第9話 剣聖の弟子

「剣聖……、ヒルデガルド……?」

「馬鹿! お前騎士やってて知らないのか? この大陸に2人しかいない、剣聖の1人だぞ!」

 


 尋ねた騎士団員がキョトンとしていると、別の団員が肘でつついて耳打ちする。



 ――剣聖ヒルデガルド。


 

 氷の微笑とも異名を持つその剣聖は、かつてこのキルキス王国騎士団に所属し、権威と威光を放っていた。

 しかし、ある期を境に騎士団を引退し、いまではどこだかに隠遁して暮らすようになり、ほぼ表社会に顔を出すことのない人物となっていたのだった。



「アイツが騎士団にいたのは、かれこれもう10年前だからな……」



 まあ、最近のやつは知らんかあ、と団長が呟く。



「人嫌い、ガキ嫌いのヒルデが、よく弟子なんて取ったもんだなんて思っていたんだが」

「……」



 団長の言葉に、リーンは押しだまる。

 リーンは口には出さなかったが、セルヴィニア家には、剣術の基礎を一通り教わったらヒルデガルドのところに奇襲をかけに行く、という謎の決まり事があった。



 なんの縁があってかは知らないが、ヒルデガルドはリーンの実家であるセルヴィニア領にある山の麓に居を構えており、物心ついた時から我が家では母の茶飲み友達として当たり前に存在していた。



 決まり通り、剣術の基礎を覚えてからヒルデガルドに奇襲をかけに行ったリーンは、そこでヒルデガルドから「合格」と言われ、なぜか弟子入りすることになったのだが――。



「ほっ」



 キィン!



 突然、予備動作なしで剣戟を放ってきた団長の剣を、リーンは条件反射で受ける。



「ま、これくらいは朝飯前だよな」



 言いながら、団長が続けてリーンめがけて剣を振るう。

 


 キン! キン! キィン!



 ソードマスターの称号は伊達じゃない。

 ディグレイス団長は僅かな剣戟を交わすだけで、リーンの苦手な剣筋を的確に突いてくる。



(対人で刃を交えるのは久しぶりだな……)



 集中力が冴えてくると、傍で冷静に状況を俯瞰する自分が生まれる。



「あっ! ちょっと!? それも弾いちゃうの!? おじさん困るんだけど!?」



 困るなどという割には、リーンの目には団長は酷く楽しんでいるようにも見え。

 その隙に、紙一重で避け損ねた刃がピッ、とリーンの頬を掠めた。



 (――ここか!)



 一瞬の間を逃さず、リーンが一気に団長に詰める。



 しかし――。



 次の瞬間には。

 団長の剣先がリーンの喉元に突きつけられ――。



「相打ちか」

「いえ、私の方が一瞬遅れたので。良くて差し違えです」



 答えるリーンの切先は、正確に団長の心臓を指し示していた。



「ほらあ。もうこんだけ出来れば剣術の試験とか要らないじゃん!」



 しかもまだ得物を出し切ってないでしょー、と団長がリーンに向かって指摘する。

 その言葉に――、リーンは曖昧に笑って誤魔化した。

 確かに団長の言う通り、先ほどの戦い方はリーンの通常の戦闘スタイルではなかったからだ。

 リーンは、ここでそれを説明する必要はない、と判じたので曖昧に笑ったが、それを見た騎士団の人間たちが、たちまちリーンの魅力に惹き込まれてしまったのは、本人の知らざる話である。



「あー、はいはい、だめだめ。これ以上は金取るからねー」



 そう言って、それまで黙って事の成り行きを見ていたノアが、騎士団員達が一瞬でリーンに見惚れたところを、後ろからリーンを抱きすくめる形で空気をぶち壊す。

 つまりは――、牽制だ。


 

「ノア」

「リーンも。ダメでしょ、女の子が顔に傷作っちゃあ」



 リーンは、ノアがそうやって周囲を牽制していることに気づかない。

 おまけにノアは――、「見せて」と頬についた切り傷を覗き込んだ後、あろうことかその傷をぺろりと舐めたのだ――!



「なっ……!」



 予想外のことに驚き、咄嗟にノアから距離を取ろうとするリーンだったが、ノアに肩をがっちり掴まれていて敵わなかった。

 逆に、リーンが逃げ出せないようノアから強く抱きすくめられてしまう。



「大丈夫。治療だよ治療」



 これが一番早いし傷が残らないから、と言いながら、ノアが舐めた後の湿りを拭いとるようにリーンの頬に触れてくる。

 言われて、リーンは自らの頬に指先で触れるが、確かにそこはまるで何事もなかったかのように綺麗に傷が塞がっていた。



「ね? 綺麗に塞がってるでしょ――?」



 そう言ってノアは、頬に触れていたリーンの手をそのまま掬い取り、いつのまにかできていた手の甲の傷にも舌を這わせる。

 そうして、その舌が収まった後、そのままノアがリーンの手の甲に愛しげに口づけをするのをリーンはなんとも言えない気持ちで見ていた。



 なんとも言えない――、というのは。

 リーンがこの感情をなんと呼ぶのか知らず、名前をつけようがなかったからで――。



「……おい。お前ら……。人前でいつまでいちゃついてんだ」

「……!」



 衆目の前で2人の世界を作り出したリーンとノアに向かって、団長がうんざりしたように口を挟む。

 それでようやく、ここがまだ騎士団の修練場なのだということを思い出したリーンが、慌ててノアから離れた。



「ちゃんとマーキングしておかないとね。変な気を起こす奴が出てくるかもしれないし」



 そう答えるノアの表情は、笑ってこそいたがかつてないほどに剣呑な色をたたえていた。

 それを見た騎士団員たちは、皆一様にこう思ったのだという。



『触らぬ神に――、祟りなし』と。

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