神隠し

 正しい道を辿っていたはずだけど、いつのまにか道を外れてしまっていたらしい。

 私が調べて出てきた廃ホテルは、なんというか、恋人たちが行くところで、少しだけ煌びやかな香りが残るような場所だった。

 だから、私はまた変に意識してドキドキしていたんだけど、今目の前にあるものは、比較的簡素な様相で、ビジネスホテルというような印象を受ける。

 階数も違う。例の廃ホテルは四階建てくらいだけど、このホテルはぱっと見で八階くらいある。


「どうしたのー? やっぱり怖いー?」

「……あ、ううん。その……」


 ここは違う廃ホテルだよって言うべきだろうか。

 というよりも、そもそも、ここまであからさまに場所を間違えるものだろうか。

 あまり深く調べてなかったにしても、このレベルのドジをするなんて、流石にありえない気がする。彼方ちゃんは温厚おっとり系だけど、天然ドジっ子ではないのだ。

 だとすると、わざとこの場所を選んだということになるけど、それならそれで余計分からなくなる。噂もなければ人気もない、こんな廃ホテルに一体何の用があるというのか。『スタンド・バイ・ミー』の探検にだって死体探しという名目があった。

 でも、どちらにしたって神隠しの噂は真実じゃないんだし、どこに行こうと同じことなのかもしれない。それなら……。


「……やっぱ怖い、かも? 例の噂だってあるしさ。あ、でも大丈夫。彼方ちゃんがいるから、平気!」


 考えていることを悟られないように、私は精一杯の愛想笑いを浮かべた。

 家で練習しているおかげか、最近は前より表情筋が動くようになってきた気がする。

 これならきっと、彼方ちゃんには何も疑われずに安心してもらえるはず。

 ……だけど、彼方ちゃんの反応は、私の期待とは裏腹で——。


「……嘘」


 彼女は冷たく突き放すような低い声で、突然、そう呟いた。

 その一瞬、彼方ちゃんの柔らかい笑顔は消えていた。

 初夏の暑さに似つかわしい冷たい風が吹いて、頬を掠める。


「……え?」


 私は困惑して、その場に立ち止まる。

 ……「嘘」って、なんだ。

 私が怪異を怖がっていること? それとも噂の真相について知らないふりをしていること?

 さっきの愛想笑いは今まで一番良くできていたはずで、声のトーンだっておかしなところはなかったはず。

 彼方ちゃんは何が引っかかったんだろうか。


「今、なんて……」

「……なんでもないよー。やっぱ真秀ちゃんが言ってた通り暑いねーって」


 動揺している私をよそに、彼方ちゃんがいつも通りの微笑みを見せる。

 確かに、ここまで歩いてきて暑いとは思っていたけど、そうじゃない。

 今、彼方ちゃんは確実に何かをごまかそうとした。

 私は恐る恐る追求する。


「う、嘘って——」

「どうしたのー、叶望。そんなに怖いなら、私が手を繋いであげるよー」


 しかし、彼方ちゃんはそれを無視して、食い気味にこちらへ手を差し出してきた。

 そしてニコニコしながら、至近距離に近づいて、私の手に指を絡ませる。


「……っ!」


 私はそれを、反射的に振り払ってしまった。

 いつもだったら、恥ずかしさに紅潮しながらも、結局手を繋いだままでいただろうに。むしろ、手を繋いだままでいたいって、思っていただろうに。

 なぜだろう。今までは三人の中でも一番親しみやすいと思っていた彼方ちゃんに、少しだけ恐怖を感じてしまった。しかも、それは漠然とした恐怖じゃなくて、私の中である一つのイメージを形成している。

 これは、知らない人から距離を詰められる恐怖だ。いわば不審者に声をかけられるような。

 ホラー映画で喩えるなら、主人公が話しかけた友人が、友人に扮した悪霊だったときのような感覚。

 私は手を振り払ってすぐに、彼方ちゃんの瞳を見遣った。


「……どうしたのー?」


 私の急変した態度を見ても、彼方ちゃんは微動だにしない。

 見た感じ、何かが取り憑いているようにも見えない。素の彼方ちゃんだ。


「……手汗、すごいから……気持ち悪いかな、って」

「わたしは気にしないよー」


 私は自分の友達である三人のことをあまり知らない。それでも、彼方ちゃんには不思議と心を許せていたし、相当なことがなければそれは揺るぎないはずだった。


「……」


 だけど、今の彼方ちゃんは、半分知り合いで、半分知らない人みたいな感じがする。


「……まー叶望はわたしがいるなら平気、なんだよねー?」


 彼方ちゃんが少し顔を赤くして、頬をかきながらそう言った。嬉し恥ずかし、という様子。さっきまでの冷たさや違和感はどこにもない。

 彼方ちゃんがいれば平気というのは嘘ではないし、そんなふうに反応してもらえるのは嬉しいんだけど……。

 ほんの短い間の出来事だったのに、彼方ちゃんのことがよく分からなくなってしまった。


「それじゃあ、行こうかー」


 神隠しとか関係なく不安が残るけど、彼方ちゃんが私をこの廃ホテルにつれてきた理由を探るためにも、私は彼女についていくことにした。

 開け放たれたままの自動ドアを通り抜けて、朽ちたエントランスが私たちを迎える。


「おー、良い感じに不気味だねー。これなら本当に神隠しが起きてもおかしくなさそうー」


 彼方ちゃんの楽しそうな声音が、空虚なホールに響き渡る。

 建物内はあまり乱雑に物が散らかっているわけではなく、ただ年数を重ねて劣化しているように見受けられる。

 白い壁は灰色に燻んでいて、薄暗い。

 西日はあまり入ってこないみたいだ。

 廃墟や心霊スポットでありがちな落書きは今のところ見当たらない。


「なんだかB級ホラー冒頭でやられる若者になった気分だねー」


 それはちょっと分かる。

 ビデオカメラなんかを携えていれば完璧だ。


「ねー、叶望は神隠しって誰の仕業だと思うー?」


 受付の中を探りながら、彼方ちゃんが私に問いかけた。

 神隠しなんて本当はないことを、きっと彼女は知っていると思う。それでもそんなことを訊いてくるのは、沈黙して気まずくなってしまわないようにするための配慮だろうか。

 そうだとしたら、彼方ちゃんが何を考えてここに来ていようと、彼女が優しい人であることには変わりない。

 だから、私は普段通りに応答した。


「……狐かな。神隠しっていうと、なんとなく稲荷神社のイメージがあるから」

「だよねー。改めて考えると、神社以外の場所で人が消えるのは、神隠しっていうよりも、普通に行方不明って感じがするかもー。案外、神隠しの噂も本当はただの行方不明で、今頃消えた人たちも見つかってたりねー」


 ……今のはわざとだろうか。

 でも、彼方ちゃんの表情を覗いても、何かを企むような素振りは見えないし、声音からもいつも通りの緩さが感じられる。

 エントランスの捜索を終えた私たちは、階段で二階の客室廊下へと向かった。


「——でも、人を攫うっていう点でいえば、狐とか日本の妖怪だけじゃないよねー。さっき話した『NOPE』とかスピルバーグの『未知との遭遇』みたいに、地球外の何かってパターンもあるしさー」


 ……彼方ちゃんの動きには一挙手一投足おかしな点がない。普通に友達と廃墟に探検しに来た女子高生だ。……いや、よく考えてみれば女子高生が廃墟で遊ぶこと自体おかしなことなのかもしれないけど。それでも、彼方ちゃんが彼方ちゃんらしい振る舞いをしていることは確かだ。

 ……とはいえ、何となく、私はどこかへ誘導されているような気がしてならなかった。

 二階の客室廊下を見渡すと、幾何学模様の絨毯が敷かれていた。奥には先が見えない曲がり角がある。

 私はそれを見て、キューブリックのホラー映画『シャイニング』を思い出した。

 それは彼方ちゃんも同じだったみたいで、「二三七号室ってあるかなー」と楽しそうに呟いていた。

 二三七号室は、あの映画の中でも四番目くらいに有名な恐怖シーンが繰り広げられる部屋で、続編的な位置付けの『ドクタースリープ』や、スピルバーグの『レディー・プレイヤー・ワン』にも登場している。

 廊下を歩いている最中、私たちはこうしてまた映画の話をしていた。

 こうやって自分が好きなものを話題にするときは、不思議とさっきまで感じていた不安が和らぐような気がする。


「あっ」


 曲がり角の先で彼方ちゃんが何かを見つけたらしく、声を上げた。


「……二三七号室、あった」


 どうやら、冗談半分で言っていた二三七号室を発見してしまったらしい。

 別に、二三七号室といっても、他の部屋と何ら変わりはないように見えるけど、その数字が横並びになっているだけで、なんだか禍々しい空気が漂っているような気がしてならない。

 『シャイニング』みたいに浴槽に美女がいて、その美女が近づいてくるや否や恐ろしい老女に変身する、なんてことはないだろうけど、人知を超えた何かが待ち構えている予感がする。


「…………」


 私たちは扉の前でじっと立ち尽くしている。

 私は映画の内容を思い返しているだけだけど、彼方ちゃんは何を考えているんだろう。

 彼方ちゃんはどこを目指しているんだろう。

 心臓を中心に広がった不安が、全身の血液を冷やしているような感覚がする。


「…………できた」


 視線を部屋番号にまっすぐ据えた決意の表情で、彼方ちゃんがドアハンドルに手をかける。


「できたって何が……?」

「……まー入れば分かるよー」


 やっぱり、彼方ちゃんは私をどこかに連れて行こうとしていたらしい。

 そして、この扉の向こうが本当の目的地。

 私は警戒して一歩引き下がり、彼方ちゃんが扉を開くのを待った。

 彼方ちゃんは「そうなるよねー」と分かっていたように苦笑すると、ゆっくりと私を焦らすように扉を開いた。

 ギィと軋む音に、私は生唾を飲んだ。

 そして、恐る恐る部屋の中を覗くと——そこは正真正銘、二三七号室だった。

 つまり……『シャイニング』と全く同じ部屋だったのだ。


「うそ……」


 私は絶句した。

 ミントグリーンの部屋の奥には浴槽があって、その中で裸の美女がシャワーを浴びている。

 映画を通して何回も見てきたあの光景が、今、自分の目の前にある。

 彼方ちゃんのことで感じていた恐怖や不安をよそに、憧れと好奇心が大きくなって、私は吸い込まれるように部屋の中へと足を踏み入れた。


「どうー?」

「どうって……どうして……」


 普通の人なら脱兎のごとく逃げ出したくなるシチュエーションだけど、私は違う。

 私は幽霊や化け物といった人でない存在を好意的に感じていて、親近感すら持っている。

 彼方ちゃんはまるでそのことを知っていたみたいだ。

 それから私は劇中のジャックみたいに、浴槽から出てきた美女へと引き寄せられ、抱きかかえられた。

 意識がどこか遠くへ飛んでいく感覚がする。

 どう考えても異常事態だけど、私は恍惚とした表情を浮かべてさえいた。

 ……そんな私に、彼方ちゃんがふと声をかける。


「……ごめんね」

「………………え」


 ——その唐突な謝罪の言葉が脳内を巡って、私は我に帰った。

 あれ、私……。

 そうだ。どう考えても異常事態だ。さっきまで廃墟を探索していただけだったのに、どうしてこんな摩訶不思議な現象が起きているんだ。

 そうして、私は自分の体にしがみつく美女の姿をもう一度見遣った。

 ……すると彼女は映画に出てきた通り、世にも恐ろしい老婆の姿に変貌していた。


「……!」


 その衝撃に面食らって、腰が抜けた私はその場に倒れ込んでしまった。

 そして、意識が朦朧としていく。

 一体なんなんだこれは……。


「彼方……ちゃん……」


 彼方ちゃんに助けを求めるも、返事がない。

 視覚と聴覚が段々と薄れていく。


「…………これで、いいんだ」


 ……視界が真っ暗になる直前に、微かにそんな声を聞いたような気がした。

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