第36話 ノアがいない

 ――だめだ、私。



 周囲のわめき立てる声が、どこか遠くに聞こえる。



(私……、ノアがいないとこんなにダメになるんだ……)



 自分でも、思っていた以上にショックを受けている事実に、衝撃を覚えた。

 涙が出そうなほどに胸が苦しいのに、吐き出すこともできなくて。



(……いままで、一人でも別に全然大丈夫だって。生きていけるって思ってた)



 家族に期待されていなくて、求められていないとわかった時も。

 婚約者グレイブに不要だと言われ、捨てられた時も。

 ちゃんと自分を奮い立てて、師匠に教えてもらった剣術を磨いていけば、自らを肯定して生きていけると思っていた。



 でも今。



(あんなに――、ノアが)

(――私の深いところまで。入り込んでくるから)


 

 こうして、少しその影を思い出すだけで。

 また苦しいほどに胸がきりりと痛む。



 自分の胸の内を占めていた人物が、いつのまにかあまりに大きくなりすぎて。

 こんなかたちで、取り残されることになるなんて思ってもいなくて。

 捨てられてしまった子供のように、行き場をなくして涙を堪えて、ただ情けなく震えることしかできない。



(本当に――、子供みたいだ)

 


 苦しみの中、自嘲することしかできないリーンは、震える手を抑えるよう反対の手でぎゅっと自らの手を包み込む。

 誰かを失って、自分がこんなにも打ちのめされる日が来るなんて、夢にも思わなかった。



(ノア)



 心の中で呼びかけても、応える声が聞こえてくることはなく。

 今はただ、喪失の痛みに耐えるだけで精一杯で、リーンは細く息を吐き出しながら、ぎゅっと硬く瞼を閉じるのだった。


 



 ■■

 




「リーン……! 黙ってないでなんとか言えよ……!」

「おい! お前も大概、いい加減にしろよ!」



 塞ぎ込むリーンの横で、グレイブはリーンを気遣うことなく、自分勝手に幼馴染を責め立てる。

 そうして、そんな自分勝手なグレイブを、レナードが怒りも露わに怒鳴りつけた。



「な、なんだお前は……」

「お前……、こいつのこの状態を見てよくそんなに責め立てられるな……!?」



 そう言われてようやく、グレイブはリーンの様子がおかしいことに気がついたようで、何度もリーンとレナードを見比べながら、それでもグレイブに向かってぐっと言い返す。



「僕は……、彼女の幼馴染だ」

「はぁん? だからって、傷ついている女を自分勝手に責め立てるのが許されると思ってんのか?」



 クソだな、と言うレナードの言葉に気圧されるグレイブに対し、レナードとライナスがグレイブに向かって剣呑な空気を漂わせる。



 ――そこに。



「レナード?」



 と、しばらく立っても戻ってこない面々を心配したヘレナが戻ってきて。

 「え、なに、どうしたの……?」と妙な空気になっていることを心配して駆け寄ってくる。



「リーン……? あら、ノアは……?」



 てっきり、リーンがノアに会いに行ったものだと思って戻ってきたヘレナは、その場に肝心のノアがいないことへの疑問を口にする。

 リーンがそれに、ちいさくピクリと反応したことには気づかずに。



 その様子を見たレナードが、これみよがしに――ある意味、グレイブにも圧をかける意味を込めて――はあ、と大きくため息をつく。



「連れていかれたよ。この、クソ野郎の相方に」

「えっ?」

「さて? 話してもらおうか。――少なくとも今、この場で一番状況を理解しているのは、間違いなくお前だもんなあ?」



 と。

 そう言って、怒りをたぎらせたレナードがグレイブの胸ぐらを掴み「話さないとどうなるか、わかってるよな?」と凄んだのだった。




 ■■




「なるほど? つまりお前は、リーンを役立たずだとパーティーから追い出した後、冒険者として立ち行かなくなった挙句に借金をこさえて、どうしようもなくなったから今度はリーンに助けを求めにきた、と」

「……そうだ」

「はぁ……。恥ってものを知んないのかね? しかも勇者だあ?」

「レナード」



 グレイブに向かって辛辣な言葉をかけるレナードに、ヘレナがいいすぎだとたしなめる。

 それを受けたレナードは「ちっ……!」と舌打ちをした後、気を取り直して再びグレイブに向かって問いただす。



「でもそんで? なんでノアが連れていかれんだよ!? 大体なんなんだあの矢みたいなやつは?」

「それは……、僕もよくわからない」



 アニーはただ、リーンだったらきっと助けてくれると思うからと言って、ここまで自分を引っ張ってきたのだとグレイブが言う。



「あの矢は……、途中アニーが寄りたいと言って立ち寄った村で、錬金術師からもらったものだ。惚れ薬だと言って」

「惚れ薬だぁ!?」



 グレイブの言葉に、レナードが素っ頓狂な声を上げる。



「そんな眉唾みたいなもん、ほんとに効くのかよ。じゃあなにか? あの女は、最初っからリーンじゃなくてノアを狙ってきたってことか?」

「……最初からかどうかはわからないけど、結果としてはそうなる」

「はぁ……。確かに、面だけは他人の100倍くらいイイ面してっかんなぁ、あの旦那。俺にはよくわかんねえけど……」



 女の趣味ってやつはよお、と言いながら、レナードはちらりとリーンの様子を盗み見る。



 いまだ沈んだ様子のまま、口をつぐみ誰も見ようとしないリーンに、レナードは顔をしかめる。



「……で、どうすんだリーン」

「…………ぇ」



 自分が呼ばれたということにもしばらく気づかず、数秒遅れてようやっと自分がレナードに声をかけられたのだということに気づいたリーンは、重く沈んだ頭をのそりと持ち上げながら声の主であるレナードを見やった。



「えじゃねーよ。追いかけないのか? ノアのこと」

「でも……」



 追いかけていって、またさっきみたいに冷たくあしらわれたら、と思うと。

 リーンの心はぎゅっとすくみ上がり、言いようのない不安に苛まれる。

 


「でもとか言ってる場合じゃねーだろ。てめーのことを好きだってあんだけ言ってたやつが、よくわからん力に意志じ曲げられて好き勝手されてんだぞ!」



 お前が助けねーで誰が助けんだよ! とレナードがリーンを叱咤する。



「私が……?」

「そうだよ。お前以外に誰がいんだ」



 なんでわかんねーんだ、と吐き捨てるレナードの言葉を耳にしながら、少し冷静になれたリーンは、落ち着いて状況を振り返る。



 ――確かに。

 よくよく思い返してみると、あの矢が刺さる一瞬前まで、ノアはいつもと変わらない様子に見えた。



 様子がおかしくなったのは、あの、アニーが放った矢に射抜かれてしまってからだ。



 グレイブが、惚れ薬、と言ったその矢。



 あれが、ノアの意志を捻じ曲げてしまっているのだとしたら――?



「あれは、どうやったら効果をなくせるの……?」



 誰に問うでもなく、リーンはひとりごちる。



「どうなんだよ。お前なんか知ってんじゃねーのか」

「し、知らないよ! 言ったじゃないか! 貰い物だって!」



 レナードがグレイブに話を振るが、振られた方は何も知らないと全力で否定する。

 


「ちっ、使えねえな……。誰からもらったんだよ」

「……ここから、3日ほど馬車を走らせた先にある、小さな村の錬金術師だ。もしかしたら、その人に聞いたらわかるかもしれないが」

「――いや、だめだ」



 グレイブの言葉を、リーンがハッとした様子で遮る。



「アニーはもしかしたら、ノアの正体に感づいたのかも……」

「ノアの正体?」



 不安そうに言葉を紡ぐリーンに、レナードが怪訝そうに言葉を返す。

 その問いに――、どこまで言っていいものか、リーンは言葉を選びながら、ぽつりぽつりと口にする。

 


「ノアは、その……、本当はすごく、身分の高い出自で――、一度うっかりそれをアニーに聞かれかけたことがある」

 


 キルキスを出る前の宿屋でアニーと偶然鉢合わせたとき、ノアが「殿下」と呼ばれたのを、あの時アニーは確かに聞いていたことを思い出す。



「もしかして、それが理由でノアを狙ったのかも――」

「えっ……? じゃ、やばくねえかそれ? 下手にこのまま放っておいて、既成事実とか作られちまったら……」

「レナード……!」



 リーンの言葉に、反射的に思ったことを口にしたレナードを、ヘレナが瞬時に窘める。



 惚れ薬の力を使って、ノアがアニーと――?



 考えただけで、ぎしりとリーンの胸が軋んだ。



「追いかけなきゃ……!」

「おい待て……! もう日も沈みかけてるんだぞ!」



 追いかけるにしても、夜になったら近隣の探索も困難になる。

 朝になってから出直した方がいいと提案するレナードに、リーンは苦しげに首を横にふる。



「でも、朝になったらもう手遅れかも……!」



 そう言って、がちゃりと部屋のドアを開け、外に向かおうとしたリーンの前に、思いがけない来客の姿があった。



「おや――、みなさんお揃いでお出かけですか?」

 


 それは、いつかここを訪れる前に、グレイブとアニーが契約を交わした、錬金術師の弟子であった。

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