6. 遠い記憶、はじまりの五月

 はじめになにがあったか。


 そうは言っても、人類の歴史から語ってもしかたがない。


 あるいは地球の誕生か、ビッグバンの物語か。ヘヴン・クラウドのサービス開始期の黎明か。


 いや、ちがう。


 俺が語るべき物語はあの四年前の、五月初頭の、明るい昼下がりにはじまる。


 当時俺は十六歳で、ミオは三つ下の十三歳だった。俺たちは東京郊外の一軒家に住んでいた。


 都心には、いや都心でなくても、スマートな集合住宅がいくらでもあったが、むしろ、昔ながらの一軒家を好む人も多かった。


 人口が減り続けており、土地もあまっていたから、どんな家も簡単に手に入る。


 ロボットやらを使いまくるくせに、人々は人類史の延長線上に暮らしているのだと、思い込みたいのだろう。それに、本来は家族で暮らす物理的な必然性もない。


 仮に十歳の子どもが都心のアパートで一人で暮らそうが、なに不自由なく安全に暮らせる。


 最高の世界だ。……それが人類が本当に求めたものだとしたら。


「お兄ちゃん、ちょっといい?」


 と、二階から降りてきたミオが言った。


 俺はリビングのソファにもたれていたが、その声を聞いて顔を向けた。


「どうした?」


 ミオは不安そうな表情で、


「カプセルから、変な音がして。ママが……」

「なんだって?」


 俺は立ち上がって階段に向かい、駆け上がった。


 母さんはずっと、病院にかかっており、薬を飲んでいた。『ディープダイブ』などというものが、まさかうちにも広まってくるとは思わなかった。


 ヘヴン・クラウドを使わない人間は、よほどの変わり者や、極度な自然回帰主義者以外にはいない。母さんもふつうに、日々の買い物や会合、それに主婦同士の付き合いとかでダイブしていた。


 そんなある日、母さんはディープダイブの初期症状だと診断された。AIの医師も人間の医師も同意見だ。


 目はうつろになり、痩せていき、なにかというとヘヴン・クラウドにダイブしたがる。そこで、特定の行動にはまりこむ。末期には、現実世界に無理やり戻すと自傷行為や自殺をはかるようになる。


 俺は母さんの部屋にある、ダイブ用の白いカプセルの前に行った。表面にオレンジ色の警告が出ている。


 『意図せず長時間の利用が発生しています』



 ちょうどそのとき、階下で玄関のドアが開く音がした。父さんが帰ってきた。


 重たい足音が階段を駆け上がってきて、父さんが部屋にきた。


「またか? どうなってる? ユージ……」

「うん。また、カプセルに入っちゃって……」

「よし、外から、ログアウトさせてみよう」


 そう言って父さんは、カプセルの横にあるカバーを開けて、黄色いボタンを押し込んだ。


 すると、複雑な電子音が響き、カプセルの前面に黄色い線が走った。シュッ、と空気が漏れる音。カプセルの上部が開いて、左右に開いていった。その中に、薄いシャツを着た母さんが目を閉じていた。


 長い髪を後ろに束ね、目元には深いくまがあった。


 ミオは手をのばし、「ママ!」と呼びかけた。


 母さんはその声に応えるように、そっと目を開けた。


 俺は半分くらい、なにが起こるかわかっていた。危惧した通り、母さんは横たわったまま口を開くと、こう言った。


「やだ……。なんで起こすの? あっちへ行かせてよ!」


 父さんは駆け寄って腰をかがめて、


「ミフユ、しっかりするんだ。おまえは、ディープダイブなんだよ。わかるだろ? 薬を持ってくるから。お願いだから、落ち着くんだ……」


 すると、母さんは父さんをおしのけ、寝転んだまま両手で口を押さえて絶叫しはじめた。


「いやーッ! 戻して! に戻して! 助けてーッ!」


 ミオは目を丸くして、怯えたように「ひっ」と声を上げた。俺はミオの前に周りこんで両腕で抱くようにして、「見るな。大丈夫だから」と声をかけた。


 やがて、母さんの体が細かく震えだした。そこで、母さんは細い指先を筋ばった自身の首に絡めて、爪を食い込ませて締めはじめた。父さんはそれをやめさせようと、腕を掴んだ。


「やめろ! ミフユ……。お願いだから!」


 そこからも母さんは暴れだして、一向に落ち着く気配はなかった。父さんは言った。


「仕方ない……。わかった。わかったから、落ち着くんだ……」


 そうして父さんは、カプセルから体を離した。そのときだけ母さんは、ほっとしたような表情をした。父さんはカプセルの横の黄色いボタンを、短く二回押した。すると、アラートが解除された。カプセルは再び閉まっていった。


 『長時間ダイブモードを開始します』


 俺の腕の中で、ミオはずっと震えていた。


 母さんは、『白日の庭園』というヘヴンにいた。


 それが母さんのだ。そこには花が咲き乱れ、草木が生い茂っている。『白日の庭園』に訪れる者は、紅茶や菓子を嗜みながら一日を過ごす。いや、一日、なんて概念自体が存在しない。そこは、永遠に『白日の庭園』なのだから。


 俺にとっては、それだけで十分だった。母さんのことだけで。

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