Ⅴ. 遠浅の愛(上)
「…………なぎさ……」
誰かが私を呼んでいる。
「…………凪沙様」
聞いたことの無い声だ。
「起きてください、凪沙様」
まだ眠りから醒められずにいると、ふわりと上体が持ち上がりぱっと目が覚めた。
「おはようございます。凪沙様」
そこにはスーツを着た見知らぬ女性がいた。一緒に寝ていた寧の姿は無い。
「私は柳垣家の使用人です。お嬢様から貴方を学校に送るよう言われております。四十五分後にお迎えに参りますので、それまでに御支度をお願いいたします」
「あの、寧、さんはどちらに」
「お嬢様は既に学校です。セレモニーの準備がありますので」
ベッドサイドの時計を見る。いつもならとっくに起きている時間だ。こんなに熟睡してしまうなんていつ以来だろう。
「朝食はあちらにご用意いたしました。着替えはこちらを。あ、下着は新品ですので安心してお使いください」
丁寧に畳まれた制服と「衣笠」と書かれた名刺を手渡される。外見では年齢の予想がつかないけれど、綺麗な人だと思った。
「では私は自宅に、といってもすぐ近くですが、戻りますので、何かあればそちらにお電話ください」
そして部屋には私だけになった。一人になると途端に昨夜の記憶が思い起こされる。今冷静になって考えると、昨日は本当にどうかしていた。左耳にはピアスが開いてるし、学校帰りに先輩と外泊なんて。こんなの完全に不良だ。それなのに今日からはフルールとして見られることになる。一体どんな顔をして学校にいけばいいんだろう。考えただけで胃が痛くなってくる。
ぐずぐずしているとあっという間に約束の時間になっていた。なんとか支度を終わらせ衣笠さんの車で学校に向かう。その道中、気を紛らわせたくて彼女に話しかけてみた。
「衣笠さんはいつもこちらにいるんですか?」
「はい。現在はお嬢様の専属ですので」
「寧さんとは長いんでしょうか」
「そうですね、松本のご実家にいたときからなので十一年になります」
「へーそんなに。でもなんで今はホテルで生活しているんでしょうか」
「すみません、お嬢様のことは勝手に話すなと言われておりまして」
「そうですか……」
「凪沙様には感謝しております。貴方がおいでになるようになってから、以前よりお嬢様は明るくなられました」
私の気持ちは複雑だった。今の言い方からすると、私と出会う以前に何か良くないことがあったように思える。それを私は知らない。十年一緒にいる家族も同然の彼女と、知り合ってたった一ヶ月の私では当然だ。それでも、私が知らないことを彼女はいくつも知っていると思うと醜い感情を抱いてしまう自分がいた。
学校に到着して流れるように時間が進み、気づけば講堂に座っていた。
「それでは今年度のフルールに選ばれた四名を発表いたします。名前を呼ばれた方はご起立ください」
とうとう始まってしまった。一人ずつ名前が呼ばれていく。湧き上がる喝采。そして残るは私だけ。
「一年C組、諏訪凪沙さん」
髪が持ち上がらないようなるべくゆっくりと立ち上がる。ここは驚いたリアクションを取らないと不自然なところのはずなのに、そんな余裕は無かった。
「以上の四名です。フルールの皆様はこちらへお願いします」
壇上までの通路には視線の網が何重にも張り巡らされていた。この中を重大な秘密を抱えたまま進まなくてはならない。大勢の生徒が並んでいるすぐ横を通っていく。誰かが私を指差してひそひそ話している。生きた心地がしなかった。
決死の思いで壇上に上がると、今度は全校生徒から見上げられる。元々私は人の前に立つようなタイプじゃない。そもそも他の実力で選ばれた三人と違って、私はここに立つべき人間ではないんだ。だけどもし失敗したら先輩に迷惑が掛かる、そうわかってはいても震えが止まらない。
「これから四人にはフルールの証であるバッジをお渡しします」
先輩が右から順にバッジを付けていく。一人終わるごとに大きな拍手が起こる。そして私の番になり、先輩が私の前に立った。胸元にバッジを留めるとき、彼女は左の耳元で囁いた。
「大丈夫。私がついてるから」
一瞬、時が止まったようだった。彼女は平然として進行に戻っていた。そうだ、寧は私なんて比べものにならないくらいピアスにタトゥーだらけだというのに、あんなに堂々と立ち振る舞っているじゃないか。そんな彼女が大丈夫と言うのなら大丈夫に決まってる。それに私は寧が認めたフルールだから。
「最後に一人ずつ就任の挨拶をお願いします」
私は一歩前に出る。もう体の震えは止んでいた。
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