第三十八話 コウとバイク

 これは、僕が九歳の頃の話だ。

 

 ――バーオボの港町リョックル。

「コウくん! 今日はアジがおススメだよ!」

「じゃ、アジを4匹お願いします」

「あいよ! ちょっと待ってな」

 

 この頃の僕はすっかり元気になっており、体を慣らしたり体力をつけるため、父さんが仕事で忙しい日は家事を任せてもらっていた。

 

 そんな僕は、ある願望を心の中で燃え滾らせていた。”母さんを探しにいくこと”だ。

 だが、門の塔へ入るには入塔料が必要だ。そして攻略者として入るとなると、観光者の何倍もの入塔料がかかる。門の塔へ入る前に、聖地テルパーノにある魔法学校で七日間講義も受けなければならない。その受講料や、七日間講義の間の宿代、バーオボから聖地テルパーノまでの旅費など、たくさんのお金がかかる。

 僕の家はお世辞にもお金持ちの家とは言えないごく普通の家庭。そんな家の生まれである僕がまずしなければならないのは”アルバイト”だ。


「はい。アジ4匹ね」

「ありがとうございます!」

 

 僕が、魚屋さんから品物が入った袋を受け取ったときだった。


「こんちわーっす! 郵便でーす!」

 僕の少し後ろに大きな機械に跨った男の人がやってきた。

 

「おっ!ご苦労さん!」

 その男の人は封筒を魚屋さんに渡すと、「お疲れーっす!」と言ったあと、また大きな機械に跨って東のほうへ消えて行った。

 僕はその”大きな機械”がとても気になった。

 

「コウくんどうしたんだい?」

 あの”大きな機械”が気になり、ボーっとしていた僕は、魚屋さんも声で我に返った。

「あ、いや……。今の大きな機械って何ですか?」

「ああ、ありゃ”バイク”だよ。魔法石で動く乗り物だな」

 

 ”バイク”……。一度本で読んだことがある。ジャプニーナでよく乗られている一人乗りの乗り物だと書かれていた。バーオボでは見かけない乗り物だったので当時はとても珍しかった。

 

「へぇ。便利そうですね」

「そうなんだよ。うちの店にも一台置こうかと思ってるんだよ。配達が楽になるし」


 確かに、近場に少し配達に行く程度なら車よりもバイクのほうが使い勝手がいい。


「いいですね。奥さんも使えるだろうし」

「そうだといいんだがな……。それがあのバイクっての、”運転免許”ってやつが必要でな」

「”運転免許”?」

「おうよ。試験に合格した人しか、あのバイクってのに乗っちゃいけねぇ決まりでな。家内が「そんな試験、私は受かりっこない!」って言っててよ。だから、乗るのは俺だけになっちまいそうなんだ」


 バイクには”運転免許”がなければいけない……。

 僕は、魚屋さんの話を聞くにつれ、バイクのことがとても気になってきていた。


「まぁでも、配達が楽になるのならいいじゃないですか」

「確かにな。――あっ、コウくん。これ余った海藻なんだ。持って行ってくれ!」

「ありがとうございます! それじゃ、僕これで!」


 僕はすぐに自宅へ帰った。

 ドアを開け、一階のキッチンにある冷蔵庫にさっき買ったアジと貰った海藻を放り込むと、僕は忙しなく家を飛び出した。


 少し入り込んだ路地を抜け、大通りへ出る。そこからすぐの横断歩道を渡り、反対側の歩道の目の前に聳え立っているのがレレーン役所。だが、今日はレレーン役所ではなく、その隣にある公立図書館へ向かった。


 大きな扉を開け、一目散に階段へ。

 3階にある”乗り物に関する書籍”のコーナーへ向かった。


(……あった。これだ)


 バイクに関することが書かれている書籍を見つけた。

 表紙の見出しには”運転免許について”とも書かれている。


 僕はその書籍を持って、近くのテーブル席に座った。

 書籍を数ページ捲ると、様々なカラーや形のバイクの写真がずらりと並んでいるページが出てきた。

 

 色んなバイクがあるんだな~と興味をそそられながらも、もっと先のページを開く。

 僕が見たいのは”運転免許”のページだ。


 ページを進めると、運転免許の詳細が書かれたページが出てきた。


 ――バイクの運転免許について。バイクを運転するには、運転免許証が必要である。免許証は、50問の筆記試験、筆記試験合格者のみで行われる実地訓練を経て、交付となる。バーオボでは、十歳から受験が認められている。


 ”十歳から”。

 僕は今九歳。来年の春過ぎまで待たなければならない。


 僕がどうしてバイクや運転免許のことを調べているのかと言うと、バイクを使って何かアルバイトが出来ないかと考えたからだ。

 魚屋さんで見た郵便配達員の人や、魚屋さんの話を聞いて、これなら僕にでも出来るのではと思ったのだ。

 だが、早くてもバイクに乗れるのは一年後だ。そして、免許を取ったからと言ってすぐにバイクを購入できるわけではない。バイクの購入費用も用意しなくてはならないのだ。


 僕は図書館でバイクについて詳しく書かれている本と、運転免許試験の過去問が載った問題集を借りて、自宅へ戻った。



 開いたアジに卵液や薄力粉、パン粉をつけ、高温の油の海にドボンと投入する。ジューという音を出しながら泡を立て、黄金の海に泳ぐアジフライをジッと見つめる。

 僕はまたバイクのことを考えていた。


 試験の費用はお小遣いを少し貯めれば支払えるほどの金額だった。だが、問題はバイクだ。今は父さんからお小遣いを貰っている。父さんはいくら学者とは言え、特別多く稼いでいるわけではない。書店もそうだ。古くて珍しい書物を扱っているので、余程の物好きしか足を運んでこない。売上で言えば赤字ギリギリ。そんな状況でお小遣いを増やすお願いや、ましてバイクを買ってほしいなんてお願いできるわけもない。


 上の空になっていたとき、ふとアジフライを揚げていることを思い出した。


「おっと! 揚げ過ぎた!」


 黄金の海を泳いでいたアジフライは、濃いキツネ色に様変わりしていた。


 全てのアジフライを揚げ終え、適当に千切ったレタスとミニトマトのサラダの横にアジフライを添える。

 炊き立ての白米をお茶碗によそい、マグカップにはカボチャのポタージュを注ぐ。

 これで、今日の夕食は完成だ。


「父さーん! 夕食できたよー!」


 少し間を置いた後、店先で本を読んでいた父さんの足音が聞こえてきた。


「おぅ、すまないな」

「いいよ。冷めないうちに食べよう」


 僕たちはテーブルにつき、食事を始めた。

 


 夕食を終え、僕は二階の自室に戻った。

 夕食後の食器洗いは父さんがやってくれることになったので、僕の仕事はこれでおしまい。


 いつもなら就寝……と言いたいところだが、椅子に座り、図書館で借りてきたバイクに関する本を開いた。

 

 バイクが動く仕組みや、メンテナンスのやり方などが書かれている。

 主な原動力は魔法石と石炭。石炭は消耗品なので定期的に補充しなくてはならないが、魔法石は半永久的に使えるらしい。


 僕は次に、運転免許試験の過去問集を開いた。

 試験は50問中45問正解すれば合格となる。主に交通ルールに関する問題に「はい」か「いいえ」で答えて行く。最後の5問は問題の横に絵が描かれており、この状況ではどうするのが適切かを4つの選択肢から選ぶ。

 交通ルールを覚え、過去問を何度か繰り返し解けば合格出来そうだ。

 

 バイクの仕組みや試験のことはだいたいわかった。

 やはり最後に躓くのが”お金の問題”だ。


 明日、ヨーゼフさんに相談してみよう。

 さすがにバイク代を借りるわけにはいかないが、事情を話せば昼間に喫茶店でアルバイトをさせてもらえるだろう。


 あとは、父さんだ。

 まだ病み上がり間もない僕にバイクは危ないと言うだろう。

 なんとか説得しなければ……。


 そろそろ睡魔が襲ってきた。

 今日のところは寝よう。


 僕は、ラジオウムの目覚しをセットし、ベットに寝転がった。

 


 「グーゲーゴーガーゴー! 朝だよ! 朝だよ! コウ起きて!」


 枕元にいるラジオウムをすぐに止め、上体を起こし、うんと伸びをした。

 ベッド脇の小窓から淡い色の日が射しこむ。朝だ。


 僕はまたラジオウムの電源を入れる。

 今度はラジオを視聴するためだ。


 ラジオウムは、鳥のオウムの形を模して作られた魔法石で動く機械だ。ラジオはもちろん、目覚まし時計の機能もあり、とても重宝している。本体のほとんどがブリキで出来ており、ちょっとグレーよりのシルバーっぽい色がなんとも味があり、僕の好みだ。オウムの見た目からか子供から大人気の商品なのだそうだ。

 まだ僕が床に臥せっていたとき、母さんがいなくなったあと部屋で一人寂しくないように、とヨーゼフさんがプレゼントしれくれた物だ。今でもとても大切に使っている。

 

「……おはようございます。こちらはバーオボラジオ放送局。時刻は朝の7時ちょうど。天気は晴れ。ところにより曇り。雨の心配はありません。今朝のニュースは、モミマドレにて観光客窃盗被害。バーオボ警察が注意を呼び掛ける。小麦が不作の影響か? 値上げが続く。リョックル漁港、今年も豊漁と漁師たちは笑顔。まずはモミマドレの観光客窃盗被害の話題から――」


 ラジオウムからは、若い男性アナウンサーの爽やかな声が流れてくる。

 今日は晴れということは、洗濯物がキッチリ乾くな。父さんはもしかしたらどこかで散歩に出かけるかもしれない。水筒を洗っておこうかな――などと考えながら、僕はラジオウムの電源を切った。


 身支度を終え、一階へ降りた。

 洗面台へ行き、顔を洗っていると父さんがやってきた。


「おう。おはよう。コウも起きたのか。まだ寝てても良かったんだぞ」

「父さん、おはよう。大丈夫だよ。父さんこそ最近忙しいんだからゆっくりしててよ」

「俺は大丈夫だ」

 父さんはそう言いながら大きな欠伸をした。

 

 昨夜もあまり寝ていないのだろう。目元に濃いクマができている。

 三週間後に学会があると言っていた。そのとき発表する論文を書いているから寝る時間も削っているのだろう。僕としてはもっと寝てほしいが。


「僕が朝食と洗濯物をやるよ。父さんはもう少し寝てても……」

「大丈夫だ。俺が洗濯物やっとく。朝食は頼めるか?」

「う……うん! わかった」


 歯がゆい感情を抑えながら、僕はキッチンへ向かった。

 僕の体調も、以前に比べればかなり良くなった。家事はもっと僕に任せてくれてもいいのにと思う。母さんが居ない今、僕と父さん二人で助け合って生きて行かなければならないのだから。

 父さんに言いたいことを心に仕舞い、キッチンのランタンに明かりを灯した。


 

 

 僕は、昨日図書館で借りた本を手に、茨のふるさとへやってきた。

 ”茨のふるさと”は、ヨーゼフさんが営む喫茶店とバーだ。昼はコーヒーの香りが優しく漂う喫茶店、夜はカクテルやお酒を静かに楽しむバーになる。

 朝のこの時間はまだ仕込みの時間なのだが、僕は特別に入れてもらえるのだ。


 赤い薔薇のステンドグラスが施された扉には”準備中”と書かれた札が掲げられている。

 その扉開けると、内側に吊るされたドアベルが甲高い音を立てて、僕を迎える。


「おやおや。コウ坊ちゃん」


 そう僕に声をかけたのは、床をモップ掛けしている最中のヨーゼフさんだ。

 ワックスでしっかりと整えられた白髪の混じったグレーっぽい髪に、切れ長の目から見えるヘーゼルの瞳。ピシッとアイロンされたシャツの襟元から黒のクロスタイが顔を覗かせており、その上に黒のスーツベストを着ている。これまたしっかりとプレスされた黒のスラックスがヨーゼフさんの足の長さを強調しており、スーパーモデルも泣きっ面になるほどのスタイルの良さだと一目でわかる。朝からその姿がとても決まっており、少し気が引き締まる。

 ヨーゼフさんは、母さんが小さい頃からの古い知り合いなんだそうだ。イズルザス帝国という国から移住してきたらしい。とても高身長で気品溢れる姿に女性ファンがいるとかいないとか……。

 

「おはようございます!」

「おはようございます。今日はどういったご用件で?」


 僕がこうして茨のふるさとに来るのは何か用があってのことだとヨーゼフさんもわかっている。


「それが、相談があって……」

「カッシオ様のことですかな?」

「いえ、それもちょっとだけありますが、その……バイクのことで」

「バイク……ですか」

「はい」


 僕とヨーゼフさんはカウンターへ行き、昨日図書館で借りた本を見せた。


「……バイクの購入費用をアルバイトで稼ぎたいと」

「はい。ヨーゼフさんのお店なら父さんも許してくれるんじゃないかって」

「この話、カッシオ様には……」

「まだ話してないです。父さんにはまだ言いづらいし、ヨーゼフさんにはそのことも相談したくて……」

「そうですか。カッシオ様は少し頑固なところがありますからね……」

「そうですよね……」

「ですが、どうしてまたバイクに? 遊びで乗り回したいというわけではなさそうですが……」

「はいその……バイクの免許を取ったら、茨のふるさと以外にも配達のアルバイトをやりたくて」

「配達のアルバイト……」

「はい。その、理由はまだ言えないんですが、どうしても貯金をしたいんです」

「ほう……。理由はどうしても話せない?」

「はい……」


 ヨーゼフさんと僕は少しだけ黙り合ってしまった。


「……ふむ。わかりました。今は理由を聞かないでおきましょう。――ですがアルバイトの件は、正直を申しますと、コウ坊ちゃんのお体のことが一番心配です」

「それは僕自身もしっかりわかって……」

「お話は最後まで聞いてからですよ、コウ坊ちゃん」

 ヨーゼフさんは、バイクの本をパラパラと捲りながら、

「なので、まずは体力作りとお仕事体験で一時間か二時間やってみるという体でお話されてはどうでしょうか? それならカッシオ様もご納得いただけるのでは?」

「ヨーゼフさん……!」

「丁度、アルバイトを一人雇おうかと思っていたところなのです。コウ坊ちゃんが来ていただけるなら私は大歓迎ですよ」

 ヨーゼフさんは優しい笑顔でそう言った。


「あとは、バイクを売ってくれるお店か……」

「それなら心配ご無用です」

「えっ!?」

「ベルバオバの近くに私の古い馴染みが住んでおりまして、その者がバイクを扱う店をやっているのですよ」

「そうなんですか!?」

「はい。夕方の3時頃、その店にお邪魔する予定だったので、よければコウ坊ちゃんもご一緒にどうですか?」

「いいんですか?」

「ええ。どんなバイクがあるか、一目見ておくのも悪くないでしょうし」

「ありがとうございます! 行きます!」


 僕はヨーゼフさんと約束をし、茨のふるさとを後にした。


 夕方の3時に僕の家の近くで待ち合わせだ。

 それまではまだまだ時間がある。一度家へ帰って父さんに少し話してみることにした。


 自宅の扉を開けると、一階はシーンとしていた。


「……ただいま」


 父さんはどこかへ出かけたのかもしれないと思い、一度自室へ行こうと思ったら、キッチンから父さんが顔を覗かせた。


「おう。コウか。どこか出かけてたのか?」

「うん。ちょっと用事があって茨のふるさとまで」

「そうか。……もうちょっとで昼にするから、少ししたら下りておいで」

「わかった」


 僕は二階の自室へ入った。


「ふぅ~……」


 僕は自室に入るや、大きなため息をついた。

 

 父さんにはどう切り出そう。

 明るく伝えるか、ちょっと深刻な言い方をするか。

 

「……難しいなぁ」


 親子のはずなのに、なぜか一番気を遣ってしまう。

 父さんが嫌いなわけじゃない。むしろ大好きだし、尊敬している。

 僕はたぶん父さんに心配をかけたくないのだと思う。だったらバイクなんて乗らなければいいのかもしれない。でも、母さんを探しに門の塔へ行きたい。そのお金くらいは自分で工面したい。でも、門の塔へ行くことはまだ話してはいけない。父さんにもっと心配をかけてしまうし、アルバイトの許可も取れなくなってしまうと思う。そのことをうまく隠しながら、貯金したいこと、バイクが欲しいことを伝えないと。


「……はぁ~」


 僕は大きなため息をついたあと、机に荷物を置き、一階のキッチンへ向かった。



 昼食のナポリタンをすすりながら、僕は父さんのほうをチラリとみる。

 いつ切り出そうか。今話しても大丈夫だろうか。

 グルグルと考えているうちに、父さんのナポリタンはどんどん無くなっていく。


「コウ、どうした? まずかったか?」


 僕の皿に盛られたナポリタンがあまり減っていないのを見て、父さんは聞いてきた。


「あ……ううん! とっても美味しいよ! ナポリタン!」

「そうか。なら、良かった」


 父さんは優しい笑顔でそう答えた。

 こうなるとより言い出しにくい。

 

 父さんはさっさとナポリタンを食べ終え、自分のお皿を洗い始めた。


 僕は、ちまちまとナポリタンを食べながらまたタイミングを窺う。

 どうしよう。今言おうかな。


 そう思っているうちに、僕もナポリタンを完食してしまった。


「おっ。全部食べたんだな」

「う、うん! 美味しかったからね!」

「それは、よかった!」


 少し沈黙になったが、僕は意を決した。


「……あのさ、父さん」

「ん? どうした?」


 父さんは、お皿についた洗剤を洗い流しながら返事した。

 

「ちょっと話があるんだ」

「急に改まって、珍しいな」

「あのさ、僕アルバイトを始めたいんだ」

「アルバイト?」

「うん。さっきヨーゼフさんにも話して来たんだ」

「……ヨーゼフさんはどう言ってたんだ?」

「最初は体調が心配だから、一時間か二時間くらいで始めてもいいんじゃないかって言ってくれた。それくらいなら体力作りとお仕事体験にもなりそうだからって」

「そうか。……ならいいんじゃないか?」

「えっ!? いいの!?」

「ああ。ヨーゼフさんも良いって言ってくれてるんだろ?」

「うん! 本当にいいの?」

「ああ」

 父さんは水を止め、洗っていたお皿を籠に入れながら、

「でも、言ってくれれば小遣いくらい増やすぞ?」

「ううん。僕、貯金したいんだ!」

「貯金?」

「うん! その……バイクを買いたくて!」

 僕は勢いで打ち明けた。

「バイク? コウまだバイクに乗れる歳じゃないだろ」

「うん。免許は10歳からだから、来年だよね」

「そうだが……。それに、体がまだ本調子じゃないだろう。そんなに急がなくてもいいんじゃないか?」

「急いでるわけじゃないよ。僕にだってやりたいことが……」

「やりたいこと? そのためにお金が必要なのか?」

「うん」

「具体的にどんなことをやりたいんだ?」

「今は言えないけど……そのやりたいことのためにお金が必要で、バイクがあると他のアルバイトもやりやすくなるから……」

「ヨーゼフさんのところだけじゃダメなのか?」

「だ、大丈夫だけど、ヨーゼフさんのところの他にも掛け持ちしたいって思ってて……」

 父さんと僕の間に静寂が少し流れたあと、父さんは口を開いた。

「とりあえず、バイクはまだダメだ」

「……」

「アルバイトはしてもいい。だがバイクはまだ早い。もう少し大きくなってからにしなさい」

「父さん……」

「ダメなものはダメだ」

「わかったよ……」

「――ちょっと出かけてくる」


 父さんはそう言って家を出て行ってしまった。



 父さんからアルバイトをする許可は貰えたが、バイクにNGが出てしまった。

 だが、バイクの免許を取るのは来年だ。時間はまだまだある。僕はこう見えてしぶといところがある。父さんが首を縦に振るまで説得するつもりだ。


 

 僕は、家事のだいたいを終えたあと、キッチンのテーブルの上に父さんへの置手紙を置き、家を出た。

 これからヨーゼフさんと待ち合わせだ。


「えっと、確かこのあたりって言ってたよな」


 ヨーゼフさんが言ってた場所あたりに着いた。

 その場所というのは、家の路地から抜けたあたりにあるレレーン大通りだ。まばらだが車が数台走っており、歩道には数名の人が歩いている。石畳の地面がピカピカと光り美しい。

 レレーン大通りは、全てが石畳なので、世界百景にも選ばれているほど有名な場所だ。よく観光名所の書籍にも載っている。


 すると、リョックル方面からきた一台の軽トラックが僕の前に止まった。

 運転席の窓が開き、ある人が顔を覗かせた。

 

「コウ坊ちゃん! お待たせしました」


 その軽トラックを運転していたのは、ヨーゼフさんだった。


「ヨーゼフさん!?」

「おや、ビックリさせてしまいましたね。まぁ話は車の中で。――乗ってください」


 僕はその車の助手席に乗り込んだ。


「それでは車を出しますね」


 ヨーゼフさんがそう言うと、車は走り出した。

 ヨーゼフっさんの格好が店にいたときと変わっており、スーツベストはスーツジャケットに、クロスタイは薔薇の彫刻が施された楕円の青い宝石がついたループタイになっていた。


「ヨーゼフさん、この車……」

「この車は借り物です。 ブルーノさんが貸してくださいました」

「ニーナのお父さんが!?」

「はい。ベルバオバの近くへコウ坊ちゃんを連れて行くと話しましたら、快く貸して下さったのです」


 ニーナとは、僕の幼馴染の女の子で、ブルーノさんというレレーンの大地主の娘だ。

 

「古い馴染みの店までは少し距離がありますので、車を貸してくださってとても助かりましたよ」

「は、はぁ……」

「――ところで、カッシオ様にはお話しになりましたか?」

「はい……。アルバイトの件はあっさりOKが出ました。でも……」

「バイクはいけないと?」

「はい。僕の体の事を気にかけてくれてるみたいで」

「そうですか。ですが、免許を取れるのは来年でしょう? まだ時間はあります。ゆっくり説得すれば、いつかはわかってくださいますよ」


 このとき僕は、運転しているヨーゼフさんの顔を見た。

 ヨーゼフさんの優しい表情に少しだけ救われた気分になった。

 

 

 レレーンを抜け、20分ほど走った場所で車は止まった。

 そこには小さな店が建っており、店先にはバイクや自転車が並んでいた。


 ヨーゼフさんは、店の脇に車を止めた。車を下りたあと、店の奥へ入っていく。


「おーい!」


 ヨーゼフさんはそう店奥に呼びかけている。


「おや、いませんねぇ。留守でしょうか」


 少しすると、店奥の階段から小柄な男性が降りてきた。


「おっ! ヨーゼフじゃねぇか!」

「急に邪魔してすまないな!」


 僕はヨーゼフさんの話し方に驚いた。いつもなら丁寧な話し方なのだが、今は少し荒い話し方になっている。


「ところでヨーゼフ、この子は?」

「ああ、すまない。この子はコウ坊ちゃん。マルサ様のご子息だよ」

「コウ……? あのとき見せに来てくれた子か! こんな小さかったじゃないか!」

 ヨーゼフさんの知り合いはそう言いながら、右手の親指と人差し指を近づけるジェスチャーをした。小さいという意味のジェスチャーだ。

「もうこの子も9歳だよ」

「そうかそうか。もうそんなに……。――あぁ俺のこと知らないよな。俺はカラッチだ。ここでバイク屋と整備をやってる。よろしくなコウちゃん」

「あ、はい! よろしくお願いします!」

 突然”コウちゃん”と呼ばれ少し動揺したが、とてもフレンドリーな方なのだろうと思い、すんなりと受け入れた。

 

「それで、今日は何の用で来たんだ?」

「ああ、少しだけ石炭をわけてもらおうと思ってな。それと、コウ坊ちゃんがバイクを見たいそうなんだ」

「おぉ! そうか! いくらでも見せてやるぞ!」

 カラッチさんはそう言うと、店に並んでいるバイクや自転車をゆっくり見ておいでと促してくれた。


 僕は、店の端から端まで並んでいるバイクや自転車をゆっくりと見始めた。

 お店の佇まいは古く、今にも風で吹き飛ばされそうなほど心許ない作りだが、自転車とバイクはどれもピッカピカに磨き上げられており、手入れが行き届いていた。

 だが、値段を見て度肝を抜く。バーオボの物価や輸入費用も入っているのかもしれないが、アルバイトの貯金で足りるのだろうかという値段設定だった。


「コウ坊ちゃん、本物のバイクはどうですか?」


 ヨーゼフさんが僕に声をかけてきた。


「どれもかっこいいです。ただ値段が……」


 僕は、バイクのヘッドライトに貼られた値札を指さした。

 

「確かに……アルバイトでは少し厳しいかもしれませんね。ここは新車のコーナーなので、中古車のコーナーを見てみませんか? そちらならコウ坊ちゃんの希望のお値段のバイクがあるかもしれません」


 なるほど! 中古車もあるのか。

 中古車なら、少々傷を付けてしまっても気にならないし、初心者の僕にはいいかもしれない。


 僕はヨーゼフさんと中古車のコーナーへ移動した。


 中古のバイクや自転車も、新車同様ピカピカに手入れされており、カラッチさんがとてもマメな人なんだと店に並んでいるバイクや自転車から伝わってくる。


「こっちもとても綺麗ですね」

「彼の機械いじりにかけては、右に出る者はいないですからね」


 僕はチラリと値札を見た。

 新車の半分ほどの値段になっている。これなら僕のアルバイト代でもなんとかなりそうだ。


「この値段なら!」

「そうですね。コウ坊ちゃんはメーカーの希望はありますか?」

「メーカーですか?」

「はい。確か、デイビーハート、キダ、ヤマナナ、ソラサキ……あたりが有名ですかね」


 図書館で借りたバイクの本でも見た名前だ。

 

「結構あるんですね……。どれがいいかまでは……」

「だったら、ジャプニーナのメーカーがおすすめだな!」


 石炭を入れた袋を持ってカラッチさんが話に割って入ってきた。


「ジャプニーナですか?」

「おうよ。さっき言ってたキダ、ヤマナナ、ソラサキと、メスズ、ミニハツはジャプニーナのメーカーだ」

「ジャプニーナのバイクや車は世界でも有名ですからね」と、ヨーゼフさん。


 今思い返すと、図書館で借りてきた本でもジャプニーナの名前をよく見た。

 それくらい有名なのだろうか。


「俺が特にオススメしたいのが、”キャブ”だな!」

「”キャブ”?」

「バイクの名前です。キダというメーカーの最高傑作とも言われているバイクですよ」

「どう最高傑作なんですか?」

「第一は燃費の良さだな。あの燃費の良さはそうそう実現できるものじゃない。あとは見た目だな。少しレトロチックなフォルムがマニアにはたまらないんだ。――そういりゃ、倉庫で眠ってるのが一台いたな。見せてやろうか?」

「お願いします!」


 そして、僕たちはカラッチさんに連れられ、店の裏側にある倉庫へ案内された。


「ちょっとそこで待っててな!」


 カラッチさんはそう言って、大きな倉庫の重そうな扉を開いて中へ入っていった。


「コウ坊ちゃん。バイクの値段やメーカーの話は置いておいて……。――どうです?バイクを見た感想は?」

 ヨーゼフさんは優しい声でそう話しかけてきた。

「本物を見てカッコ良いと思ったし、ますますバイクに乗ってみたくなりました」

「お父様……カッシオ様をもっと説得しなければですね」

「はい!」


 すると、倉庫の奥からカラッチさんの声が聞こえてきた。


「ヨーゼフ! すまん! もう少し扉を開けてくれんか!」


 ヨーゼフさんはそう言われ、重そうな扉を大きく開いた。


「ふぃ~すまんすまん。……これがさっき言ってた”キャブ”だよ」


 カラッチさんがハンドルを握り、倉庫の奥から連れてきたそれは、埃を被り、金属が剥きだしになった部分はいくつか大きな錆びが目立ち、状態があまりよくない。だが、深いグリーンの車体に付いた丸いヘッドライトが陽にさらされ、まるで生き物の目のように輝く。

 僕は、その目に釘付けとなっていた。


「これが、”キャブ”」とヨーゼフさん。

「人気の車種だから中古ではなかなか手に入らないんだが、こいつはもう長い事動かないからって前のオーナーに押し付けられてな」


 カラッチさんは、キャブに被っていた埃を手で振り払いながら続ける。


「俺が修理してやりゃ綺麗さっぱり元通りになるとは思うが、手が回らなくてな。5年も放置したまますっかり忘れとったわ」

「それにしても、やっぱりキャブは素晴らしいな」

「そうだろ? そう思うだろ、ヨーゼフ! お前さんなら分かってくれると思ったよ」

「コウ坊ちゃんはどう思います? ……コウ坊ちゃん?」


 僕はヨーゼフさんの呼びかけにも気づかないほど、キャブを見つめ続けていた。


「コウ坊ちゃん、具合でも悪いのですか?」

「コウちゃん?」


 そして二人の呼びかけにやっと気が付き、


「あの、この子、予約してもいいですか?」


 そう言っていた。


「予約かい?」

「はい。……免許取れるのは来年になっちゃうんですけど……」

「ですが、コウ坊ちゃん、こんなにもボロボロなバイク、さすがに動かないのでは?」

「その、僕が修理したり、綺麗に掃除するので……」


 僕はこのとき、どうして自分がこんなことを言っているのか、自分でもわかっていなかった。

 

「コウ坊ちゃんご自身で修理ですか?」

「はい……」

「ですが、部品や道具も無しに……」

「ここにいくらでもあるじゃねぇか」

 と、カラッチさんは倉庫やお店を指さす。


「カラッチ、いくら道具があるからと言って、一人で修理など……」

「俺が付きっきりで教えてやるさ。そうだとお前さんも親御さんも安心だろ?」

「そうだがな……」

「本人がやりたいって言ってんだ。それにあれだ。これはコウちゃんの一目惚れってやつだ。コウちゃんはこのキャブに一目惚れして、自分の力で綺麗にしたいって言ってるんだ。やらせてやれよ」

「……カラッチがそう言うなら……」

「よし。――コウちゃん。正直言うと、このキャブはまた走れるようになる保証はない。俺も付きっきりで修理を教えてやるし、難しいところは俺がやる。それでも走ってくれるかどうかは、このキャブ次第だ。それでもやるか?」


 カラッチさんの目は、優しい瞳の奥から真剣に僕に問いかけてきていることがわかった。

 それでも僕は、このキャブに乗りたいと思った。


「はい。やります。よろしくお願いします」

「よし。決まりだ。道具はうちのを使えばいい。部品代は出世払いってことで、またアルバイトのお金で払ってくれたらいいさ」

「いいのかい? カラッチ」

「ああ。むしろ大歓迎さ。バイクを好きになってくれる子がこれで増えることになるからな」


 こうして、僕は一年ほどカラッチさんのお店に通いつめ、あの緑のキャブを修理した。

 最初は、使える部品、使えない部品、消耗している部品などをカラッチさんい教えてもらいながら交換していき、車体もピカピカに磨いていく。カラッチさんの店にない部品は取り寄せになるので、届くまでに最長三か月とかかった。一から全て修理したので一年がかりだったが、緑のキャブはみるみるうちに輝きを取り戻していった。

 もちろん、その一年は、ヨーゼフさんの店でアルバイトをしながら、家事もできる範囲でこなし、夜になると寝る時間を削って運転免許試験やバイクの勉強をした。

 目が回るような忙しい一年だったが、バイクのことを知っていくと、自分の頭の中に新しい世界が出来たような感覚でとても楽しかった。


 

 ちなみに父さんへの交渉は、実は三か月かかった。

 冬になりかける10月中旬くらいのある日の朝。朝食を父さんと食べているときだった。

 父さんは突然、バイクに乗ってもいいと言い出したのだ。あのときは夢でも見ているのかと思うほど信じられなかった。何度も腕をつねったりした程には信じられなかったのだ。


 父さんの許可を得た僕は猛勉強をした。と言っても試験はそんなに難しくはないのだが、これで落ちては許可をもらった意味がなくなると思い、満点を取るつもりで勉強した。

 翌年の誕生日を迎えたあと、運転免許試験を受験し見事合格。晴れて一人のドライバーとなった。


 あの緑のキャブは、カラッチさんとゆっくり時間をかけて修理したおかげか、新品同様のような見違える姿となった。

 

 

 そして今日、キャブを動かすための大事な部分、”魔法石”がカラッチさんの店に届く。


「おはようございます! カラッチさん!」

 僕は店奥で作業をしているカラッチさんに挨拶をした。


「おはよう! 来たか!」と言ったあと、カラッチさんは親指で背後を指さし、「届いてるぜ!」と言った。

「本当ですか!」

 僕は一刻も早く魔法石をキャブに入れたくてウズウズしていた。


 カラッチさんの作業が終わったあと、僕たちは店裏の倉庫前に来た。

 ピカピカになった緑のキャブが太陽の光を浴びて鋭い反射光を放つ。

 これから魔法石を入れられることをキャブも待っているかのように、僕には見えた。


「さ、コウちゃん。入れてやんな」


 僕は、カラッチさんから魔法石を受け取った。


 整備用の手袋をはめ、キャブへ近寄り、座席シートを開けた。そこには石炭を入れておくタンクと、魔法石を入れておくタンクがある。このタンクは魔法ガラスという特殊なガラスで出来ており、ガラスと同じように透明だが、ふつうのガラスと比べて割れにくい。だが、キズが入ると割れやすいので注意しながら扱わなければならない。

 慎重にタンクを取り出し、魔法石を入れておくタンクの蓋を開ける。太い筒状になっており、蓋のフチには金色の塗料が塗られている。そこをゆっくりと右に回す。……開いた。

 そこへ僕の拳ほどの大きさの魔法石を入れる。――魔法石は七色の虹のような色をしており、とても美しい少しゴツゴツとした石だ。

 魔法石を入れたタンクをまた慎重にキャブへはめ込む。満タンに入れられた石炭タンクも隣へはめ込み、ゆっくりと座席シートを戻した。これであとはエンジンをつけるだけだ。


 カラッチさんから事前に渡されていたキャブの鍵を、ハンドル下のシリンダーに差し込み、右へ少し回すと、メーターのランプが点灯した。そして、左ハンドルにあるボタンを押した。


 キャブは、ブルルンと独特の音を立てた。エンジンが入ったのだ。

 

「やった!」

「よかった。うまくいったようだな」

「ありがとうございます。カラッチさんのおかげです」

「コウちゃんの気持ちにキャブが答えてくれたんだよ」


 僕はブレーキを入れたまま、右ハンドルを少し回した。

 エンジンは軽快な音を立てる。調子もいいみたいだ。


「よし。コウちゃん、そのまま走ってきな。お父ちゃんに乗ってるとこ見せてやんな」

「はい! 行ってきます!」

 

 僕はゴーグルをつけてハンドルを握ったあと、右ハンドルを手前に回した。

 キャブはブォォンを唸り声を上げ、前へ進む。ゆっくりと前進し、公道へ出た。


 カラッチさんの店の前からレレーンへ向かう。

 太陽はバーオボ火山の右斜め上にいる。その陽光がバイクのミラーに当たり、反射している。風がビュ~という音を立て、僕の耳元を通り過ぎる。景色が前から後ろへスラスラと流れていく。

 僕は今、念願のバイクに乗っているのだ。


 カラッチさんの店からレレーンへ向かう道を15分ほど来た頃、レレーンのあの特徴的な石畳の道路が見えてきた。


 そのままバイクを走らせる、石畳の道路は少しガタガタするが、レレーンでも走りやすいよう車輪にすこしカスタムを施してある。カラッチさんからおススメされたカスタムだ。


 僕はある角で曲がった。路地をスイスイと抜けると、そこには僕の家がある。


 バイクを止め、下りる。

 そして、父さんがいるであろう店先に周り、えんじ色の扉を開いた。


「父さん! バイク引き取ってきたよ!」


 父さんは店内の椅子に座り、本を読んでいた。

 僕の声に気づき、顔をこちらに向けてこう言った。


「そうか! 乗ってるところ、見せてくれるか?」

「うん!」


 僕たちは店を出た。


「ゴーグルも似合ってるじゃないか」

「ありがとう」

「あの倉庫で眠ってたやつとは思えないな」

 父さんは、バイクをまじまじと眺めながら言う。

「カラッチさんもビックリしてたよ。動くかどうか本当にわからかったって言ってたから」

「そうか。……頑張ったな」

 父さんはそう言って、僕の左肩をポンと叩く。

「うん。でも、僕一人だけがやったことじゃないよ。カラッチさんと、茨のふるさとでアルバイトをさせてくれたヨーゼフさんのおかげだよ」

「そうか……」

 父さんは、路地の狭い隙間から覗く空を見上げ、こう呟いた。

 

「母さんにも見せてやりたかったなぁ」


 そのときの父さんの顔は見えなかったが、僕にはなんとなくわかった。

 父さんは少しだけ泣いていたのだろう。


「父さん……」


 少し間を置いて、父さんはこちらを向き直し、こう口を開いた。


「さぁ、ヨーゼフさんにも見せて行ってやんな。大喜びするだろうよ」

「うん! そうする! それじゃ、行ってくるね」

「気をつけてな」


 僕はバイクを走らせ、リョックルの茨のふるさとへ向かった。


 

 ◆


 雨が地を濡らす夜。

 茨のふるさとの格子窓から漏れた光が雨粒を照らす。

 昼間に比べれば雨脚は弱まったものの、この雨の中わざわざバーに飲みに来る客などおらず、店内はゆったりと流れるジャズの音楽と、ヨーゼフだけであった。

 少し早いが店じまいをしてしまおうかと思っていたときだった。

 

 ――カランコロン。

 赤いバラのステンドグラスが嵌められたドアが開き、客が来たことをヨーゼフへ知らせるようにドアベルは軽快な音を鳴らした。

 

「おや。これは珍しい」

 ヨーゼフは、グラスを布巾で拭きながら声に出してしまうほど、ドアを開けた主を見たとき驚いた。


「……お久しぶりです」

 そう言って、会釈しながら小恥ずかしそうに店へ入って来たのは、コウの父親であり、マルサの夫のカッシオだ。


 カッシオは、紺色の傘を傘入れに入れたあと、カウンターの一番左端の席へ腰かけた。


「何になさいますか?」

 注文を聞きながらカッシオの顔色を窺った。表情は少し暗いように見える。彼は、あまり酒を飲まないが、わざわざ店に来たということは、コウのことで話したいことがある。だが、シラフでは話しにくいので少しお酒の力を借りようと思っているのだろうと、ヨーゼフは推察した。

 

「……軽めのカクテルを」

「かしこまりました」


 ヨーゼフは、自身が何か推察していることをカッシオに悟られないよう表情を変えず、注文を承った。

 

 ヨーゼフは、シェイカーを取り出し、カッシオの今の気分を少しでも楽になりそうなカクテルを考える。

 カッシオはあまり酒に強くない。そして、辛味のある酒も苦手だ。そのことを考慮しながら、店奥の棚へ向かい、ジンとグリーン・ミント・リキュール、シュガー・シロップを持ち出した。シェイカーにそれらと氷、冷蔵庫から取り出したレモンジュースを入れ、シェイクする。

 ヨーゼフとカッシオだけの店内にシャカシャカという音が響き渡る。シェイカーを振るヨーゼフの姿は見事なもので、カッシオは少し見惚れていた。

 ヨーゼフは、氷の入ったグラスに先ほどシェイクした酒を注ぐ。そこへまた冷蔵庫から取り出した炭酸水を注ぎ、グラスを満たしたかと思えば、マドラーで軽く混ぜたあと、冷蔵庫から瓶を取り出し、瓶の中に入っていた赤い果実をピンに刺し、淡いグリーンに満たされたグラスへ添えた。


「お待たせしました。エメラルド・クーラーです」


 ”エメラルド・クーラー”。

 ミントの香りとレモンの酸味が特徴のカクテルだ。炭酸水のおかげでアルコール度数も低くなっており、強い酒が苦手な人でも飲みやすい。エメラルドの輝きに、赤い果実がアクセントとなっており、見た目がとても可愛らしく、女性にも人気である。


「ありがとうございます」

 カッシオはそう言って、グラスに注がれたエメラルド・クーラーを一口飲む。


「……美味しい」

「お口に合ったようで安心しました。――今日来られたのはやはりコウ坊ちゃんのことでしょうか?」


 ヨーゼフは単刀直入に切り込んでくる。カッシオはすぐ見透かされた自分に少しだけ赤面する。


「……はい」

「バイクの件ですか?」


 カッシオはヨーゼフの言葉にビクリとした。コウがバイクに乗りたいと言い出してからすでに三か月が過ぎていたが、未だバイクに乗る許可を出していない。

 いくら元気になったと言っても、無理はよくないしさせたくないと、カッシオはコウのことを思ってずっと首を縦に振っていなかった。


「やっぱり危ないですよ。コウはまだ9歳。来年、いくら免許を取れると言ったって、コウは最近まで臥せっていたんです。体力だって他の子に比べてまだまだだ」

「そうですね」

 ヨーゼフは、シェイカーを洗いながらそう返事をした。


 カッシーは一口エメラルド・クーラーを飲み、口を開く。

「でもこの前、アイツ、机で勉強したまま寝てたんです。布団をかけてやろうとしたんですが、そのときチラッと見てしまったんです。バイクのことを熱心に勉強しているのを。試験の内容だけじゃない。バイクの中のことまでしっかり……」

「そうですか」

「あんなのを見せられたら、拒みにくくなってくる……」

「ええ」

「でも、やっぱりコウにはまだ早い。もう少し大きくなってからでいいんですよ。それからでも遅くはない」

「でも、コウ坊ちゃんにとっては、それからでは遅いのかもしれません」

「遅い?」

「はい。来年には10歳です。さらに言えば、5年後は14歳。10年後には19歳……。その一年後には20歳です。子供にとっての時間って意外とあっという間ですね」

「……」

「コウ坊ちゃんは、どうして急にアルバイトを始めたいと言い出したのか、本当の理由はわかりません。父親であるカッシオ様を少しでも助けたいからなのか、バイクの購入費を貯めたかったからなのか、もっと他に理由があるのか……。でも、ただ遊びたいわけではないことは確かです」

 カッシオは、エメラルド・クーラーの入ったグラスを見つめながらヨーゼフの話を黙って聞いている。

「そして、コウ坊ちゃんもすぐ大人になってしまいます。病気で臥せっていたからずっと子供のままではないのです。今も彼は大人になっている最中です。その妨げになってはいけないと私は思いますよ」

 

 カッシオはこの時気づく。そうか。自分はコウの妨げになっている。自分はどうしてこんなにも意固地になっていたのだと。コウの時間はコウの物だ。自分が制限していいものではない。

 

「すみません。俺、どうかしてました」

「私に謝らないでください。謝る先はコウ坊ちゃんですよ」

「……すみません」


 カッシオはまた一口エメラルド・クーラーを飲んだ。

 そして続ける。

 

「……俺はコウのことが心配だったんだな」

「親なら誰でもそうなりますよ」

「そういうもんなんすかね……」


 すると、ヨーゼフは冷蔵庫からある物を取り出し、スプーンと一緒にカッシオの前へ差し出した。


「これは?」

「これはコウ坊ちゃんが作ったティラミスです。今日だけの特別サービスですよ」


 そのティラミスは円柱型の透明なカップに入っており、クリームとスポンジが3層ほど重なっているのが見える。


「これをコウが……」

「コウ坊ちゃんは本当によく頑張っておられます。物覚えもとても早い。このティラミスも「上手に作れるようになったら父さんに作ってあげたい」って言いながら練習していたんですよ」


 カッシオは、目の前のティラミスをジッと見つめる。

 層が不揃いで不格好なティラミス。お店のメニューとして出していい出来具合とは言えないが、どこか愛情を感じた。


「子供は、親が見ていない間も成長してるんですね」

「はい」


 カッシオは、ティラミスをスプーンで掬い、口へ入れた。


 気が付けば雨音が消え、外は波音だけが響く。雲間から顔を出した三日月が、夜更けのバーオボを照らす。

 二人の時間はゆっくりと過ぎていくのだった。


 

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