ACT2
「君、だれ?」
ポン、と肩に手を置かれた感触がして、それと同時に聞こえた女性らしき人物の声。反射的に背後に振り返り、「うわっ」と我ながら情けない声がこぼれてしまった。
「君、だれなの?」
やはり女性だったその人物は、腰元までありそうな長い黒髪をサラリと靡かせて、一度目と変わらぬトーンでそう言葉を繰り返した。眠そうな目と肩からずれ落ちそうなダボっとした白ティーシャツ、そして生気の感じられない弱々しい声が、俺の思考に『幽霊』という非科学的な言葉を浮かばせる。......いやいや、幽霊とか、あんなのデマだろ......。
脳内でそう否定しながら、俺は「えっと」と半歩後退りする。いや何、別にやましい気持ちがあるわけではないし、自分がここに来た経緯を普通に説明すれば良いのだが、人というのは臆病な生き物で、いざ声に出そうとすると冷静さが消え失せてしまうのだ。
俺がうまく喋れずにあたふたとしていると、女性はそんな俺を見かねたのか、
「落ち着いて」
と柔らかな声で宥め、それからさらに口を開いた。
「あなた、名前は?」
先程と同じように、どこか人間味の無い弱々とした語気でそう尋ねられ、俺は冷や汗が背中に伝う感触に不快感を覚えながら何とか言葉を喉から飛び出させる。
「
「イザナ君ね。......君は、どうしてここに?」
重ねて質問する女性は、俺の顔を覗き込むようにして一歩前に出る。その距離の近さに顔を背けながら、俺は質問に答えようと思考を巡らせた。
「あの、実は、気がついたらこの館の近くにいて......。ここがどこなのかも分かんなくて、たまたま見かけたあなたに話を伺おうと」
舌足らずで曖昧な説明に我ながら内心苦笑をこぼし、このままではこの人に伝わらないだろう、ともう一度説明しようとしたが、どうやらそれは必要なかったらしい。
「なるほど......。それは、大変だったね」
「は、はい。自分でも状況が理解しずらくて......」
「でも」
そう切り出した女性は、小さく唸りながら顎に手を当て、何かを思考していた———と思う。俺にはそう見えた。
「少し、困ったね」
思考してからおよそ五秒後、閉ざされた口から放たれた言葉はそんな内容だった。その言葉に少しの驚きと疑問を感じ、俺は思わず口を出す。
「困った、ってどういうことです......?」
「ああ、いやね......」
女性は床に目線を落とし、頬を掻いた。何やら言葉を探しあぐねている様子にも見えたので、大人しく女性の言葉を待つことに。そうして、体感的に十数秒が経ったであろうそのタイミングで、女性は艶やかな薄桃色の唇を動かし始めた。
「その......。君は、自分がどうしてここに居るのかが、分からないんだよね?」
「あ、はい......」
「実は、私も似たような状況でね......?」
「似たような、状況?」
やけに気まずそうな顔つきで言った女性に、俺は無意識に言葉を復唱していた。間を開けずに、女性が続けて口を開く。
「だから、あの......。私、自分の名前以外、殆ど記憶がないんだよね......」
———なるほど、記憶がないからあんなに言葉を吃らせていたのか。まあ記憶がないなんて言っても普通は信じてもらえなさそうだし、仕方ないよな。うんうん......。
———ん?
訪れる静寂と浮かぶ疑問が、俺の脳内を駆け巡って止まらない。今彼女は何を言ったのだろうか、記憶が無いとは......。
「———記憶、喪失......?」
知らず、そんな言葉が口から飛び出ていた。勿論何の確証もないが、『記憶がない』=『記憶喪失』と脳が勝手に認識してしまったのだ。
「そうなるの、かな?」
当事者であるはずの彼女はやけに自信なさげに、言葉の最後に疑問符をつけて小さく苦笑した。
「え、でも、なんで......。というか、じゃああなたは、ここで何をしてたんですか」
「ん? ......この館が私の所有物だってことは覚えてたからね。他にも、私の名前は
簡単にそう説明すると、女性———もといシズミカナは微かに欠伸し、その眠そうな瞼を擦った。
......この短時間で俺が彼女に抱いた印象は、『マイペース』『幽霊』『端麗』の三拍子だった。いや、最後のは別に関係ないとしても、この人———カナさんは不思議な人だと感じている。記憶喪失だと認識しているのにやけに落ち着いていたり、俺の話に対する状況の飲み込みの速さだったりと、明らかに冷静というワードだけでは説明がつかないだろう現象を目の当たりにしたからだ。
俺の脳内でカナさんに対するやや否定気味な意見が生まれ、だがそんな俺をお構いなしに、カナさんは唐突に喋り始めた。
「君は自分がどこにいるか、なぜここに来たのかを知りたい、でも頼みの綱である私の記憶が曖昧だからそれは不可能になった。......さっきのはそういう意味での発言だったんだ」
「さっきの......ああ、『少し困った』って言葉ですか」
「うん。私も現状の理解があまり出来ていなくて、的確な助言ができないしね」
「まあ困ったのは君も私も同じなんだけど......」
そう付け足して、カナさんは微笑をこぼした。それはきっと、詰みな現状を少しでも和ませようという、カナさんなりの気遣いなのだろう。
そんなカナさんの優しさが温かく、それまで心を脅かしていた『知らない場所に居ることへの不安』だったりが、一気に消えていくのが自分でも理解出来た。
「———でも、君はこの館を出て歩き続ければ、人に遭遇したり交番に行けたりして、無事解決ではあると思うよ」
そんな、直前までの呑気さが微塵も感じられない的確な指示を繰り出したカナさん。その言葉に、確かにそうだと納得したのが半分、そしてもう半分は、それではいけない、という気持ちだった。
「ええと......あの、確かにそうすれば、俺は助かりますよね。でもそれじゃあ、カナさんはどうするんですか」
「......ん?そんな質問は想定してなかったね。でも、私のことは後にして、君の現状打開が最優先じゃないかな」
「いや、普通に考えて『迷子の男子高校生』と『記憶喪失の女性』だったら、絶対に後者の方が重要ですよ」
「それに」と、俺は間髪入れずに言葉を紡ぐ。
「仮に俺が外で助けてもらっても、カナさんの記憶は戻らない。カナさんのことを病院に連れて行こうにも、俺が助けを見つけてからだといつになるのか全く分からない。そんな状況でカナさんのことを放っておくってのは......流石に嫌です」
これは紛れもない本音で、記憶喪失の女性を放置して自分が先に助かるなんて俺には出来ないし、したくもない。
「でも、私の記憶の戻し方とか分からないし、それに君に迷惑がかかるよ?」
「......確かに、俺がカナさんと一緒にいても、別に何も変わらないかもしれません」
「だったら」
「———でも、一人より二人の方が知恵は浮かびます」
「っ。いや、でも......。」
「———だから、二人で考えましょう、解決策を。......俺は家に帰って妹の世話があるし、カナさんも記憶が戻らないと大変ですよね」
そんな俺の言葉に、カナさんはまた下に視線を逸らし、「えっと、その」と言葉を迷わせていた。———これでも一応、俺なりに心を込めて説得したつもりではある。だが、それでもカナさんは断ってくるかもしれない。
これは勘ではあるが、彼女は自己犠牲的な思考を無意識のうちに持っている。そんな気配が、これまでの会話の端々から感じ取れたのだ。自分より他人を優先する性格、それが彼女なのだろう。......損な性格、と称するのは何か嫌なのだが、まさにカナさんは損な性格をしてる。記憶喪失なんて恐怖以外の何物でもないのに、そんな状況で見ず知らずの俺を助けようとするのだから。
「......カナさん」
今も尚言葉を渋る彼女の名を、俺はハッキリと口にした。微かに息を吐き、喉を鳴らし、真っ直ぐな視線でカナさんを捉える。カナさんの視線がこちらに向き、必然的に両者の瞳が交差する。
そうして訪れるのは、両者の微かな呼吸音だけ———では無かった。
ポツリ、ポツリ、ポツリ。
水道の蛇口から漏れる水音のような、弱々しい音が耳に届く。その音は段々と強さを増し、気がつけば激しい音色に変化していた。
一体何が、なんて言わずとも、俺は瞬時に理解することができた。
「———雨、ですね」
「そう、だね」
玄関の分厚い扉が完全に閉まっていなかったために、雨音が部屋の中でも聴こえたのだろう。その扉の隙間から見える空の色が薄暗い黒雲で染まっていたことからしても、降雨に間違いはないと確信する。
「これで僕も外には出られません。どうです?」
天候は俺に味方した———そんな言い方をすればやや誇張しすぎだが、結果的に天候の変化に助けられたのは事実だ。現に、先ほどまで渋っていた様子のカナさんも、半ば諦めかけているのか、「はぁ」とため息を吐き肩をすくめていた。
「———ああもう、分かったよ。......但し、雨が止むまでね」
ぷい、と顔を背けながら言い退けたカナさん。その様子が面白くて、つい声に出して笑いそうになるが、何とか堪える。———俺は得体の知れない高揚感と道なる体験に、ほんの僅かではあるが心を弾ませているのかも知れない。
「期待しててください。......一緒に頑張りましょう!」
「......それなりに、期待しておくよ」
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