第四十九話 人魚の夢に酔う
「えっ、イリニヤちゃん、お化粧したことないの?」
ミナ・ルル・アミマドの声が部屋に響く。
「うん。だってする機会ないし」
イリニヤ・サクサは少し戸惑った表情でそう答えた。
ここはアミマド屋の二階、ミナの部屋。
昼を少し過ぎたこの部屋には、天窓から太陽の光が強く差し込み、部屋の中央だけスポットライトのようになっている。その太陽の光は部屋の空気を暖めてくれるが、直接当たると冬でもかなり熱く眩しい。
二人はその光を避けるように、ミナは自身の部屋の椅子に、イリニヤはベッドに腰かけて話していた。
「興味がないってことはないんでしょ?」
ミナは手元のマグカップのコーヒーを一口啜る。
「うん、まぁ……」
イリニヤは、そう返事しながら目線を足元へ向ける。
イリニヤは”お化粧”というワードを聞き、「それは可愛い子がするものなんじゃ……」と心で返事をした。
ミナは、聖地テルパーノで一番賑わっている酒場セイレーンのナンバー・ワン踊り子。イリニヤはその酒場で給仕として働いている。
給仕であるイリニヤから見れば、踊り子でましてやナンバー・ワンという存在など、まるで天女や女神のような雲の上の存在。そういった可愛い子がするから似合うものであって、給仕や過去に剣闘士をしていた自分に似合うわけがないと思っていた。
ここで、ミナとイリニヤの話を少ししておく。
ミナとイリニヤは、同じ職場で働いている。だが、ミナは踊り子、イリニヤは給仕だ。お互いに挨拶や世間話程度の会話はしたことがあったが、特別仲が良いという間柄でもなかった。
だがある日、一人の少年の登場により、二人の仲は急速に縮まることとなる。
その少年とは、”門の塔”へ向かった13歳の少年のことだ。
少年は、このアミマド屋に一週間ほど泊り、その間、ミナの妹・ミキの通うレウテーニャ魔法大学校の七日間講義を受講した。その七日間講義で臨時講師を務めたのが、イリニヤだ。
ひょんなことからイリニヤがアミマド屋へ来たとき、皆でパーティを開いた。そこで、ミナとイリニヤは意気投合し、ミナの妹・ミキとその少年が門の塔へ向かったあと、ミナとイリニヤは”友人”としてお互いの家を行き来するほどの仲になった。
「じゃあさ、私が今お化粧してみてもいい?」
「えっ!? 今!?」
「うん! 本当に簡単な感じでだけど、いいでしょ?」
「い、いいけど……。似合うかな? 私なんかに……」
「似合うも何も、”お化粧”って文字通り”化ける”ためのものだから。似合うとか関係ないよ」
「化けるって……」
「女は化けてなんぼよ。さっ、こっちに座って。鏡見て」
ミナはイリニヤを自身のドレッサーへ誘導する。そしてミナはドレッサーの閉じられた三面鏡を開いた。
「一回、自分の顔見てね」
そう言われ、イリニヤは自身の顔を鏡でよく見る。
日に焼けた手入れをしていない乾燥した赤褐色の肌に、鼻根あたりのソバカス。バサバサの眉毛に、少し太くてガサガサした唇。お世辞にも良いとは言えない自分の顔に目を瞑りたくなる。
「それじゃ、鏡閉じるね」
そう言うと、ミナは三面鏡を閉じた。
「閉じちゃうの?」
「うん。お化粧終わってからまた開くよ。それまで鏡さんとはしばしのお別れだよん」
ミナはニヤリと笑った。
そして、ミナはドレッサーの引き出しを開け、一つ、また一つと化粧品を取り出していく。
どれが何でどれがどんな物なのか、イリニヤにはさっぱりわからなかった。
「まずお肌の手入れさせてね」
ミナはそう言うと、イリニヤの前髪をクリップのような物で上げたあと、机の上にある箱のような物をドレッサーまで持ってきた。
「それは?」
「スチーマー。お肌がツヤツヤになるの」
そう言いながら、その箱のような物のスイッチと入れると、吹き出し口からキメの細かいスチームが出てきた。
ミナに言われ、イリニヤはそのスチームを顔に受ける。少しだけ気持ちが良い。
「そのまま目を瞑っててね」
イリニヤはスチームを顔に受けながら目を瞑って待っていると、突然顔全体にひんやりした感触の物が貼り付いた。
「何!?」
「あっ、びっくりした? ごめんね。これはお顔のパック。3分くらいでつるんつるんになるよ~」
イリニヤはミナのされるがままになったが、目を瞑ったままスチームを受け、顔にパックを貼り付けられ、数分顔や首回りをマッサージされた。これがなんとも心地が良く、自分が何か身分の高い人でもなったかのような気分になった。
「はい、終わり~。目開けていいよ~」
ミナにそう言われ、イリニヤは目を開けた。
三面鏡は閉じられたままなので自身の顔がどうなっているかはわからないが、手で触れてみるとまるで自身の肌がゼリーか何かにでもなったかのようにプルンと瑞々しくなっていた。
「す、すごい……」
「ンフフ。じゃ、ここからお化粧ね」
ミナはそう言いながら、先ほどまでドレッサーに出ていた化粧品を片づけ、今度はまた別の化粧品を取り出していく。
円形の握りこぶしほどある大きな物や、細長い円柱のような物、そして色んな形をしたブラシ……。どれもこれもキラキラしていて、イリニヤには太陽の光よりも眩しく感じた。
「こんなにたくさん……」
「すごい量でしょ。我ながら金額考えたらゾッとする……」
「いくらくらいになるの?」
「うーん。一か月のお給料の半分くらい?」
「そんなに!?」
「ここにあるの一度に全部揃えるとそれくらいになるよ。高いけど、やっぱりお値段相応にいい物はいいんだよね~」
ミナはまたニッカリと笑った。
顔に色んな液体や粉のような物を塗りたくられ、”ベースメイク”と言われる工程が終わったらしい。
三面鏡は閉じられており自身の顔は見れないので、どんな顔になっているのか全くわからない。
「次はアイメイク~」
ミナはドレッサーからブラシとパレットのようになった物を取り出した。
このパレットのような物は”アイシャドー”と言うことだけはイリニヤでも知っている。
「これがアイシャドー……」
右上は一番薄いミルクティーのような色。右下はそれより少し濃いカフェラテのような色。左下は一番濃いコーヒーのような色。右上は他のと違い、ギラギラとしていて明るく光っている。
「ンフフ~。イリニヤちゃんの肌色に合いそうな色味はこれなんだよね」
と言いながら、ミナは右下と左下の色を指さした。そして続ける。
「それじゃ、塗っていくね。目瞑って」
イリニヤは目を瞑った。
何やら瞼にフワフワとした物が往復し、少し間を置いてまた往復する、を繰り返す。
目を閉じては塗られ、上を向いては塗られ、細かく繰り返しているうちに、お化粧はあっという間に終わった。
「はい。終わったよ~。とっても可愛くなったイリニヤちゃんとご対~面~」
ミナがそう言って三面鏡を開いた。
「え……うそ……。これが私?」
イリニヤは三面鏡に映った自身の姿に驚いた。
顔はパッと明るくなり、目が大きく見え、自身の女性らしさを最大限に引き出した華やかな顔立ちになっていた。
何度も三面鏡で自身の姿を見るが、イリニヤは本当に信じられないと言った様子だった。
「そうだよ。それがニュー・イリニヤちゃんだよ~」
「……信じられない」
「でもそれがイリニヤちゃんなんだよ~」
「……お化粧ってすごいね」
「すごいでしょ? ”可愛いは作れる”っていうけど、本当にそうだと思うんだよね~」
何度も鏡を確認するイリニヤの表情を見て、ミナは嬉しくなった。
女の子のこういった姿を見るのが大好きなのだ。
「本当にすごいね……。魔法でも使ったのかなって思っちゃったくらい……」
「イリニヤちゃん良い事言うね~。本当にお化粧は魔法みたいな物なんだよね。お姫様が妖精から魔法のドレスと魔法の靴を貰って、一歩踏み出す勇気をくれるみたいな感じ。お化粧はそれに近いなって思うんだよね。……それじゃ、最後の仕上げに」
ミナはそう言って、ドレッサーの一番下の大きな引き出しから太い筒状の物を取り出した。
「それは?」
「”コテ”だよ。髪を巻いたりするやつ」
「か、髪も巻くの!?」
「当たり前じゃん。顔だけ綺麗にしても髪がぼさぼさだったらダメ。ちゃんと整えないと」
そう言って、ミナはイリニヤの髪を少し取り、”コテ”にクルクルと巻き付けていく。
数秒してから髪を解くと、コテに巻きつけた箇所が巻髪になった。
まるでどこぞのお姫様やお嬢様のようだ。
「こんなにクルクルだと変じゃない?」
「まぁ見てて」
イリニヤの髪を巻き終えたミナは、強く何重にもカールした髪を太いブラシで梳き始めたのだ。
「せっかく巻いたのにいいの?」
「まぁまぁ、見てて」
強く何重にもカールした髪は、みるみるうちに緩いウェーブのかかった髪になっていく。
そしてミナは、何かを手に擦りつけたかと思うと、イリニヤの髪全体に塗り付けた。
「いい香り……」
どことなくフローラルな香りが髪から漂う。女性らしい優しい香りだ。
「でしょ? トリートメントだから髪にもいいんだよね~」
ミナは続ける。
「これで完成っと。イリニヤちゃんいつもよりとっても可愛くなった~」
イリニヤはもう一度鏡をよく見た。
顔周りがパッと明るく華やかなったうえ、緩いウェーブのかかった髪のおかげかより一層華やかさが増している。まさか自分がこんな風になるなど夢にも思っていなかった。
だが、それと同時に、自身の胸のあたりに黒い感情が疼く。こんな格好をして他人はどう思うだろうかと。
「すごい……。でも、みんな笑わないかな……」
「……? なんで?」
ミナはツンとした顔で返事した。
「だって私……その……”ケルコ”だから……」
”ケルコ”とは、イリニヤのような珍しい種族同士の子供のことを指す蔑称のことだ。
イリニヤは、自身の境遇のことを気にしているらしい。
「一番言われたくない言葉を自分で言っちゃうんだね」
「……。でも、今の私をみんなが見てどう思うかなって……」
ミナは少し考えたあと、こう言った。
「今から買い物行こっか」
「えぇ!?」
「お化粧したイリニヤちゃんに似合う服、買いに行こ? ミナちゃんが奢っちゃる!」
「ダメだよ!」
「何がダメなの? 服を奢られるのが嫌? それとも、お化粧してる自分を見られたくないから?」
「……どっちも……かな?」
「じゃあまず、今のイリニヤちゃんをママに見てもらおっ」
「えぇぇ!?」
「ママならハードル低めでしょ? 同じ女だし」
「……」
「ほら、行くよ」
ミナはイリニヤを無理やり立たせ、手を引き、一階へと降りた。
完全にミナの独壇場となってしまっているので、イリニヤはもうどうにでもなれと流れに身を任せることにした。
「ママ~? あっ、ダミアンさんじゃん」
一階の店舗には、アミマド屋の店主でありミナの母・ミエと、買い物に来ていたビソン道具屋のダミアンが居た。
「おぉ! ミナちゃんか。……お隣の女性は?」
ダミアンは、ミナの隣に立っているイリニヤの顔を見て疑問符を掲げている。
「あ……えっと……。イリニヤです。セイレーンで給仕をやってる……」
「……」
「……」
ミエとダミアンはお互いの顔を見たり、イリニヤの顔を見たりしている。
そして、少し間を置いたあと、二人は外にまで聞こえてしまうような大声を上げ、こう続けた。
「本当にイリニヤさんなの?」
「はい……」
「本当かい? 嘘じゃないだろうね、ミナ」
「本当にイリニヤちゃんだよ。私がお化粧してあげたの」
ミエは座っていた椅子から立ち上がり、何度も食い入るようにイリニヤの顔を見る。
ダミアンは、ずっと「嘘だ……信じられない」と呟きながら頭を振っている。
「えっと……やっぱり変ですよね……」
イリニヤは二人の反応に少し怖気ついてしまった。
「いいや! とってもいいよ! ねぇ! ダミアンさん!」
「そうだとも! とってもいい! 本当に信じられないくらい見違えた! いや~、ビックリしたよ!」
二人は、イリニヤの余りの変わりっぷりに興奮を隠せない様子だった。
ミナの部屋へ戻って来るや、ミナは口を開いた。
「言ったでしょ? 変じゃないし、誰も笑わないって」
ミナはドヤ顔を決め込んでそう言う。
「う、うん……。あんなに驚かれるとは思わなかったけど」
「それくらいイリニヤちゃんが可愛いってこと。元々可愛いけどお化粧でもっと可愛くなったんだから、お外出てみたくない?」
「……ちょっとだけなら」
「はい、決まり! 服買いに行こう!」
完全にミナのペースに乗せられてしまっているイリニヤだが、これも少し楽しいかもと思い始めた。
そして、二人は街へ出かけた。
◆
「こんなにいいの? すごい量だけど……」
イリニヤの両手には、それはとてつもない数の紙袋が重なり合っていた。
試着してそのまま着ることになった一着の花柄ワンピースに加え、スポーティ風味なトップスやボトムス、余所行きの可憐なワンピース、服を買ったのなら靴も必要! あと帽子も! とあれよあれよとたくさんの店に入って出たりを繰り返し、気が付けばとてつもない量の衣類を購入していた。しかも、全てミナの奢りである。
「いいのいいの! 可愛くなったイリニヤちゃん見たら全部買ってあげたくなっちゃったから!」
そうは言っているものの、イリニヤへ買った服以外にも、ミナ自身が欲しいと言って買った服も数着ある。
彼女は自身に買った服が入った小さな紙袋を一つ下げ、もう片方の手にはあの人気店”星の人魚”のハチミツ入りミルクティーの入ったカップを持ち、意気揚々と歩く。
さすが人気店のナンバーワン踊り子だ。お金はかなりあるんだろうな、とイリニヤは隣の彼女を見て思う。
そして、街中を歩く姿はどこか浮世離れしているような彼女の隣に自分が居てもいいのだろうかと、少し居心地が悪くなる。
「イリニヤちゃん?」
そう呼ばれパッと我に返ると、イリニヤの顔を覗き込むようにミナの顔が目の前にあった。
「わっ! ど、どうしたの?」
あまりにも近くに顔があったため、身じろぎをしてしまう。
「暗い顔してどうしたの?」
ミナは怪訝な顔をする。
「あ、うん。えっと、ちょっと嫌な事考えちゃって……」
嘘をつくとミナにはバレるだろうと思い正直に答えた。
「そっか」
ミナはそう言うと、突然イリニヤを近くのベンチへ座らせた。
「イリニヤちゃん、手貸して」
イリニヤは言われた通り、右手をミナへ差し出した。
すると、ミナはその手を自身の頬へ当てがった。
「えっ? えぇっ!?」
「イリニヤちゃん」
ミナはイリニヤの手に軽く頬ずりをする。
そして、こう続けた。
「今日はさ、イリニヤちゃんをうーーんと甘やかしたかったんだ。でも、振り回しただけだったね。ごめんね」
「えっ……そんな……。振り回されたなんて思ってないよ」
「でも、さっきくらい顔してたじゃん」
「あれは、その……。私なんかがミナちゃんの隣に居てもいいのかなって……」
「ふーん。そんなこと考えてたんだ」
ミナはニヤリと笑いながらそう言う。
この時イリニヤは、目の前の人魚に誑かされたことに気づいた。こうなってはもう自分の気持ちを正直に言うしかないのだ。
「うん……。その……ごめんね」
「じゃあ約束ね」
「約束?」
「うん。今日これからは暗い顔しない、暗いこと考えないこと。いい?」
「わかった」
「よーし。じゃ、この話終わりね。荷物すごくなっちゃったし、一度家に置いてかなきゃね~」
「まだどこか行くの!?」
「ンフフ~。最後はやっぱりあそこでしょ」
ミナに言われるがまま、アミマド屋に大量の荷物を置きに帰ったあと、二人には馴染みのある”あの場所”へ来ていた。
「……店?」
「いえ~す! 今日の締めなら”セイレーン”でしょ」
ここはそう。二人の職場である”酒場セイレーン”。
時刻はすでに夕がたをとっくに過ぎており、仕事終わりで疲れた体を癒そうという人や、仲間たちとの飲み会をやろうというグループがセイレーンの扉へ吸い込まれていく。
いつものこの時間帯だと給仕であちこち走り回っているイリニヤには新鮮に見えた。
「あれ? ミナちゃんじゃないか。……お隣さんは?」
その声は、セイレーンの店先で呼び込みをしている同僚の男性だった。
ミナがセイレーンの前にいるので驚いて声をかけたらしいが、隣にいる着飾った女性がイリニヤだとは全く気が付いてない様子だ。
「あ、えっと……」
「イリニヤちゃんだよ。とっても可愛いイリニヤちゃんとデートしてるの」
イリニヤが口ごもっていると、ミナがサラッとそんなことを言うので、イリニヤは少しだけドキッとした。
「…………えぇ!? イリニヤなの!? えぇぇぇ!?」
同僚は心底信じられない、天地がひっくり返ったかのような驚きぶりだ。
「ンフフ~。驚いたでしょ」
「驚くも何も……まさか夢じゃないよな」
「私が夢だと思いたいくらいだよ……」
「イリニヤの声だ。本物だ」
それでも同僚は未だ信じられないと言いたげな顔をしている。
「ンフフ~。可愛いイリニヤちゃんに驚きのところ悪いけど、二人分の席空いてる?」
「空いてるよ! さぁ、入って入って」
そう言われ、イリニヤとミナは店内に入った。
給仕をしているときは忙しく駆け回っているので気にかからなかったが、セイレーンの店内は煌びやかで活気に満ちている。その新鮮な空気を感じ取りながら、案内された二人席にイリニヤとミナは腰かけた。
「いつもと違う感じがして面白いね~」
ミナは辺りを見渡して陽気にそう言う。
「ミナちゃんもそう思う? 私も不思議な感じ」
「一緒だ~」
この新鮮で不思議な気分は、職場がいつもと違う風景に見えるからだけなのだろうか?
舞台から見る景色はもっと違うのだろうか。
自身は給仕。彼女はスポットライトの下で踊る踊り子。こうやって仲良くしているのが不思議なくらいだ。今日はミナに化粧をしてもらってからどうしてだかフワフワしたような感覚の中にずっといる。実は夢なのではないだろうかと疑ってしまう。
「注文しちゃおうか。イリニヤちゃんもちょっとは飲むよね?」
テーブル脇にある魔法石パッドを取りながら、ミナは尋ねてきた。
「うん。……でも、今日はちょっと弱めのお酒にしようかな」
「どうして?」
「なんだか夢の中にいるみたいな感じがして……その……ドキドキが止まらなくなりそうで……」
ミナは一瞬目を見開いたあと、少し目を逸らし、
「可愛いっ……」
と、イリニヤには聞こえない声でボソリと呟いた。
「わかった。弱めのお酒にしとくよ。ご飯類も適当に頼んでおくね」
「あ、うん。ありがとう」
イリニヤは改めて店内を見渡す。
今日の舞台の演目や季節に合わせて少しでも雰囲気を演出するために飾られた装飾類。テーブルの上の鮮やかな花。少し薄暗い程度に灯された照明……。
いつもはあまり気にかけない部分に目をやると、店がこんなにも煌びやかな場所なのだと気づく。
ほんのりと漂う香の匂いに交じって、スパイシーな料理の香り。一歩外へ出ると魔法都市、だがここは異国情緒溢れる日常を少しでも忘れるための場所。セイレーンへ通ってくれるお客さんは、もちろんミナのような踊り子目当ての客もいるが、大半は日々の疲れをいやすために来ているのだと再確認した。
「イリニヤちゃん」
ミナは頬杖をつきながらイリニヤの顔をじっとりと見ている。
まるで獲物を眺める猛禽類のような目つきで。
「どうしたの?」
イリニヤはミナの目から逃れられないような感覚になり、じっとその目を見つめる。
「今日どうだった?」
思っていたより普通の質問で安泰したが、ミナに怪しまれないよう返事をする。
「とっても楽しかったよ。その……お金の件とかきになるところはあるけど……」
「いいのいいの。私はこうやって女の子を甘やかしたいんだよね~」
ミナは無邪気な笑顔を向けてそう言った。
ダンスの演目が始まる少し前、給仕や厨房で働く同僚たちがぞろぞろと二人に元へやってきて、「本当にイリニヤなの?」と質問攻めが続く。何度も同じ掛け合いをし、皆本当に信じられないと言った様子で元の場所へ戻っていく。いつもの職場のちょっと違う顔を見られたような気分にイリニヤはなった。
ダンスも終わり、二人は店を後にした。
「楽しかったねー。みんな綺麗だった」
「でしょ~。やっぱうちの人魚たちはテルパーノで一番可愛いわ~」
酔った勢いなのか、とても陽気な声色でミナはそう言う。
ダンスのことになると自分にも他人にもとても厳しいミナだが、やはり自分の同僚たちが一番だという気持ちは誰よりも強いようだった。
そんなとき、遠くから誰かがイリニヤを呼ぶ声が聞こえた。
その声の主は、レウテーニャ魔法大学校で魔法体育を教えているチゴウィ・ガルドスだった。
「イリニヤー! イリニヤだよな?」
イリニヤにそう声をかけながら近づいてくる巨体な男を見てミナは何かを察したかのように、「ちょっとミルクティーでも買ってくるね」と言ってどこかへ行ってしまった。
「やっぱりイリニヤだ。いつもと雰囲気が違うから人違いだったらどうしようかと思ったぞ」
チゴウィは少し安心したような表情でそう言う。
「ウフフ。でも遠くからよくわかったね。みんな私だと気づかなかったのに」
「そりゃわかるぞ。だってイリニヤだから」
「なにそれ」
ウフフとイリニヤはまた笑う。
「何かおかしいか? 俺は本心を言ったまでなんだが」
「チゴウィらしい」
「そうか。だが俺は、たとえイリニヤが世界の裏側にいたって見つけ出せるぞ」
「えっ……」
イリニヤはチゴウィの言葉に頬を紅潮させる。
そして、チゴウィの顔を見ると、チゴウィの頬も少し赤く染まっていた。
「……あ、すまない。俺はそろそろ行く。またどこかでな」
それじゃ、とチゴウィは踵を返し、夜の街を駆けだして行った。
チゴウィの背中を見つめながら彼の言葉の意味を考えていると、イリニヤの左頬に突然冷たいものがピトッと触れた。
「ひゃあっ!!」
「ンフフ~。びっくりした?」
はいとミナから手渡されたのは、星の人魚のアイスミルクティーだった。
「あ、ありがとう」
「なんだかいい雰囲気でしたけど、さっきの人といい感じになっちゃってた?」
イリニヤはミナのその言葉にビクリと反応する。
「そ、そんなんじゃないよ……」
「でも、いい人そうじゃん。ミナお姉さんはイリニヤちゃんのこと応援しちゃうぞ~」
「だからそんなんじゃないってばーっ!」
夜の街。月は紺青の空に浮かび、テルパーノを照らす。
過去の事を忘れさせてくれた一日。
人魚の夢に酔いしれたイリニヤは、始終振り回されていたようなと思いながらも、たまにはこういうのもいいかと自身に納得させる。
目の前の人魚に「はい」と言われ手を差し出すと指と指を絡ませるように手を繋がれる。その仕草にまたドキリとしながらも、甘くてほんのり苦いミルクティーを口に含み、気分をごまかす。
そして二人は手をつなぎながら帰路についたのだった。
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