Ⅵ. 遠浅の愛(下)
フルールになってから先輩と過ごす時間が増えた。学校ではプルミエの姿なのは今まで通りだけれど、唯一昼休みの空き教室でだけは違った。この部屋に鍵が掛かる一時間、私たちはあらゆるものから解き放たれる。
そして放課後はホテルに会いに行く。彼女のことをたくさん知れた。大手製薬会社の社長令嬢だということ、自分も薬の研究をしていること、ARFIDという持病があって食事をサプリに頼っていること、家族と絶縁状態にあること。その度に左耳のピアスも増えていった。
ある日、気になっていたことを教えてくれた。
「そろそろヘリックスの変えてもよさそうだね」
「一番最初に付けたやつ、変えるの?」
「ファーストピアスのままだとつまんないでしょ? ほら、好きなの選んで」
「うん。……じゃあ寧の付けてるやつ」
「ごめん、これ一個しかないの」
「そうじゃなくて。今付けてるそれ」
「えっこれ? うーん……」
「嫌だったら全然大丈夫だよ」
「そうじゃないけど……ピアスってさ、洗っててもその、臭いが……」
「寧のなら気にならないよ」
「わかった。凪沙にあげるよ。それで代わりに私が凪沙の貰おっかな。凪沙は知らないでしょ、ピアスの臭い」
「そんなに?」
「試しに嗅いでみる?」
私の耳から外したピアスを顔に近づけようとする。
「…………やっぱりやめよう」
「ふふっ。このピアス開けた日のこと思い出すなあ。凄いよ凪沙、あれからこんなに開けちゃうなんて」
「それ、褒めてる?」
「当たり前だよ。渚沙は私のために秘密を作らせてくれたんだもん。……私にとっての秘密はね、お互いを繋ぐ絆。秘密を明かせるってことはそれだけ信頼されてるってことでしょ。だからこれは私たちの絆の証なんだよ、ってなにその顔」
「ちょっと意外だったから。プルミエの寧なら誰からも信頼されてると思って」
「それは違う。上辺だけの信頼なんて何の意味も無いから」
その瞬間、今までどれだけ一緒にいてもどこか遠い存在のように感じていた彼女が、とても近くに感じられた。
「また寧と近くなれちゃった」
これからも、寧のそばにいられたらいいな。
左耳にこれ以上ピアスを開ける場所が無くなってきた頃、恐れていたことが起こった。
四限の体育は外でハンドボールの授業だった。私は今日もベンチで見学。「体調不良で当分運動を控えたい」と先生に伝えたらあっさり認められた。寧の言った通りで、この学校におけるフルールへの信頼の厚さを改めて感じた。
七月に入っても雨が続いていたが、今日は刺すような陽射しが照りつけている。頬を撫でる爽やかな風が初夏の訪れを感じさせる。
「あれ橘さん。今日は見学?」
橘さんは体操服に着替えていなかった。指には包帯を巻いている。
「お恥ずかしい話ですが、今朝ドアに指を挟んでしまいまして」
「それはお大事に」
「左手なのが不幸中の幸いでしたけど、まったく梅雨間の快晴は縁起が悪いものですね」
「へー。そんなんだ」
「あら、よく言いません?」
「うーん初めて聞いたかも」
キャッチボールの練習が始まった。いつもより高い空に白いボールが飛び交う。
「どうですか、フルールのお務めは」
「正直大変だよ。一番大変なのはフルールの一員として見られてる、ってことを常に意識して行動しないといけないことかな」
「それだけ周りから期待されていますからね」
「昨日も委員会で——」
突如発生した強風が校庭を吹き抜ける。私は咄嗟に髪を抑えた。
「びっくりしましたね」
どうやらピアスには気づかれていないようだ。私は胸を撫で下ろす。もしこのことが明るみになってしまえば最悪退学も考えられる。だけどそれ以上に、やっと手に入れた寧との秘密が失われてしまうことの方が怖い。
「諏訪さん、なんか雰囲気変わりましたよね」
「えっ」
「その髪。伸ばしてるんですか」
「ああ、これ。そう、イメチェン、みたいな……」
「とても似合っていますよ。あ、でも外見だけじゃなくて中身も少し変わったかもしれません」
「そう、かな。例えばどのへんが?」
「言葉で表すのは難しいですけど、なんというか」
「——危ない!」
声の発せられた方を見たときには既にボールが目の前に迫っていた。反射的に背中を向けて身を屈める。直後に気づく、左耳がちょうど橘さんの方にあることに。
やばい。見られた……?
しんとなった校庭にボールの弾む音だけが響く。すぐにボールを投げたクラスメイトが駆け寄ってきた。心配そうに声を掛ける彼女になるべく平然を装って応対する。多分バレてない。
————ただ一人を除いて。
体の芯が冷たくなっていくのがわかる。あの橘万里が、一言も声を発さなくなった。
授業が終わったその足で生徒会室に向かった。まだ寧は来ていなかった。
おそらく橘さんは気づいていた。真面目な彼女のことだ、必ず先生に報告するだろう。そうなれば、私は終わりだ。フルールの資格も大切な秘密も寧との時間も、全て。
一人でいるとどんどん悪い方に考えが行ってしまう。「寧……」思わずその名がこぼれた。
「凪沙……?」
寧の顔を見た途端に、堪えていた涙が堰を切ったように溢れた。
「どうしたの!?」
寧は私を優しく抱きしめてくれた。彼女の温かさにとめどない涙が流れる。
「どう? 落ち着いた?」
「うん」
寧の温もりで、冷えた心はかつての熱を取り戻していた。
「ごめんなさい。見られちゃったの、私たちの秘密」
「そんなことだろうと思った」
寧は別段驚いた様子も無く淡々と話す。
「私はそれくらいでいなくなったりしないから安心して」
「ほんとおに?」
「約束する。それに秘密はまた作ればいいでしょ」
「うん。あ、でも……」
《生徒の呼び出しを行います。一年C組の諏訪凪沙さんは至急職員室まで来てください》
橘さん、やっぱり先生に言ったんだ。茫然自失とわななく私の手を、寧が取る。
「私に任せて」
寧に連れられて職員室前に来た。
「私の顔、変じゃない?」
「うん、かわいいよ」
寧は耳元で囁きほほえみ掛けた。
職員室の中に入ると、私に気づいた担任の山名先生が出てきた。
「諏訪さん……あら、柳垣さんも一緒?」
「はい。実は彼女のことである報告を受けまして」
「それって、身だしなみのこと?」
「そうです。それで先ほど私の方で確認したのですが、報告されたようなことは一切見当たりませんでした」
「あらそうだったの。先生もまさかとは思ったのよ。諏訪さんに限ってそんなことないって」
「では私たちはもう行ってもいいでしょうか」
「ええ。ごめんなさいね、お昼に呼び出しちゃって。報告した生徒には私から伝えておくわね」
「はい。失礼いたします」
私が一言も発さない間に、私の疑いようのない容疑は晴れていた。
「ね、なんとかなったでしょ」
「ありがとう」
「でも次は色々危ないから気を付けないとねー。それにしても、さっきはびっくりしちゃった」
「あはは……。あんなに人前で泣いたの初めてかも」
廊下を上級者が歩いてくる。私たちは自然に距離を取る。
「すみません柳垣さん。今度の委員会のことで相談したいことがあるのですが今よろしいでしょうか」
寧は通りかかった他の生徒に捕まってしまった。仕方なく自分の教室に戻る。教室に入るとき、かなり緊張した。もしピアスのことが広まっていたらと不安だったけれど、クラスの人には言っていないようだ。
なるべく気配を消して自分の席に座る。一つ後ろの席の橘さんの顔は見ることができなかった。
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