Ⅹ. プレ・メタモルフォーシス

スレート屋根の比較的新しめな一軒家が建ち並ぶ閑静な住宅街に、そのタトゥースタジオはあった。外観は普通の住宅で、看板なども見当たらない。

「てっきりもっと汚い感じのとこにあると思ってた。雑居ビルの地下みたいな」

「ふふ、私も初めて来たときは同じこと思った」

「一見普通の家みたいだけど、本当にここ?」

「そーだよ。紹介のある人しか取ってないみたい」

 寧はインターホンに「こんばんは。ネルです。」と話すと、ハスキーな女性の声が返ってきた。中から出てきたのは金属のアクセサリーを全身に纏い、髪を銀と紫のメッシュにした、いかにもな感じの人だった。

「おおネル。また新しい女連れてきたのか」

 え、今なんて…………?

 体中の血の気が一瞬にして引いていく。

「ちょっとギグ、変なこと言わないでよ!」

「いやー悪い悪い。ネルが他の子連れてくるなんて思わなかったからさー、ついからかいたくなって」

 ギグというらしいその小柄な女性は、まるで悪びれる様子もなく手を振った。引きつった顔でそれに会釈する。ほんと、笑えない冗談だ。

「へぇー君がナーガちゃん。結構おとなしそうなのにねぇ。ウチがどういうとこだかわかってんの?」

 どうやらここではニックネームで呼び合うらしい。「ナーガ」というのは寧が考えたのだろうか。寧に目配せすると苦笑いが返ってきた。

「あれぇよく見るとエグいのつけてんじゃん。イイねえ、好きだよそういうの。真面目そうな顔してピアスとかタトゥーしてるの、最高にソソる」

 寧の無遠慮さとは違う、身勝手で自分本位な言葉。この人、苦手だ。なのに寧と親しげで、ちょっと居心地が悪い。


 ここは住居兼スタジオのようで、その一室には住居には似つかわしくない病院の診察台のようなものが置かれていた。

 その台に座らせられると、一枚の紙を渡された。

「そこにサインして」

 渡されたのは誓約書だった。私は自らの意思で施術を受けます、という旨が書かれている。

「ネルの連れなら問題無い思うけど、保険ってことで一応、ね。まーこれ犯罪だからさ」

 突如出た物騒なワードに身じろぎする。

「犯罪って言っても捕まるのはコッチだけどな」

「実は未成年の人にタトゥーを彫るのは条例で禁止されてるの」

「そそ。だからウチで彫ったことは他言無用な。もし喋ったら、わかるよなァ?」

 ペンを握る手が汗で湿る。一旦ペンを置きズボンで手を拭う。

「おいビビってんのか? オレが言うのもアレだけど、ハンパな気持ちで入れるんならやめといた方がいいぜ」

 ——あんなもの私は先のことを考えられない愚か者ですって自分で証明しているようなものだぞ。

 父の言葉が脳裏を掠めた。違う。ちゃんと考えた。これは私にとって必要なことなんだ。

 二人に見つめられる中、ペンを握り直し誓約書に丁寧にサインをした。

「オッケー。んじゃまずはデザインね。描いてきたの見せてみ」

「あっはい……こんな感じで描いてみたんですけど」

「ご丁寧に構図付きかよ。ほー。ワリとセンスいいじゃん」

 どんなダメ出しが入るかとびくびくしていたが、意外にもギグは素直に感心しているようだった。タトゥーについてそれなりに勉強してきていたので、それが認められたみたいで嬉しかった。

「寧は見ないの?」

「完成した姿で見たいの。楽しみはとっておきたいから」

「寧らしいね」

「ほとんど直すところも無いし下絵描いたらすぐに始められるけど、そっちはいける?」

 ギグは転写用のペンで私を指した。それに応えてゆっくりと首を縦に振る。

「てかネルはどうすんの? ここにいてもヒマっしょ。ネルならそっちの部屋使ってもいいぜ」

 寧と目が合う。きっと段ボール箱で未知の世界に怯える捨て猫みたいな目をしていたと思う。

「私もここで見てます。彫るとこ見る機会なんてなかなか無いし」

「そ。まーいいや、見られるのも好きだしな。準備するからちょい待ってて」

 そう言ってギグは部屋の外へ出ていった。二人きりになると、寧が側に寄ってきて優しく声を掛ける。

「大丈夫?」

「やっぱりちょっと怖いかも」

「怖かったら無理しなくてもいいんだよ」

「……正直すごく怖い。けど頑張る。自分で決めたことだしね。だからさ……」

「なに?」

「終わるまで、私の——」

「おーし始めるぞー」

 私の手を握っていてほしい、そう伝えたかったのに、タイミング悪くギグが戻って来てしまった。私と寧の間に施術に使う器具が並べられる。

「ほら、胸見せろ」

 急かされるようにシャツをたくし上げ、鎖骨の辺りまで捲る。露わになった胸元にタトゥーの下絵が当てられる。

「だいたいこの辺だな。ここでいいよな?」

「はい」

 彫る位置を鏡で確認する。制服の胸当ての部分から完璧に見えない位置を入念に確認してきたので、これで問題無いはずだ。ふと、視界の隅に無骨な機械が映る。先端に針の光るそれに、ぞわぞわと音を立て鳥肌が拡がった。

「じゃあ入れてくからな。キツくなったらちゃんと言えよ」

 いよいよだ。ここから先、もう後戻りはできなくなる。

 今ならまだ引き返せる……いや、本当はとっくに手遅れなのかも。タトゥーよりも深く私に刻まれたもの――旧校舎の空き教室で先輩の秘密を覗いてしまったあの日から。

「いっっっっ!」

 思わず声を上げてしまった。ピアスを開けたときとは比べ物にならない、毒虫に刺されたような鋭い痛みが皮膚を貫く。

「ちょ、ナーガちゃん大袈裟だって」

 ギグは半笑いでタトゥーマシンを動かしていく。

「だんだん慣れてくるから。あともっと力抜いてー」

 この苦痛があと数時間続くと思うと心が折れそうになる。そんな私にお構いなしに、ギグは普通に話しかけてくる。

「なんで入れようと思ったの? ネルにそそのかされたとか?」

 反論しようとしても、声にならない声が食いしばった歯の隙間から漏れるだけだった。

「二人で決めたんです。理由は私たちの秘密ですけど」

「ふーん。てか気になってたんだけどさぁ、キミらどーいう関係?」

「それも秘密」

「なんか今日冷たくなーい? まあ秘密にするってことはそういうコトだよねぇ。なんだっけ、ソウルメイト、みたいな」

 あ。この人も知ってるんだ、アデルのこと。そう、私もずっと気になってた。彼女と寧の関係。でも、訊けない。訊けないのは多分、皮膚の痛みを必死にこらえてるからってだけじゃない。

 そっと、冷たいものが左手に触れた。

 私は目を閉じたまま、それに指を絡める。

 彼女の手はいつも冷たい。温もりはないけれど、かえってそれが私を落ち着かせてくれる。顔を歪める程の痛みでさえ和らいでいく。勝手で横柄な彫り師のことも今はもう忘れられる。


 突然ギグの手が止まったかと思うと、彼女は立ち上がって伸びをする。私たちは慌てて手を解く。

「まあこんなもんかな」

 寧と台の下で繋がったまま、気づけば二時間半の施術を終えていた。体を起こすと胸の辺りがヒリヒリする。

「ねえ、もう見ていい?」

「うん、一緒に見よ」

 姿見の前に立ち、せーので前を向く。胸元に刻まれた黒蝶とジギタリス。思い描いていた通りの出来映えだ。彫った跡は薄っすら赤みを帯びて痛々しい。

「どう、かな…………寧?」

「あっごめん。なんか感動しちゃった。すっごく似合ってるよ。ありがとう、凪沙」

「なんで寧が感謝するの」

 寧の目元は少し潤んでいるように見えた。初めて見た、寧のこんな表情。

「そんな顔するんだな、ネルって」

 はっとして横を向く。口から零れたような微かな声だったけど、私には確かに聞き取れた。こちらに背を向け道具の片付けをする彼女の顔は確認できなかった。

「あー私も同じの入れたくなっちゃった。プシュケーってさ、"魂"って意味の他に"蝶"も表す言葉なんだよ。私たちにぴったりだよね! ギグ、お願いしてもいい?」

「悪い、今週は埋まってる」

「そう。じゃあまた連絡する」

「おう」

 改めて、鏡に映った自分を眺めてみる。羽化の時期はまだ先みたいだ。

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