Ⅱ. 放課後、四〇六号室で
柳垣寧の仮面の下を覗いてから三日が経った。今までと変わらない学校生活。あの昼休みの出来事が夢だったかのように。……本当に夢だったら良かった。そう思いたくても、ポケットの中の1枚のメモがそれを拒む。
「皆様おはようございます。プルミエの柳垣です。本日は来月行われるフルールの選考方法についてお伝えいたします」
あの日から変わってしまったことがひとつだけある。私の中に生じた変化。柳垣先輩を見ていると、あの日見た鮮烈な光景がフラッシュバックする。全校生徒の前で堂々と話す今このときも、あのマスクの下や髪の中に沢山のピアスを隠しているんだ。そんなことばかり意識してしまうようになった。そのうち鼓動が速まって、私の中の搔き乱す。この広い講堂の中で私だけがこんな想いをしていると思うと、ある種の背徳感にすら苛まれる。
「以上で説明を終わります。生徒の模範になりたいという気概ある方の応募を待ち望んでいます」
今になって考えると、彼女は裏の顔を見られたというのに慌てるでも怒るでもなく、むしろ楽しそうにさえ見えた。そしてあの言葉、彼女はどういうつもりなのだろう。あれから一度も会っていない。だけど今日の放課後、とある約束がある。
とあるホテルの前でタクシーを降りた。薄暗いエントランスを眺めてため息をつく。
あの日渡されたメモにはホテルの名前と部屋番号が書かれていた。金曜日の放課後にここへ来て、とだけ彼女は言った。ネットで調べたが普通の高級ホテルで、特に悪い噂も見当たらなかった。とはいえ学校帰りにホテルに寄るのは流石に抵抗感がある。それでもここまで足を運んだのには理由があった。
この三日間、私の頭は彼女のことでいっぱいで、授業にも身が入らなかった。このままでは学校生活や成績に支障をきたしてしまう。だからそんな昧い感情を断ち切るため、ここへ来た。あのときはあまりの衝撃に何も話せなかったけれど、今日こそは彼女が何を考えているのか全部問いただしてやる。
自分に言い聞かせるように、意を決してロビーに突入する。フロントマンにどんな目で見られるか、考えたら足が止まる。視線を振り切るようにエレベーターに駆け込んだ。
四階の角部屋の前まで来た。あとはベルを鳴らすだけ。チャイムに手を伸ばして、ふと考える。
本当に彼女はこの中にいるだろうか。
もしも裏の顔を見られた私を消すための罠だったとしたら。
ベルはもう鳴っていた……逃げるなら今しか無い。決めあぐねているうち、ドアが開いた。
「あ、来てくれたんだ」
彼女はそこにいた。悪魔みたいな顔で。
「また緊張してるの?」
「いえ全然」
学校帰りに立ち寄ったホテルの一室で部屋着姿の生徒会長とソファに二人並んで座る異様な状況に動揺しないわけがない。それでも虚勢を張れるだけの余裕はあった。
「ねえ今何考えてる?」
「別になにも」
「じゃあ当ててあげる。私はこれから何されちゃうんだろうって思ってるんでしょ」
図星だ。先輩はいたずらっぽく笑う。
「安心してよ。私は凪沙と仲良くしたいだけだから」
「仲良くしたいのは私に弱みを握られてるから、ですよね」
得体の知れない相手との駆け引きにあたり、とっておきのカードを切った、つもりだった。しかし私の一手を受けた先輩は、途端に笑い出す。
「弱み? それって私がバチピの不良女だってこと?」
「そ、そうです! 私が学校に報告してしまえばあなたは退学決定ですよ」
「じゃーさ、教師からも一目置かれるプルミエと入学したての新入生、どっちの話が受け入れられると思う?」
「そ、それは……」
正面からのカウンターを食らい、返しに窮してしまう。不意に彼女の冷たい手が首筋に触れた。まるで隙を見せた瞬間に獲物に喰らいつく狼のように。
「そんな顔しないでよ。私は本当に凪沙と仲良くしたいだけなんだよ」
この人は当たり前のように名前で呼ぶ。その響きはどこか懐かしいような気がして、私の心を無遠慮に揺さぶっていく。
「あ、あなたみたいな人のことなんて信用できません」
「そんなの当たり前だよ、私たちはお互いのこと何も知らないんだから。信用はこれから積み重ねていけばいい」
「ずいぶん積極的なんですね」
「凪沙は私のアデルフィ・プシュケになってもらうからね」
「なんですか、それ」
聞き慣れない言葉に少し身構える。
「古代の言葉でアデルフィは”姉妹”、プシュケは”魂”。二人を結ぶ唯一無二の特別な関係。……なってくれるよね」
「どうして私なんですか。私なんかじゃなくても他に——」
「凪沙がいいんだよ。他の誰でもない、凪沙だから」
一瞬、プルミエの顔つきになった。素直に嬉しかった。たとえこんな姿でも、あの憧れの先輩にそんな風に言ってもらえたことが。
「そんなこと言って、私の何を知ってるんですか?」
「それは……これから、ってことで。あ、笑った」
え。ほんとだ。私、今笑ってた。いつもの愛想笑いじゃない、心からの自然な笑み。ああ、そうだ。私はこんな風に偽りのない本心で語らえる存在が欲しかったんだ。
「いいですよ。なります、先輩のアデルに」
「ありがとう! でもそれなら先輩呼びはナシ。ちゃんと名前で呼んで」
「……わかりました、寧さん」
「丁寧語もダメ。さんもいらないから」
なぜだろう。拍動が強まって身体が熱くなるのは。
「なんで赤くなってるの?」
「ない、なってないって! それよりアデルになるにはどうすればいいの?」
「凪沙も意欲的じゃん」
「べ、別にそういうわけじゃ」
「お互いの秘密を打ち明け合うんだよ。自分の全てを包み隠さず。そうやって固い絆で結ばれていくの」
「ひみつ?」
「私達以外知らない二人だけの秘密。例えばこういうの」
体を寄せてピアスを見せつける。こんなにグロテスクなのに目が離せない。
「そこまでの秘密はそうそうないと思う」
隣でケラケラと笑う彼女。遠い憧れだった人がこんなに近くにいる、あまりに現実感の無い時間。思わず笑ってしまうくらいに。
「私から訊いてもいいの?」
「それはだめ。秘密は自分から打ち明けるものなの。ほら、教えてよ。凪沙の秘密」
「うーん」
「なんでもいいから」
「考えてるんだけどすぐには思い付かなくて」
「そっか」
彼女は心底残念そうだった。
「あ、ひとつだけあった」
彼女の顔がぱっと明るくなる。
「誰にも言ったことないんだけど、私趣味で絵描いてネットに上げてるの」
「見せて!」
私はスマホを取り出しSNSの自分のアカウントを開く。
「えーかわいい! 絵上手いんだね」
「ありがとう。でもやっぱり人に見られるのって恥ずかしい」
「これは何かのキャラクター?」
「うん。最近流行ってるスマホゲームの」
「凪沙ゲームやるんだ」
「私はあんまり。でもそういう絵の方が反応良いんだよね」
「そうなんだ」
それからしばらく二人ソファでイラストを眺めた。あっという間の時間だった。
「凪沙が来てくれて本当に嬉しかった」
「私も。ありがとう、寧」
夜の帳が下りる頃、私はホテルを後にした。周りの視線なんて気にも留めずに。
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