第8話 - 仕様期限切れアパート

 全開にした車窓の枠が、さながら額縁の風情をもって仕立て屋の軒先を囲っているのがどこか物寂しくて、鉄の馬から見える限りに辛抱強く見送った。来店前に着ていたラフな洋服一式は紙袋へ詰め込まれ、一対の太い紐がついた直方体の上面に、ジーンズの生地であるデニムの解れた裾の部分が露出している。


「ちぇっ。帰れると思ったのにぃ」

「拵えで終いとは言わなかったろ?」


 鼻歌でも歌いかねないくらい楽しげな、斜め後ろから見える横顔には影が薄く、曇天の雲合いが陽を均等に散らせていた。ガラスを下げたままにしている窓に腕をかけ、ぼんやりと頬杖をついていると、向かい風となったビル風が涼を届けてくれる。


「狐につままれた、とはこういう気分でしょうかね」


 有休を丸ごと一つ潰した教諭は、趣味で読書を嗜む人だった。理科の中でも特別に生物を好いていて、医学にもそこそこ知見があるらしい彼の職員室の机には、遠藤周作の『海と毒薬』が不気味に平積みされていたから、昔に借りて読んだことがある。結果、エーテルという単語に敏感になったので、ファンタジーのエーテルですら警戒する自分が爆誕した。少しだけ恨んでいる。


「嘘と黙秘は紙一重、ってなァ」


 そのまま言葉遊びに興じているように映る男性陣は、その実、片一方が遊び、一方が遊ばれているに過ぎない。ほぼ初対面でもこういったやり取りが気軽に出来るというのは、やはりそちらの性別特有のコミュニケーション能力だと節々で感じるし、少しだけ、羨ましくもある。彼らを視界から外し、流れゆく景色をぼんやりと眺めていると、隣人の掌がぽんと頭に乗せられた。指輪などの飾りがない、無骨で大きな手だ。


 センセは時々、心を読んだのかと疑うくらいに察しが良く、そのことに対して小さじ一杯分はムカつくけれど、やっぱり、ずっと自分の先生だ。子ども扱いに浅く腹が立ったのは、着替えついでに整えた髪のセットが乱れたせいにして、大人なオレはそこそこ容赦してやった。


 次に車が停められたのは、都心から少し外れ、密度もいくらか風通しの良くなっている街並みの中に、ひっそりと息づく古アパートだった。狭い駐車場に一発でするりと入れたドライビング・テクニックは相当なものだと、四輪を転がした覚えがなくても分かった。


「狐塚サンよぅ、今度は何? ショバ代でも徴収すんの」

「お嬢ちゃん、さては任侠映画でも見たのかァ? これは真っ当に真っ黒なお仕事ですヨ」

「マットウ、とは、検索」

「おい、俺をウィキペディアにするんじゃない」


 微妙に熱が停滞する気温で、場が無風になっているのだと察した。ビル風なんかは期待していないが、それにしてもここまで静寂を保てるのだろうか? 錆びた階段の踊り場から見上げる高さはそれなりあるが、不自然に高い天井は逆に人を不安にさせる。


「人気もないし、なんかブキミだし……」

「そりゃそうだ。ココ、犯罪の温床だかんな」

「へー、犯罪の……ってちょっと待たんかい!」


 転がっている細身の鉄パイプは、一体どんな用途で用いられたのだろう。建物に点々と備え付けられた消化器の使用期限も、とっくの昔に切れている。食ってかからんばかりの勢いな新人をいなした彼は、アパートの四階の廊下まで進んでから足を止めた。雛鳥のように彼を追っていた二人も、同じ場所で立ち止まる。


「ま、聞け、聞け。温床っつっても、犯罪者がいるわけじゃねェからよ。いたにはいたが、先週お縄になってっから」


 名字のスペースを囲うアルミがよれた扉に軽くもたれながら、彼は口を動かす。まずはキッカケなんだが、と前置きしながら瞼を閉じて、狐塚は記憶を辿るような口ぶりで語り始めた。


「ちょいと前、この部屋で自殺した懇ろな男女がいたんだよなァ。一回でもその手のコトが起きると、場、ってのはどうしても澱む。時間現場は、いつまでも現場でしかありえない」

「ウーン……感覚としては、分からんでもないっス。事故物件とかがあるのも、それが拭いきれないからだろうし」


 懐かしさも色濃い恩師は、黙って耳を澄ませている。心なしか、表情がやや険しい。


「澱みっつうのは、思念の残滓が凝り固まって、人の噂を寝床にしてでっかくなる上、早々消えない。有り体に言えば、穢れだな。心中っつーのがまた広まりやすい」


 饒舌な上司は、江戸時代に心中が大ブームを巻き起こしたきっかけも、各種の題目で原作に取り上げられた心中事件がきっかけだったと、まるで自分がその目で見てきたことのように話し始めた。藤枝心中、心天網島、そして曽根崎心中。流石に多すぎる心中へ危機感を顕にした当時のお上が、歌舞伎などの心中ものの上演を禁止したり、心中遺体の葬儀を禁止したりと、奔走したという史実について。それらがかえって民衆の興味を煽り、当該の流行がより加速したというのだから、人の好奇心というものはどうしようもない。


 薄く押し上げられた皮膚の隙間が弧を描き、目元に上弦の細い月を象った彼と、ふと、視線がかち合った。男の口元には笑みが浮かんでいる。


「おう、話を戻すがね……澱みがあると、そいつに精神を汚染された人間が、犯罪者になっちまうことも多い。地獄においては自殺も罪だし、当然、殺人も取締りの対象だ。炎が大きくなる前に末端まで鎮火しねェと、後々面倒なことになる」

「あー、それで温床、と」

「そ。オーケイ?」

「オーケイ。……なあセンセ、具合悪い?」

「……いや、大丈夫だ」


 彼の異変へ気が付かない道理はないのに、狐塚は尚も話の続きを紡いでいく。雲が晴れてきたらしく、顔の陰影が濃くなっていた。


「澱みは、この世のそこかしこにある。だが、普通は隠れた場所にある上、視界に入っていても分からんやつには分からんから、法でどうこうする訳にはいかねェ。平等に見えんものを、表立って取り締まるのは難しいかンな。で、地獄の執行人、あの世っつートンデモな肩書きで動ける獄卒が出張んだよ」

「この話だと、マジに獄卒みたいっスね。箔はつくけど、看板借りでしょーに」

「んー、まあ、マジに獄卒だからなァ」

「――えっ?」

「さて! 残りの説明は後だ。今は気ィ張っとけよ」


 澱みサンがお目覚めだ、ついでに職場体験スタートな。


 言うが早いか見るが早いか。話し相手が背を預けていた枠から、ヘドロめいた黒が滲み出して、間もなく扉を破壊した。

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