⑥ 心優しき獣
苔の生えた暗くて古いトンネルを抜けたところで、三十万で買った中古の軽自動車から男は降りた。自動車で行ける道はまだまだ残っているが、この辺で降りるのがいいだろう。理由は二つある。一つは、自分の足で歩くほうが好きだから。二つには、軽自動車の色がピンクなので、他の狩猟仲間に見つかるとからかわれるからだった。
男は車の後部座席に座っている息子を揺り起こすと、彼の足元からオレンジ色のベストとキャップを取り出して身に付け、隣の席に置いておいた迷彩色のバックパックを背負った。そして、床から大きなライフルを引っ張り出し、腕にストラップを通して、右肩に担いだ。行けそうか? と父が聞く。うん、と息子は返事をした。彼もオレンジ色のキャップを被っていた。大人用だったので、少し大きかった。
二人は木漏れ日の差す森の中を歩いた。アスファルトは昨夜の雨のせいで湿っていて、所々に茶色い松の葉が落ちている。息子が軽くジャンプして右のガードレールの外を見ると、下方4メートルの位置に小さな川が流れていた。山に入った時から、それはアスファルトの道路に沿って存在していた。イノシシだっけ? と息子が聞く。多分な、と父。二人はうねる道をしばらく歩いた後、森のほうを指す看板を見つけた。看板の示す先を見ると、細い登山道が見えた。準備はいいか? うん。二人は森へ踏み入った。水分を含んだ土と枯葉を踏む柔らかい感触が靴の裏に感じられた。息子は今まで来たアスファルトの道を振り返った。そういえば、ここまで一台も車を見なかったな。
父はライフルのレバーを引き、弾丸がしっかり装填されていることを確認すると、また道に視線を戻した。一人分ほどの太さしかない道が蛇のようにグネグネと山に巻き付いている。二人はひたすら無言で道を辿って行った。地面は湿っていて、ジメジメとした空気が森全体に流れていた。息子が空を見上げると、日差しは先ほどよりも強くなっていた。しかし、木々で出来た天蓋が侵入を許さず、二人の足元に差してくる光はごくわずかだった。何かの鳥の鳴き声が聞こえたような気がしたが、それが何か息子には分からなかった。
休憩するか。父がそう言うと、二人は辺りにあった適当な石の上に腰を下ろし、バックパックに入っていた鹿肉のサンドイッチを食べた。以前、父が獲ったものだった。
いいか? 今日イノシシを獲ったら、そいつもこうやって食べることになる。世界はそうやって出来てるんだ。
うん。
でもな、世界がそういう風に出来てるからって、イノシシとかシカとかをドンドン殺していいわけじゃない。殺して申し訳ない気持ちと、命に敬意を払う気持ちは絶対に忘れるな。その上で、 殺して食うんだ。
分かった。
息子はもう一口サンドイッチを齧った。すると頭上に垂れ下がる木の枝から、昨夜の雨粒が息子のつむじに落下した。息子は素っ頓狂な甲高い悲鳴を上げて岩から飛ぶように立ち上がった。あわやサンドイッチを落とすところだった。父はその様子を見て笑った。二人はサンドイッチを平らげると、再び同じ木々が延々と続く道を進んだ。
遂に、イノシシらしきの足跡を発見すると、二人はそれを追跡した。登山道から逸れ、茶色い枯葉が地面に敷き詰められた森を行く。なるべく音を立てないよう、そっと足を踏み出す。が、枯葉が踏む音だけはどうにもならなかった。それでも、息子は音を立てないようゆっくり、ゆっくりと、最大限努力して歩いた。父との距離は開く一方だった。
やがて父は森の中をわずかに動く茶色い影を視認した。息子に姿勢を低くするよう、ジェスチャーで指示し、近くにあった岩を指差した。息子はそれに従って、父と岩の陰に隠れた。息子が岩から少し目を出すと、そこには一頭のイノシシがいた。のそのそと動き、その瞳が木漏れ日を反射して淡く輝く。動くたびに茶色い毛並みが滑らかに動く。父が連れ帰って来たものよりも大きい気がした。それは生きているからだろうか?
父が、岩の窪んでいる箇所に、ライフルを置いて固定した。ジッと息をひそめて、イノシシに狙いをつける。周囲の音が少しずつ消えていく。彼の瞳は、イノシシの体、上半身、そして頭部へと狙いを絞ってゆく。このイノシシを一発で仕留められるという確固たる自信が彼の中で徐々に組み上げられていった。後は引き金を引くだけである。しかし、息子が自分の肩を弱弱しく叩いた途端、そんな集中力と自信はいとも簡単に崩れてしまった。
何だ? と父は低い声で言った。あれ、と息子はイノシシの傍らを指差した。父がそちらに目を向けると、小さな別の茶色い影が5つ、ちょこちょこと動き回っていた。ウリ坊だな、と父。良くあることだ。父は再び、母イノシシに向けて銃を構える。すると、息子が尋ねた。
ウリ坊って、イノシシの子どもでしょ?
そうだな。
ママを殺しちゃったら、可哀そうだよ。
それに正面から向き合うのも、狩りってものだ。
でも、あの子たちはどうなっちゃうの?
イノシシに天敵はいないし、生きていける。
だとしても……。
いいか、逃げちゃいけない。お前は、いずれこういうことに向き合わないといけない。
でも、可哀そうだと思うんだよ……
父は息子の顔をじっくりと見た。心の底から、ウリ坊たちを憐れんでいた。そして、母イノシシを見た。確かに、彼は自分の生が動物の死によって成り立っていることを理解しなければならい。だが、ここで無理に狩りを強行して、嫌な思い出を残してしまうのは良くないのではないか? 彼はまだ幼い。彼の心の中に、狩りに対する悪いイメージを残してしまうし、それを行う父のイメージにも傷を付けることになる。
分かった。
え?
今日はやめよう。
本当?
本当だ。
二人はそっと、細心の注意を払ってその場を離れた。そして、元来た道を引き返し始めた。相変わらず、地面は湿っていて、空気はジメジメしていたし、行きと同じように二人は無言だった。しかし、それは重みを含んだ沈黙だった。登山道を抜け、アスファルトの道を下っていくと、軽自動車が変わらない姿で佇んでいた。父は車の後部ドアを開けると、バックパックやベストを元の座席に戻し、エンジンをかけて、アスファルトの道路を家に向かって辿って行った。苔の生えたトンネルまで来ると、息子が言った。
次は絶対に獲るから。
いいんだ。気にするな。
トンネルから車が出たそのとき、左側面に強い衝撃が走った。父はよろめきながらも、何とかハンドルを握り、車を制御しようと努めた。しかし、濡れた路面がそれを許さず、車は完全にコントロールを失い、凄まじい音と共に左にあったガードレールを突き破り、傍を流れる川に転落した。車の屋根は浅い川に浸かり、その四輪は空に向かって投げ出された。その傍を、よろよろと一頭のイノシシが横切って行く。後に残ったのは、流れが車にぶつかって砕ける音と、キュルキュルと車輪が回転する音だけだった。
数時間経って、「〇〇工務店」と書かれた一台の車が突き破られたガードレールの傍で止まった。中から一人の男が出て来た。男はガードレールから川を見下ろした。ピンク色の軽自動車が、川の上で完全にひっくり返っていた。男はガードレールを越えずに、色々な角度から軽自動車を眺めた。後部座席に人の手が見えた。赤く染まったそれがピクリとも動かないのを見て、男は後頭部を掻いた。マジか、と呟くと、彼は自分の車に赴いて、運転席のドアを開き、ダッシュボードの上からスマホを取る。電源を付けると、残りの電池残量がニ十パーセントであるとの通知が出た。男は再びガードレールのほうを見、しばらく経ってから、再びスマホをダッシュボードの上に置き、車に乗り込んでエンジンを再始動させて場を後にした。
妻にその報せが行くまで、二日を要した。
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