第10話 - エポック・メイキング

 体幹を意識して、可能な限り傾きがないよう重心を調整し、拳一つ分だけ前後に間隔を空けた革靴の裏で、掘り出し物のボードをしっかと踏み締める。中学時代の部活に影響を受けている体勢をどうにか保ったまま、長い階段の手すりを滑っていると、焦りでごみごみとしていた視界が、段々とクリアになってきた。直角のカーブが二連続な曲がり角では、鉄とアルミ塗装のボードとが競り合って容赦なく火花を散らす派手な演出すら、いっそ煩わしい。振り返る余裕はないが、絶対に背後に「いる」という確信はあった。視界の端に時折ちらつく触手めいた切っ先も根拠の一つだが、もっと本能に近い場所で理解している、奇妙な感覚だ。

 八階、七階、六階。いける! と、思った時に難関が立ち現れるのはお約束なのだろうか。古びているとはいえ、その強度へ一定の信頼を置いていた一本道が、背後から伸びた黒に抉り取られてぽっかりと穴が開き、ワイヤーアートのように前後がねじれてしまった。凹凸まではすぐそこ、ナビアプリなら案内を終了されているレベルの直近だ。

「待て、待て待てウッソだろバカ……ッ!」

 よくある話である。木登りで登ったはいいが、降りれはしない初心者、あるいは子猫。それとすっかり同じに、搭乗やカーブは紙一重に習得しても、安全な脱出方法を体得するには、何度も降りる練習をしておくことが必要だったと今更知るが、本日二度目の時既に遅しタイムだ。

――無理だ、ぶつかる!

 波打つ線にボードが弾かれ段差へ身体が叩きつけられ、駆け下りてきた訳の分からんデカブツに轢かれて木っ端微塵。こんな状況だというのに優秀な脳内シュミレーションが錯綜するのが憎らしく、我ながら大層感服する。

 両目を強く瞑り、衝撃への覚悟を決めた。

 括れた銀色が禿げた塗装に乗り上げる。

 膝に乱れた振動と、不可逆なバランス崩壊。

 次は落下――その一番無様で、転機として大きいはずのフィルムのコマが、いつまで経っても映されない。代わりに、誰かの腕に抱えられているような。いや、そんなはずは――

 目を開くと、短い黒髪の後頭部が見えた。

「へーぇ、玩具を利用するたあねェ」

「……その声! 狐塚!」

「アレ? おれ、呼び捨てにされてたっけ?」

「あ、いけね。えーっと、狐塚サン!」

「なはは! どうぞお好きに呼んでくれや」

 予定とは違って、両足の裏で丁寧に階段へ着地する。一段下に立っている彼の紫色の瞳を見返した。

「あの……あざっした。けど、アレってそもそも倒せるんスか」

「倒せると思えばな」

「思えばぁー?」

 トンチを披露されたくて投げた問いではなかった。どこかへ弾けていなくなったスケボーデッキは頼みの綱から消えたので、あとは自分の脚力と、待機しているはずの鉄パイプであの化け物に対処する必要があり、そもそもこれが正攻法だという保証もないから聞いたのに。不満を顔へ出せば、やはりからからと毒気なく笑われた。こちらは必死なので、ぜひとも笑わないで頂きたい。

「バケモンも妖怪も神も仏も、ぜーんぶ、人間が信じたように形作られてるってこった。それこそ、強く想えば懐うほどにね」

「……殴れないって信じたら、殴れないってこと?」

「そら。奴さん、そろそろ動くぜ」

 慌てて振り返ると、眼玉蠢く墨色の塊は、暗い紫の煙か霧で全体を包まれていて、抜け出さんと藻掻いている。もちろん、己で張った罠なんて一つもない。だとすれば、紫の猟師は。

「どうしたお嬢ちゃん。走るんだろ?」

「アンタ、キザっスね」

 べ。舌を出すと、今度こそ可笑しそうに哂っていた。

 まろび縺れかける足を叱咤して階を降り始めて一分もしないうちに、離れかけていた存在が脈動を再開したことを肌で感じた。どこまでも加速しようと思えばこなせてしまった臨時の交通手段が旅に出てしまわれたので、現状のリーチが埋まる前に出口へ辿り着けなかった瞬間、逃げ場も左右の幅も僅かなステージで、自分の負けは確定する。こんな過酷な職場体験、いや、内定者研修あるか? 生命の危機にさらされる体験会なんて、世界のどこにもあってたまるか。

「ぜってー勝つ」

 もはや意地に近いが、それでも良し。発端をほじくり返せば、追ってきているのは害成す蠱毒ではないか。大義名分は我にあり。足を掬おうと差し伸べられた腕の一本を、手すりへ体重をかけて地面を蹴りながら滑って躱し、手が火傷をする前に着地する。イメージが四肢に馴染む疾走感と、止まった空気に分け入っているために風が吹いているかのように感じられる皮膚の感触が、高揚を促進した。

 最後のコーナーを曲がると、本当に鉄パイプの先を地面につき、こちらを待ち侘びている教師の姿が見えた。

「センセーっ! 今! オレの後ろにいっから! 斬って!」

「雑な指示だな!」

「可愛い生徒を信じろ教師ーッ!」

 交差まであと数秒。確定チャンスは多分ここだけ。

「……身長! 体格! 狙い所は!」

「二百強! かなりの肥満で、抜き胴一択!」

 自分とセンセの髪が真横ですれ違って触れた刹那に、中段の構えから見事に一本。かくして、訛りのない剣筋で、剣道部顧問は黒塊を一刀両断したのであった。

 ただし、真剣ではなく、鉄パイプで。

「はは、マジでやった……」

「お前がやらせたんだぞ!」

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