7. 永遠の庭園、忘れがたい日々

 母さんのディープダイブが深刻化してから、父さんは本来の研究から路線を変え、ディープダイブに関する部門に移った。科学技術庁の人事がどれほど柔軟なのかはわからないが、とにかく父さんは、母さんのために時間を使うことを優先した。


 母さんは『万一のことがあったらいけない』ということで、入院させられていた。といっても、病院のカプセルに入れられているだけではあるが。



 俺は家の一階の自室にいた。部屋には本棚や机があり、棚の上のカゴにはバスケットボールが入っていた。壁には小ぶりの木刀が水平にかかっていた。


 ちょうど肌着に着替え、ヘヴン・クラウドへダイブするところだった。


 俺みたいなずぼらな人間は、カプセルをベッドの代わりにしてしまう。だから俺の部屋にベッドはなく、代わりにダイブ用のカプセルのみが置かれていた。



 カプセルの中に横たわって目を閉じると、『ダイブを開始します』と聞こえた。


 接続管理システムが、頭の左右にある端子を通じて脳波に干渉してくる。詳しい仕組みを父さんにも教えてもらったが、細かなことは憶えていない。とにかく、だけで五感のすべてが接続管理システムの影響下に置かれる。そういうことだ。


 カプセルの内部が微妙な動きをしはじめる。寝返りを促し、鬱血うっけつを防ぐための、健康維持機能だ。


 キーン、という耳鳴りが響き、やがて深海のような静けさに浸される。


 視界にヘヴン・クラウドのインターフェースが表示される。


 アバターは、認可済みのメインのものを使う。運転免許証みたいなものだ。



「遅いよ」


 と、ミオは不機嫌そうに言った。ミオは学校か、とにかく外の公共のカプセルからダイブしてきたようだ。


 そこが『白日の庭園』だった。永遠の安寧が約束された場所。そこに、ディープダイブにおちいった母さんのアバターがいる。


 メイナは眠らせていた。なんとなくあの庭園に行くときは、静かな気分でいたかった。


 エントリーゾーンは庭園の入り口の前だ。頭上には虹のような形の木製のゲートがあり、『The Garden of Daylight』と黒い字で書かれていた。


「悪い。待ったか?」


 と俺は言った。ミオは白いブラウスを着ていた。頭上の葉の天幕から木漏れ日が落ちて、ブラウスの生地をくすぐっていた。


「十時ちょうどって話だったよ。十分は待ったんだから」

「ああ。ごめん。気をつけるって」

「もう。わかったよ……。それよりさ、お兄ちゃん。なんでいつも、武器持ってるの?」


 俺は自分の腰に視線を落とした。たしかに左腰のホルダーにダガーの柄がのぞいていた。


「……ああ。そうだな。メインのアバターでリーグに出てるし。俺の体の一部みたいなものだし」

「怖いよ、いちいちそんなのぶらさげて。グロウバレーの、輩の人たちみたいだし」


 と、ミオは非難めいた目で見上げてきた。


「あー。悪いな。でもさ、急に襲われたときとかは、役にたつかもしれないぞ」

「いいよ。そんなの、トラブルが起きたら、エンジェルが急行してくるでしょ。わざわざ戦わなくても」

「まあな。そりゃそうかもしれないけどさ。かっこつかないだろ? 俺がエンジェルに助けてもらってたら。これでも、リーグじゃ上位者ランカーなんだぜ」

「もう、ばかみたい……」


 ミオはあきれたように苦笑して、林道に足を踏み入れた。


 草木の緑色は鮮やかだ。風が吹き込んできて、さらさらと軽やかな葉擦れの音がした。土や木々のにおいがする。――ヘヴン・クラウドでの体験は、現実世界よりもリアルだ。



 日の射し込む明るい林道を抜けると、緑色に輝く丘の情景が広がっていた。何人かのアバターも見えた。それに、ゴーストアバターもちらほらといた。


 ミオはゴーストアバターを見て、


「ゴーストの人たちにも、結構人気なんだよね、ここ」

「そうだな。あいつら、ログアウトできないからな。ここにはガラの悪いやつがいないし。ゴーストにとっては一度きりの命だから。温存しなきゃな」

「うん。でもさ、なんだか、かわいそうだね」

「ああ。仕方ないかもな。本来は、死んでしまった存在だから」


 ――ゴーストアバターは、死者の人格がヘヴン・クラウドにアップロードされたものだ。通常の人間のアバターはヘヴン・クラウドでダメージを負うなどしてログアウトしても、一定時間で再度ログインできる。しかしゴーストアバターにとってはそれが、永遠の消滅を意味する。それがルールであり、生命の秩序というものだった。


 ミオはこのとき、自分自身がまもなくゴーストアバターになるなんて、考えていただろうか?



 丘の斜面の上方に、白く大きなパラソルがかかっていて、その下に白いテーブルが置かれていた。


 そのテーブルの上には、英国風のアフタヌーンティーを思わせるスタンド、それからティーポットや、皿などが見えた。それらは太陽に照らされて、銀色と白色の輝きに包まれていた。


 テーブルの前の椅子には、薄桃色のワンピースを着た母さんが座っていた。


 右手に白いティーカップを持って、青空や丘の草花を見ながら、これ以上なくゆったりとしていた。


「ママ、幸せそうだね」


 と言うミオに対して、俺はしばし言葉につまりながら、


「あ、ああ。そういや、そうかもな。いや。それがほんとうに、母さんの意思だとしたら、じゃないか?」

「うん。たしかに、そうかもね」



 俺たちはときおりそうやって、母さんの様子を見に行った。


 母さんは日に日に、庭園の根深い住人になっていった。


 それらの日々は俺にとって、生きていたミオとの貴重な時間の連続でもあった。もしこの世に神様がいるのだとしたら、あの日々を、一日だけでもいいからプレゼントしてほしい、なんて願うだろう。



 俺の考えだと、幸福の有効期間なんてものは一瞬だ。


 せいぜい一時間かそこらしか、幸福を幸福に感じることはない。


 幸福が一日続くとそれは当然になり、一年続くと苦痛にもなりうる。


 しかしそれを失ったとき、『たったの一秒でもいいから』と、その瞬間を求めるようになる。


 けれど、時間を戻すことはできない。


 俺が犠牲にささげた、いくつかのもののうち、その多くが家族に関するものだった。

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