素顔は知らない

丹生谷冥

Ⅰ. 人には言えない

 きっと愛に飢えていたんだ、たとえそれが痛みを伴うものだとしても——。

 薄れゆく意識の中で、私の心はかつてなく満たされていた。


「おはようございます、諏訪すわさん」

 下駄箱で靴を履き替えていると、後ろから声を掛けられた。

「あ、橘さん」

 橘万理たちばなまり。出席番号が私の1つ後で、この高校に入って最初に話しかけてくれたクラスメイト。そして、今一番会いたくなかった人。

「昨日はありがとうございました。それで答えは決まりました?」

 やっぱり。私は彼女から華道部に誘われていた。元々部活に入るつもりは無かったけれど、せっかく誘ってもらったし、花も好きだから、ということで一度体験入部に行ってみることにした。

 体験してみて、自分には部の雰囲気が合ってないと直感的に感じた。

「あー、いろいろ考えたんだけど」

 すぐに答えは出ていたけれど、その場で断るのは彼女に悪い気がして、「入部は考えておく」ということで解散したのが昨日。そして、決まりきった答えを口にする。

「ごめんなさい」

 期待に溢れた無垢なまなざしに目を瞑り、深く深く頭を下げる。

「そんな、私は全然気にしていませんから」

 見上げた彼女は天使のように微笑んでいた。

「でも少し残念です。他にやりたいことが決まっていたり?」

「えっと」

 ここでの沈黙は何としても忌避せねば、そう思って咄嗟に壁のポスターを指差した。

「あれをやってみようかなって」

「あれって……ジャルダンデフルール?」

 ジャルダン・デ・フルールは世の学校でいうところの生徒会で、会長であるプルミエと五人のフルールで構成される伝統ある組織、らしい。

「かっこいいですよねフルール。私も憧れてしまいます」

 この学校におけるフルール、特に現プルミエの柳垣寧やなぎねいの人気の高さと影響力は、入学して一ヶ月の私たちでも知らない人はいない程だった。

「ですがフルールって面接で選ばれるのですよね」

「そう。プルミエ様直々の個人面接があるって」

「諏訪さんならきっと受かりますよ! 私、応援していますから」

「ありがとう」

 なんて良い人なんだろう。明るく優しくて愛想がいい。私はそんな彼女が、好きではなかった。


 この高校には母親の勧めで入学した。清蘭女子高等学校、いわゆるお嬢様学校だ。漫画に出てくるような「ごきげんよう」が飛び交う学校ではなかったけれど、周りの生徒が皆しっかりしていて大人みたいに見えた。クラスメイトも先輩も、昨日の華道部の人だってみんないい人だった。けれど私にはそれが、どこかうわべだけの社交辞令のように感じてしまった。ここでは誰もが仮面を被っていて、本心を隠して優等生を演じている。そう思うと途端に居心地が悪くなる。

 そして当然こんな想いを誰に打ち明けられるはずもなく、仮面を被っているのは私とて同じだ。周囲の和を乱さぬように偽りの自分を演じる。自分の立っている場所さえ分からなくなるときがある。そんなときはいつも、宙ぶらりんの私を、噓と偽善で塗り固めた仮面の重さで必死に押さえつける。


 廊下の先に人だかりが見える。その中心にいるのは柳垣先輩だ。すれ違う人は皆、立ち止まって彼女に頭を下げる。規律などでは無い。彼女の放つオーラが、自然に人をそうさせるのだ。

「寧様、今日も素敵でしたね」

 私はこくこくと頷いた。これは私の本心だ。彼女だけは、仮面に覆われていない"本物"だから。


 初めて彼女に会ったのは去年のオープンスクールで、在校生代表として来校者に学校の紹介をしていた。美しい立ち姿、麗しい声、艶やかな所作、1年生とは思えぬ存在感。気づけば目を奪われていた。私はあの日、オーラというものが現実に存在することを知った。

 柳垣先輩は私の憧れだ。もしも彼女のようになれたら、実在しない仮面なんかにとらわれることもなくなるのかな。そんなことを考えると、少し心にゆとりができる。夜空の星に手を伸ばすような、途方もない話だけれど。



昼休み、私は一人教室を出る。今日は昼食を持ってくるのを忘れた。毎朝家に届く宅配の弁当。もう飽きてきたし別にいいや。校内のカフェテリアでも食事を取れるけど、食欲も無いのでお昼は抜くことにした。


 一人になると心が解放される。何にも縛られない自分だけの空間。本来の自分でいられる時間。心なしか足取りが軽くなる。

 旧校舎はお気に入りの場所だ。特にこの時間はほとんど人が来ないので落ち着いて羽を伸ばせる。そんな旧校舎は来年には取り壊しが決まっていて、それを考えると今から憂鬱になる。


 なんとなく、通りかかった空き教室の扉に手を掛ける。鍵は開いていた。そっと中に入ると、なんと奥に誰かいる。

 気づかれないうちに外へ出ようと後ずさりながら、僅かな好奇心がカーテンが掛かった薄暗い室内に目を凝らさせた。

 私は目を疑った。制服を着崩し、両脚を机上に投げ出し椅子にだらしなくもたれるその光景に。顔は見えないが、この学校の生徒であることは間違いない。清蘭にあんな不良がいたなんてとても信じられない。

 見てはいけないものを見てしまったことをようやく悟りここから逃げようとしたそのとき、不意に彼女がこちらを向いた。

 ——目が合った。その不良は、柳垣先輩だった。

 網膜に飛び込んできた情報に脳の処理が追いつかない。頭の中の先輩が視覚を否定している。私は声を発することもできず、その場に硬直した。

 扉の施錠音で我に返る。いつの間にか背後に回った柳垣先輩らしき生徒が私の肩に手を回す。

「見られちゃったか~、鍵かけてたはずなんだけどなぁ」

 先輩はこんな品の無い話し方をしない。

「まあここ座ってよ。キミ、一年生?」

 私は椅子に座らされる。先輩に似た生徒はその正面の机に跨った。

「おーい? もしかしてプルミエ様の前で緊張してる?」

 へらへらとプルミエの名を騙る目の前の不良にだんだん腹が立ってきた。

「あなたは一体誰なんですか」

 睨み付けられても何食わぬ顔で、長い黒髪をかき上げる。露わになった右耳は無数のピアスで埋め尽くされていた。私は身震いした。

「あーいつもマスクしてるからわかんなかった?」

 彼女は顔をぐっと近づけてくる。

「ほら、これでわかった?」

 黒マスクを着けたその顔には確かに見覚えがあった。紛れもない、柳垣先輩だ。私の中で何かがブチブチと音を立てて弾けた。

「いい反応だねー、私気に入っちゃったよ。名前は?」

「……一年C組の諏訪凪沙なぎさです」

 淡い憧憬は黒い感情で塗り潰された。もう何も考えられない。彼女が耳元で何か囁いている。

「ねえ凪沙、私のアデルになってよ」


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