暗な教室で一人、隣にいるはずの彼女のことを想う。もうずっと会っていないみたいだ。

 正確には三日と経っていない。たった数日のことなのに、なんでこんなに胸が苦しいんだろう。私ってこんなに弱い子だったっけ。

 誰かのために涙を流したことなんて寧に会うまで一度も無かった。それほど深く関わり合うような人が一人としていなかった。だって嫌われちゃうかもしれないから。はじめから深く関わらなければ傷つくこともない。そうだ、人から嫌われることに極端に怯えていた。だから誰にも嫌われないよう、ずっと「いい子」を演じてきた。学校でも、家でも、誰の前でも。

 ああ。私ってとんだ弱虫だったんだ。

 自分の弱さに目をつぶって生きてきた結果、「いい子」は「都合のいい子」へと変わり、いつの間にか「どうでもいい子」になっていた。心の何処かでは気付いていたのかもしれない。だけどそれを認めるのすら怖くて、知らないふりを続けてきた。

 私の一番の秘密、今なら寧に言える気がする。

 胸に手を当て、タトゥーの貌を指でなぞる。まだ少し表面は凹凸があり、熱を帯びている。確かにある、私と寧の絆の証。

 ただ黙って待っているだけはもういやだ。——たとえ傷つくことになったって。



 まずは寧が泊まっているはずのホテルに向かうことにした。

 その前に一応衣笠さんに連絡してみたがやはり繋がらなかった。彼女が寧の指示無しに私と連絡を取ることは無いだろうからこれは想定内だ。

 タクシーの後部座席の窓ガラスに雨が強く打ちつける。

 決心して飛び出してきたものの、心の中は不安ではちきれそうだった。心配の種は三つ。最近彼女の様子がおかしかったこと。理由はわからないけれど、なにか大きな秘密を隠している気がすること。そして、勝手に会いに行ったら嫌われてしまうんじゃないかということ。

 寧が私を嫌うことなんて絶対無い、そう信じたい。なのに信じきることができないのは、彼女の秘密主義の所為だろうか。それとも、これも私の弱さなのかな。

「お客さん? 着きましたけど」

「あっすみません」


 このホテルに来るのはこれで四回目。前のところと比べると大きくはないが造りは新しく、より高級感がある。迷いの無い足取りで寧の部屋へと辿り着く。

 部屋番号を確認して深呼吸する。チャイムに指を掛けると、前のホテルに初めて行った日のことが蘇ってきた。あの時とは全く違う種類の緊張感が指を震わす。きっとあの出会いは偶然じゃなくて運命だったんだ、そうだよね、寧。

 …………。

 ドアが開くことはなかった。私はホテルを後にした。


 そのまま徒歩でホテル近くのマンションへと向かった。ここに衣笠さんが部屋を借りていると、前に寧から聞いていた。地下の駐車場に忍び込み、黒のベントレーを探す。

 フロアを一周したが彼女の車は見当たらなかった。これで寧は今どこかへ行っているということがわかった。そうなるとやれることは一つ、ここで車が戻ってくるのを待つしかない。

 待つ、と言ってもずっと駐車場に隠れているわけにもいかないので、入口を見張れる向かいのビルの喫茶店に移動した。ホテルの車寄せの方を見張れたら良かったけれど、あいにく手頃な場所が見つからなかった。

 窓際の席に腰を下ろし、ふと自分の行動を顧みる。あれ、もしかしなくても、私ってヤバいかも。こんなストーカーじみたこと、普通じゃない。でもいいんだ、なにもしてないともっとおかしくなりそうだから。


 滝のような雨を搔き分ける車の往来。色とりどりの傘を手に通りを行く人々。一斉に灯る街灯。店内にかかる有線はもう何周しただろう。

「あのーお客様、そろそろ閉店のお時間になりますが」

 壁の時計は九時に迫っていた。会計を済ませ、そそくさと店を出る。

もう帰ろう。……あの歩道橋を渡って、ホテル前まで行ったらタクシーを呼ぼう。傘を広げ、歩き出す。踏み出した一歩は、自分でも笑ってしまうくらいに小さかった。本当はわかってる。こんなこと、何の意味も無いって。それでも両足は鉛のように重い。この金属塊がただの気休めに過ぎないとしても、私にはそれしか無いから。足に纏わりつく鉛屑を解かずにはいられないんだ。

 歩道橋の上まで来たとき、一本の着信が入った。傘を落としそうになりながら慌てて電話に出る。

「こんな遅くにすみません、衣笠です。凪沙様、今どちらに?」

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