ACT1
春風が雑草をゆらゆらとざわめかせ、緑が生い茂った木々は葉の擦れる音で独創的な音色を醸し出す。まるで、ヨーロッパの広大な山脈に身を置いているような、そんな錯覚に囚われ———俺は朧げで曖昧だった意識を明瞭なものにした。
パチリ、と勢いよく瞼を開き、反射的に体を起こす。そうしてそのままぼうっと惚けること数秒、俺は自分でも驚くくらいに腑抜けた声で、口から言葉をこぼれさせた。
「———は?」
伸び切った雑草とかなり数のある木々、そして何より、それらに囲まれるようにして佇む一つの建物———具体的な数字で表す語彙力がないので感覚で説明すると、煌びやかな装飾の施された大きな洋館———が一際目立っていた。いわば、ファンタジーのような幻想的雰囲気が感じられる光景である。
そんな幻想的な光景を前にし、だが眼前の風景に身に覚えはなく、そもそも、何故自分はこの場にいるのかすらも非常に理解し難いのが現状だ。俺はこんな場所に来た覚えはないし、直前の記憶では家にいたはず......。
もしかしたら、最近流行りとされる『異世界召喚』というヤツなのではないか、と一抹の希望が生まれるが、それはそのすぐ後に聞こえた拡声器の声———恐らく選挙放送車からどこかの街の区長立候補者が、必死に己への投票を呼びかけているのだろう———に一蹴されてしまった。
......幻想的だと先ほどは称したが、前言撤回だ。変に人間クサイ普通の街並みの中に佇む異質な館、と改めよう。
閑話休題。
眼前に佇む洋館は、自分との距離がかなりあるように感じ取れた。庭らしき敷地を挟んで、およそ数百メートルはあるだろう。というのも、その庭という言葉が指すのは、碌な手入れが施されていない雑草が伸び邦題な敷地のことであるため、一見すると庭には見えにくく、俺自身『これは庭だ』とは断定できなかったのだ。
「かなりの広さだが......家主は居ない、のか?」
伸び放題の雑草に足を取られながら洋館に近づき、俺はそんな疑問を口にした。見たところ、外からだと人の生活感は微塵も感じられない。アメリカの映画に出てくるような裕福層の別荘、と言えばまだ聞こえは良いかもしれないが、言ってしまえば不気味以外のなにものでも無い、というのが本音だ。
そんな洋館に果たして家主が存在するのかすら疑問ではあるが、現状では判断できない。そんな結論に至り、俺は足を更に進めた。———丁度その時だった。洋館の入り口らしき場所に視線を移してみれば、そこに一つの人影を見つけた。
「人......だよな、今の」
遠目だったためあまり自信はないが、それでも女性らしき影が見えたのは確かだった。
そんな確信をもとに、俺は半ば反射的にその人影を追っていた———。
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結局、俺が玄関口にたどり着いた頃には、先の女性の姿は何処かへ消えてしまっていた。状況からして恐らく、この洋館に入ったのだろう。
「ここがどこなのかとか、色々と聞きたかったんだが......」
現在地や周辺の地区名、そしてこの館についてなど、現状では知りたいことが多くあったため、誰かに聞くのが手っ取り早いと考えての行動だった......のだが。
どうやら、この洋館に入るしかないらしい。というのも、今しがた抜け切ったばかりの荒れた庭をもう一度突っ切る体力は残っておらず、かといってこの場で何もしないわけにもいかないため、残った選択肢が『洋館に入る』のみだったからだ。
一応他人の家(想定ではあるが)であるため、衣服に付着した草やら枝木やらは振り払っておく。慎重な手つきで、豪華な装飾が施された玄関の扉をノックした。コン、コン、コン。単調な乾いた音が鳴り、だが反応はない。もう一度コン、コン、コンと呼びかけるが、またしても反応はない。
———あの女性がこの館に入っていたら、ノックに気づいて応答してくれても良い気がするが......。
「あのー、すみません、誰かいませんか?」
意を決して声をかけ、暫く反応を待つ。だがこれに反応はない。もしかしたら、あの女の人はこの館に入っていないのではないか。そんな考えが脳裏に浮かぶが、それは一瞬にして否定される。何故なら、その女の靴跡らしき痕跡が玄関前の地面で途切れていたからだ。
「確かにこの洋館に入ってるはずなのにな......」
意図して反応をしないのか、それともただ単に気が付いていないだけなのか。いずれにしろ、ひとまずは中に入ってみるのが適策だろう。そう考えて、俺は玄関の金のドアノブに手をかけた。
装飾の数からして薄々予想はしていたが、扉はかなり重く、体全体を使って押し込むことで漸く、僅かに開いた。その僅かな隙間に体を潜り込ませ、何とか中に入る。
中を見渡してみれば、遥か上の天井に備え付けられていたシャンデリアの眩い光に目が眩みそうになり、思わず眉を伏せる。少しして、目が慣れてから再び周囲に目を向ける。
———外見にそぐう豪華絢爛な館だな、と直感的に思った。それと同時に、随分とおかしな設計だ、とも感じた。というのも、シャンデリアが備わった天井の高さが外で見た屋根の高さとあまり変わらない気がしたのだ。恐らくこの館に二階三階といったフロアは無いのだろう。......豪華な館なのに、一階しか無いなんて有り得るのだろうか。
天井の件についても疑問はあるが、何より群を抜いて違和感を感じたのは、俺の位置から五十メートルは離れているであろう場所......否、正確に言えば部屋の入り口のような扉だった。その扉は壁に嵌る形で備え付けられ、恐らく壁の向こうに行くためにつけられたのだと思う。館の天井にまで届き、およそ三十メートルはあるだろう壁が、正方形の部屋を形成しているのだと、何となく理解できた。......だが、肝心なのはそこでは無い。『洋館に入ったらすぐ目の前に巨大———縦横三十メートルほど———な壁があって、その壁には通常サイズの扉が備わってました』なんて現象も十分おかしい、というか奇想天外だが......その壁がさらに左右に二つずつあるのだから、驚きを隠せない。
「何だ、これ......」
目の前の光景に理解が追いつかず、驚愕と困惑の入り混じった言葉がこぼれた。
「館の中に、巨大な部屋がある......?いやでも、なんで......?」
一体どんな意図があっての構造なんだろう、五つの部屋は何を意味するのだろう。そんな疑問が自分の中で率直な好奇心に変わるのが理解できた。そしてその好奇心のままに一歩踏み出し、壁の前まで足を進める。
「っ。高いな......」
首を真上に傾けて漸く壁の全体が見え、その高さにポツリとそう呟いた。遠くから見た時はただ単に高い壁だと思っていたが、いざ目の前に直面するとなると、また違った感覚———言葉にするのなら『圧迫感』らしき感覚———に襲われ、自分がここにいるという存在証明を否定されるような気持ちになってしまう。
そんな心情を振り払おうと顔を左右に振り、改めて壁———正確には扉———に向き合い、そのドアノブに手をかける。金の塗装に何やら龍の模様が刻まれたドアノブを捻り、扉を開けようとして......。
「君、だれ?」
背後から、女性の声がした。
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