第9話 - ナントカは高い所がお好き

 俊敏なアメーバのごとく体の一部を伸ばした黒の先には塵のみが舞い、標的となっていた人物は虚空をひらめいて、一つ上の階へと華麗に着地した。尋常ではない身体能力と、あと三歩近くにいたら間違いなく巻き込まれていたであろう突然のエネミーの登場との合わせ技に、一瞬思考が固まる。床を舐める泥から泡が弾けて生み出された幾多の眼は、ぎょろぎょろとてんでバラバラに球体を動かしていた。

「――な、っ」

 確実に危険な、絵に描いたような不細工なナニカの瞳が一つ、二つとこちらを捉えた後は、視線が一斉に大集合だ。反射的に飛び退いた足元の床には、謎の生物特製のクレーターが完成している。右耳を右手で抑えて眉を顰めるセンセから硬質な声をかけられたのを合図に、四階に残された二人で階段へ向かって駆け出す。

「ななななな何あの気持ち悪い奴! キモ! 目玉多ッ!」

 盗み見た澱みは、先程の辺りで緩慢に蠢いているが、素早く動けると知った今は、遅い素振りにも安心していられない。

「目? そんなのあるのか、……っ!」

 会話する二人の間の余白を、穢れから伸ばされた腕が鋭角で突く。ヒュ、と軽やかな音が遅れて鳴り、風圧でうっかり血が出そうだった。足を止めたら即ゲームオーバーだと、勘を働かせずとも容易に理解させられた。

「センセ見えてねえのーッアレーッ!」

「やたら喚いて五月蝿いのは分かる! というかずっと鳴ってただろ!」

 階段に向かって全力疾走しながら、半ば叫び混じりに会話している様子を外から見たら、きっとコメディアン顔負けの滑稽さだったことだろう。しかし、命の危機に瀕している当人たちは、どこまでも真剣だ。

「ぎゃ、くにそんなん聞こえな……っとぉあッつ!」

 カチカチ山の狸よろしく、背に火が付いたかと錯覚させられた熱さに飛び上がると、上方で「おーい」と言いつつ手を振っている狐塚が、手すりに片腕をかけながらこちらを見下ろしていた。映画スタントばりの動きから一転した呑気なモーションを、正直なところ、あらんかぎりの力で思いっきり叩き落としてやりたい。

「ソイツが思念の残りカスだー、アパートを標的にしていた犯人とかの置土産ー」

「安置で寛いでんじゃねェーッ!」

「なはは、本当にヤバくなったら助けてやっからなー」

「クソっ、めちゃくちゃだ……!」

 声が届くようにだろうが、間延びした声すら煽っているように感じてしまう。間もなく階段へ到着して、上へ駆け上がった所で並んでいた肩が無くなった。ただし、背後の気配はまだついてきている。これはもしかしなくても、転んで落ちた日には。

「馬鹿ッ! 上は逃げ場ないだろうが!」

「先に言えや先公ーっ!」

「言葉遣いには気を付けろ単細胞!」

 時既に遅しとはまさにコレで、下から投げられる叱咤も今は役に立たず、右足と左足を交互に振り上げる運動を繰り返すしか生き残るすべはない。あっという間に最上階へたどり着いて、廊下に飛び出し、随分と通気性の良い、もっと正確に言うならば扉が吹き飛んでいる部屋へ転がり込んだ。健脚が功を奏し、視認する範囲には黒が追ってこないうちに避難できた……と、思いたい。息を潜めて出口に待機されていたら、それこそオレはゲームオーバー。相手の知能の程度も未知数な現状では、あまりにも分が悪い危険な賭けだ。

 ベランダから階下を見下ろすと、自分とは逆に、こちらを見上げている姿がある。裸眼視力が優秀な民の特権である。ポケットへ忍ばせていた端末の電話番号からチャットを呼び出し、生徒の頃に入手した、某教師のアドレスへとメッセージを飛ばす。

『今最上階。変なのもいっしょ。下は多分安全』

 送信ボタンをタップしてから、一分と経たずに返信が来た。

『降りてこい。足場を考えても、下で対処するべきだ』

 端末の画面を開いたままにして、前住民が使えそうな荷でも残してやいないかと物色する。全力疾走から突然止まったからか、心臓が送り出す血液の量に戸惑った頭が朦朧とするし、身体の芯も沸騰している。焦りもそれを手伝っていると分かるからこそ癪である。

 瓦礫の山のような品々をかき分けていると、硬い板の感触がある。引き抜けば、これまた古い品であるが、漫画やゲームで見た覚えのあるアイテムだ。

『厳しいならこっちから行くぞ』

 その一文を受信したと同時に、廊下を塊が通り過ぎていく様子を横目で捉えた。やはり、こちらが室内にいるとは思いつかなかったらしい。敵の知能の低さに感謝しながら、手早くフリック入力を進める。

『なんか殴れるの持ってる?』

『鉄パイプでいいか』

 即レス。それにしてもなんとまあ、どうしてナチュラルに鉄パイプを拾ってんだ。そういう所――

『最高! すぐ階段降りるから構えてて』

 返事を見る前にスーツの胸ポケットへ端末をねじ込んで、掘り出し物を脇に抱える。足は捻ってない、疲れはあるがまだいける、息もそれなり整った。あとは、運と自らの運動神経を信じてみるしかない。神様も仏様もいるかどうかは知らないが、どうやら閻魔様はいるらしいので、雑に南無阿弥陀仏を唱えて室外へ飛び出した。

 意図的に音を立てて入手したばかりの道具を床に落とし、右足を乗せる。振り返った瞳が目視したのを確認して、先程まで登ってきた階段を下がるべく飛ばした。

 何をって? そりゃあ、発掘したてのスケボーを。

「乗りこなせなかった日にゃ、冗談抜きでお陀仏だな……!」

 重心を捻って手すりへ乗り上げ、上から見て横長になったスケボーデッキを足場に、化け物との速さ比べが始まった。

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