第4話 辞世

 わたしは神父様のところへ赴いた。善良で、信じられないほどの遠い異郷からこの国やってきて、だというのにこの国に親しんでいて、皆を愛してくださっているお方に、一世一代の嘘をついた。


 ——彼が信仰に立ち戻ったようです。


 神父様は喜んだ。喜んで、着物の裾を踏んづけて、転がった。わたしは「ああっ」と小さく叫びながら、神父様の着物の乱れを直した。


 信仰に立ち戻るなどというはっきりした精神は、たぶん、本当に善良な人々の心にしかない。人間は白黒のはっきりしない、灰色の世界で生きている。わたしだって、寺に赴くし、禅僧の話を聞く。人を殺すなという教えを聴きながら、人を殺す。


 彼は信仰に立ち戻りなどしない。立ち戻ることができない。あの熱烈な信仰生活は若い時分に与えられた猶予のひと時に過ぎなかった。だが、神を感じて死ぬくらいは許されても良いのではなかろうか。


 てっきり終油の秘蹟を授けに行くと息巻くものだと思っていた神父様が、それなら、聖像を持って行くと良い、と言った。この神父様は信じられないくらい善良なように見えて、こちらの考えを見通しているときがある。


 渡された絵は聖母マリアの清らかな姿を描いたものだった。


 聖母マリアのご絵を抱えて彼の屋敷に戻ると、医師の曲直瀬道三まなせどうさんが彼の部屋から出て行くところだった。おや、とわたしは思った。記憶にある曲直瀬道三と違って若い。息子だろうか。

 彼はわたしに挨拶してきた。


「あと数日が山かと」

「……」

には、飛騨ひだ様について、ご覚悟をしていただかなければ」

「えっ」

「はい、飛騨様の弟君でらっしゃいますよね?」

「わたしは彼の弟ではありませんし、彼より年上ですよ」

「……てっきりご家族かと……!?」 


 わたしは苦笑した。若い医師は、「家族でなければ、あの親密さはなんなんだろう……」と周りに尋ねている。周りも首を横に振った。

 強いて関係に名前をつけるなら、ただの友人です、というと、さらに医師を困惑させそうなのでやめておいた。


 部屋に入ると、彼が目を覚ました。聖母マリアの絵を枕元に置くと、彼は溜息をついた。


「俺は幾度も神を裏切り、禁忌を犯した」

「……」

「人を殺し、人を謀略で貶めた。神を公然と見放した。さらに、自分の生きたいように生きなかった。本当は猿山の猿大将をぶちのめし——」

「ええっと」

「天下に俺の国を築く予定なんだ」

「おう」


 おう、としか言えなかった。


「だが、そのための準備を何故か何もしていない。私は恐怖し、猿大将の禁教令に従う羽目になった。お前が羨ましかった」

「はい?」

「お前は我が道を行っているだろう。もちろん恐怖はあるだろうが、恐怖より我が道を行くことの方がつだろう?」

「……そうかな」

「俺は人生に後悔ばかりだ。こんな終わりになってさえ、やり残したことばかりが頭によぎる。だというのに、身体を動かすと肉体が悲鳴をあげる。ああ、これは何日も無いなと自分でわかる。地獄とは死後にあるのではなく、今ここにあるのでは」


 彼は呻いた。

 わたしは、彼の手をそっと握った。恐ろしく細かった。ようやく髪が背を覆うまでになってきたわたしの娘のもみじのような手よりも細く小さくなっていた。だが、まだ、瞳につよい光があった。今すぐ逝くということはないだろう。


 わたしは聖母の聖像を彼の見えるところに立てかけた。


「俺でも、救われたいと思えば救われるだろうか」


 信仰に立ち戻れない彼がそんなことを言うのは意外で、胸が塞がる。

 懺悔をすれば良いのだとか、そう言う時は悔い改めてとか、そんなことをいうことはできなかった。彼に。

 彼は神に与えられた命を全うしていると言うのに。毒殺ではないのだろう。謀殺でもないのだろう。戦場の死でもない。だが、彼は戦い抜いて死んでいく。

 わたしは聖母でも天使でもない。恐れ多くも神でもない。


「何をいっているんだ。この状況下でこういうふうに情を揺さぶってきて、『救われると思う』と言わせて、わたしを偽善者にするつもりか?」


 彼は「そうだな」と小さく微笑した。


「だけれど、一つだけ、わたしが言えることがあるとすれば、……その。わたしを煉獄で待っていてほしい」


 そのときの彼の表情に、わたしは微笑んだ。

 わたしは彼の死を見届けることしかできない。いずれわたしも彼を追いかけて御許へ召される。いつになるかはわからない。


 数日後、彼はこの言葉を残して天に帰った。


 ——かぎりあれば吹かねど花は散るものを 

             心みじかの春の山風

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我らの臨終の試練をあらかじめ知らせ給え ことり@つきもも @coharu-0423

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