第6話 - 既知との遭遇
太陽は半透明の雲に隠れ、見上げれば目に刺さる。起き抜けの頃は燦々と降り注いでいた日光が、風に乗り旅した灰色に包まれつつあった。覆いがまだまだ中途半端なためか、雨の後の清々しさからも遠く、空気が皮膚を侵食する不快感が拭えない。
「下に車停めてっからよ、キップ貼られる前に行こうぜ」
「へえ、意外。公職同士でも、違反とか取り締まるんスか」
「まあねェ。そうだ、今日はもう一人いるぞ。同じく新入りクン」
このご時世では旧時代の遺物として扱われても可笑しくないオンボロアパートの鉄階段を伴われて降りていくと、ヴィンテージ雑誌の表紙を飾っていた覚えのある高級車が停まっていた。
「わお……いかにも、黒塗り」
「マニュアル持ってる奴しか乗れん型だぜ」
「今取れるとこある? オートマですら殆ど見かけねっスけど」
「はてさて。稚児でも動かせちまう時代には免許も不要だわな」
マジックミラー仕様になっている窓は、外からでは中身を窺えない。後部座席のドアを開けて誘導されるまま、斜め上からの視点では空いているソファー状の座席に腰を滑らせれば、言われた通り、横に並ぶようにして座る膝を見た。
「ども、同期ってことで、よろし――……く……」
自然、反射で顔を上げた先にいたのは、見知ってはいるがここにいるはずのない人物で、言葉が途切れる。向こうも驚いた顔のまま固まっているのをよそに、運転席のドアが閉まる音は小気味の良いBGMとなって響いた。餌を欲しがる鯉のように両者が口をはくはくと動かして、ようやく声を出したのは己から。
「せ、センセぇ!」
「おま、大学はどうした! 進学したんだろ!」
「センセもセンセしてなくていいんスか!」
「おっ、知り合いか?」
運転席でエンジンをかけつつ投げられた声は呑気極まりない。
「知り合いどころか……」
中学の三年間連続担任、かつ理科の授業と部活の顧問だった男が隣に座っているなどと、誰が予測できようか。この几帳面そうなセンター分けと、これまた指紋一つ付着していないアンダーリムは流石に覚えている。彼には個人的な恩もあるが、それは一旦横にぶん投げておこう。
「エ、退職したとかのアレ? 病んだ?」
「病むか! 昨日の今日で、俺も何が何やらだよ」
「ウッソ、ちゃんと他にも候補者いたんだ」
「その口ぶりだと、お前も検査か」
「はあ、まあ……」
「出すぞー、シートベルト締めとけよー」
「あ、ウス」
走り出した車内はどうも話も切り出しにくく、お互いに気にしていると伝わるだけになお気まずい。救いを求めんと斜め前でハンドルをきる彼へ視線を送っても、法に準じた安全運転の基本として、こんな後ろへの余所見で目が合うこともない。都合よくバック駐車でもしない限り、前方に吊り下げられたミラー以外の手段で瞳のコンタクトは期待しない方が良さそうだった。代わりといった風に、一つ、妙な注意事項を付け足される。
「わり、言い忘れてた。おまえさんら、顔見知りなら特に気をつけて欲しいんだが……くれぐれも、本名で呼び合ってくれるなよ」
「……可能なら、その理由をお聞きしたいのですが」
すかさず問うたのは、隣に座っている元担任だ。角度の急なカーブを曲がりながら、搭乗している三人の身体がやや右へ傾く。
「そうさな。有り体に言えば、魂を隠すため」
「魂?」
「おう。人ならざるものとも関わるってェのは、二人共、もう聞いてるな?」
各々曖昧に肯定の相槌を口にする。
「名が体を表すとは限らねェが、魂を掴んでるのは確かなんだよな。特に、途中で改めていない、生まれて初めて与えられた呼称っつーのは、特別強い繋がりで手前の魂と直結してる」
自覚は中々出来んがね。からり笑って狐塚は続ける。
「で、だ。人の心が作り出した化生は、ものすごーく不安定なんだよ。例外はいるぜ? けど、数が多いのは圧倒的にこういう手合。片足立ちしてどうにか存在できてるみたいな奴らは、とにかく支えとか、依存とか、憑依できる先を探してんだわ」
「ふむ。それで、手綱となる本名を知られるのは致命的だと」
「まさに!」
「……えーっと、メンヘラ的な……?」
「お前、よく分かってないだろ」
「へへ、へへへ……」
眼鏡の向こうからジト目で見られたって、ピンと来ないものは来ないのだ。目を泳がせていると、胸ポケットからメモ帳とペンを抜いた教師が、イラスト付きでもう一度説明してくれた。直線が多い筆跡に、在りし日の黒板を思い出す。
「……OK、分かった。ハッカーに本名バレるみたいな感覚ね」
「……本当に理解したのか、それ?」
「なはは、睦まじくて結構! あー、そんで、うっかり普段のクセがいざって時に出ちまう……なんてのは、かなーり最悪なワケ」
「身内の間でも呼ばない習慣付けをする、ってことか」
「そうそう、それと」
赤信号で止まっている鉄の塊は、僅かな振動を鈍く伝わす。
「おれたちのことも、信頼しすぎんのは禁物だからな」
青信号になった駆動音に紛れて、付け足された言葉は上手く聞き取れなかった。
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