② 春

 春が訪れた街中で、ユナは黒猫が轢かれる様をたまたま目撃してしまった。丸々と太った黒猫が公園から飛び出したところを、ピンクの軽自動車が踏みつけたのだった。その瞬間、車はガタンと跳ね上がり、黒猫は桜の積もる路肩に弾かれた。車はすぐに停止した。数瞬の沈黙が場を支配した。ユナは恐る恐る黒猫に近寄り、その傍でしゃがんだ。それが死んでいるとは思えなかった。大きな外傷や汚れは見当たらず、その黒い毛並みにはまだ綺麗な艶が残っている。気の抜けた春の陽気がユナの頬をフワリと撫で、猫を優しく包んでいる。横たわっているアスファルトは年季と桜の花びらのせいで、淡くて柔らかな白に変わっていた。

 後ろで扉の開く音がした。ピンクの軽からベージュのニットワンピースを着た若い女性が降りてきた。女性の視線はフラフラと宙を彷徨った後、猫と傍らのユナに注がれた。女性は眉をひそめ、ウェーブのかかった茶色い髪の毛先を少しいじると、猫の傍でしゃがんでいるユナに口を開いた。「死んじゃってますよね、その子」バツが悪いような、自分の過ちを後悔するような、面倒ごとを憂うような、わずかな震えを伴った声だった。轢いたのは野良猫だった。

 アパートに帰ってくると、父がコーヒー片手にソファでテレビを見ていた。おかえり。ただいま。ユナは手を洗って、そのまま冷蔵庫に赴いた。うんと背伸びをして、自分へのご褒美として取っておいたチョコレートドリンクを最上段から取り出すと、ソファ前のカーペットに座り、ソファにもたれかかった。チョコレートドリンクをグイッと飲み干し、甘ったるくて、とろりとした舌ざわりを感じた。そんなに美味しくはなかった。そのまま、黙ってテレビのバラエティー番組をしばらく父と一緒に見ると、カーペットの上に仰向けで横たわった。いつもは元気なユナがなかなか口を利かないことに、父は少し違和感を持ったが、特に言及はしなかった。代わりに、上に新しい住人が引っ越してきたことを告げた。優しそうな若い夫婦だったよ。へぇ、とユナは気の抜けた返事をした。そして、ぼーっと天井を見つめ続けていた。テレビでは芸人が一笑いかっさらったところだった。観客の黄色い笑い声が部屋にどっと溢れる。それでもなお、ユナは天井を見つめていた。そしてこう思った。例え今、こんなに平和に見えるこの瞬間だとしても、上の階で夫が妻を、妻が夫をその手に掛けていないなんて、誰が否定できるだろう?

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