第5話 - 靴、スーツ、挟まれた革靴と狐面

「おっ。なんだなんだ、寝坊助か?」

 午後の始まりをお土産にやって来た、悪びれない笑みを浮かべる狐顔へと起き抜けのしかめっ面を晒したオレは、不用心に開けたばかりの自宅のドアを早急に閉じることとした。


 トンチキな現実をお手軽に話して駒を進める東堂と一度散り、茜に紫紺が混ざる頃合いの夕を抜けたアパートへ帰り着いて、どうにかこうにか風呂だけ済ませて寝入ったのは、確かに昨日の出来事だ。腹は空いていたが、飲み込みきれない諸々だけで気分は満腹になっていたから、冷蔵庫の中身は何も変わっていないし、タオルドライもろくにしなかった髪はいつも以上に癖が強い。閉め忘れたカーテンからさんざめく児童らの登校に伴う歓声を遠くに聞きながら、二度寝、三度寝……と、片手の指では数える気も起きない程度には寝直しながら、穏やかな気温を寝床で貪っていた。幾度も洗濯を繰り返した締まりのないスウェット生地も、ごろ寝には丁度良い。何度も携帯端末が震えたが、どうせ契約会社からのつまらない販促だろうと決め打って電源を切れば、眠りの中で朝は悠々と過ぎていく。平穏な日常だ。素晴らしく身の丈にあった息抜きだ。腹の虫が鳴くまでは、布団の中に引きこもろう。

 急拵えの拙い安寧が破られたのは、自室に響いたノック音。無視を決め込もうにも中々に辛抱強い犯人はアルミの装甲を何度も揺らすものだから、そろそろ周囲の住民から文句を言われかねない。うんうん唸り考えて、結局は愛しの布団サンドの具から抜け出して、チェーンロックをかけたままの扉のノブを回して押した。


 そして、冒頭に戻る。

 胡散臭さを擬人化したらこうなるのではという、下手な訪問販売よりよっぽど本能の警鐘を鳴らす男が立っていたため、反射的に、いや確信犯で、ドアノブをひねる前の状態へと扉の角度を戻そうとしたが、すかさず差し込まれた黒の革靴によって籠城作戦は阻止された。閉じきれずに固定された隙間へ、小さめなサイズの瞳孔が覗く。

「ちょ、怖い無理怖い! 何だよアンタ足抜けよ!」

「なはは! いやいや、すまん。驚かせて悪かった」

「悪いと思ってんならゴーホーム知らない人!」

「昨日会ったろ? ホラ、本庁の医務室で」

「はっ?」

 記憶を遡ろうとした油断へつけ込まれたチェーンロックは瞬きのうちに外されて、微妙に役目を果たさんとしていた扉は呆気なく御開帳となった。全身像を捉えたその姿は、確かに一日前に見かけた珍妙な「上司」殿だ。

「……しょ、職権乱用……」

「電話に出ないおまえさんにも非はあると、不肖おれァ思うぜェ」

 確認したか? 言われて、やや遠くに投げ出したままの型落ち端末を起動すると、確かにズラリと着信履歴が並んでいる。帰りがけに連絡先を登録した(させられた)東堂からだ。序盤はかなり時間を空けてからかけ直したようだが、丁度電源を切った辺りからペースが早くなっている。連絡が付く状態でいて欲しい――本庁前までの見送りの最後に、そうとも指示された気がする。今思い出したので、完全に後の祭りだが。

「……半々ってとこっスね」

「譲らない姿勢、嫌いじゃねェよ」

「自宅訪問に当日アポってのは、やっぱ、早いっしょ」

「それについては全くすまねえ! コトがちと急ぎになっちまったのさ」

 破顔した様子は人懐っこく、さぞ若い頃は顔にものを言わせていたのだろうし、今もまあまあそうなのであろうと思わせる、あしらい慣れめいた流れがあった。笑わない人ほど頬の肉は柔らかいそうなので、多分、この上司の頬は硬い。

「急ぎねえ……検査漏れとかあったんスか?」

「いンや。うちのお頭二人が、明日出張から戻る手筈になってな。そんで、新入りにもお目通りに恙無いだけの、キチッとした誂えを整えてもらわにゃならんのですよ」

「アンタがお頭って言うと、ヤの字の自由業みたいだ……」

「一番言い得て妙だと思うんだがなァ」

「ええと、要するに、服装検査?」

「どっちかってーと買い出し。おれたちの基本はこういう、黒のスーツ一式が制服代わりなんだわ」彼は続ける。「全体で贔屓にしてる店があるから、今日はそこで仕立ててもらおうって流れよ」

 十分ほど待つように頼み、今度こそしっかり閉じられた扉の内側見ながら、糸で絡め取られるように予定が組み立てられている事実に溜息しか出なかった。どうも、彼らは逃げ道を潰すのが上手い気がする。

 取り込んだままにしてあった洗濯物の山から適当にTシャツとジーンズを引っ張り出して身に纏い、最低限の持ち物をポケットへ放り込んでから外へ出ると、人待ち顔の色男が、古いインターホンが埋められた壁にもたれて佇んでいた。顔に射す影すら似合っているが、そこで、声をかけようとした彼の呼称を、音でしか知らないことを思い出す。

「なあ。アンタの名前、どう書くの」

「ン? ああ、そういや名乗りもまだだったか」

 背を離し、正面から向き合った身の丈は自分よりも大きい。

「動物の狐に土偏の塚で、狐塚だ。よろしくな、お嬢ちゃん」

 深い紫の三白眼が、緩く楽しげに細められた。

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