⑦ 床屋のパラドックス
小説家がホテルの一室で執筆を開始する。吹雪が通り過ぎてゆく窓に背を向け、ひたすらにキーボードをそのひ弱な指先で打つのだ。山間のこの古きホテルは木製で、所々にガタが来ていた。柱はささくれ、鏡は水垢でまともに使えず、壁紙は剥がれかけている。部屋の扉でさえ、木製だった。
小説家が一歩部屋から出れば、宿泊者たちは声を上げる。先生、先生! いつも楽しく読ませてもらってますよ! 先生の作品は最高です! 最高に面白いです! こう、何というか、面白いんですよね! 小説家は苦笑いで暗く陰鬱な廊下を通り過ぎることしかできない。ホテルのボーイですらそうだ。小説家がロビーを訪れる度に、赤い帽子をキッチリと被り直し、普段から飛び出しているかのような両目をさらにカッと見開いて、彼をその目に焼き付けようとするのだ。先生の部屋はね、消火斧の目の前にしておきましたよ。そうすれば、火事が起きても安心でしょう? ひょっとして、これはジョークで言っているのだろうか? だったら、もっとマシなモノにしてくれ、と小説家は願った。
部屋に戻って執筆を再開したとしても、隣室ではカップルが四六時中行為に及んでいて、気が散った。男女の言葉を持たない叫びが壁越しに聞こえてくる。ベッドのスプリングが軋む音さえ聞こえてくるような気がする。その度に、壁に取り付けられたランプが何故だか点滅するのだった。
妻に電話をかけてみる。妻は今回の旅行に同行しようとはしなかった。絵本作家としての仕事が忙しすぎたのだ。三コール目で彼女は出た。相変わらずの早さだった。彼が近況を聞くと、彼女はそれに答えた。彼女の柔らかく、それでいて知性を感じさせる声が彼の心に染み渡る。このホテルの中で、彼女の言葉だけが味方のような気がした。彼女と通話している時だけは、ホテル中の全ての音が静まり返る気がして、彼は心地よい暖かさに包まれた。
しかし、そう安心してもいられない。自室も敵の一つだった。タタタタとキーボードを打つ音しか聞こえない部屋。ベッドと冷蔵庫とシャワーしか持たない部屋。剥がれた壁紙から糊が垂れてきて、時々頭を打つ。吹雪と、だらりと垂れ下がった大木の枝が窓を覆い、それ以外の景色は見えない。テレビは映らない。ラジオは入らない。車は通らない。人気はない。なのに、自分を褒めそやす声と、隣室の獣たちの声だけは鮮明に聞こえてくる。誰か、誰か、私を楽しませてくれる者はいないのか? 自分は探偵小説家として、多くの人々を楽しませてきた。その褒美があってもいいではないか?
コートを羽織って、小説家はホテル裏の庭に出た。庭は赤レンガの壁で囲まれていて、すっかり雪が積もって一面真っ白になっている。小説家は庭の中心にそびえ立つ、黒い大木の下へ歩み寄った。彼の部屋の窓を覆っているあの大木だった。彼は最終段落の最後の三行をそっくりそのまま復唱した。大木に向かって、その問いを投げかけたのだ。そのとき、ピューっと風が吹いて、大木の枝に積もっていた大量の雪が彼の頭上に落ちてきた。彼は息も絶え絶えに、雪の中から這い出した。小説家は叫び、ホテルへ一目散に駆け込んだ。
彼は自室の前に行くと、消火斧が入っているケースのガラスを叩き割り、消火斧を取り出した。廊下に並んだ数々の扉から続々と宿泊者たちが出てくる。あっ、先生! 先生! 先生! サインとかお願いできます? 誰も彼の行動には言及しなかった。
彼は血走った眼で、隣室のドアを捉えた。そこまで重たい斧を引きずっていくと、ドアめがけて斧を振りかぶった。バン!と大きな音がして、斧がめり込んだ。斧を引き抜き、もう一度振りかぶろうとする。周りの人々はサインを書いてもらおうと、ノートを、手帳を、ナプキンを、手に持って笑みを浮かべながら近づいてくる。小説家は一度扉に背を向けると、腹からの絶叫と共に、斧を横に振り回した。宿泊者の何人かに当たり、鮮血が辺りに飛び散る。太った男が倒れ、ふくよかな腹から臓器を露出させる。若い女の手首が飛ぶ。数人が見るも無残な状態でガタンと倒れる。しかし、後ろにいた宿泊者たちはそれを乗り越えてやって来る。小説家は再びドアに向きなおると、斧を何度も何度も振り下ろした。やがて、人が通れるくらいの穴が開き、小説家はそこから入り、次いで斧を部屋の中に引き込んだ。宿泊者たちはもう、すぐそこまで迫っていた。
小説家は斧を引きずって、カップルのベッドの下へ行った。彼の顔は狂気に囚われていた。血まみれの頬、血走った目、歯軋りをし、獣のように唸っている。カップルはその姿を見て、驚愕の悲鳴を上げた。しかし、驚愕したのは小説家も同じだった。そこにいたのは、妻と見知らぬ男だった。二人とも一糸まとわぬ姿でベッドにいる。男が妻に覆いかぶさっている。小説家は愕然とした。窓の外には自室と同じく大木の枝が垂れさがっており、それが笑う顔のように見えた気がした。
小説家は斧を振り下ろした。
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