Ⅷ. おいしい皮肉
まだ信じられない。あの柳垣寧が自分の部屋に座っている。でもこれは紛れもない現実だ。
「来ておいてなんだけど、本当に良かったの?」
「そんな、うちで良ければ」
「家の人は」
「あー親には言ってないけど多分大丈夫。どうせ気づかないだろうし。むしろ来てもらったのに何も準備できてなくてごめんなさいって感じだよ」
「そんなの気にしないで。こっちこそ急に頼んじゃってごめんね」
「あの電話は正直いきなり過ぎてびっくりしちゃった。自分のスマホはどうしたの?」
「それが訳あって使えなくて。……実は私、追われてるの」
あまりに突拍子も無い発言にまたしてもここが現実か怪しくなる。だが寧は至って真面目な表情だ。
「スマホの電源が入ってると居場所がバレちゃうから。だけど流石に人の家までは入ってこないと思う」
「ちょっと待って、バレるって一体誰に」
「それは…………言えない」
「そっか。じゃあ、昨日急に会えなくなったのは?」
「………………ごめん、それも言えない」
ああ、そうなんだ。やっぱり寧はあのことを気にしてる。私が秘密を守れなかったことを。だったら——――。
「私からもひとつお願いしてもいい?」
「え、うん」
「私にタトゥーを入れてほしい」
寧は目を丸くして私の顔をじっと見つめた。
そして何かを考えるようして、「わかった」と言った。
「よかった、ありがとう」
「って言っても私が彫るわけじゃないんだけどね。私がお世話になってるお店があるからそこに行ってみよっか」
これでまた秘密が手に入る。寧との関係が続けられる。タトゥーなんて入れてしまったら普通の生活はもう送れそうもないけれど、今更構わない。寧と繋がれれば、それで。
「渚沙?」
「あっごめん。今日は何するの? そういえば絵描くとこ見たいって言ってたよね」
「見たいのは山々なんだけど、今は少し休ませて。ちょっと疲れちゃってて」
「いいよ全然。あっ横になるならベッド使っていいよ、寧が嫌じゃなければ……」
「じゃあお言葉に甘えて、っとその前にシャワー借りていい?」
「どうぞどうぞ」
寧を風呂場へ案内する。
「タオルはこれを使って、って寧!?」
寧は脱衣所に入るやいなや制服を脱ぎ始めていた。
「どうかした?」
「どうかしたって、なんで普通に脱いでるの!」
「別に凪沙にはもう見られてるし」
「それはそうだけど……」
話をしながらも寧は着々と脱いでいく。彼女の躰はいつ見ても美しい。
「凪沙だって本当は見たいんでしょ。なら見れるうちに見ておかないと」
「わ、私は……そ、そんな」
「そんなこと言って、がっつり見てるじゃん」
「だって」
こんな美しいものを前にして目を離すことはできない、寧が私をこんな風にしてしまったんだ。
「……えーっと、この先はさすがに恥ずかしいんだけど」
下着姿になった寧を前に慌てて脱衣所から出る。
自分の部屋に戻って深呼吸をした。興奮が鎮まると、ある違和感が残る。私の知っている寧はあまり自分の躰を見られたくないはずなのに。相当疲れているのだろうか?
シャワーを浴びた寧はそのまま寝てしまったので、一人で夕食と寝支度を済ませた。途中で母が帰ってきたが、寧のことは話さなかった。
自室に戻りひとつ困ったことに気づいた。私の寝る場所が無いのだ。この部屋にはベッド以外に寝床になりそうな物が無い。寝るとしたら一階のソファだけど、母に叱られてしまう可能性がある。悩んだ末、クッションを枕に床で寝ることにした。夏用の薄いカーペットに仰向けになる。今は何ともないけれど、朝が恐い。
寧の存在を意識してだろうか、中々寝付けない。だんだん背中が痛くなってきて、一旦寝るのは諦めタトゥーのデザインを考えることにした。デスクライトを点け机上のタブレットを取る。
まず決めないといけないのがタトゥーを彫る部位だ。日常生活で見えない場所にするのは大前提として、個人的には自分の目で確認できる場所にしたい。そう考えると腰か胸のあたりになるのかな。気になるのは痛みの程度。脂肪が厚い部位は意外と痛くないって寧は言っていたけれど、私に耐えられるだろうか。
適当にペンを動かしてみてもどうもこれというデザインが浮かばない。寧のタトゥーはどれも彼女に合っているのに。イメージに詰まって、寧のタトゥーが見たくなった。
眠っている寧にそーっと近づく。私が貸したパジャマの襟ぐりから胸部のタトゥーが覗いている。寧が一番好きだと話していたジギタリスの花をデザイン的に模した図柄で、その繊細さに見惚れてしまう。さっきは驚いてじっくり見られなかったけど、見れば見るほど惹かれる程に魅惑的だ。もっとよく見たい。体中のタトゥーを目に焼き付けたい。この服の下も、全部。寧の肩に私の手が伸びていく。
…………なにやってるんだろ私。
……もう寝よう。
結局ほとんど眠れなかった。日の出前に起きて身支度を終え、日が昇る頃に部屋に戻ると、寧は電話で誰かと話していた。ちょうど通話が終了したようで「おはよう」と声を掛ける。
「おはよう。早起きだね」
「あはは、いつもはそうじゃないんだけど……。誰と話してたの?」
「衣笠だよ。もうすぐ着替え持って来るって」
「そうなんだ。じゃあ寧は衣笠さんの車で帰るの?」
「それなんだけど、衣笠に私のスマホだけ別の場所に運んでもらって、私は電車で学校に行くことになった。陽動作戦ってやつ? だから一緒にいこ」
私は頷いて差し出された寧の手を取った。今日は良い日になりそうだ。
私たちはいつもより早く家を出た。両親は本当に全く気づくそぶりも無かった。衣笠さんが来て玄関の出入りがあったときはもしかしてとヒヤヒヤもしたが、杞憂だった。呆れるくらいに。
「タクシーの方が良いんじゃないの」
「いいの、たまには電車に乗ってみたかったから」
「さすがはお嬢様。わたくしめが電車の乗り方をお教えいたしましょう」
「私だってそれくらい知ってるって。そういう凪沙も立派なお家にお住まいで」
「うち、お金だけは無駄にあるからね。あの人たちは子供より仕事の方が好きみたいだから私なんか、ってごめん、朝から愚痴っちゃって」
「わかるなーその気持ち。私の親も大概でさあ……いや、こういうのは人と比べるものじゃないか」
寧は何か言いかけて言葉を濁した。
「でももったいないなあ。私が凪沙のママだったら絶対ほっとかないのに」
「本当にそうだったらよかった。あ、今から寧の子供になっちゃおうかな」
「それ、どういう意味?」
まだ人の疎らな駅前の横断歩道を渡りながら二人で笑い合った。本当にそうだったらよかったのに。
学校が近づくにつれ同じ制服を着た女学生が増えてきた。私たちは見せかけの優等生の姿に戻った。
こうして私の日常が還ってきた。少し形を変えて。橘さんからは相変わらず冷たい視線を感じるけれど、それはもう仕方の無いことだ。英語の中テストの結果は悲惨なものだったけど、それは期末試験で挽回すればいい。新しいホテルに移った寧と放課後にはまだ会えてないけれど、明日は初めて休日に会える。
あっという間に放課後になった。早く帰って明日の準備をしよう。胸を弾ませ家に帰ると、既に両親とも家に居て、私の帰りを待っていた。
「おかえりなさい。今日の夜は中華を食べに行くことになったんだけど、凪沙も行くでしょ」
なんでこういう日に限って。家族で外食なんてずっと行ってなかったのに。私は出かかった溜息を吞み込んで「うん」と答えた。
そのまま服を着替えて車で二十分ほどのところにある会員制の高級中華料理店にやって来た。父も母もやけに上機嫌だった。理由はなんとなく察しがつくけど。
店内の個室に通されると、早速語り出した。また始まった、私はメニューに目を落とす。
二人は今回の案件がいかに大きくいかに大変だったかを延々と雄弁に語っていた。それを話半分に聞き流しながら北京ダックを頬張る。二人の仕事の話を聞くのは嫌いではない。ただいつも仕事の話しかしない二人のことは大嫌いだった。
適当に相槌を打つのにも疲れてきて、明日のことを考えることにした。明日は朝から寧と会って遊んで、最後にはタトゥーを入れてもらう。想像していると、楽しい夢を見ているようなそこはかとない高揚感に包まれる。この感覚を味わっていたくて、待ち遠しくも、まだ明日が来てほしくないような気もした。
現実に戻ってみると、聞こえてくるのは相変わらず仕事の話。ほとほと嫌気が差した私は、つい余計なことを口に出していた。
「ねえ、私がタトゥー入れたらどう思う?」
両親は会話を遮る脈絡の無い発言に目をしばたたかせた。そして眉間に皺を寄せる。
「なに、凪沙はタトゥーを入れたいのか?」
「別にそういうわけじゃないよ。ちょっと聞いてみただけ」
「タトゥーなんて駄目に決まってるだろ。あんなもの私は先のことを考えられない愚か者ですって自分で証明しているようなものだぞ」
「そうよ。私たちが産んだ体にわざと傷を付けるなんて絶対に駄目だからね」
よくそんな偉そうなことが言えるよね、同じ屋根の下で暮らしていながら、娘にこんなにピアスが開いていても気づかないくせに。舌先まで出かかった最大限の皮肉を薄餅にくるんで喉に押し込む。
「ここの北京ダック美味しいね」
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