第7話 巡る月日 🌸さくらんぼ

あなたは、鍵を持っている。

あなたは、いくつもの部屋を持っている。

どれほどの明るさで、広さで、何が置いてある部屋なのかしら。安心して眠れる場所が、孤独だと感じても温かい場所が……ひとつでもあることを、願うわ。

それらは全て、あなたの【心】なのだから。


遥か昔。【人間以外のあらゆる生き物が《ガラス》に成り果てていく】という奇妙な現象が、あちこちで起こった。


……

……

……

他者を求め、妬み、ゆくゆくねじまがったひとびとの感情。

災厄の元凶といわれた、魔物たちの禍々しい穢れ。

《ガラス》の魔女はそれらを【鏡】に閉じ込め、長きに渡り封じていた。


けれども、束の間の安寧も長くは続かなかった。《ガラス》の魔女の死後、封じが解けた【鏡】から、徐々に【呪い】が生まれた。他から力を奪い、存在そのものをあいまいにし、あらゆる形を消し去ってしまう【呪い】。


《ガラス》に映る自分を怖がったその瞬間から、その者は《ガラス》になり始める。《ガラス》は人間が生み出したものだ。【心】の形をしている美しい結晶を取り出して、目にすることは――誰にもできない。愛や憎悪は、簡単には消え失せない。


【心】で誰かを愛する間は、ずっと苦しみ続けることとなった。


「おはようございます、マスター。……」

“音”の執事は、主人の耳元で囁いた。机で寝落ちていた主人を抱え、ベッドまで運ぼうとしていたのだが、

「! ……ごめん、なさい。【日記】の“音”を読む内に、眠ってしまったみたい」

と“音”が目を覚ましたため、ぴたりと一度動きを止めた。


「……もう少し、お休みになられた方がよろしいかと」

「ありがとう。でも――支度をお願い」

「かしこまりました」

“音”を長椅子へ降ろしてから執事は膝を付き、主人を見上げた。


「本日の朝食ですが、“花”の魔女さまが、マスターのお好きなものをご用意くださいました」

長テーブルの上に並んでいるのは、粉チーズのかかった野菜サラダと、かぼちゃのスープ。それから、手のひらサイズのパンが数切れ。その隣にあるものに気が付いて、“音”の魔女の頬が緩んだ。


「……! この匂い、木苺のジャムかしら。懐かしいわ~。魔法学校にいた頃も、よく作ってくれていた……」

「“音”ちゃんには、喉に良いあんずのジャムをよくあげていたけれど。紅茶やお菓子に合わせるのは、木苺の方が好きだったわよね」

“音”の左隣のほうで、“花”の魔女が少し照れくさそうに笑っている。友人と朝食を共にするのは魔法学校に通っていたとき以来のことで、少々くすぐったいようだ。



◯◯

「えぇ。“色”ちゃんは―-そうそう、ブルーベリーのジャムだったわね~」

「ずっと絵を描いていると、目が疲れちゃうからね。それに、生のブルーベリー、絵を描くのにも使えるのよ?」

今度は、“音”の右隣……“花”の向かい側から、ため息混じりに“色”の魔女が言った。


“音”の館に“色”がやってきたあの日から、ちょうど一週間ほど経った。部屋の外--館の庭にも出入りできるほどには、“色”の体調も落ち着いてきたところだ。ここ数日で、3人揃っての食事も恒例となってきた。


「――ここ、とても心地良いわ。まるで、朝の浜辺を歩いているような気持ちになる」

「お気に召して頂き、光栄でございます。――“色”の魔女さま。本日は、午後から“光”と“闇”の魔女さまがいらっしゃる日ですね」

執事の言葉に、“色”の魔女は何処か複雑そうに笑った。

今日は、“光”と“闇”――二人の姉と共に、自分の館へ帰る日だからだ。


朝、3人で朝食を摂った庭の長テーブル。今度は、“良い庭ね”と心地よさに目を細める“光”の魔女と、“……眩しくて敵わん”とフード付きのマントで顔を隠す“闇”の魔女がいた。

「ふむ。だいぶ顔色も良くなっているようだ」

「おかげさまで。……“色”を失うのは、【感情】が消えていくのと同じだったわ」

“闇”の魔女の隣で、“色”の魔女がふいにそう呟いた。


「痛みを忘れるかわりに、楽しいことも愛しさも、消える。【心】がどんどん干からびていって、カラカラに乾いた湖のようになっていくの。――消えたくないのに、徐々に透明になっていくのがわかってしまうから……苦しかった」

「……“色”」

“色”の左隣から“光”が手を伸ばし、“色”の気持ちが落ち着くように……と、背をやさしく撫でた。


「“花”、“音”。ありがとう。私、少しずつ“色”を取り戻して、今度は絵を描きに――遊びに来るから」

“光”と“闇”に導かれて館を去る“色”を、“花”と“音”は晴れやかな気持ちで見送った。



◯◯◯

鏡のように凍った湖。その中央に位置する木。

そのほとりに降り立ち、身を休める鬼がいた。その傍らにはいくつもの鳥が止まっていて、まるで墓を守る番人のようでもあった。


「お久しゅうございます。長老さま」

「ほほ。久しぶりだ、“花”の魔女――いいや、我らが同胞・“実桜(みざくら)の鬼”よ」

「……私をそう呼ぶのは、長老さまぐらいですね」

「ワタシから見れば、いつまでもかわいいこどもじゃよ」

“花”の魔女が恭しく挨拶すると、そよ風のように軽やかな調子の声で、老婆が返事をした。“花”の名を冠する鬼たちの中でも、年長者。長老・“桜の鬼”だ。


懐かしい“名”で呼ばれた“花”がもの悲しげに目を伏せると、老婆は頭上の“さくらんぼの木”を見上げながら微笑んだ。この“さくらんぼの木”は、かつて“花”の魔女が生まれた日に長老が植えたもので、もう随分と大きい。


水辺に咲く、美しき大樹。古き鬼に守られし、雪解けの湖の結界。太陽と月の狭間にあるこの場所は、“花”の鬼たちにとっても大切な場所だ。

世の穢れを洗い流す、湖を――そして、沖に流れ着いた“花”の記憶・その命の【欠片】を拾い、【宝物】として守る。それが、“花”の鬼を統べる長の役目であり、今の“花”の魔女が請け負う仕事でもある。全ての“花”と、“花”のかかわる【宝物】は、全てこの場所で生まれるのだ。


「おまえが、幼くしてあらゆる“花”を操る才に目覚め・後に村を出て、鬼の角を折り……今では、魔女と呼ばれるものたちと混じって生きている。人生とは、まこと何が起こるかわからんのぉ」

「今でも、時々思うことがあります。もしも、私が魔女にならず、鬼として生きていたら――と」

「そうじゃの……しかし、鬼であろうと魔女であろうと、役目は変わらぬ。わたしにとって、おまえの存在は希望じゃ」


長老の、月日をゆっくりと重ねてきた皺の手が、“花”の魔女の頭に伸びてきた。二・三度“花”を撫で、慈しむように笑みを浮かべたその後――静かに手が降ろされた。


「“鬼”と呼ばれる我らの存在も、元々は穢れや忌み事が形を成したものにすぎん。表立っては生活できず、隠れ続けることもまた困難――繁栄も滅びも、時間の問題じゃろう」

「……長老さま。我ら“花”から“色”が失われてしまったら、どうなるのでしょう」

「ふむ。我らは“花”である以上、肉体が枯れ果て・鬼としての力を失うであろう。――何も不思議ではない。今この瞬間も、何処かで花が咲き・枯れて、再び生まれているのだから」


いつまでも老い枯れることを知らぬ、長老のまっすぐとよく延びる声と眼差しが、湖の彼方を見つめていた。“花”の鬼たちにとっての生死は、1日の中で、日が昇り・やがて落ち――その繰り返しで日々が過ぎていくのと、何も変わらない。


「蜜が虫を生かし、実が鳥を生かし、種が土を生かす。どれも“花”の為せる御業。それを絶やしてはならん」

「――心得ております。長老さま」

“花”の魔女が深く頭を垂れると、甘くやわらかな梅の香りが、ふわり、と鼻先をくすぐった。


「“実桜(みざくら)の鬼”よ。おまえは、【真実を見極め・聞き分ける、目と耳】を持つ鬼。どうか健やかに、花であれ」

“桜の鬼”から注がれた果実酒は、お猪口の中でうっすらと桃色を浮かべていた。ぽちゃ、と一房のさくらんぼの果実船が水面で揺れ、鮮やかに光る。

「長老さまもどうか、息災であってください」

ちりん、と合わさった器が、鈴のような音を奏でた。



◯◯◯◯

“桜の鬼”との話を終えて帰宅した“花”を、にゃみん!!と仔猫がひときわ大きな声で出迎えた。

「よしよし。いいこね」

足元にすり寄る仔猫を撫でながら、“花”が頬を緩めていると、

“戻られたのですね”と向こう側から歓迎の声が聞こえてきた。

仔猫の唯一の親戚で、普段はホテルで働いている《猫男爵》だ。――背が高く、身を屈めながら“花”の魔女へとお辞儀をしていた。


「猫男爵――お久しぶりね。留守を守ってくれてありがとう」

「突然電話があったときは、どうされたのかと思いました。このこに何かあったのでは……と」

「仔猫は元気よ。他所の館へ、従者は簡単には出入りできないから……」

「事情は存じていますよ、大丈夫です」

猫男爵はにっこりと目を細めながら、“主人が戻ってきて、嬉しそうですね”と仔猫を見つめた。


「そうそう。先日、あなたから頂いた【薔薇の花】。“彼”も喜んでいました」

“花”の目元がぴくり、と反応した。少し前に、猫男爵の依頼でとある人物に【宝物】を手渡したのだ。

「……“透明人間の彼”、お元気?」

「ええ。今日も忙しく、ホテルの厨房に立っていることでしょう」

「……“彼”も“色”を取り戻せるといいわね」

“花”の魔女は切なる【願い】を口にしながら、館の扉を閉めた。



🌸さくらんぼ

花言葉:「真実の心」



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