Ⅸ. はらぺこあおむし

 蝉たちがさざめき合う駅前の広場は、日陰にいてもうっすら汗が滲む。約束の時間まではまだ三十分もある。なるべく指定された時間ぴったりに行動するように生きてきたこの私が、柄にもなく。特別早く来ようと思ったわけではなく、家に居ても立ってもいられなかったのだ。

 何度も時計を確認する。時の流れが緩やかになるのと反対に、胸の鼓動は速まっていた。

 約束の時間が近づき、四方を見渡しては時計を見るのを繰り返す。そのうちに約束の時間になった。改めて八方を見渡すが、寧の姿は無い。連絡も来ていない。嫌な予感がした。前にも同じようなことがあったから。あのときのことを思い出して、視界がぐらついた。

 時が経つ速さはさらに半分になった。もう暑さは感じなくなったのに、どうしてか汗は引かない。周りにいた自分と同じ待ち合わせ中の人たちがそれぞれの相手と合流するのを目にするたび、泣きそうになった。


 そのまま30分が経った。周りを見渡すのはもうやめた。これ以上みじめな気持ちにならないように、下を向き、ただひたすら時間が過ぎるのを待った。

「凪沙!」

 耳馴染みのいい声。はっとなって顔を上げると、全てが吹き飛んだ。

 そこには私の知らない寧が立っていた。ワンショルのトップスにデニムショートパンツという露出度の高い服装で、カールをかけた髪の間に光る派手なピアス。普段の彼女を知る人が柳垣寧だと認識できないくらいに、刺激的で目を奪われる。寧は何か謝罪の言葉を言っているが、全く頭に入ってこない。

「どうしたの? ………私の恰好、変?」

「えっ」

 我に返ると、厚底サンダルの分背が伸びた寧が心配そうに私の顔の覗き込んでいた。

「ぜ、全然! むしろすごくいい」

 本当に、とはにかみながら、寧はまだ私のことをじっと見ている。私は顔を隠す。目、赤くなってないよね?

「でも渚沙のコーデはイマイチかなあ」

 寧が見ていたのは顔では無かった。それなりに時間を掛けて選んだコーデだったのでかなりショックだ。気を落としかけた私の髪に寧の細い指が触れる。左耳にかかる髪を梳いて、彼女は言う。

「ここは学校じゃないんだから、なにも隠す必要ないんだよ?」

 はっとする私に笑い掛けると、寧は黙って私の手を取った。そのまま揚々と歩き出し、着いた先は駅ビルのトイレだった。

 パウダールームの大きな鏡に私と寧が縦に並んで映っている。

「どうするの?」

「できてからのお楽しみ」

 寧は私の髪を解して束に分け、それを編み込んでいく。こんな風に髪を触られるのがなんだかとても懐かしくて、安らぎを感じる。それと同時に、冷ややかな視線が背中に刺さるのも感じる。トイレの利用客が後ろを通るたびに、癒しのひと時は水を差された。

 一方寧は他人の目などどこ吹く風で、手際よく編み込みを繰り返している。

「はい、できあがり」

「……すごい」

 自分が自分じゃないみたいだった。左耳に掛かった髪を纏めて編み上げ反対側に流した、いわゆるサイドアップ。いつも髪を下している自分には馴染みの無い髪型だ。ピアスが強調されて、鏡が映す虚像に一瞬ドキッとした。

「うん、よく似合ってる。じゃ、行こっか」

「うん!」

 生まれ変わった私が歩き出す。胸を張って。私と寧とでは釣り合わない気がして、彼女の横に並ぶのは気後れする……だから人前ではいつもおどおどしていた。でもそんな私はもういない。

「気に入ってもらえたみたいで良かったよ」

「あ、顔に出てた?」

「顔だけじゃないけど。なんか明るくなった」

「あはは……よく髪型を変えると人も変わるって言うしね」

「どうかな。私は自分が望まないと変わらないと思う」

「うん、そうだよね……!」


 出来たばかりの商業施設に移動し、気の赴くままにショッピングをして過ごした。デート、というよりは友達と遊ぶような感じだけど、純粋に楽しかった。寧も楽しそうだ。私たちを縛るものは何も無くて、こんな時間がいつまでも続けばいいな、と思った。


 店頭に飾られていたきらびやかなカトラリーが目に入り、ふらっと雑貨屋に立ち寄った。

 あれって……。

 店内に足を踏み入れたとき、通路の奥に見知った顔を見つけた。それは担任の山名先生だった。

 思わず息を呑む。寧はまだ気づいていない。陳列されたティーポットに手を伸ばす彼女を慌てて引き戻す。

「どうしたのっ?」

「あそこ、レジの方の、緑の服の女の人、先生だよね」

 本人に気づかれないよう小声で、口だけを動かして伝える。

「あっほんとだ」

「早く出よ」

 急いで入口へと引き返そうとすると、寧に腕を掴まれた。そしてあろうことか、店の奥へと進んでいく。

「寧!? 何考えてるの……!」

 声を殺して寧に迫ると、彼女は全く焦る様子も無く、

「堂々としてればバレないって。まあもしバレちゃっても、そのときは私も一緒だから」

 と私をなだめた。なぜ敢えて危ない橋を渡ろうとするのか、考える間も無く先生に接近していく。横を通り過ぎるとき、足がすくんだ。

 おぼつかない足取りで店内を一周する。そのうち、先生は私たちに気づくことなく店から出ていった。

「ね、大丈夫だったでしょ」

 ミントグリーンの背中を見送りあっけらかんとした笑顔を向ける。

「もう心臓が止まりそうだった」

「私もすっごくドキドキした。本当はね、ちょっと怖かったの。バレたらどうしようって」

 意外だった。さっきは余裕そうに見えたのに。なにより、こんな気弱な寧を見るのは初めてだ。

「じゃあどうしてあんなこと……」

「なんでだろう、私もわからない。でもスリルがあっておもしろかったでしょ」

 寧は気が緩んだように噴き出した。私もつられて笑い出す。やっぱり、いつもの寧だ。



「そそろスタジオに向かおうか」

 屋上のテラスから見える太陽が傾き始めている。

「汗かいちゃったし、行く前にここのスパに寄っていこうよ——」

 言い終わってから気づく。寧にはタトゥーが入っていることに。やってしまったと臍を嚙む私を見て寧はすぐに意味を察したようで、明るく切り返してくれた。

「それなら銭湯とかどうかな。銭湯はタトゥーOKのところも少なくないし」

「へぇーそうなんだ」

「私は行ったことないんだけどね。ギグ、あっ今日行くスタジオの人が言ってた」

「今日はその人が彫るの?」

「そうだよ。一人でやってるお店で、私のタトゥーも全部ギグが入れたの」

「ピアスのときみたいに寧にやってほしかったなあ」

「できればそうしたいけど、私には無理だよ。でも安心して、腕は確かだから。……ちょっと変わってるけど」


 近場の銭湯を探したものの、結局寄れそうなところは見つからず、駅近くのホテルでデイユースの部屋を借りることになった。

「まさかこんなに狭いとは」

 空きがあったセミダブルルームは、寧が泊まっていたホテルの部屋と比べると数段狭かった。

「ささっとシャワー浴びてっちゃおう」

「先に入ってもいい?」

「いいよー」

 すぐ出るから、と言って浴室に入った。その数十秒後、扉が開いたかと思うと寧が中に入ってきた。

「ちょっと寧!?」

「なんか一人でいるのつまんなくて。まー私のことは気にしないでいいからさ」

「気にしないなんてできるわけ……。こんな狭いのに」

 浴室は二人が入ってギリギリ体を洗えるスペースがあるかないかという広さだ。すぐ横には彼女の裸体。意識せずとも目に入ってしまう。

「……思ったより恥ずかしいね。温泉だったら普通のことなのに、不思議だよねー。狭いからかな」

「それもあるけど、多分二人きりだからかも」

 寧も本当に気恥ずかしさを感じているのか、背中合わせに黙々と体を洗う。

 見るのも見られるのも恥ずかしいという極限状態の密室にひとたび静寂が訪れると、気まずさに窒息しそうになる。

 不意に寧が口を開いた。

「――――もし私が一緒に死のう、って言ったら、凪沙はどうする」

 一瞬、振り返りそうになった。

 シャワーの音に消え入るような儚い声が泡とともに排水口に流れていく。

「ごめん、今の忘れて。そうだ、もう決まった? タトゥーのデザイン」

 寧はすぐに言い直して話を逸した。

 きっとあれは酸欠状態の脳が引き起こした幻聴だ、そう自分に言い聞かせ、確かに聞こえた問に答える。

「あ、うん。実はまだ悩んでて。月と星か運命の輪か蝶の柄のどれかにしようかなって」

「私は蝶柄がいいと思う。だって蝶はメタモルフォーゼの象徴、凪沙にぴったりだよ」

「メタモルフォーゼ……変身?」

「知ってる? 蝶って蛹の中で一度全身が液体になるの。だけど成虫しても幼虫の頃の記憶は残ってて、その仕組みは未だ解明されてないんだって。そういう神秘的なところも合ってると思う」

「そうだね。私、蝶柄にする」

 にこやかに頷いた寧は「じゃあ先に上がってるね」と言って、軽く体を拭いて外に出た。


 一人用のはずのシャワールームが急に広く感じる。

 どうも寧の様子がおかしい。

 でも、そのことを訊いても答えてはくれないだろう。本人もあまり触れてほしくなさそうだし。

 たまに寧のことがよくわからなくなる。秘密は沢山教えてもらったけれど、まだ話してくれないこともある。隠している理由は彼女のためなのか、それとも――。

 いつだって寧は人の心に遠慮なく入ってきては、好き勝手に揺さぶっていく。私は羽化を待つ蛹だ。お腹を空かせた青虫は、ある日秘密で固められた。その中はドロドロに融かされて、目に見えない力で掻き混ぜられる。

 いつかこの蛹の殻を突き破る時が来るのだろうか。

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