ACT4


「———旦那様、奥様......お帰りなさいませ」


 スカートの裾を摘みながら腰を折り、華麗なお辞儀を魅せる一人の女性。見た目は二十代後半だろうか...。というのも、細目ではあるが意思の強そうな瞳と肩までに揃えた艶やかな黒髪に、何とも言えない若々しさを感じたからだ。


 とまあ、そんな話は一先ず置いておこう。......それよりも着目すべき点が存在するのだ。


 それは、俺が使用人らしき女性に『旦那様』と呼ばれた事である。


 これの何が問題かと言えば、まず俺は『旦那様』では無いし、この館に来たのは今日が初めてだという事だ。カナさんはこの館の主だから『奥様』と呼ばれても納得がいくが、俺が『旦那様』である理由は無いだろう。


 そもそも、この女性は一体何者なのだろうか。その装いから使用人、もといメイドらしき人物なのだろうが......。


 脳内でグルグルと渦巻く疑問に、俺は無意識の内に思考という名の海へと体を預けていた。


 そんな俺の意識を思考の海から引きずり出したのは、少し吐息が混じったカナさんの声だった。


「────イザナ、大丈夫?」


 俺の拙い語彙力で表すのなら、まるで天使のような———。そんな美声が耳に届き、俺は咄嗟に意識を切り替えて返事する。────何だか、少し前にも同じ事をしたような......なんてデジャブを感じながら。


「────っ、大丈夫...です。はい」


「そう? ......それなら良いけど。でもまあ、状況の理解が追いつかないのは同感だね」


 そう言って、カナさんは目の前の女性———メイドをチラリと見遣ると、「コホン」とわざとらしい咳払いを一つし、それから一歩前に出て、その艶やかな唇を開く。


「あなたは、誰?ここで何を?」


 単刀直入に疑問を提示するカナさん。だが、メイドはカナさんの言葉を理解できなかったのか、「......?」と声にならない困惑を浮かべていた。


「あの、すみません奥様、質問の意図を計りかねるのですが......。旦那様、これは一体?」


 首を傾げ、少し自信なさげにそう言ったメイドは、助けを求めるかのように視線を俺に向けてきた。その姿と彼女の言葉に違和感を覚え、俺は半ば直感でカナさんとメイドの間に割り込む。


「———すまないね、妻は疲れているんだ、きっと何か勘違いでもしているのだろう。......気にしないでくれ」


「左様、でございますか。———承知いたしました。夕食の時刻まで時間がありますので、奥様はお休みになられてください。それと旦那様、数刻前にお客様が訪ねて来られましたので、客間にて対応を取らせていただきました。ご案内いたしましょうか」


「...あ、ああ、お願いするよ」


「承知いたしました」


 静かな動作を以ってお辞儀し、メイドはスタスタと歩き始めた。俺とカナさんも少し彼女と距離をとりながら続く。


「......イザナ、全く理解できないんだけど。なんで私が『奥様』で君が『旦那様』なの......?それに、なんかさりげなく話進めちゃってるし」


 現状への理解が出来ずに、少し不服そうに頬を膨らませてそう言ったカナさんが、横で歩く俺の脇腹を肘で小突く。だが、手加減を加えているのかあまり痛くはない。


 まあ、いきなりのことで困惑するのも仕方ないことだろう。———だが、困惑しているのはカナさんだけでは無いのだ。


「———正直に言えば、一番理解できてないの俺なんですよね......」


「......どういうこと?」


「いや、その......あのメイドさん、今日初めて会った人に対しての接し方してなかったじゃ無いですか。だから、何かあるんじゃないかと思って、即興で役を演じたんです。もしかしたらあの人から、カナさんの記憶について聞き出せるかもですし」


 洒落た照明と真紅のカーペットが高級感を漂わせる、広々とした廊下を先導するメイドさん。彼女に気づかれないように小声で、俺はカナさんにそんな説明をした。


「......一応理にかなってはいる、のかな」


「わかりません。これが最善の行動かと言われると、そうだとは言い切れませんし」


「まあ、仕方ないね。———それにしても、情報量の多さには参ったよ」


「ですね。俺も何が何だかサッパリで.....」


 そう言いながら、改めて現状を理解しようと思考してみる。


 館の中に『ミステリの間』という謎の扉があり、その中にはさらに館があった———仮にこの事を警察とかそういった類の機関に話しても、『この子は何かの病気だろうか』とか『ストレスで頭がおかしくなったんだな』とか言われて終わりだろう。まあそんな事はどうでもいいか。


 ———館には五つの『間』があり、唯一鍵の掛かっていない『ミステリの間』に入ると、そこには俺の事を『旦那様』、カナさんの事を『奥様』と呼ぶメイドが居た。そうして今に至る......。


 こうして振り返ってみると、随分と稀有な出来事が連続してるんだな、という実感が湧いてくる。


 ———『ミステリの間』なんて名前だから、この後殺人事件とか起きたり......いや、流石に飛躍しすぎな発想だな。いくら名前がミステリだとしても、実際に事件が起こるなんて事はあり得ないだろう。


「『ミステリの間』って名前なら、殺人事件とか起きたりして」


「———っ!?」


「......どうかした?」


 カナさんの透き通った瞳が俺を覗き込んできて、反射的に目線を逸らしてしまう。


「い、いや...全く同じことを考えてたから、少し驚いただけです」


 そう弁明すると、カナさんは「そっか」と何気ない様子で頷いた。


 そのタイミングで、先頭を歩くメイドさんの足が止まる。クルリと華麗な振り向きを魅せ、メイドは一つの部屋のドアを開ける。


「奥様、自室でお休みください。体調不良はなり始めに治すのが適策ですから」


「え....、っと────。そ、そうね、少し仮眠を摂るとするわ」


「承知しました。────旦那様、客間まで案内致します」


「ああ、ありがとう」


「いえ、業務ですので」


 淡々とした事務的な態度でそう言い、再びスタスタと歩き始めたメイドさん。そんな彼女の背を追おうとし、一瞬足を止めてカナさんに目をやる。


「────ええと、すぐ戻ってくるんで」


「うん。...有益な情報を期待してるよ」


「了解です」


 カナさんの期待するような目がどうにもこそばゆくて、俺は短く返してその場を後にした────。

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