Ⅳ. 造花の原罪
私は怯えていた。先輩と最後に会ってから一週間が経っていた。そして前回、秘密を交換しなかった。どんなに考えても、私にはもう秘密なんて無かった。
どういう訳か彼女は秘密に拘っている。だからこのまま秘密を交換できなければ、私と会ってくれなくなってしまうんじゃないか、それが一番恐かった。
フルールの就任セレモニーを翌日に控えた木曜日、突然彼女から連絡が来た。
やっと二人で会えるという歓喜の反面、また秘密を持たずに会う不安もある。それでも会わない選択肢は考えられない。思い切って部屋のベルを鳴らす。
「凄い雨だねー、大丈夫だった?」
彼女は変わらない様子で迎え入れてくれた。
「入って入って、今日は一緒に見たい映画があるんだ」
思わず拍子抜けしてしまった。私の心配は杞憂だったのかもしれない。
「ん、どうしたの」
「いや、なんでも。……今日は秘密はいいのかなって」
「えっあるの!?」
「い、一応。あの、これ……私の口座番号」
精一杯考えた結果がこれだった。しかし彼女の反応は冷ややかなものだった。
「……私はこんなの求めてない」
突如張りつめた沈黙が訪れる。真っ白になった頭の中に後悔の大きな二文字が憚る。先に口を開いたのは彼女の方だった。
「凪沙は私のことをどう思ってるの」
「私にとって……寧は、大切なひと。だから、秘密が無いと離れていっちゃうんじゃないかと思って、それで」
「それでこんなものを?」
「どうしても思いつかなくて」
「泣きそうな顔も可愛いね」
彼女の顔には明るさが戻っていた。
「凪沙の気持ちはわかったよ。それならさ、私があげようか、凪沙の秘密」
「え、それって」
「どうするの」
「……欲しいです、秘密をください」
藁にも縋る思いだったと思う。彼女は赤子のような私の手を引きベッドへ寝かせると、私を残しどこかへ行ってしまった。胸がざわつく。
彼女はすぐに戻ってきた。その手には何か光るものが見えた。
それは小さな針だった。
「痛くしたらごめんね」
ひんやりとした手が左耳に触れる。私はこれから何をされるか、理解した。全てを受け入れ、目を閉じる。
耳の外縁に針が宛がわれる。私は歯を食いしばった。
「じゃあいれるよ」
先端が皮膚を貫いた。思ったほど痛みは無かった。ゆっくりと目を開けると、彼女の顔がすぐ横にあった。ズキズキと脈打つような痛みが、鼓動の速さを伝えている。
「あとは抜くだけ……はい、おわり。大丈夫だった?」
「意外と平気だった。寧が上手かったからなのかな」
「慣れてるからね」
彼女の手は血で汚れていた。左耳を確かめようと恐る恐る手を伸ばす。
「まだ触らないほうがいいよ。これはファーストピアスっていって、穴が完成するまでしばらくは付けたままにするの。ほら見て」
鏡に映った私の耳には銀色の塊が突き通っていた。
「本当に開けちゃったんだ……。これからどうしよう」
「最初だから目立たない場所にしてあげたよ」
「体育のときは?」
「私みたいに見学すればいいよ」
「それって仮病でしょ」
「大丈夫。誰も疑わないよ。だって凪沙は私が認めたフルールだもん」
「その張本人がとんでもない校則違反をしてるのはいいの?」
「それは私たちの”秘密”、でしょ」
「……そうだね。ありがとう、寧」
寧がベッドから降りたとき、不意によろめいて床にへたり込んだ。
「大丈夫!?」
「うん。集中してたからちょっと疲れちゃったみたい」
彼女は床に座ったままベッドの上の私の太腿に頭をもたれた。さらさらとした黒髪が素肌に触れる。
「花ってかわいそうだと思わない?」
しばらくそのまま休んでいた彼女は唐突に話し始めた。
「人は花の名前を聞くと鮮やかで色とりどりの花弁をひろげた姿をイメージするでしょ。でも花が咲いてる期間なんて一生のうちのほんの僅かな時間なんだよ。他の時期だって花としてちゃんと生きてるのにね」
なぜこんなことを言ったのかは分からないけれど、彼女の言葉は自然と胸に落ちた。
「ごめん変な話しちゃって。さ、開けたとこ綺麗にしないと」
「なんとなくわかる、寧の言ったこと。もし薔薇が綺麗な花を咲かせなかったら、きっと誰にも育てられないんじゃないかって。それは凄く寂しいことだと思う」
——寧が私を抱きしめた。顔は見えないけれど、体が小刻みに震えていた。
ピアスホールは完成するまで傷口と同じ状態らしく、今日は洗髪も控えた方がいいらしい。バスルームで耳の洗浄を始めた彼女の肩が少しはだけている。その隙間に黒いものが覗いていた。
「さっきから気になってたんだけど……肩のそれ、タトゥー?」
「あ、気づいた? そうだよ、私タトゥーも入れてるの」
彼女の肩部には大きなフルール・ド・リスが彫られていた。よく見ようとすると、恥ずかしそうに肩を隠す。
「ちゃんと見せてよ。次は寧の番でしょ」
きっとおかしくなっていた。言葉が勝手に口を衝いて出た。彼女は尻込みつつもコクリと頷く。初めて見せるしおらしい表情がいっそう私を焚きつけた。纏っていたガウンが床に落ちる。
私は思わず息を吞んだ。艶やかな白い肌に差された黒いタトゥーで彩られたその躰は、まるで芸術品のようだった。気品の裏に隠れた卑俗な刻印に胸が熱くなる。そして底知れぬギャップの深くに、吸い込まれるように落ちていく。
その日、私たちは夜を共にした。
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