第11話 - 過保護と遅延
袈裟斬りに近い角度で振られた切っ先の軌道に沿って、左上から右下へ斜線を引くように断裂された追跡者は、荒いアスファルトへ巨躯を沈ませた。死にかけの形相は初対面でも分かるものなのだな、と、どこか他人事めいた眼差しで、大小無数の泡を弾けさせては力なく収縮する様子を眺める。点々と散った、血液代わりの黒い水溜まりも、地表へ抵抗なく吸い取られていく。もう大丈夫か、と安心してしまえば、階段ダッシュを決めた疲労が遅れてやってきて、たまらず地面へ腰を下ろした。いつの間にか吹き始めていた微風が、汗で濡れた肌を冷やしていく。体育座りの維持も苦しくて、結局大の字になった。肺が酸素を取り入れようと膨らんでは萎む運動を、肉越しの上下運動で理解させる。
「静かに、なったな?」
振り落ろす間際まで頑なに耳を塞いでいた彼が、まだ納得の行かない顔で呟いた。見当違いな方面も含めて、周囲をきょろきょろと見ているから、本当に見えていないのだろう。
「ゲホッ、あー……うん。ソレ、もう元気なさそうっス」
「……ハー……。変な感触だった……」
鉄パイプを放って、ヤンキー座りの体勢を取ると、少しばかり年が若く見える。雑に頭を掻く仕草で、尚のことに。
「ヘヘ、無茶させちった。ごめんねセンセ」
突然の注文を疑わせる余裕すらなく、失敗すれば一番危険な所を担わせたのは自分である。苦笑して謝ると、項垂れていた面がこちらを向く。厳しく眉根を顰めた表情に思わず強張ったが、不機嫌そうな口から出てきたのは、想定外の言葉だった。
「何言ってる、無茶はお前の方だろうが! 怪我は!」
「……へ?」
ずかずか近寄り、寝そべったままのオレのすぐ側で、膝立ちに腹立ち顔のまま、目視で全身を確認される。
「見た感じ、出血はないようだが……」
「だ、だいじょぶ、疲れただけ! ヘーキ!」
「お前の平気は信用ならん!」
「ひでえ!」
大体いつもどうたらこうたら、あの時も喧嘩してそのまま帰って化膿するわでなんちゃらら……と、中学時代まで引き合いに出したお説教が始まってしまった。担任という生き物は、生徒が卒業しても驚異の記憶力を発揮する生態を持ち合わせているらしい。心配が根源と知っているために、下手に反論する気にもなれない。こういう時は、嵐が過ぎるをひたすら待つのが賢明だ。
ふと、逃げるように空へ巡らせた視線が、人影を捉える。
アパートのどこかの階層に立っている、逆光で塗りつぶされたシルエットが、三つ。短い髪のハネ方から、中央は狐塚らしいと分かるが、その左右へ対になって立つに姿には心当たりがない。眩しさに目を擦って顔を上げ直すと、像は一つに減っていた。階段へ向かって歩く一つ以外に、誰もいない。
「今のは……」
「コラ、聞いてるのか!」
「ぎゃあッすんません聞いてないっス!」
「正直か……。……?」
不意に、相手の言葉が途切れた。漫才の風体を成し始めた強制二者面談には、満足したのだろうか。
「……さっきの奴は、もういないんだよな?」
「ん? そのはずだけど、」
訝しむ声に、腕をついて体を起こすと、収縮していた化け物が妙な動きをしている。煮立った鍋の水面とも錯覚する隆起が次第に大きく膨らんで、二等分される前の姿へと回復しようとしていた。
「――嘘だろ、治ってきてる」
魔女の鍋を覗き見ている心地だ。決して混ぜてはいけない材料を注意書きも読まずに投入して、用途も判然としないダークマターを作り上げているような。風呂場の洗剤ですらあんなに大きく混ぜるな危険と書いてあるのに!
「道理でまた賑やかになったと……!」
一度は捨てた武器の方へ間髪入れずに駆け出した彼を遅れて追わんとしたその時、湧き出た泥の一塊が、教師めがけて打ち出される。弾丸の如き粒から、布を空中で広げた形へと展開した黒は、もはや深海魚の口のようだ。
危ない、避けて!
たった少しの言葉が喉から出るより早く、瞬きのうちに視界から背中が隠される――筈だった。
紫の霧が足元を奔り、撹拌の真っ最中な化け物の核と、腕に擬態した出来損ないを纏めて包み、粒子の隙間すら漏らさず点へと濃縮させた。多少の距離があるここから見ても、小指の爪ほどもない球が、す、と滑り、音もなく降りて来ていたらしい狐塚の人差し指と中指の間に挟まれた札へと、あっという間に吸われていく。新人たちのピンチをフォローし終えた彼は、お釣りで受け取った金額を確かめるようにそれを一瞥してから、スラックスのポケットへとねじ込んだ。長い脚を惜しみなく使った、軽快な歩みでこちらへと近寄ってくる。
「ご苦労さん、こいつで一件落着よ」
屈託ない笑みで、最後のいいとこ取りだけされたこととか。
そもそも自分たち二人の対処は間違っていなかったのかとか。
さっきの霧はどういう物だとか。
それから、アンタは一体何者だとか。
色々と詰りたい項目は積み上がっていたが、ひとまずは。
「「遅い!」」
この一言に尽きた。
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